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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第17話 泥まみれの玉座と、白銀の兵糧攻め

白角城の陥落は、黎州軍に圧倒的な勝利をもたらすと同時に、あまりにも重く、そして凄惨な『負の遺産』をもたらした。

城内から解放された数万の農民と旧煌州の兵士たちは、極限の飢餓状態にあり、もはや人間の尊厳を失った餓鬼の群れと化していた。彼らは地面に這いつくばり、黎州軍が設営した炊き出しの鍋に群がり、火傷も厭わずに熱い粥を素手で掬って貪り食っている。

「ゆっくり食え! 慌てて胃に流し込めば、逆に内臓が破裂して死ぬぞ! 重症の奴から順番に並ばせろ!」

ジンは甲冑を脱ぎ捨て、腕まくりをした麻の単衣姿で、自ら巨大な柄杓を振るって難民たちに粥を配っていた。

つい数日前まで、彼らを飢餓地獄に突き落とした張本人である。そのジン自身が、今は泥と汗にまみれて彼らの救済に奔走しているという光景は、端から見れば酷く矛盾しており、滑稽ですらあった。

「……悪魔め。黎州の、悪鬼どもめ……」

粥を受け取った一人の痩せこけた老人が、虚ろな目でジンを睨みつけ、かすれた声で呪詛を吐いた。

周囲の泥犬部隊の兵士たちが色めき立ち、槍の柄で老人を殴りつけようとしたが、ジンはそれを片手で制止した。

「ああ、そうさ。俺が悪魔のジンだ。あんたらの村から飯を全部奪って、地獄の底に突き落とした張本人だよ」

ジンは老人の持っていた欠けた椀に、さらに一杯、たっぷりと粥を注ぎ足した。

「恨むならいくらでも恨め。呪うなら呪え。だがな、恨み言を吐くにも体力が要るんだ。今は黙ってその粥を食え。腹一杯になって、明日も立ち上がれる力が湧いたら、その時にまた俺を殺しに来ればいい」

ジンのその言葉に、老人はワナワナと唇を震わせたが、やがて粥の温かな匂いと抗い難い空腹に敗北し、涙と鼻水を流しながら椀に噛み付いた。

少し離れた場所から、毛布に包まったシオンが、薬湯を啜りながらその光景を観察していた。

「ゲホッ……偽善ですか、ジン殿。ご自身の策で地獄に落とした者たちを自らの手で救うなど。兵法においても、政治においても、非合理的極まりない」

「偽善じゃねえよ、軍師殿。これは『投資』であり、『責任』だ」

ジンは柄杓を部下に預け、額の汗を拭いながらシオンの隣へ歩み寄った。

「敵の武将を殺すのは簡単だが、この数万の民を殺し尽くすわけにはいかねえ。この西の豊かな土地から人がいなくなれば、ここはただの荒野に戻っちまう。俺たちが奪ったのは『領土』じゃない、『この土地で働く人間と、その胃袋』だ。壊したからには、使えるように直す。それが泥犬のやり方ってもんだ」

「なるほど。破壊と殺戮の後に残るものを見据えていると。……ゲホッ。しかし、その『投資』とやらを成立させるための環境は、極めて絶望的ですよ」

シオンは懐から一通の書状を取り出し、ジンの胸に押し付けた。

それは、黎州の本陣から届いたばかりの、西国統治に関する公式な命令書であった。

「……ソウガ様と本軍の主力は、昨日、本国である黎州の王都へと帰還の途につきました。残された我々に対する指示は以下の通りです。

『西国一帯の治安維持、および復興の全権を、シュウスイ将軍とジン千人将に委ねる。ただし、本国からの軍資金および兵糧の追加支援は当面の間、見送るものとする。現地にて調達せよ』……と」

書状を読んだジンの顔から、サッと血の気が引いた。

「おいおい、冗談だろ……? 追加の支援なしだと? 俺たちは今、自分たちの三千人の部隊に加えて、この数万の飢えた難民を抱え込んでるんだぞ! 現地調達しろったって、この一帯の米は俺たちが買い占めて全部城内で食い尽くさせたんだ。ペンペン草一本生えちゃいねえ!」

