第12話 千人の胃袋と泥沼の兵糧戦
暴牙川の西岸に築かれた一夜城を拠点とし、黎州軍の苛烈な西国平定が幕を開けてから半月が経過していた。
ソウガの圧倒的な武威と、シュウスイ率いる正規軍の怒涛の進軍により、旧煌州の残党や西部豪族の連合軍はじりじりと後退を余儀なくされていた。しかし、戦線が西へ拡大すればするほど、黎州軍は目に見えない巨大な怪物に首を絞められつつあった。
その怪物の名は「補給」である。
一夜城の城壁の片隅で、ジンは泥だらけの木簡の束を睨みつけながら、深いため息を吐き出していた。
「……足りねえ。どう計算しても、あと三日で部隊の飯が底をつく」
千人将に昇格したジンの肩には、文字通り千人の命と胃袋が重くのしかかっていた。
百人の頃であれば、山に入って獣を狩り、食べられる野草を摘むことでいくらでも誤魔化しが効いた。だが、千人という数は一つの村に等しい。彼らが一日に消費する玄米や干し肉の量は膨大であり、局地的な狩猟採集などで到底賄えるものではなかった。
軍を維持するためには、後方からの定期的な兵糧の輸送が絶対不可欠である。しかし、ジン隊に割り当てられたはずの補給物資は、ここ数日、一向に届く気配がなかった。
「親父。今日の配給も、昨日と同じく稗と粟を水で薄めた粥だけだ。兵たちの間に不満が溜まり始めている」
無口なガクが、先端に泥のついた竹竿を抱えながら静かに報告した。彼の頬も以前より少し痩せこけているように見える。
その横では、ゴウが空の椀を地面に叩きつけて吠えていた。
「ふざけんな! 俺たちは一番槍で敵の陣をぶっ壊してやってるんだぞ! なんで本陣の連中は白飯を食ってて、俺たち泥犬だけがこんな泥水みたいな粥を啜らなきゃならねえんだ! これじゃ重い鉄砕棒も振れやしねえ!」
「喚くなゴウ。腹が減るのはお前だけじゃない」
ジンはゴウをたしなめつつも、内心では激しい焦りを感じていた。
戦場において、飢えは敵の刃よりも恐ろしい。士気が低下すれば陣形は崩れ、最悪の場合は部隊が丸ごと逃亡するか、反乱を起こす。泥水啜って生き延びてきた孤児や浮浪者の集まりであるジン隊にとって、飯が食えないということは即ち、ジンへの忠誠を捨てる十分な理由になり得た。
「……本陣の補給係が、無能なわけではありませんよ。これは明確な『悪意』です。ゲホッ、ゴホッ」
小屋の奥から、分厚い毛布に包まったシオンが、顔をしかめながら白湯を啜った。
「悪意だと? 誰が俺たちの飯を止めてるってんだ」
「決まっているでしょう。現在、黎州軍の兵糧と兵站を一手に握っている男……筆頭家老のメイカク殿です」
シオンの言葉に、ジンは舌打ちをした。
あの一夜城の完成日、泥に塗れた自分たちを汚物を見るような目で睨みつけていた白銀の武将。古き良き武人の秩序を重んじるあの男にとって、下民の寄せ集めであるジン隊が武功を挙げ、ソウガの寵愛を受けることは許しがたい屈辱なのだ。
「メイカク殿は、表向きは『西部の悪路により輸送が遅れている。精鋭たる正規軍への配給を優先すべし』と正論を並べ立て、我々への補給を意図的に後回しにしているのです。ゲホッ。ソウガ様も前線での指揮に注力しておられ、後方の兵站の細部までは目が届いていない。このままでは、我々は敵と戦う前に餓死するか、飢えに耐えかねて略奪に走り、軍規違反で処断されるかのどちらかです」
「あのクソ家老……! 戦場にも立たねえで安全な後方から俺たちの首を絞めやがるのか! 今すぐ本陣に殴り込んで、あいつの頭をカチ割ってやる!」
ゴウが殺気を放って立ち上がったが、ジンがその足首を蹴って座らせた。
「馬鹿野郎、身内を殺せばそれこそあいつの思う壺だ。……だが、座して餓死するのを待つ趣味はねえ」
ジンは立ち上がり、壁に掛けられた周辺の地図を睨みつけた。
「シオン。後方からの飯が来ないなら、前方の敵から奪うしかねえ。どっかに手頃な餌場はないか?」
「手頃な場所はありませんが、極上の餌場なら一つ心当たりがあります」
シオンは咳き込みながら地図の一点を指差した。
そこは、一夜城から西へ半日の距離にある『玄谷の砦』であった。
「ここは西部豪族連合の兵糧集積地です。彼らも長期戦を見据え、ここから各戦線へ物資を分配している。砦の守備兵はおよそ二千。地の利を生かした堅牢な石造りの要塞であり、まともに攻めれば千人の我々では到底落とせません」
