第18話 泥犬の街と、王都からの使者
暴牙川の西岸、かつて一晩で泥と丸太から築き上げられた『一夜城』の周辺は、わずか数ヶ月の間に、乱世の地図のどこにも記されていない巨大な異形の都市へと変貌を遂げていた。
「おい、そこの荷車! 道の中央を塞ぐな! 木材の搬入ルートは東門と決まっているはずだ!」
「すんません! 南から入ってきた干し魚の業者が馬を暴れさせちまって!」
「なら西の広場へ迂回しろ! 交通を滞らせる奴は、今日の配給を減らすぞ!」
朝霞が晴れやらぬうちから、街のあちこちで怒号と活気が交差している。
ガクが竹竿を指揮棒のように振り回し、泥に塗れた難民上がりの労働者たちを的確に動かしていく。彼の頭の中にしかない完璧な都市計画図に基づき、泥濘んでいた平野には石畳が敷かれ、治水のための水路が縦横に張り巡らされ、雨風を凌ぐ堅牢な長屋が次々と建ち並んでいた。
一夜城の物見櫓の上から、ジンはその喧騒を見下ろしながら、大きく伸びをした。
心地よい疲労感と、己の作り上げた街が吐き出す熱気が、冷たい朝の空気を震わせている。
「親父」
背後の梯子を登ってきたガクが、木簡の束を抱えて現れた。
「どうした、ガク。順調に街は大きくなってるじゃねえか」
「順調すぎるのが問題だ。南の密貿易商たちが持ち込む物資の量が、俺の計算した倉庫の収容能力を上回り始めている。急遽、川沿いに第二の物流拠点を作る必要があるが、人手が足りない。昨日はゴウの馬鹿が、場所代を誤魔化そうとした南の商人の船の帆柱をへし折って、余計な騒ぎを起こすしな」
ガクの報告に、ジンは苦笑いをして頭を掻いた。
「あいつには警備を任せてるんだ、多少の荒事は大目に見てやれ。南の海賊上がりの商人なんて、一度でも隙を見せれば骨までしゃぶろうとしてくる連中だ。ゴウの馬鹿力で『ここでナメた真似をすればタダじゃ済まねえ』って分からせるのも、立派な交渉術さ」
「……親父がそう言うなら構わないが、無法者の集まりを力と金だけで統制するには限界がある。そろそろ、この街にも明確な『法』が必要だ」
「法、ねえ。そんなお上品なもん、俺たち泥犬には似合わねえよ」
ジンは櫓の手すりに身を乗り出し、街を指差した。
「腹が減ったら働く。嘘をついたらぶん殴る。約束を守ればたらふく食わせる。それだけで十分だ。小難しい法律を作っちまえば、必ずその隙間を縫って悪さをする賢いダニが湧いてくる。俺たちの法は『ジン千人将の機嫌』だ。それでこの街は回ってる」
その時、櫓の下から重々しい金属音が響いてきた。
見下ろすと、黎州の正規軍の大鎧を身に纏ったシュウスイが、馬上でこちらを見上げている。
「ジン! 降りてこい! 話がある!」
「おっと、噂をすれば本物のお上品な武将様のお出ましだ」
ジンはガクと共に櫓を降り、シュウスイの元へと向かった。
シュウスイは西国の治安維持の総大将として、国境の巡回から戻ってきたところであった。彼の部隊の兵士たちも、この異形の街の活気と、南の国から運ばれてきた珍しい果物や香辛料の匂いに、目を丸くして周囲を見回している。
「大将、お疲れ様です。国境の様子はどうでした?」
「問題ない。旧煌州の残党も、これだけ西国が豊かになってしまえば、反乱を起こす気力すら湧かんらしい。むしろ、武器を捨ててこの街の労働者に加わりたいと申し出てくる始末だ」
シュウスイは複雑な表情で、ジンが作り上げた街の全景を見渡した。
「ジン。貴様は本当に、途方もない怪物を作り上げたな。本国からの支援を一切受けず、これほど短期間で荒野を経済の要衝に作り変えるとは。……だが、やりすぎだ」
シュウスイの声が、一段と低く、深刻な響きを帯びた。
