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第14話 肥大する群れと白銀の謀略

鉄脈谷の凄惨な同士討ちから十日が過ぎた。

かつて赤茶けた鉄鉱石の岩肌が剥き出しになっていた谷底は、今や黒ずんだ血の染みと、名もなき兵士たちの亡骸を焼く煙の臭いで満たされていた。

黎州軍は無傷でこの難所を制圧したものの、その後の戦後処理は困難を極めた。一万の西部豪族連合軍のうち、生き残って降伏した者は三千。彼らは指導者を失い、飢えと疑心暗鬼に苛まれたまま、黎州軍の捕虜として収容されていた。

ジン隊の野営地は、谷の入り口付近の少し開けた場所に設営されていた。しかし、その規模は数日前とは比べ物にならないほどに膨れ上がっていた。

「……親父。また西部の農民どもが五十人ほど、陣の門前で『飯を食わせてくれ』と泣きついてきている。どうする」

無口なガクが、泥だらけの竹竿を杖代わりにしながら、ジンの指揮所である粗末な天幕に入ってきた。その目の下には深い隈が刻まれており、極度の疲労が見て取れた。

「またか……。とりあえず、昨日作った防疫用の薬湯を飲ませてから、陣の端っこに収容しとけ。変な病気を持たれちゃ困るからな。水浴びとシラミ取りも徹底させろよ」

「分かった。だが、これ以上人が増えれば、俺が引いた陣形の規格から完全に外れるぞ。便所の数も足りなくなるし、何より統制が取れない」

ガクの言う通りだった。

田楽狭間での奇襲、金啼の退き口での生還、そして一夜城の建設。これらの一連の武功は、黎州軍の内部だけでなく、敵対していた西部の民や下級兵士たちの間にも『ジンという男の下にいれば、無駄死にさせられず、飯が食える』という噂となって広まっていた。

その結果、戦火を逃れた難民や、降伏した旧煌州の残党兵たちが、次々とジン隊への編入を希望して押し寄せてきたのである。

元々千人だった部隊は、この十日足らずで三千近くにまで肥大化していた。

「オラァッ! 新入り共、背筋を伸ばせ! ここは孤児院じゃねえんだ、モタモタしてる奴は俺の鉄砕棒の素振りの的にするぞ!」

天幕の外から、ゴウの怒鳴り声が響いてくる。彼は有り余る体力に任せて新兵たちの訓練(という名のしごき)を行っているようだが、力任せの命令だけでは烏合の衆を軍隊にすることはできない。

「……ゲホッ、ゴホッ。ガクの懸念はもっともです。ジン殿、今の我々は『軍』ではなく、ただの『腹を空かせた難民キャンプ』に過ぎません」

天幕の隅で、分厚い毛布に包まりながら白湯を啜っていたシオンが、冷ややかな声で口を挟んだ。

「ただでさえメイカク殿の嫌がらせで補給が滞りがちなのに、これ以上無闇に人を増やせば、いずれ自らの胃袋の重さに耐えかねて自滅します。玄谷の砦から奪った兵糧も、三千人で食い潰せばひと月も持ちませんよ」

「分かってるさ、軍師殿。だが、俺たち自身が元々は泥水啜ってた難民や孤児の集まりだ。飯を求めてすり寄ってきた連中を、野垂れ死にしろって追い返すのは、どうも性に合わねえんだよ」

ジンは頭を掻きむしり、手元にある木簡の束に目を落とした。そこには、部隊の兵糧の残量や、病人の数などがびっしりと書き込まれている。

戦場で敵の首を獲るよりも、あるいは奇策で砦を落とすよりも、数千の人間を生かし続けるという兵站と管理の仕事の方が、ジンの頭を何倍も悩ませていた。

「人を集めるだけなら、ただの盗賊の頭目でもできます。彼らを『手足』として機能させるには、明確な階層と、情け容赦のない規律……つまり『骨格』が必要なのです。ゲホッ、我々には、その骨格を教え込める下士官が決定的に不足している」

シオンの冷徹な分析に、ジンはため息をついた。

泥犬たちは生存本能には長けているが、軍隊としての組織行動のノウハウを持たない。ガク一人に全てを管理させるには限界があった。

その時、天幕の入り口の布が乱暴にめくられ、巨大な影がぬっと姿を現した。

「ジン。相変わらず貴様の陣は、泥と焚き火の煙臭いな」

そこに立っていたのは、黎州軍の先陣大将であり、ジンにとって最大の戦友となった猛将シュウスイであった。彼は大鎧の擦れる音を響かせながら天幕に入ると、背後に控えていた数名の屈強な武将たちを手招きした。

