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第11話 泥の城の宴と、古き秩序の残影

暴牙川の西岸に、一夜にして出現した泥と木材の要塞。

黎州軍の新たな橋頭堡となったその『一夜城』は、完成から二日が経過し、ようやく城としての体裁と機能を完全に満たしつつあった。

対岸でパニックに陥り後退した西部豪族の連合軍は、今や数里先まで陣を下げ、黎州軍の巨大な渡河作戦を指を咥えて見ていることしかできない。川の流れを完全に制圧した黎州の本軍は、安全が確保された一夜城を起点として、次々と西岸への上陸を果たしていた。

城内の泥濘んだ中庭では、過酷な徹夜作業を終えた泥犬部隊の兵士たちが、泥のように眠りこけていた。

砦の片隅に設置された簡素な指揮所で、ジンは胡座をかき、支給されたばかりの質の良い酒をあおっていた。千人将に昇格し、この歴史的な大功績を挙げたというのに、彼の装備は未だに使い込まれた革の胸当てと、泥が染み付いた草鞋のままである。

「……親父。本軍の渡河、全体の八割が完了したとのことだ。明日の朝には、ソウガ様の本陣もこちらへ入る」

ガクが竹竿を小脇に抱え、静かに報告に上がってきた。その無表情な顔にも、さすがに疲労の色が濃く滲んでいる。

「ご苦労さん。お前らがいなきゃ、今頃俺の首は暴牙川の底で魚の餌になってたところだ。たっぷり寝ておけ」

「俺はまだ見回りが残っている。ゴウの馬鹿は、飯を食いながら立ったまま寝ていたがな」

「ははっ、あいつらしいや。……軍師殿はどうした?」

ジンが尋ねると、ガクは視線を砦の最上部、川全体を見渡せる物見櫓の方へと向けた。

「シオン殿なら、櫓の上でずっと対岸の地形図を描いている。咳が酷くなっているのに、休もうとしない」

「あの病弱悪魔め、また何かエグい絵図面を引いてやがるな。後で薬草の煮汁を持っていってやるか」

ジンが立ち上がろうとしたその時である。

城の正門から、泥にまみれた一夜城には似つかわしくない、美しく整然とした足音が響いてきた。

「……何たる悪臭か。泥と汗、そして下賎な獣の匂いが充満している。これが、黎州の新たな城だというのか」

冷たく、そして明確な侮蔑を含んだ声だった。

ジンが視線を向けると、そこには、白銀の美しい装飾鎧に身を包んだ一人の壮年の武将が立っていた。彼の背後には、一糸乱れぬ動きで控える数十名の近衛兵が従っている。

その武将の顔立ちは端正で、知的でありながらも、どこか神経質な冷酷さを漂わせていた。彼が歩くたびに、鎧に施された細工が上品な音を立てる。

黎州軍における筆頭家老にして、内政と軍事の双方で強大な権力を持つ重臣、メイカク(明覚)であった。

古くから黎州の地を治めていた名家の出身であり、武人の誇りと秩序、そして伝統的な美意識を何よりも重んじる男。ソウガが実力主義を掲げて成り上がる過程で、彼のような旧体制の重臣たちは表向きは恭順しつつも、内心では己の既得権益と格式が脅かされることに強い不満を抱いていた。

「おや、これはメイカク様。本陣の渡河は明日だと聞いておりましたが、随分と気の早いご到着で」

ジンは頭を下げることもなく、飄々とした態度のまま声をかけた。

メイカクは扇子で鼻口を覆い、ゴミでも見るような目でジンを一瞥した。

「先陣の視察に参ったのだ。……それにしても、酷い有様だな。一夜で城を築いたと聞いて驚いて来てみれば、なんのことはない。ただの泥と丸太を積み上げただけの、乞食の小屋ではないか。このような不格好なものを『城』と呼ぶなど、我が黎州の武威に関わる恥辱である」