「ええ。ゲホッ、ゴホッ。西国は見事に焼け野原です。種籾すら残っていない。……これはソウガ様の意志ではありません。兵站と内政の全権を握る、あのメイカク殿の差し金です」

シオンの冷たい声が、事実の残酷さを突きつけた。

メイカクは、本陣の撤退に伴うどさくさに紛れて、西国への補給線を完全に遮断したのだ。そればかりか、本国の商人たちに対し「西国は疫病と暴動の危険があるため、一切の交易を禁ずる」という布告まで出しているという。

「……あの白銀の野郎。本物の悪魔はあっちじゃねえか。俺たちを西国に釘付けにした上で、数万の難民ごと干上がらせて、暴動で自滅させようって腹か」

「その通りです。我々が難民を見捨てて餓死させれば『民草を無慈悲に殺した暴将』として処断の理由が立ちますし、逆に難民を助けようとして部隊の兵糧を分け与えれば、我々自身が飢えて軍が崩壊する。どちらに転んでも、メイカク殿にとっては都合が良い」

「クソッ……! 刀で斬り合ってる方がよっぽどマシだぜ。政治の陰湿な首絞めってのは、本当にタチが悪ィ」

ジンが頭を掻きむしっていると、背後から重々しい足音が近づいてきた。

西国の総大将に任命された、シュウスイである。

彼もまた、ジンと同じ命令書を受け取っており、その顔には怒りと困惑が色濃く浮かんでいた。

「ジン。貴様も読んだか、あの命令書を」

「ええ、大将。どうやら俺たちは、数万の口を抱えたまま、この泥沼の底に置き去りにされたみたいですね」

シュウスイはギリッと奥歯を噛み鳴らした。

彼は生粋の武将であり、軍を率いて敵の陣を砕くことにかけては天下無双である。しかし、「破壊された領地を統治し、数万の飢えた民を食わせ、経済を立て直す」という文官としての能力は絶望的に欠けていた。

「俺の部下たちは、槍の突き方や馬の乗り方は知っているが、焼け野原から食い物を生み出す方法は知らん。このままでは、ひと月も経たずに西国は暴動の渦に飲み込まれる。……ジン。貴様、何か策はないのか」

シュウスイのその言葉は、かつてジンを下民と見下していた猛将からの、完全な「泣きつき」であった。

武力では解決できない事態。それに対する答えを、泥水啜って生き延びてきたこの男の生存本能に求めたのだ。

ジンは腕を組み、泥だらけの靴の先で地面をコツコツと叩いた。

数十秒の沈黙の後、彼はニヤリと、最高に悪賢い笑みを浮かべた。

「……ありますよ、大将。メイカクのオッサンが本国からの支援を打ち切り、交易を禁じたってんなら、俺たちが勝手に『独立国』を作っちまえばいいんです」

「独立国だと……!? 貴様、反乱を起こす気か!」

シュウスイが顔色を変えて大槍に手をかけたが、ジンはヒラヒラと手を振った。

「違いますよ。反乱じゃなくて、『商売』です」

ジンはシオンの方を振り向いた。

「軍師殿。俺たちが黒泥湿地帯の残党からパクってきた軍資金、まだ手付かずで丸々残ってるな?」

「ええ。ゲホッ。金塊と宝飾品を合わせれば、小国が一つ買えるほどの莫大な額です。……なるほど、ジン殿。アレを使うのですね」

「大将」

ジンはシュウスイに真っ直ぐに向き直った。

「ここから先の西国の立て直し、軍政から土木、兵站、商人との交渉に至るまで、全て俺の部隊に丸投げしてください。大将の正規軍は、国境の警備と、難民の暴動を抑える治安維持だけに専念してくれればいい」