「大将? どうしたんですか、そんなにゾロゾロと連れ立って」

「貴様が人の管理で頭を抱えていると聞いてな。……おい、入れ」

シュウスイの合図で天幕に入ってきたのは、顔に無数の傷を持ち、隙のない立ち振る舞いをする五人の古参の将校たちだった。彼らの目には、厳しい規律の精神が宿っている。

「彼らは俺の部隊で長年、新兵の調練と陣の管理を任せてきた百戦錬磨の小隊長たちだ。今日から貴様の部隊に貸してやる。彼らに新兵の教育と、陣の規律の立て直しを任せろ」

ジンの目が驚きに見開かれた。

他人の部隊、しかも元々は敵対視すらしていた相手に、自らの手足とも言える優秀な下士官を譲り渡すなど、武将の派閥争いが絶えないこの乱世において異例中の異例である。

「いいんですか、大将。こんな腕利きのオッサンたちを俺の部隊に回しちまったら、アンタの正規軍の練度が落ちるんじゃ……」

「馬鹿を言え。俺の部隊の規律は、俺の槍が一本あれば保たれる」

シュウスイは豪快に笑い飛ばしたが、すぐに真剣な表情に戻り、ジンの前に胡座をかいた。

「……ジンよ。俺は貴様を、俺の手の届かぬ足元を守る『泥の盾』だと認めた。盾が内側から腐って崩れ落ちては、俺という剣は存分に振るえんのだ。貴様は戦術の奇策には長けているが、軍の根幹を成す基礎が圧倒的に足りていない。それを補うための手助けだと思え」

「大将……」

ジンはシュウスイの真っ直ぐな厚意に、言葉を失った。

「ただし」と、シュウスイは声を潜め、周囲を警戒するように目を細めた。「これは俺の個人的な判断だ。本陣のメイカク殿は、貴様の部隊が旧煌州の残党や難民を吸収して肥大化していることを、極めて危険視している」

「だろうな。あの潔癖症のオッサンからすりゃ、俺の部隊は国を汚す病原菌の塊みたいに見えるはずだ」

「ああ。メイカク殿は先日、ソウガ様に『ジンの部隊は烏合の衆であり、いずれ黎州の軍紀を乱す反乱分子になりかねない』と進言したらしい。ソウガ様は一蹴されたようだが……あの男は、決して諦めまい。必ず合法的な手段で、貴様たちを潰しにかかってくるはずだ」

シュウスイの警告に、天幕の隅でシオンが不気味な笑い声を漏らした。

「ゲホッ……面白い。誇り高き白銀の家老殿が、どのような陰湿な盤面を用意してくるのか、お手並み拝見といきましょう」

その頃。

鉄脈谷から遠く離れた、黎州軍の後方支援拠点。

筆頭家老メイカクの陣幕の中には、白檀の香が焚き込められ、外の血と泥の臭いを完全に遮断していた。天幕の床には美しい紋様の絨毯が敷かれ、陣中とは思えないほどの優雅さと静寂が保たれている。

メイカクは上座に正座し、冷たい目で手元の書状に目を通していた。

彼の前には、旧来から黎州に仕える名門出身の将校たちが数名、膝を突き合わせて不満を漏らしている。

「メイカク様。お聞きになられましたか。あの下賎なジンという男、鉄脈谷での卑劣な工作に飽き足らず、今度は敵の残党や乞食どもを無差別に自軍に引き入れ、三千もの大所帯になっているとのこと。もはや軍隊ではなく野盗の群れです」

「いかにも。そのような汚らわしい連中が、我々と同じ黎州の軍旗を掲げていること自体、武門の恥辱。シュウスイ将軍も、あの男の小賢しい弁舌に唆され、すっかり骨抜きにされておられるご様子」

将校たちの愚痴を聞き流しながら、メイカクは静かに扇子を閉じた。

「……嘆くことはない。下賎な血は、どれほど集まろうとも所詮は泥。太陽の光に晒されれば、やがて干からびてひび割れる運命にある」

メイカクの声は静かだったが、その奥底には狂気にも似た強烈な選民意識と、秩序を愛するが故の冷酷な殺意が秘められていた。

彼にとって、二百年前に世界を統一したとされる「白き王」の伝承は、単なるおとぎ話ではない。それは「世界には明確な階層と秩序が必要である」という神の啓示であり、選ばれた血脈の者のみが国を治めるべきだという絶対の信仰であった。

「ソウガ様は、あの草売りの奇策がもたらす目先の『結果』にのみ目を奪われておられる。しかし、実力さえあれば出自を問わぬという極端な思想は、いずれこの国の秩序を根底から腐らせる。現に、あの泥犬の部隊は、武人の誇りも忠誠心も持たぬ野犬の群れに成り下がっているではないか」

メイカクは書状を一枚、ゆっくりと机の上に置いた。

それは、ソウガの印が押された、軍の配置転換を命ずる公式な命令書であった。

「肥大化したダニは、潰すのが最も容易い。血を吸いすぎて動きが鈍っているからな。……奴らを、西の『黒泥湿地帯こくでいしっちたい』の掃討へ回す」

その地名を聞いた瞬間、居並ぶ将校たちの顔色が変わった。

黒泥湿地帯。鉄脈谷からさらに南西に位置するその場所は、一年中霧に覆われ、底なし沼と猛毒を持つ害虫がはびこる死の土地である。そこには旧煌州の残党の中でも最も凶暴な一派が逃げ込んでおり、地の利を生かした徹底的なゲリラ戦を展開しているという。

