第13話 毒入りの宴と疑心暗鬼の谷
暴牙川の渡河を果たし、玄谷の砦から大量の兵糧を奪取したジン隊の活躍により、黎州軍の西進は再び猛烈な速度を取り戻していた。
しかし、旧煌州の残党と西部豪族の連合軍も、ただ指を咥えて滅びを待つほど無能ではなかった。彼らは平野での決戦を避け、黎州軍の進行ルート上に立ち塞がる巨大な天然の要害、『鉄脈谷』へと全戦力を結集させ、徹底抗戦の構えを見せたのである。
鉄脈谷は、赤茶けた鉄鉱石の岩肌が両側に高くそびえ立つ、深く険しい峡谷だった。谷の入り口は狭く、奥へ行くほど広がるという、防衛側にとってこれ以上ないほど有利な地形で、奥には一万を超える連合軍が陣を敷いている。
先陣を切ったシュウスイの精鋭部隊が幾度となく突撃を試みたが、頭上から降り注ぐ矢の雨と、狭い入り口を大盾で塞ぐ敵の密集陣形に阻まれ、多大な被害を出して撤退を余儀なくされていた。
「……おのれ。あの谷の入り口さえ突破できれば、我が軍の武威で一網打尽にしてくれるものを」
本陣の大天幕で、シュウスイは血に染まった包帯を腕に巻きながら、忌々しげに唸った。
床几に座る覇侯ソウガは、不機嫌そうに巨大な大剣の柄を指で叩いている。
「力押しで抜けぬのなら、迂回するまでだ。他のルートはないのか」
「ソウガ様、鉄脈谷を迂回するとなれば、険しい北の連峰を越えるしかありませぬ。一万の軍勢で山越えをすれば、ひと月は余計に刻を浪費することになります」
シュウスイの報告に対し、白銀の鎧を身に纏った筆頭家老メイカクが、静かに扇子を広げて進み出た。
「ソウガ様。ここは正攻法の武力に頼るのではなく、外交による切り崩しを図るべきかと存じます。連合軍の盟主であるドーガンは、誇り高き西部の名門。我々から正式な使者を立て、黎州の傘下に入るのであれば所領の安堵を約束する旨を伝えれば、無用な血を流さずに城を開けましょう。戦とは、下賎な殺し合いだけでなく、こうした高貴な交渉によって治めるのが王道というものです」
メイカクの提案は、武人の秩序を重んじる彼らしいものだった。敵の将を殺すのではなく、屈服させて自らの派閥に取り込む。それが旧体制の定石である。
しかし、その言葉を遮るように、天幕の隅から乾いた笑い声と咳払いが響いた。
「ゲホッ……高貴な交渉、ですか。それは相手が一枚岩の忠誠で結ばれている場合のみ通用する机上の空論です」
分厚い毛布を羽織り、白湯の椀を手にしたシオンが、ジンを伴ってゆっくりと前に出た。メイカクは汚物を見るような目でシオンを睨みつけた。
「病人が軍議に口を挟むな。西部豪族の結束は固い。彼らは我々黎州の侵略に対し、死を賭して抗戦する覚悟を決めているのだ」
「結束が固い? ゲホッ。とんでもない。彼らは『黎州という巨大な獣が怖いから、仕方なく肩を寄せ合っている』だけの、怯えたネズミの集まりに過ぎません」
シオンは冷徹な瞳で地図上の鉄脈谷を指差した。
「恐怖で結ばれた同盟ほど脆いものはない。外から力を加えれば岩のように硬く反発しますが、内側にほんの一滴の『疑心暗鬼という毒』を垂らしてやれば、勝手に食い破り合って自滅します。……我々が手を下すまでもなくね」
ソウガが身を乗り出し、獰猛な笑みを浮かべた。
「面白い。どうやってその毒を垂らす気だ、病弱の軍師よ」
「簡単です。敵の盟主ドーガンの腹心であり、連合軍のナンバーツーであるザンキという将に、ジン殿を使者として送ります。……ただし、交渉は一切行わず、ただ『莫大な賄賂』だけを公然と渡して帰ってくるのです」
その言葉に、メイカクが激怒して声を荒げた。