「貴様の部隊だけで、この数万の民を食わせ、焼け野原を復興させるというのか? 本国からの支援なしで?」

「やりますよ。俺たち泥犬の特技は、ゼロから泥をこねて城を作ることですからね」

そのジンの目には、かつて白角城を水攻めにした時や、絶食の檻を作り上げた時と同じ、圧倒的な合理性と自信が宿っていた。

シュウスイはしばらくジンの目を見つめ返し、やがて深く頷いた。

「……分かった。西国の内政の全権を、千人将である貴様に委ねる。俺は軍の武威をもって、貴様の背後を守ろう。存分にやれ、ジン」

内政全権の委任。

それは、ジンが黎州軍の中で単なる一介の将から、国家の運営に関わる巨大な権力を手にした瞬間であった。

翌日の朝。

白角城の城壁の外に広がる荒れ果てた平野に、数万の難民たちが集められていた。

彼らの前には、急造の巨大な木組みの壇が設けられ、その上にはジンが立っている。彼は甲冑ではなく、かつて薬草売りをしていた頃の、動きやすい野良着姿であった。

壇の下には、ガクとゴウが、それぞれ数十人の泥犬兵士を引き連れて控えている。

さらにその後ろには、布が被せられた巨大な荷車が何十台も並べられていた。

「西国の民たちよ! よく聞け!」

ジンのよく通る声が、ざわめく数万の難民たちの間に響き渡った。

「俺は黎州軍千人将、ジンだ! お前たちの村から飯を奪い、城に閉じ込めて飢えさせた悪党だ! だがな、今日は戦をしに来たんじゃねえ。お前らに『仕事』を依頼しに来た!」

仕事。その聞き慣れない言葉に、難民たちが怪訝な顔を見合わせた。

征服者が敗者に対して与えるのは、通常「奴隷労働」か「死」の二択である。仕事という対等な言葉が出てくることなどあり得なかった。

ジンは後ろの荷車の一つに掛けられていた布を、勢いよく引き剥がした。

「おおっ……!?」

難民たちの間から、どよめきが起きた。

荷車の上に積まれていたのは、眩いばかりの光を放つ、山のような金塊と銀貨の束であった。

「俺は、お前たちを捕虜や奴隷として扱う気はねえ。今日から俺は『雇い主』で、お前たちは俺の『労働者』だ!」

ジンは金塊の一つを手に取り、高く掲げた。

「この西国は焼け野原だ! 橋は落ち、畑は荒れ、住む家もない! だから、お前たちの手で、この土地をもう一度作り直してもらう!

道路の整備、荒れ地の開墾、河川の堤防作り、一夜城の拡張工事! 働く者には、この金銀を日払いでたっぷりとくれてやる! 老人も、女子供も関係ねえ! 石ころ一つ運べば、その分の賃金を払う!!」

それは、中世の常識を根底から覆す、前代未聞の『大公共事業』の宣言であった。

「だが、金をもらっても、買う飯がねえだろうって? 心配すんな! 明後日には、南の海沿いから、米や麦を山ほど積んだ商人の船が、暴牙川を遡ってやってくる手はずになってる!」

「なっ……商人の船だと?」

シュウスイの陣から様子を見に来ていた将校が、驚きの声を上げた。

「メイカク殿の命令で、本国の商人は西国との取引を禁じられているはず! 一体どこの商人が……」

「……ゲホッ。本国の商人ではありませんよ。南の外界と通じている、海賊上がりの『密貿易商』たちです」

壇の陰にいたシオンが、咳き込みながら解説した。

「私が昨日、密使を飛ばしました。メイカク殿の管轄外である南の海の無法者たちに、『相場の倍の値段で米を買い取る。支払いは全て即金の黄金』という破格の条件を提示したのです。商人は、法律よりも利益に従う生き物。本国が取引を禁じようが、黄金の匂いを嗅ぎつければ、彼らはどんな危険を冒してでも食料を運んできます」