「し、しかしメイカク様。あのような湿地帯では、馬も荷車も使い物になりませぬ。補給線を維持することなど到底不可能……」

「左様。補給は届かぬ。それに加え、あそこは疫病の温床だ」

メイカクは唇の端を吊り上げ、冷酷な笑みを浮かべた。

「ジン隊の三千という数は、平野での奇襲には有利かもしれんが、食料が手に入らず、病が蔓延する泥沼の中では、ただ自らの首を絞めるだけの重石となる。腹を空かせ、病に倒れる部下たちを見て、あの草売りはどうするだろうか。略奪しようにも、周囲には泥と毒草しかないのだ」

「なるほど……。正規の軍令として死地へ送り込み、補給を絶って自滅させる。これならば、我々の手を一切汚すことなく、あの目障りな野犬どもを合法的に処分できますな」

将校の一人が、悪辣な笑みを浮かべて同調した。

「すべては、黎州の誇り高き秩序を守るためだ。ソウガ様には『ジン千人将の泥に強い特性を生かし、難所である湿地帯の残党狩りを任せるのが最善』と進言し、既にご許可をいただいている。……さて、あの生き汚いネズミが、本物の泥沼の中でどのように息絶えるか。見物であるな」

数日後。

鉄脈谷のジン隊の陣地に、メイカクの息のかかった伝令使が到着し、高圧的な態度で命令書を読み上げた。

『ジン千人将率いる部隊は、直ちに陣を払い、南西の黒泥湿地帯へ向かうべし。同地に潜伏する反乱軍の残党を完全に掃討するまで、帰還を許さず。なお、地形の都合上、本陣からの物資の補給は困難であるため、現地にて自給自足の策を講ずること。以上』

伝令使が去った後、天幕の中は重苦しい沈黙に包まれた。

ガクが眉間に深く皺を刻み、竹竿を強く握り締めている。ゴウは意味がわからず首を傾げているが、空気の悪さだけは感じ取っていた。

「……ゲホッ、ゲホッ。見事なまでに美しい、純度百パーセントの殺意ですね」

シオンが命令書をヒラヒラと揺らしながら、肺の底から湧き上がるような乾いた笑い声を上げた。

「黒泥湿地帯。あそこは人間が軍隊を率いて入る場所ではありません。補給なしで三千の人間を送り込めば、十日以内に疫病と飢餓で半数が死に、残りの半数は狂って殺し合いを始めるでしょう。見え透いた処刑命令です。……ジン殿、いかがなさいますか。軍令違反を覚悟で、ソウガ様に直訴しますか?」

シオンの問いに対し、ジンは命令書を奪い取ると、それを無造作に丸めて焚き火の中へと放り込んだ。

炎が紙を舐め、パチパチと音を立てて燃え上がっていく。

「直訴なんかしたら、それこそあの白銀のオッサンの思う壺だ。『困難な任務から逃げ出す臆病者』の烙印を押されて、ソウガ様からの信用も失っちまう」

ジンは立ち上がり、首の骨をボキボキと鳴らした。

その瞳には、絶望や恐怖の色は微塵もなく、むしろ強烈な逆境を前にして燃え上がる、雑草特有のしぶとい闘志がメラメラと輝いていた。

「泥沼で自滅させようって腹だろうが、連中は俺たちの正体を勘違いしてる。綺麗な武将様たちには死の泥沼でも、俺たち泥犬にとっちゃ、あそこはただの『裏庭』だ」

ジンはガクとゴウ、そしてシュウスイから借り受けた歴戦の下士官たちに向かって、不敵な笑みを向ける。

「いいか、お前ら。これから俺たちは、地獄の底なし沼へのピクニックに出かける。毒草の処理、泥水の濾過、沼に潜む獣の狩り方。俺が山で培ってきた生き汚いサバイバル術の全てを、三千人全員に叩き込んでやる」

「フッ……ゲホッ。では私は、その泥沼の地形を利用して、残党どもを一網打尽にする悪辣な絵図面を引くとしましょう。彼らの罠を逆手にとり、沼の底に沈めてやるのです」

シオンもまた、病的な顔に猟奇的な笑みを浮かべて同意した。

「オラァッ! よく分かんねえが、とにかくその湿地のバケモノ共をぶち殺して食えばいいんだな! 燃えてきたぜ!」

ゴウが鉄砕棒を天に掲げて咆哮する。

メイカクの放った致死量の毒針は、ジン隊を殺すどころか、彼らの生存本能に火をつけ、さらなる凶悪な集団へと変貌させる起爆剤となろうとしていた。

古き秩序の陰謀と、泥から這い上がる者たちの執念。

黎州軍の歴史から完全に記録を抹消されることになる、最も過酷で凄惨な『黒泥湿地帯の死闘』の幕が、今まさに開かれようとしていた。

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