「馬鹿な! 敵の副将に賄賂を贈るなど、何の意味がある! しかも交渉もせずに帰ってくるだと? そのような卑劣な工作、誇り高き黎州の軍がやるべきことではない!」
「誇りでは城は落ちませんよ、家老殿。……ジン殿、出番です」
「おう。俺の得意な泥芝居を見せてやるよ」
ジンはニヤリと笑い、天幕を後にした。
翌日の昼下がり。
鉄脈谷の入り口に、白旗を掲げた少人数の使節団が姿を現した。
先頭を歩くのは、千人将の証である黒革の鎧をあえて脱ぎ捨て、昔ながらの粗末な麻の単衣に着替えたジンである。その後ろには、ガクとゴウ、そして数名の泥犬部隊の兵士たちが、大きな木箱を荷車に載せて運んでいた。
「黎州軍、千人将のジンだ! 今日は戦をしに来たんじゃねえ! ザンキ将軍に、ご挨拶の品を持ってきた!」
入り口を固める連合軍の兵士たちは、白旗を掲げたジンの無防備な姿と、そのあまりにも下賎な格好に戸惑い、とりあえず彼らを谷の中腹にあるザンキの陣幕へと通した。
ザンキは恰幅の良い、典型的な西部の武将だった。彼はジンを一瞥し、鼻で笑った。
「黎州の使者が、わざわざこのザンキの元へ何用か。盟主のドーガン殿ではなく、私に話を通そうなどと、小賢しい真似を」
「いやいや、小賢しいなんてとんでもねえ。俺たち黎州軍は、ザンキ将軍の勇猛さを心の底から恐れてるんでさぁ」
ジンは揉み手をして見せ、いかにも卑屈な小悪党といった態度で木箱の蓋を開けさせた。
中に入っていたのは、玄谷の砦から奪った戦利品の中でも特に高価な、黄金の装飾品や絹織物の山であった。まばゆい光に、ザンキと周囲の護衛たちの目が釘付けになる。
「これは、ほんの気持ちです。俺たちはただ、ザンキ将軍の部隊とは『槍を交えたくない』。そう思ってるだけでしてね」
「……どういう意味だ?」
「なに、深い意味はねえんです。将軍の部隊が少しだけ目を瞑ってくれれば、こちらも将軍の陣には矢を射掛けねえ。そういう、個人的なお近づきの印ってやつでさ」
ジンは下品に笑いながら、金塊の一つをザンキの懐に無理やりねじ込んだ。
ザンキは戸惑いながらも、その莫大な財宝の魅力に抗えず、明確な拒絶をすることができなかった。
「……用件はそれだけか。ならば帰れ。私は盟主を裏切るつもりなどないぞ」
「ええ、もちろん! 裏切るだなんてとんでもねえ! 俺たちはただ、ご挨拶に来ただけですから! じゃあ、また!」
ジンは用だけを済ますと、本当に何の密約も交わさずに、さっさと谷を後にしてしまった。
ザンキは残された莫大な財宝を前に、「黎州の奴らも、我々の守りの固さに恐れをなして媚びを売りに来たのだ」と、己の都合の良いように解釈し、財宝を自らの天幕の奥へとしまい込んだ。
しかし、この一連のやり取りは、すべて白日の下、白昼堂々と行われていた。
当然、谷の奥にいる盟主ドーガンの耳にも、「黎州の使者がザンキの元へ大量の財宝を運び込み、密談をして帰っていった」という報告が、誇張されてすぐに届けられることとなった。
「なんだと? ザンキの奴、私を通さずに敵の使者と会い、賄賂を受け取ったというのか?」
ドーガンは猜疑心の強い男だった。
彼はすぐにザンキを呼び出し、問い詰めた。
「ザンキよ。敵から賄賂を受け取ったというのは真実か。まさか、我々を売り渡す密約を交わしたのではあるまいな」
「滅相もございません! あれは敵が勝手に置いていったもの。何の密約も交わしておりません。私は盟主殿に絶対の忠誠を誓っております!」
ザンキは必死に弁明したが、ドーガンの目には疑鬼の念が宿ったままだった。
敵が何の見返りも求めずに莫大な財宝を置いていくはずがない。何か裏があるに決まっている。そう考えるのが、権力者の常である。