シオンの悪魔的な経済の知識と、ジンが持つ莫大な黄金。

この二つが組み合わさった時、メイカクの兵糧攻めという名の経済封鎖は、いとも容易く突破されたのである。

「さあ、どうする! 俺を恨んでこのまま腹を空かせて泥を舐めるか! それとも、俺の金を受け取って、自分たちの住む土地を自分たちの手で綺麗に作り直すか! 選べ!!」

ジンの圧倒的な演説と、目の前に積まれた現実の黄金。

そして何より、「お前たちは奴隷ではない、労働者だ」という、彼らの尊厳を認める言葉。

一人の若者が、フラフラと歩み出て、ジンの前にひざまずいた。

「……やります。俺に、石を運ばせてください。妹に、腹一杯飯を食わせたいんです」

それを皮切りに、数万の難民たちが次々と歓声を上げ、労働の列に加わり始めた。

「よし! 契約成立だ! ガク! お前の出番だ、こいつらを徹底的にこき使ってやれ!」

「……任せろ」

ガクが巨大な図面を広げ、無表情ながらも、その目には建築家としての熱い光を宿していた。

「まずは暴牙川の堤防工事からだ。三十人一組の班を作り、班長を決めろ。土嚢の積み方から教え込む。規格外の作業は許さない」

ガクの冷徹だが正確な指示のもと、数万人の労働力が、巨大な一つの機械のように機能し始めた。

「オラァッ!! 重い岩の運搬は俺についてこい! 一番デカい岩を運んだ奴には、俺が特別ボーナスを出してやるぞ!!」

ゴウが自ら上半身裸になり、大岩を担いで走り出し、力自慢の男たちが負けじとその後を追う。

泥犬部隊は、もはや戦場を荒らし回るゲリラ部隊ではなかった。

彼らは、廃墟から新たな国家を作り上げる、最強の『土木建設集団』へと変貌を遂げていたのである。

数日後。

シオンの言葉通り、暴牙川の下流から、数十隻の巨大な商船が次々と遡上してきた。

船には米や麦、塩、さらには木材や鉄などの建築資材が山のように積まれていた。彼らはジンが提示した黄金を受け取ると、狂喜して荷を下ろし、さらに「西国には気前の良い大名がいるぞ」という噂を広めるために、こぞって海へと帰っていった。

こうして、本国を完全に無視した、西国独自の強固な経済ルートが確立されたのである。

労働で得た金で、民たちは競うように食料を買い求め、飢餓はあっという間に解消された。

体力を取り戻した民たちは、自分たちの生活基盤を立て直すために、さらに精を出して働く。

ガクの設計による真っ直ぐな街道が敷かれ、一夜城の周辺には商人たちの巨大な市場が形成され、焼け野原だった平野には、来年のための新たな田畑が開墾されていく。

わずかひと月。

メイカクが「飢餓と暴動で自滅する」と予言した西国は、ジンの手によって、活気に満ち溢れ、本国をも凌ぐ勢いの巨大な経済特区へと生まれ変わっていた。

その信じがたい報告は、遠く離れた黎州の王都で、メイカクの耳にも届けられた。

「……何だと? 西国が、自力で復興を遂げているだと? 本国からの支援を一切絶ったというのに、一体どこからそのような物資と資金を調達したというのだ!」

広間の上座で、メイカクは報告を持ってきた隠密の首ぐらを掴み、怒声を上げた。

「申し上げます! ジン千人将は、敵から奪った莫大な軍資金を全額放出し、難民を日雇いの労働者として雇用。さらに、南の密貿易商と手を結び、独自の交易路を確立いたしました。現在、一夜城の周辺は、本国の王都を凌ぐほどの賑わいを見せているとのことにございます!」

隠密の言葉に、メイカクは愕然として手を離し、よろめくように後退した。

彼の描いた完璧な政治的兵糧攻めが、たった一人の草売りの「商売の知恵」によって、完全に粉砕されたのだ。

そればかりか、ジンはソウガの許可も得ずに、本国の法を犯して密貿易を行い、西国に独自の経済圏を作り上げてしまった。これは見方を変えれば、明確な「反逆」に等しい行為である。

(……おのれ。おのれ、ジン……!!)

メイカクの顔は、屈辱と激しい憎悪で歪んでいた。

しかし、同時に彼の心の中に、黒く冷たい殺意が完全に固まった瞬間でもあった。

(もはや、あの男を放置することはできん。ソウガ様はあの毒に完全に魅入られておられる。このままでは、黎州の美しい秩序は、あの下賎な商人の金と泥によって完全に塗り潰されてしまう)

メイカクは広間の奥に置かれた、自らの白銀の剣を見つめた。

(ソウガ様。貴方が武人の誇りを捨て、あの泥犬を重用し続けるというのであれば……私は、貴方ごとこの黎州を浄化せねばなりません。全ては、正しき世界を取り戻すために)

西国の輝かしい復興の裏側で、黎州本国では、最も巨大で最も絶望的な反逆の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めていた。

ジンとシュウスイが築き上げた西の楽園が完成に近づくにつれ、本国における旧体制の不満という名のマグマは、噴火の臨界点を迎えようとしていたのである。

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