第16話 白角の絶食城と黄金の毒
黒泥湿地帯という死地から、一人の犠牲者も出さずに帰還を果たしたジン隊の姿は、黎州本軍の兵士たちに強烈な畏怖を植え付けるのに十分であった。
全身に泥を塗りたくり、沼の獣の骨を首飾りにして笑う三千の野犬たち。彼らが放つ、血と泥とメタンガスの混じったような異様な体臭に、綺麗に整列していた正規兵たちは思わず道を開け、後ずさりをした。
「……フッ、ハハハハハ! 見事な凱旋だ、ジン! 貴様ら、まるで地獄の底から這い出してきた悪鬼そのものではないか!」
本陣の大天幕から姿を現した覇侯ソウガは、泥にまみれたジンたちを鼻で笑い飛ばすどころか、大剣を肩に担いで腹の底から歓喜の笑い声を上げた。
ソウガの隣では、先陣大将のシュウスイが安堵の息を吐きながら深く頷いている。
「無事であったか、ジン。補給も絶たれたあの泥沼で、三千の兵を維持して残党を全滅させるとは。貴様の生存本能、もはや畏敬の念すら覚えるぞ」
「大将も心配性ですね。あんな泥沼、俺たちにとっちゃただの食料庫ですよ。少しばかり風通しが悪くて、カエルの肉に飽きたくらいでさ」
ジンは飄々と答えながら、後ろの荷車に積まれた大量の戦利品を顎でしゃくった。それは残党軍が隠し持っていた、旧煌州の軍資金である大量の金塊や宝飾品の山だった。
その和やかな主従のやり取りを、天幕の奥から憎悪に満ちた目で睨みつけている男がいた。
筆頭家老、メイカクである。
(あの泥水啜りのウジ虫どもめ……。死地へ送り込んだというのに、あまつさえ敵の財宝まで奪ってのうのうと帰ってくるとは。このまま奴らの増長を許せば、黎州の神聖なる武の秩序は完全に崩壊する)
メイカクは扇子を握り潰さんばかりに力を込め、冷たい声で進み出た。
「ソウガ様。ジン千人将の帰還、誠に喜ばしいことにございます。しかし、休んでいる暇はありませぬ。旧煌州勢力、ならびに西部豪族連合の最後の砦、『白角城』の攻略についての軍議を急がねばなりません」
白角城。
それは、暴牙川のさらに西、急峻な岩山の山頂にそびえ立つ、西部最大にして最強の要塞であった。城の三方は切り立った崖に守られ、唯一の進入路である大手門には、何重にも防壁が築かれている。力攻めで落とそうとすれば、数万の犠牲を覚悟しなければならない絶対防衛線である。
ソウガは床几に座り直し、メイカクを見下ろした。
「メイカクよ。あの城を落とす策、貴様にはあるのか」
「はっ。白角城は堅牢ですが、城内に逃げ込んだ敵兵の数も一万と膨れ上がっております。ここは武人の定石通り、我が黎州の誇る本軍数万をもって城の周囲を完全に包囲し、兵糧攻めにするのが上策。蟻の子一匹通さぬ美しい包囲陣を敷き、数ヶ月かけて敵の飢えを待つのです。この総指揮、ぜひとも私にお任せいただきたく」
メイカクの提案は、兵法の理にかなった正攻法であった。
同時に、これはジン隊を戦局から排除するための政治的な布石でもあった。「数ヶ月に及ぶ長大な包囲網の維持」には、厳格な規律と統制された陣形が必要不可欠である。ゲリラ戦法しか能のないジン隊には、そのような正規軍の役割は果たせない。ジンを後方の雑用に回し、手柄を独占しようという腹積もりであった。
「良かろう。メイカク、貴様に総指揮を任せる。美しい陣とやらを敷いてみせろ。……だが、草売り。貴様も遊んでいる暇はないぞ。千人の部隊を率いて、メイカクの包囲網の手伝いをしろ」
「へいへい、分かりましたよ。泥犬らしく、城の裏手の草むしりでもさせてもらいますよ」
ジンはメイカクの冷たい視線を柳に風と受け流し、天幕を後にした。