そして、その疑念の火種に、シオンの放った『油』が注ぎ込まれた。
その日の夜。
鉄脈谷の中を巡回していたドーガンの見回り兵が、物陰を素早く動く黒い影を捕らえた。
それは、黎州軍の装束を着た斥候兵だった。兵士たちは斥候を射殺し、その懐から一通の密書を発見した。
すぐさまドーガンの元へ届けられたその密書には、黎州覇侯ソウガの印と共に、こう記されていた。
『ザンキ将軍へ。先日の返答、確かに受け取った。明後日の夜半、我々が谷の入り口に総攻撃を仕掛ける。その混乱に乗じ、貴殿の部隊でドーガンの首を討ち取れ。約束通り、西部の領地は貴殿に任せる』
「……おのれ、ザンキッ!! やはり裏切っていたか!!」
ドーガンは激怒し、書状を床に叩きつけた。
しかし、これは全てシオンの罠であった。
射殺された斥候は、わざと捕まるように仕向けられた死に役の罪人であり、密書はシオンが黎州の印を偽造して作り上げた完全な偽物であった。
夜の闇に紛れてこの工作を行ったのは、ガク率いる泥犬部隊の隠密班である。彼らは足音一つ立てずに谷に侵入し、敵の巡回ルートを把握した上で、最も効果的なタイミングでこの偽の手紙を『発見』させたのだ。
翌朝、鉄脈谷の中は異様な緊張感に包まれていた。
ドーガンはザンキの陣を武装した兵士たちで包囲し、ザンキを反逆罪で捕縛しようとした。
「盟主殿! これは何かの罠です! 私は手紙など受け取っていない!」
ザンキが絶叫するが、ドーガンは聞く耳を持たない。
「黙れ! お前が敵の使者から賄賂を受け取ったのは多くの兵が見ている! 言い逃れはできんぞ! 出会え、こやつを斬れ!」
「くそっ、ドーガンの奴、本気で私を殺す気か! ならばやむを得ん、皆の者、武器を持て! 身を守るのだ!」
ザンキの部下たちも、自分たちの命を守るために武器を取った。
こうして、鉄脈谷の中で、黎州軍が一本の矢も放たないうちに、西部豪族連合軍同士による血みどろの同士討ちが始まったのである。
「うおおおおッ! 裏切り者め!」
「ふざけるな、我々は罠にはめられたのだ!」
疑心暗鬼に駆られた兵士たちは、もはや誰が敵で誰が味方かも分からず、隣り合う陣地同士で殺し合いを始めた。谷の中に怒号と悲鳴が反響し、赤茶けた岩肌が、彼ら自身の血でさらに赤く染まっていく。
入り口の防衛線は完全に崩壊し、バリケードは内側からの争いによって薙ぎ倒された。
その凄惨な光景を、鉄脈谷の入り口から少し離れた小高い丘の上で、ジンとシオン、そしてシュウスイが冷ややかに見下ろしていた。
「……ゲホッ。見事な自滅です。恐怖と疑念という名の劇毒が、完全に致死量に達しましたね」
シオンが満足げに咳き込む横で、シュウスイは唖然として谷の惨状を見つめていた。
「馬鹿な……。一万の軍勢が、たった一つの賄賂と一通の偽手紙で、こうも容易く崩壊するというのか……」
「大将、人間ってのは自分が一番可愛い生き物なんですよ。相手を信じるより、疑う方がずっと簡単で、楽なんだ。……特に、腹の中を探り合ってる偉い豪族様たちには、最高の特効薬だ」
ジンは冷酷な目で、燃え上がる谷を見下ろした。
彼の背後で、巨大な鉄砕棒を肩に担いだゴウが不満げに鼻を鳴らした。
「ちぇっ、つまんねえの。俺の出番が全くねえじゃねえか。あいつら、勝手に殺し合ってバタバタ死んでいきやがる」
「文句を言うな、ゴウ。味方の血を流さずに敵が全滅するなら、それに越したことはない」
ガクが静かにたしなめる。
やがて、谷の中の争いの音が徐々に小さくなり、煙だけが立ち上るようになった頃。