「乞食の小屋でも、矢を防いで味方を安全に渡らせることができましたぜ。戦場じゃ、見た目の綺麗さより、血を流さずに済む泥壁の方がよっぽど価値があるもんでしてね」

ジンの挑発的な返答に、メイカクの柳眉がピクリと跳ねた。

「……減らず口を。貴様のような出自も知れぬ下民が千人将に成り上がり、ソウガ様の寵愛を受けていること自体、この黎州の秩序を根底から破壊する狂気の沙汰なのだ。戦とは、高貴なる血筋と、洗練された兵法によってのみ行われるべき神聖な儀式。貴様のような泥水啜りの山賊が、小手先の奇策で戦場を汚すことなど、私は断じて認めん」

メイカクの言葉には、ジン個人に対する憎悪というよりも、彼が存在することによって崩れゆく『古き良き秩序』への強烈な危機感が込められていた。

彼にとって、二百年続く乱世の停滞こそが、自らの地位を保証する美しい箱庭だったのだ。それを力と結果だけで破壊して回るソウガと、その象徴たるジンは、世界の美しさを汚す病魔に他ならなかった。

「認めなくても結構ですよ、家老殿。俺の評価を決めるのはアンタじゃない。結果を出した奴だけが生き残る。それがソウガ様のルールですから」

「……そのルールが、いずれ黎州を内側から食い破る毒になるとなぜ分からん。思い上がるなよ、下賎な草売りめ」

メイカクは忌々しげに吐き捨てると、踵を返し、自らの陣を張るために城の奥へと消えていった。

「……嫌な目をするオッサンだ。あの目は、敵に向ける目じゃねえ。自分の家を荒らされた潔癖症の目だ」

ジンは後頭部を掻きながら、小さく呟いた。

ガクもまた、メイカクの去った方向を無言で睨みつけている。

「親父。あの男、いずれ俺たちの背中を撃つかもしれないぞ。陣を張る場所の指示も、俺たちの手を通さずに勝手に進めている」

「分かってる。だが今は、西の敵を片付けるのが先だ。内輪揉めしてる暇はねえ」

その日の夜。

日が落ち、暴牙川の川面が漆黒に染まる頃。

ジンの指揮所である粗末な小屋の前に、ドスンと重い足音が響いた。

「ジン。入るぞ」

くぐもった声と共に姿を現したのは、先陣大将のシュウスイであった。

彼はいつもの威圧的な大鎧ではなく、身軽な陣羽織姿であり、その右手には巨大な槍の代わりに、酒の入った素焼きの壺と二つの椀が握られていた。

「……大将? こりゃまた珍しい客が来たもんだ。俺を軍規違反で斬りに来たって格好じゃなさそうですね」

ジンが驚いて目を丸くすると、シュウスイは無言でジンの向かいに胡座をかき、椀に酒をなみなみと注いだ。

「飲め。俺の故郷で造らせた、とびきり強い酒だ」

「毒は入ってないでしょうね?」

「馬鹿を言え。俺はメイカクのように陰湿な真似はせん。斬りたければ正面から大槍で叩き斬る」

シュウスイは自らの椀を一気に飲み干し、ふうと太い息を吐いた。

ジンも恐る恐る口をつけると、喉が焼けるような強烈なアルコールと、それに負けない深い旨味が口の中に広がった。確かに極上の酒である。

「……金啼の谷の退き口、そしてこの一夜城。貴様の戦いぶり、見事であった」

シュウスイが、ぽつりと呟いた。

それは、かつてジンを「山賊上がりの外道」と罵っていた彼からは想像もつかない、素直で重みのある称賛の言葉だった。

「俺は武人の誇りや、陣形の美しさにこだわりすぎていた。いや、こだわりたいが故に、戦場の現実から目を背けていたのかもしれん。だが貴様は違った。泥を啜り、自身の名誉など一片も気にせず、ただ主君と味方を生かすためだけに全ての知恵を絞り尽くした」