自陣に戻ったジンは、泥だらけの甲冑を脱ぎ捨てながら、大きくため息をついた。
「聞いたか、シオン。白銀のオッサンが総指揮だそうだ。数ヶ月かけて城を囲むなんて、気が遠くなるぜ。その間、俺たちはあの潔癖症の下で、毎日小言を言われながら陣地の見張りをやらされるってわけだ」
陣幕の奥で、厚い毛布に包まったシオンが、薬湯の入った椀を傾けながらひきつけを起こしたように咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ……。数ヶ月の包囲? 馬鹿馬鹿しい。メイカク殿は武人の定石に囚われすぎて、人間の『胃袋の計算』が全くできていない。一万の兵が立て籠もる城を外から囲んだところで、白角城には優に半年は耐えられる備蓄があるはずです。そんな悠長なことをしていれば、冬が到来し、凍えるのは外にいる我々の方だ」
シオンは青白い顔に、ぞっとするような猟奇的な笑みを浮かべた。
「城を落とすのに、槍を突き合わせる必要も、何ヶ月も外で待つ必要もありません。我々が用意するのは、剣ではなく『黄金』。そして、城の中に『地獄の口』を開かせてやるのです」
「黄金……? どういうことだ、軍師殿」
ガクが竹竿の手入れを止め、怪訝そうに尋ねた。
「白角城の備蓄が半年分あるのは、あくまで『兵士一万人』で計算した場合です。……もし、城の中に兵士だけでなく、周囲の村の農民や女子供が数万人単位で逃げ込んだら、どうなりますか?」
「そりゃあ、消費する飯の量が跳ね上がる。半年分の備蓄も、ひと月……いや、半月で底をつくぜ」
ジンが答えると、シオンは深く頷いた。
「その通りです。ゲホッ。我々のやるべきことは二つ。一つは、白角城の周辺一帯の村々から、米や穀物を『相場の五倍の値段』で全て買い占めること。もう一つは、食料を失った農民たちを恐怖で煽り、白角城の中へと逃げ込ませること。……名付けて『絶食の檻』作戦です」
その悪魔のような計略に、ジンは思わず口笛を吹いた。
「エグいこと考えやがる。……だが、村中の米を買い占めるなんて、莫大な金が要るぞ」
「だからこそ、黒泥湿地帯で奪ってきたあの残党軍の軍資金が役に立つのです。それに、商人を装うのはジン殿の得意分野でしょう?」
「……なるほどな。泥犬の次は、強欲な商人への変装か。悪くねえ」
数日後。
白角城の周辺に広がる西部の穀倉地帯に、見慣れぬ商人たちの集団が現れた。
彼らは上質な絹の着物を羽織り、荷車に山のような金塊と銀貨を積んでいた。商人の頭に扮しているのは、顔の泥を落として小綺麗に身を整えたジンである。その後ろには、用心棒のふりをしたガクとゴウが控えている。
「さあさあ、村長さん! 今年は西の国で大戦が起こると聞いて、遠方から米の買い付けに参りやした! なんでも黎州軍とかいう恐ろしい連中が攻めてくるんでしょう? どうせ戦になれば畑も蔵も焼かれちまう。そうなる前に、あんたらの蔵にある米、全部俺たちに売ってくれねえか!」
ジンが村長たちの前に金塊を積み上げると、村長たちは目を丸くした。
「こ、これは……! 今の相場の五倍の値段ではないか! だが、我々もこれから白角城の城主様に年貢を納めねばならんし、自分たちが食う分も……」
「馬鹿を言っちゃいけねえ。戦になれば城主様はあんたらを助けちゃくれないぜ? だが、この金があれば、戦が終わった後にいくらでも他の国から食い物を買えるじゃねえか。命あっての物種、金あっての命だ。さあ、売るのか売らねえのか!」
目の前に積まれた莫大な黄金の魅力と、目前に迫る戦火への恐怖。