「二千の兵に、石造りの要塞か。真正面からぶつかれば、腹を空かせた俺たちは一瞬ですり潰されるな。……で、どうやってその極上の飯をかっさらう気だ? 軍師殿」
ジンの問いに、シオンは冷たく、そして酷薄な笑みを浮かべた。
「玄谷の砦は、谷の底に位置しており、砦のすぐ脇を暴牙川の支流が流れています。彼らはその川の水を生活用水として利用している。……ならば、その川を一時的に堰き止め、一気に放水してやればいい。ゲホッ。いわゆる『水攻め』です」
「水攻め……? だが、石造りの要塞なら、多少の水が押し寄せたところで壁は崩せねえぞ」
「壁を崩す必要はありません。狙いは砦の『地下』です」
シオンの悪魔的な知略が、静かに語られ始めた。
「彼らは兵糧を腐らせないよう、涼しい砦の地下や下層の石室に保管しているはずです。もし川が氾濫し、濁流が砦の低い場所に流れ込めばどうなるか。彼らは貴重な兵糧が水浸しになるのを恐れ、大慌てで高台や、砦の外の安全な場所へ荷車を運び出そうとするでしょう」
「……なるほど。敵に自らの手で、飯を外へ出させるってわけか」
「その通りです。我々の狙いは砦の陥落ではなく、運び出される兵糧の強奪。敵が混乱の中で荷車を動かした瞬間を狙い、泥犬たちで一気に襲撃をかけ、飯だけを奪って風のように撤退するのです」
シオンの策は、常に敵の心理の隙と、自然の地形を冷酷に利用するものだった。
ジンはニヤリと笑い、拳を鳴らした。
「上等だ。メイカクの嫌がらせのおかげで、うちの野犬共は腹を空かせて最高に気が立ってる。……ガク、川を堰き止める土木工事だ。お前の出番だぞ。ゴウ、飯の時間だ。敵の護衛を全員ぶっ飛ばして、荷車を強奪するぞ」
「応ッ!!」
翌日の夜半。
玄谷の砦から少し離れた上流の支流で、ジン隊の千人は闇に紛れて猛烈な作業を行っていた。
空腹で目が血走った兵士たちが、ガクの的確な指示のもと、土嚢を積み上げ、切り倒した丸太を組み合わせて即席のダムを構築していく。千人という人員の力は伊達ではなく、数時間で川の流れは完全に堰き止められ、巨大な水溜まりが形成されつつあった。
「……親父。水圧が限界に近い。これ以上溜めれば、土台の丸太が弾け飛ぶ」
ガクが水の水位を竹竿で測りながら、静かにジンに告げた。
「十分だ。敵の砦はもう寝静まってる頃だ。ゴウの部隊は砦の出口に配置したな?」
「ああ。いつでも飛び出せるように伏せている」
「よし……やれ! 堰を切れ!」
ジンの号令と共に、ダムを支えていた要の丸太が引き抜かれた。
ゴアァァァァッ!!という轟音と共に、堰き止められていた大量の川の水が、一気に下流の玄谷の砦へと向かって牙を剥いた。
砦の中で眠りについていた西部豪族連合の兵士たちは、突如として響き渡った地鳴りのような水音に飛び起きた。
「な、なんだ!? 川が氾濫したぞ!」
「馬鹿な、雨など降っていないのに! うわあっ、水が第一城壁を越えてくる!!」
シオンの計算通り、濁流は石造りの壁を破壊するには至らなかったが、砦の門の隙間や排水溝から一気に内部へと流れ込んだ。
砦の低い位置にある地下倉庫や一階部分は、瞬く間に膝下まで泥水に浸かり始めた。
「ひ、兵糧が! 地下の穀物庫に水が入るぞ!!」
敵の指揮官が顔面を蒼白にして絶叫した。兵糧が水に浸かれば、数万の軍勢を支える食料が全て腐敗してしまう。
「急げ! 荷車に米俵を積んで、砦の裏手にある高台へ運び出せ! 一粒たりとも水に濡らすな!!」
混乱の極みの中、二千の守備兵たちは武器を置き、泥水に足を取られながら必死に米俵を荷車に積み込み、砦の裏門を開け放って外へと運び出し始めた。
たいまつが乱れ飛び、怒号と悲鳴が飛び交う。誰もが足元の水と荷車の米にしか注意を払っていなかった。
その、無防備に開け放たれた裏門の暗がり。
ぬかるんだ泥の中に完全に身を潜めていた百の黒い影が、音もなく立ち上がった。
「ヒャハハハハッ!! 美味そうな匂いがしやがるぜェェッ!!」
突如として暗闇から飛び出したゴウが、巨大な鉄砕棒を横薙ぎに振り抜いた。
最前列で荷車を引いていた数名の敵兵が、何が起きたのか理解する間もなく、鎧ごと吹き飛ばされて絶命する。
「な、敵襲ゥゥゥッ!? どこから湧いた!!」
「護衛の部隊を前へ出せ! 荷車を守れ!」
敵の指揮官が叫ぶが、水浸しの砦内から重武装の兵士が素早く展開できるはずもなかった。
そこへ、ジンが率いる本隊が、山側の斜面から一斉に襲いかかった。