シュウスイは大きな掌で自身の顔を覆い、自嘲するように笑った。

「五千の敵を前にして殿を買って出た貴様の背中を見た時、俺は自身の薄っぺらさを恥じたのだ。……ジン、俺は貴様を認めよう。やり方は違えど、貴様もまた、ソウガ様の覇道を支える真の武人であるとな」

ジンの顔から、いつもの飄々とした笑みが消えた。

シュウスイという男は、愚直なまでに真っ直ぐだ。メイカクのように腹に一物抱えるような真似はできない。だからこそ、この謝罪と称賛は、彼の心底からの本心であることが痛いほど伝わってきた。

「……よしてくだせえよ、大将。俺は武人なんて立派な生き物じゃありません。ただの、生き汚いネズミです。アンタみたいに、味方の士気を高めて正面から敵を粉砕する『太陽』みたいな真似は、俺には一生できない」

ジンは自らの椀の酒を飲み干し、シュウスイの目を見返した。

「俺は日陰を這いずり回る『影』で十分です。大将が正面で敵の注意を惹きつけてくれるから、俺は裏から毒を盛れる。……アンタがソウガ様の『剣』なら、俺はアンタの手の届かない足元を守る『泥の盾』になりますよ。それで、この腐った乱世が終わるならな」

その言葉に、シュウスイの猛禽のような瞳が大きく見開かれ、やがて相好を崩して豪快に笑い出した。

「ガハハハハッ! 泥の盾か! 貴様らしい、底意地の悪い最高の盾ではないか! 良いだろう、ならば俺はこの命ある限り、黎州の剣として正面から敵を叩き潰し続ける! 貴様はその後ろで、存分に泥を啜り、毒を撒き散らせ!」

二つの椀が、力強く打ち合わされた。

身分も、戦い方も、信条も全く異なる二人の将。

水と油のように反発し合っていた彼らが、死線を共に潜り抜けたことで、強固な信頼で結ばれた瞬間であった。

のちに黎州の両翼と恐れられ、そして悲劇的な決裂を迎えることになる二人の、これが最初で最後の、最も心を通わせた夜の宴だった。

しかし、その穏やかな時間は、唐突な絶叫によって引き裂かれた。

「て、敵襲ゥゥゥッ!! 川上から、火の手が接近!!」

見張り櫓からの悲痛な報告。

ジンとシュウスイは同時に立ち上がり、指揮所を飛び出した。

城壁の上へと駆け上がり、上流の方角を見つめた二人の目に飛び込んできたのは、漆黒の川面を赤々と照らしながら猛烈な勢いで接近してくる、無数の炎の塊であった。

「あれは……火矢ではない。小舟に枯れ草と油を積み込んで火を放ち、川の流れに乗せて突っ込ませてきたのだ!」

シュウスイが瞬時に事態を悟り、歯噛みした。

「おのれ、連合軍の奴らめ。真正面からの奪還を諦め、この城を燃やし尽くす腹か!」

木と泥でできている一夜城にとって、火攻めは致命傷になり得る。特に、乾燥した丸太が密集している土台部分に火舟が激突すれば、瞬く間に城全体が火の海に包まれるだろう。

城内の兵士たちが慌てふためき、消火用の水桶を持って走り回る。

しかし、火舟の数は数十隻にも及び、暴牙川の激しい水流に乗って、すでに城の目前数十メートルの距離まで迫っていた。

「くそっ、防ぎようがねえ! 大将、一旦城を放棄して退避を……!」

ジンが叫んだその時である。

彼らの背後から、ひきつけを起こしたような咳払いが聞こえた。

「ゲホッ……慌てる必要はありませんよ。そのような古典的な火攻め、敵が思いつかないはずがないでしょう」

毛布に包まったシオンが、月明かりの下で不気味に微笑んでいた。

「ガク。仕掛けを作動させなさい」

シオンの冷徹な声に応じ、城壁の下で待機していたガクが、無言のまま巨大な斧を振り下ろし、地面に打ち込まれていた太い杭を叩き斬った。

バァァンッ! という弾けるような音と共に、何本もの太い麻縄が川底から跳ね上がった。

「なっ……なんだあれは!?」

シュウスイが驚愕の声を上げる。

川面から姿を現したのは、互いに太い縄で連結された、無数の巨大な丸太の連なりであった。

それは城の数十メートル上流の川幅いっぱいに、見事な『防材のブーム』となって展開されたのである。

シオンは、城を築く際に出た大量の余剰丸太と端材を川底に沈め、いざという時のための物理的な防壁として仕込んでいたのだ。

ドスン! バキバキッ!