「南の密貿易商との取引。本国の許可を得ない独自の関税の徴収。そして、難民たちを勝手に兵力……いや、労働力として組織化していること。これらは全て、黎州の国法に照らし合わせれば、明確な『反逆行為』とみなされる」
「人聞きの悪いこと言わないでくだせえよ、大将。俺たちはただ、腹を空かせた民を食わせるために、落ちてた泥をこねて饅頭を作っただけです。本国が飯をくれねえから、自分で稼いだ金で買った。何か間違ってますか?」
ジンが飄々と答えると、シュウスイはギリッと奥歯を噛んだ。
「俺は貴様のやり方を理解しているつもりだ。だが、王都にいるメイカク殿はそうは思わん。あの方は、貴様がこの西国を完全に黎州から独立させ、自らの王国を築こうとしていると本気で危惧している」
「独立王国なんて大層なもんじゃありませんよ。ここはただの、巨大な飯場です」
「それが通じる相手ではないと言っているのだ!」
シュウスイが声を荒げた。
「メイカク殿は、法と秩序の化身だ。貴様の生み出したこの雑多で、泥臭く、しかし強大な力を持つ経済圏は、あの方の愛する『白き王の秩序』を脅かす最大の毒なのだ。……ジン、気をつけろ。本国から、貴様の元へ『監査の使者』が向かっているという報せが入った」
その言葉に、ジンの顔から笑みが消えた。
「監査……? 俺たちの帳簿を調べに来るってことですか」
「そうだ。名目は西国の復興状況の視察だが、本音は貴様の不正の証拠を掴み、千人将の地位から引きずり下ろすための罠だ。もし少しでも反逆の意図ありとみなされれば、ソウガ様とて貴様を庇いきれんぞ」
シュウスイの警告は、重く冷たい現実であった。
戦場であれば、罠を仕掛けて敵を皆殺しにすれば済む。しかし、相手は味方の筆頭家老であり、手段は「法」と「帳簿」である。剣も毒草も通用しない、政治という名の泥沼の戦いであった。
シュウスイが陣へ戻った後、ジンは指揮所の天幕に戻り、毛布に包まって薬湯を啜るシオンに事の顛末を伝えた。
「……ゲホッ、ゴホッ。なるほど、監査の使者ですか。メイカク殿も随分と悠長な手を打ってこられる」
シオンは驚く様子もなく、手元にある分厚い木簡の束――西国の経済の全てが記された帳簿――をパタンと閉じた。
「軍師殿、どうする? この帳簿を馬鹿正直に見せたら、南の密貿易商から関税をぶっこ抜いてることや、旧煌州の軍資金を勝手に使ってるのが一発でバレるぞ。燃やしちまうか?」
「そのような証拠隠滅を図れば、それこそ反逆の意思ありと自白しているようなものです。ゲホッ。それに、帳簿の数字をいくら誤魔化そうと、この街の異常な繁栄ぶりを見れば、裏で莫大な金が動いていることなど誰の目にも明らかです」
シオンは青白い顔に、悪魔的な笑みを浮かべた。
「ジン殿。相手が『法』という剣で斬りかかってくるのなら、我々は『泥』でその剣を錆びつかせてやればいいのです。監査の使者が来たら、最高級の歓待をして差し上げましょう」
三日後。
黎州の王都から、メイカクの腹心である監査の使節団が、一夜城に到着した。
先頭を行くのは、豪奢な馬車に乗った若き文官、コウランであった。彼はメイカクと同じく、名門の血筋を鼻にかけ、実力主義で成り上がった者たちを深く蔑んでいる男だった。
馬車から降り立ったコウランは、足元の石畳の隙間にある泥を見て、あからさまに顔をしかめた。
「なんとむさ苦しい街か。獣の臭いと、下民の汗の臭いで吐き気がする。……ジン千人将はどこにいる! 王都からの使者に対する出迎えの作法も知らんのか!」
コウランが声を張り上げると、人だかりの中から、麻の単衣姿のジンがヘラヘラと笑いながら歩み出てきた。