知識を持たない農民たちにとって、目の前の金塊はあまりにも魅力的すぎた。彼らは次々と蔵の鍵を開け、蓄えていた米や麦、芋に至るまで、全てをジンの用意した荷車へと売り払ってしまった。
ジンたちはこの手口で、わずか数日の間に、白角城を囲む十数個の村々から食料という食料を完全に吸い上げたのである。
「よし、これでこの一帯はすっからかんだ。……ゴウ、ガク。次は『脅し』の時間だ」
ジンが合図をすると、ゴウとガクは商人の着物を脱ぎ捨て、黎州軍の恐ろしげな甲冑姿へと早変わりした。そして、夜の闇に乗じて村々の周辺で松明を振り回し、空に向かって火矢を放ち、銅鑼をけたたましく打ち鳴らした。
「黎州軍が来たぞォォォッ!! 村を焼き払え! 女子供も皆殺しだァァッ!!」
ゴウのわざとらしい怒声が、夜の平野に響き渡る。
「ひ、ひぃぃッ! 黎州の悪鬼どもが攻めてきたぞ!!」
「逃げろ! 白角城へ逃げ込むんだ! お城の城主様なら、我々を匿ってくれるはずだ!!」
食料を全て金に換えてしまった農民たちは、飢えへの不安と黎州軍への恐怖にパニックを起こし、家財道具を捨てて一斉に白角城の方角へと逃げ出した。
その数は、数万人にまで膨れ上がっていた。
翌朝。
白角城の城主は、城門の前に押し寄せた数万の領民たちの姿を見て愕然とした。
「ど、どういうことだ!? なぜこれほどの数の民が城に押し寄せている!」
「申し上げます! 黎州軍が村々を焼き払いながら接近中とのこと! 民たちは恐れをなして、城内に庇護を求めております!」
「ええい、城門を開けろ! 我らが民を見捨てたとあっては、西部の武門の恥となる。全員を城内に収容し、城門を固く閉ざせ!!」
城主は武人の情けと誇りから、数万の農民たちを全て城内へと招き入れてしまった。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。その農民たちが、一粒の米すら持たずに、懐に金塊だけを抱えた「巨大な胃袋の化け物」と化していることに。
それから三日後。
筆頭家老メイカクに率いられた黎州の正規軍数万が、ついに白角城の周辺に到着し、美しい幾重もの包囲陣を敷き終えた。
メイカクは白馬にまたがり、整然と並んだ味方の陣形を見渡して満足げに頷いた。
「見よ、これぞ黎州の威信を示す完璧な陣形。ネズミ一匹通さぬ鉄壁の包囲網だ。さて、敵は数ヶ月の絶望的な籠城戦に、いつまで耐えられるかな」
メイカクが余裕の笑みを浮かべていた、まさにその時である。
白角城の城壁の上から、異常なまでの悲鳴と怒号が聞こえてきた。
「飯を……! 飯をくれェェェッ!!」
「子供が餓死しそうだ! 城の蔵を開けろォォッ!!」
城門の内側から、扉を叩き割らんばかりのすさまじい音が響き渡り、城壁の上では、痩せこけた農民たちと、それを制止しようとする兵士たちが乱闘を始めているのが見えた。
「な、なんだ!? 城内で何が起きている!」
メイカクが目を見開いて驚愕する中、彼のもとへ馬を走らせてきたのは、商人の変装から元の泥だらけの甲冑姿に戻ったジンであった。
「おや、家老殿。随分と立派な陣を敷きましたね。ですが、そんな何ヶ月も待つ必要はありませんよ。あの城はもう、三日もすれば内側から勝手に崩壊しますから」
「貴様……ジン! これは一体どういうことだ! 籠城戦が始まってまだ数日だぞ! なぜ城内から飢えに苦しむ声が聞こえるのだ!」
ジンは馬上で胡座をかき、ニヤリと悪賢く笑った。
「簡単な算数ですよ。一万人用の半年分の備蓄も、数万人の農民が一緒に食えば、あっという間に底をつく。俺が城の周りの飯を全部買い占めて、農民ごと城の中にぶち込んでやったんです。『絶食の檻』の完成ってやつですよ」