ジンはゆっくりと右手を挙げた。
「さあて、お掃除の時間だ。残った息の根を止めて、谷を制圧するぞ」
黎州の本軍が悠然と谷へ足を踏み入れた時、そこにはもはや組織だった抵抗は一切存在しなかった。
一万の連合軍は、同士討ちによってその半数以上が死傷し、残った者たちも疲労と絶望で完全に戦意を喪失していた。盟主ドーガンとザンキは、互いに相討ちとなって泥の中に転がっていた。
ジンたちは文字通り、無傷のまま鉄脈谷を制圧したのである。
しかし、この圧倒的な勝利の報を受けた本陣で、怒りに震えている男がいた。
筆頭家老、メイカクである。
彼は陥落した鉄脈谷を視察に訪れ、谷底に転がる無数の死体の山と、それらが全て同士討ちによる背中からの傷や、無秩序な乱戦によるものであることを確認すると、顔を青ざめさせた。
「……なんという下劣な。なんという悍ましい光景か」
メイカクの前に、泥だらけの草鞋を履いたジンが、首を傾げながら歩いてきた。
「おや、家老殿。無事に谷が落ちましたぜ。味方の犠牲はゼロ。これ以上ない大勝利でしょう?」
「貴様ァッ!!」
メイカクは激昂し、腰の剣に手をかけた。周囲の近衛兵たちが慌てて彼を制止する。
「貴様は戦というものを、武人の誇りを、ここまで冒涜するのか! 名誉ある西部の武将たちを、あのような卑劣な罠にかけ、疑心暗鬼で互いに殺し合わせるなどと……! これは獣の仕業だ! 人間がやってよい戦ではない!」
メイカクにとって、戦場とは己の武と誇りをぶつけ合う神聖な儀式の場であった。
敵将が名乗りを上げ、正々堂々と矛を交え、負けた者は潔く腹を切る。それが二百年続く乱世の中で彼らが守り抜いてきた『美しさ』だったのだ。
それを、たった一つの偽手紙で内側から腐らせ、誇り高き武将たちを猜疑心に狂った犬のように殺し合わせたジンのやり方は、メイカクの精神を根底から破壊する絶対悪に他ならなかった。
ジンは剣の柄に手をかけるメイカクを冷たい目で見据え、鼻で笑った。
「家老殿。アンタの言う誇り高き武将ってのは、随分と底が浅いんだな。ちょっと金を見せられて、怪しい手紙を読んだだけで、昨日まで肩を組んでた仲間を背中から刺す。それが、アンタの守りたい『美しさ』の正体か?」
「黙れ、黙れ下民が!!」
「死ねば皆、ただの肉の塊だ。綺麗な死に方も汚い死に方もねえ。……俺は、味方の泥犬共を一匹も死なせないためなら、敵がどんなに醜く死のうが知ったことじゃねえんだよ」
ジンの冷酷な宣告に、メイカクは言葉を失い、全身をワナワナと震わせた。
「……ソウガ様は、このような外道を重用して、真の覇者になれるとお思いか。いや……この毒は、すでに黎州の根幹を腐らせ始めている」
メイカクは扇子を握り潰し、ジンを憎悪の目で見つめたまま、踵を返して去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、シオンが静かに咳き込んだ。
「……決定的な亀裂が入りましたね。あの男の目は、もはや敵対勢力へ向けるものと同じです」
「ああ。正義感や誇りってのは、厄介な代物だ。自分が絶対に正しいと思い込んでる奴は、自分の世界を壊す相手を、どんな手を使ってでも排除しようとする」
ジンは夕陽に照らされた鉄脈谷を見上げた。
西部平定の最大の障害は排除された。しかし、それと引き換えに、黎州の内部に抱え込んだ旧体制の不満という名の爆弾の導火線には、すでに火が点いていた。
ソウガの絶対的なカリスマによって保たれている危うい均衡。
それが崩れ去る落日の時は、一歩、また一歩と、確実な足音を立てて近づいていた。