「おや、これは王都からの偉いお役人様。ようこそ西の泥沼へ。出迎えが遅れちまって申し訳ねえ、ちょうど豚の解体をやってたもんで、手が脂だらけなんですよ」
ジンはそう言いながら、血と脂で汚れた手をコウランの美しい着物の袖で拭おうとする素振りを見せた。
「ひぃッ! 無礼者! 気安く触れるな!」
コウランは悲鳴を上げて後ずさりし、護衛の兵士たちにジンを遠ざけさせた。
「メイカク様からの命により、この西国における不正な蓄財および、密貿易の疑いについて徹底的な監査を行う! 直ちに帳簿を全て提出せよ! もし隠し立てすれば、軍法会議にかけ、その首を刎ねてくれる!」
コウランの威圧的な宣言に対し、ジンは全く悪びれることなく、大げさに肩をすくめた。
「帳簿ですか? ああ、もちろん用意してありますよ。俺たち泥犬は字が読めない奴が多いんで、少しばかり整理が乱暴ですがね。……さあ、こちらへどうぞ」
ジンに案内され、コウランたち使節団が通されたのは、一夜城の中で最も大きく、そして最も悪臭の漂う倉庫であった。
扉が開かれた瞬間、コウランは鼻をつまんでえずいた。
「うぐっ……! な、なんだこの臭いは!」
「南の海から仕入れた『発酵魚の塩漬け』ですよ。こいつがまた、体力作りに最高でしてね。で、帳簿はこの奥です」
ジンが指差した先には、天井まで届くほどの莫大な量の木簡と、文字が書かれた粗末な紙の束が無造作に山積みにされていた。しかも、その多くが魚の油や正体不明の泥で汚れ、凄まじい臭いを放っている。
「な……なんだこれは! これが帳簿だと!?」
「ええ。俺たち日雇いの労働者に金を払うたびに、適当な紙に線を引いて記録してたもんで。全部で数万枚はありますかね。さあ、監査のお役人様、存分に調べてくだせえ。一銭の誤魔化しもありませんぜ」
コウランは絶望的な表情でそのゴミの山のような帳簿を見上げた。
彼ら王都の文官は、美しく整理された巻物を読むことには長けているが、魚の油と泥にまみれた紙切れを、悪臭の中で一枚一枚解読するような過酷な作業など、経験したこともなかった。
「ふ、ふざけるな! このような汚物を調べろというのか! 貴様、意図的に監査を妨害しているな!」
「妨害だなんてとんでもねえ。俺たちは毎日この臭いの中で飯を食い、記録をつけてるんです。お役人様が勝手に『汚いから読めない』って言うなら、それはそっちの都合でしょう?」
ジンの完全な詭弁に、コウランは顔を真っ赤にして怒り狂った。
「ええい、ならばよい! 帳簿など見なくとも、この街の異常な繁栄自体が証拠だ! 貴様が南の密貿易商と通じていることは調べがついている。これは明確な国法違反だ!」
コウランが勝利を確信したように言い放ったその時。
倉庫の奥の暗がりから、ひきつけを起こしたような咳払いが響いた。
「……ゲホッ、ゴホッ。国法違反、ですか。それは困りましたね。我々が南から買い付けた物資が『違法』であるならば、全て王都に没収されてしまうということでしょうか」
分厚い毛布に包まったシオンが、青白い顔でゆっくりと歩み出てきた。
「なんだ貴様は。病人はすっこんでいろ!」
「私はジン千人将の軍師を務めております、シオンと申します。コウラン殿、我々が密貿易を行っているというのは、いかなる法に基づいたご指摘でしょうか?」
「決まっている! 黎州の国法第三条、『本国の許可なき他国との交易を禁ず』だ! 貴様らは王都の許可を得ておらんだろうが!」
シオンは薄く笑い、懐から一通の書状を取り出してコウランの目の前に突きつけた。
「……ゲホッ。それはおかしいですね。我々が南の商人から買い付けているのは、米や麦ではありません。全て『軍需物資である武器と防具の材料』として処理されております」