「農民の食料を奪い、城に押し込んで飢えさせるだと……!?」
メイカクの顔色から、一瞬にして血の気が引いた。
兵法において、兵糧攻めは定石である。しかし、それはあくまで「兵士同士の戦い」の中での話だ。無関係の農民の食料を金で奪い取り、彼らを武器の代わりに使って城の内部から飢餓地獄を作り出すなどという戦法は、武人の歴史上、いかなる兵法書にも記されていない完全なる『外道』の所業であった。
「貴様……っ!! そこまでして……そこまで武人の誇りを、人間の尊厳を踏みにじるか!!」
メイカクは震える指でジンを指差し、怒りのあまり声すら掠れていた。
「城の中には、女子供もいるのだぞ! 彼らを飢餓地獄に突き落として、それで勝って何が名誉か!! 貴様は人間ではない、血も涙もない悪魔だ!!」
「名誉? そんなもんで飯が食えるなら、俺もとっくに腹一杯になってますよ」
ジンはメイカクの激怒を冷たく見据え、一切の同情を見せずに言い放った。
「何万の軍勢で城を囲んで、力攻めで数千人の味方を死なせるより、敵の胃袋を空っぽにして降伏させる方が、よっぽど合理的で血が流れねえ。……俺は、俺の部下を一匹も死なせたくねえだけだ。そのためなら、敵の農民が何万人餓死しようが、悪魔とでも何とでも呼ばれてやるよ」
その冷酷極まりない、しかし圧倒的に合理的な生存の論理。
メイカクは、目の前の泥に塗れた男が、ただの小賢しいネズミなどではなく、古き良き世界そのものを根底から食い尽くす『絶望的な怪物』であることを完全に理解した。
それから一週間後。
白角城は、黎州軍の矢を一本も受けることなく、内側から完全に崩壊した。
極限の飢餓に狂った農民たちが暴動を起こし、城主の首を刎ねて城門を内側から開け放ったのである。
城から転がり出てきた数万の人間は、骨と皮だけになり、地面の草や泥すらも口に詰め込もうとする凄惨な地獄絵図そのものであった。
ジン隊が用意していた炊き出しの粥の前に、数万の敵兵と農民が涙を流してひれ伏した。
黎州軍は、味方の血をただの一滴も流すことなく、西部最強の要塞を陥落させ、ついに西国平定を完了させたのである。
本陣の大天幕で、覇侯ソウガは報告を受け、狂ったように笑い声を上げていた。
「ハハハハハハッ!! 見事だ、ジン! 剣を振るわずして最強の城を落とすとは! あのギエンの残した腐った黄金を毒に変え、見事に敵の喉首を喰い破ってみせたな!」
「へい。おかげで俺の泥犬共は、今日も元気に泥を駆け回れそうです」
ジンが頭を掻きながら答えると、シュウスイもまた、複雑な表情を浮かべながらもジンの肩を強く叩いた。
「……残酷な策だが、味方の犠牲がゼロであったことは事実だ。貴様のその凄まじい知略、俺は素直に認めよう」
しかし。
その歓喜に沸く天幕の片隅で、メイカク一人だけが、顔を伏せたまま全身を微かに震わせていた。
(ソウガ様は、あの悪魔の所業を笑って許容された。……いや、ソウガ様ご自身が、あの下賎な毒を求めておられるのだ。このままでは、黎州は誇りも名誉もない、ただ飢えと欲望だけが支配する修羅の国に成り果ててしまう)
メイカクは静かに天幕を退出し、自らの陣へと向かう足取りの中で、ついに取り返しのつかない決断を下した。
(ならば、私が正すしかない。白き王が遺した美しき世界を、高貴なる秩序を、我が手で取り戻す。……たとえ、この手が主君の血に染まろうとも)
白銀の武将の瞳から、忠誠の光が完全に消え失せた。
西国平定の完了という黎州軍最大の栄光の裏側で、全てを焼き尽くす本能寺の炎の火種は、ついに取り返しのつかない大きさへと膨れ上がっていたのである。