激流に乗って突進してきた敵の火舟たちは、城に到達する前に、この丸太の網に次々と激突して止められた。炎は城には届かず、川の真ん中で空しく燃え盛るだけとなった。

「馬鹿な敵ですね。川幅が狭く、流れが速い場所での火攻めは、迎撃網さえ張っておけば自ら進路を塞ぐだけの障害物にしかならないのに。……ゲホッ、ゴホッ」

シオンは咳き込みながら、まるでチェス盤の駒を取ったかのように冷たく笑った。

「今だ、ゴウ! あいつらが川でモタついてる隙に、ご自慢の馬鹿力で岩をぶち込んでやれ!!」

ジンが城壁から身を乗り出して叫ぶ。

「任せとけェェッ!!」

城下の岸辺で待機していたゴウが、自身の頭ほどもある巨大な岩を拾い上げ、砲弾のような凄まじい勢いで投擲した。

岩は正確な放物線を描き、丸太の網で立ち往生している火舟の一つに直撃。小舟は轟音と共に粉砕され、燃え盛る油と木片が周囲の舟にも延焼して大爆発を引き起こした。

「よし! 弓隊、火舟の向こう側で様子を伺っている敵の小舟に矢の雨を降らせろ! 一匹も逃すな!」

シュウスイが大声で号令をかけると、黎州の精鋭弓兵たちが一斉に矢を放ち、火攻めの成果を確認しに来ていた連合軍の別働隊を瞬く間にハリネズミへと変えていった。

「……完璧だな。軍師殿の悪巧みと、ガクの仕掛け、ゴウの馬鹿力。それに大将の指揮が合わされば、向かう所敵なしだぜ」

ジンは燃え盛る川面を見下ろしながら、安堵の息を吐いた。

「言ったでしょう、ジン殿。盤面を支配するのは、力でも誇りでもない。あらゆる可能性を計算し尽くした『圧倒的な悪意』だと」

シオンが口元を布で覆いながら、静かに川を眺めていた。

夜が明け、火舟の残骸が黒い煙を上げる中、対岸の連合軍は完全な沈黙を守っていた。彼らの最後の切り札であった火攻めすらも、黎州軍の異端の知略の前にあっさりと粉砕されたのである。

「これで、西への道は完全に開かれた。ソウガ様の覇道は、いよいよ中原へと王手をかけることになる」

シュウスイが朝日を浴びながら、力強く宣言した。

しかし、その輝かしい勝利の裏側で、一人だけ冷たい目を城の上へと向けている男がいた。

少し離れた陣地から、この一連の騒動を静観していたメイカクである。

(……あの草売りめ。一夜で城を築き、あまつさえ敵の火攻めすらも卑劣な罠で完封するか。シュウスイ将軍までもが、あの下民の手法に感化されつつある)

メイカクは扇子を強く握り締め、その顔を憎悪で歪ませた。

(このままでは、黎州の古き良き血脈と伝統は、あのような泥水啜りのネズミどもによって完全に駆逐されてしまう。ソウガ様がそれを望むというのであれば……私が、この国を正しき形へと戻さねばなるまい)

華々しい外征の勝利の陰で、黎州内部の巨大な亀裂は、修復不可能なほどに深く、そして静かに進行していた。

ジンとシュウスイという二つの巨大な才能が結びついた時、それに対する反作用の毒もまた、致死量に達しようとしていたのである。

落日の足音が、すぐそこまで迫っていた。

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