「な、なに?」
「メイカク殿が発行された、西国統治に関する命令書。ここには明確に『現地にて調達せよ』と記されております。我々はソウガ様の西国平定の武威をさらに高めるため、現地調達の拡大解釈として、南の海から大量の『鉄と火薬の原料』を仕入れたのです。その過程で、たまたま商人たちが食料もおまけで置いていったに過ぎません。……これを違法と言うのであれば、メイカク殿の『現地調達せよ』という命令そのものが、黎州の軍備拡張を阻害する利敵行為ということになりますが?」
それは、法律の穴を極限まで悪用した、悪魔のような論理のすり替えであった。
現に、シオンが示した帳簿(の一部だけ綺麗にまとめたもの)には、南から仕入れた物資の全てが「軍用資材」として計上されていた。もちろん嘘であるが、それを証明するためには、あの魚の油にまみれた数万枚のゴミの山を全て解読しなければならない。
「ば、馬鹿な……屁理屈だ! そんなものが通るはずがない!」
「通るか通らないかは、ソウガ様がお決めになることです。ゲホッ。……コウラン殿、今ならまだ引き返せますよ。このまま『西国の復興は順調であり、不正は一切なかった』と報告すれば、我々もコウラン殿の寛大なご配慮に対し、相応の『お礼』をさせていただきますが」
シオンの背後で、ゴウがニヤニヤと笑いながら、布袋に入ったずっしりと重い金塊の束を床に落とした。
ドサッ、という黄金の鈍い音が、倉庫に響き渡る。
恐怖による恫喝、法律の悪用による煙に巻き、そして最後は莫大な黄金による買収。
それは、高潔な王都の文官を泥沼に引きずり込み、骨の髄まで腐らせるための完全な罠であった。
コウランは黄金の袋と、シオンの猟奇的な瞳、そしてジンの底知れない笑顔を交互に見比べ、やがて全身の力を抜いて膝をついた。
彼らのような温室育ちの役人に、泥犬たちの仕掛ける泥試合に勝てる見込みなど、最初から一ミリも存在しなかったのだ。
「……分かった。西国に、不正は……なかった。そう報告しよう」
数日後、コウラン率いる使節団は、来た時よりも何倍も重くなった荷車を引きながら、逃げるように王都へと帰っていった。
「上手くいきましたね、ジン殿。これでメイカク殿の監査の目は、完全に塞がれました」
シオンが黄金の入っていた空の袋を蹴り飛ばしながら、満足げに咳き込んだ。
しかし、ジンの顔は晴れなかった。
彼は王都の方角を見つめ、腕を深く組んだ。
「……いや、これは時間稼ぎに過ぎねえ。メイカクのオッサンが、こんな子供騙しで引き下がるわけがない。むしろ、監査の使者が買収されて帰ってきたことで、あいつの俺たちに対する殺意は、いよいよ『ソウガ様を巻き込んででも排除する』という狂気の領域に踏み込むはずだ」
ジンは自らの泥だらけの掌を見つめた。
西国を復興させ、三千の兵と数万の民を食わせる力を手に入れた。しかし、その力が大きくなればなるほど、黎州という国家そのものの枠組みが軋み、崩壊の音を立て始めている。
「軍師殿。俺たちはそろそろ、腹を括らなきゃならねえかもしれない。……あの白銀のオッサンが、狂った正義感でこの国に火をつける前に、俺たちが先手を打って王都の首根っこを抑える準備をな」
ジンの言葉に、ガクとゴウが息を呑んだ。
それは、黎州軍の内部抗争が、もはや避けては通れない全面戦争へと発展することを意味していた。
西国の太陽が沈みゆく中、泥から這い上がった薬草売りは、ついに自らの意志で、天下の覇権を巡る巨大な盤面へとその手を伸ばそうとしていた。
破滅と決裂の足音は、もはや誰の耳にも隠せないほどの轟音となって、この世界に響き始めていたのである。