千人の泥犬たちは、腹を空かせた本物の狼のように凶暴だった。彼らは正規の陣形など組まず、三〜四人の小集団に分かれて敵の隙を突き、荷車を引く兵士の足を刈り、馬を驚かせて暴れさせ、護衛の兵士の顔面に泥を投げつけて視界を奪う。
「殺す必要はねえ! 荷車を奪え! 一車でも多く、俺たちの陣地へ運び出せ!」
ジンが短刀で敵の弓兵の膝裏を斬り裂きながら叫ぶ。
千人将としてのジンの役割は、かつてのように自ら泥を這いずり回って敵将の首を狙うことではない。戦場全体を見渡し、部隊の波を指揮することだ。
彼は闇の中で的確に指示を飛ばし、奪った荷車をガクの部隊に引き渡して素早く後退させていく。
「ひ、引け! 荷車を捨てて砦に戻れ! 水攻めは罠だ!!」
被害の拡大に気づいた敵将が悲鳴のような撤退命令を出す頃には、すでに数十台の荷車がジン隊の手によって闇の中へと運び去られた後であった。
「よし、引き揚げだ! これ以上長居すれば敵が陣形を立て直すぞ! 走れ野犬共!」
ジンの合図と共に、泥犬部隊は奪った大量の兵糧と共に、風のように森の奥へと撤退していった。
残された玄谷の砦には、水浸しの地下室と、荷車を奪われて呆然と立ち尽くす敵兵たちだけが残された。
翌朝、一夜城のジン隊の陣地では、久方ぶりの白飯と、奪い取ったばかりの肉や野菜が山のように振る舞われていた。
兵士たちは歓声を上げ、むさぼるように飯を食らっている。空腹という最悪の毒は抜け去り、部隊の士気は最高潮に達していた。
「……見事な手際でしたね、ジン殿。これで十日は持つでしょう。ゲホッ」
シオンが温かい雑炊を啜りながら、満足げに目を細めた。
「ああ。千人を動かすってのは骨が折れるが、千人の力があれば敵の兵糧庫を丸ごとひっくり返すこともできる。悪くねえな」
ジンも山盛りの白飯をかき込みながら笑った。
しかし、その賑やかな宴の最中、陣地の入り口に静かに馬を進めてきた者がいた。
先陣大将のシュウスイである。
彼はジン隊が敵から兵糧を奪取したという報告を聞きつけ、自ら確認に訪れたのだ。
「……大将。朝飯でも食いに来ましたか? 敵の米はなかなか美味いですよ」
ジンが椀を掲げて冗談めかして言うと、シュウスイは馬から降り、険しい顔でジンを見下ろした。
「ジン。貴様、玄谷の砦を水攻めにして兵糧を奪ったそうだな」
「ええ。後方からの補給がいつまで経っても来ないもんで。座して餓死するよりは、敵に御馳走になるのが泥犬のやり方です」
シュウスイは周囲で飯を食う兵士たちの姿を一瞥し、やがて重く息を吐いた。
「……メイカク殿の差し金だな。あの男が、貴様の部隊への補給を意図的に遅らせていることは、俺も薄々気づいていた。だが、あ奴は兵站の全権を握っており、書類上の不備は一切ない。俺が抗議したところで、のらりくらりと躱されるだけだ」
シュウスイはギリッと奥歯を噛み締めた。
武人として真っ直ぐにしか生きられない彼にとって、味方の背中を撃つようなメイカクの陰湿な政治工作は、吐き気がするほど嫌悪すべきものであった。
「俺は、ソウガ様の命を受けて正面の敵を叩き潰すことしかできん。後方の政治や陰謀から貴様を守ってやることは……できない」
「気にするなよ、大将」
ジンは立ち上がり、シュウスイの肩を軽く叩いた。
「正面の敵はアンタがぶっ飛ばす。背後の敵の嫌がらせは、俺とこの悪魔の軍師が知恵を絞ってなんとかする。それでいいじゃねえか。……ただ、これだけは覚えといてくれ」
ジンの目が、かつてないほど鋭く冷たい光を帯びた。
「あの白銀の家老様は、俺たち泥犬を毛嫌いしてるだけじゃない。……実力だけで古き良き世界を壊そうとしてるソウガ様の『覇道』そのものを、心の底から憎んでる。いずれ、あいつの研いだ牙は、俺たちじゃなく、ソウガ様の喉首に向かう日が来るぜ」
シュウスイは黙然とジンの言葉を聞き入り、やがて無言で頷くと、馬に乗って去っていった。
ジンは再び白飯の椀を手に取ったが、先ほどまでの美味さはどこかへ消え失せていた。
千人の将となったことで、ジンは単なる戦場の駒から、黎州という巨大な国家の権力闘争の盤面へと否応なく引きずり込まれていた。
前方の敵、兵站の枯渇、そして背後で渦巻く旧体制派の陰謀。
泥沼の西国平定戦は、ジンの生き残るための知恵と、シオンの悪魔的な計略を極限まで絞り出させる、果てしない地獄の始まりに過ぎなかった。




