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第10話 一夜の幻城と泥流の建築家

黎州軍の西進は、かつてないほどの巨大な壁に直面して完全に停滞していた。

その壁とは、高い城壁でも屈強な大軍でもない。旧煌州領を南北に分断するように流れる巨大な大河、『暴牙川ぼうががわ』である。

梅雨の時期を迎え、水量を増した暴牙川は、その名の通り牙を剥く巨大な獣のように濁流をうねらせていた。川幅は最も狭い場所でも弓の射程を軽く超え、対岸には旧煌州の残党と、彼らに呼応して反黎州の旗を掲げた西部の豪族連合軍が、強固な防衛陣地を築き上げている。

「……また失敗か。これで五度目だぞ」

黎州軍の本陣大天幕。

先陣大将シュウスイは、泥と血に塗れて帰還した部下からの報告を受け、大槍の石突で地面を激しく叩きつけた。

暴牙川を渡り、西へ進軍するためには、どうしても対岸に『橋頭堡』となる砦を築く必要があった。しかし、黎州軍の工兵部隊が川を渡り、資材を運び込んで砦の基礎を組み上げようとするたびに、対岸の連合軍から雨あられと火矢が降り注ぎ、半ば組み上がった砦は幾度となく灰燼に帰していたのである。

「ソウガ様、申し訳ありませぬ。我が軍の工兵も決死の覚悟で作業にあたっておりますが、対岸からの弓矢の射線が通る開けた場所での築城は、まさに的当ての的になるようなもの。せめて十日は作業の時間が保てねば、まともな砦など建ちませぬ」

シュウスイの沈痛な報告に対し、覇侯ソウガは床几に深く腰掛けたまま、不機嫌そうに舌打ちをした。

「十日だと? そんな悠長なことを言っている間に、敵はさらなる援軍を呼び込み、防衛線を盤石なものにするだろう。……俺の覇道は、川の流れ一つで足踏みをするような安いものではない」

ソウガは立ち上がり、天幕に集まった将校たちを冷酷な目で見回した。

「誰かおらんのか。あの対岸に、黎州の牙を突き立てる砦を築ける者は。兵力も資材も望むだけくれてやる。……ただし、期限は三日だ」

その言葉に、天幕の中は静まり返った。

三日。それは不可能という言葉すら生ぬるい、完全な狂気である。材料の木を切り出し、川を渡り、敵の矢を浴びながら基礎を打つだけで三日は過ぎる。

歴戦の武将たちすら目を伏せる中、ふいに、陣幕の入り口から軽い咳払いが聞こえた。

「ゲホッ……三日もあれば十分すぎるでしょう。むしろ、三日もかけていては敵に気づかれます」

青白い顔を布で覆い、まるで幽霊のように音もなく進み出たのは、天才軍師シオンであった。そしてその後ろから、千人将に昇格し、立派な黒革の鎧を身につけながらも、足元は相変わらず泥だらけの草鞋を履いたジンが、飄々とした態度で姿を現した。

「遅れてすんませんね、ソウガ様。うちの軍師殿が、またとんでもない悪巧みを思いついたもんで」

ジンがニヤリと笑うと、シュウスイが激昂して前に出た。

「ジン! 貴様、千人将になったからといって調子に乗るな! 我が軍の精鋭工兵部隊が五度も失敗したのだぞ! それを三日どころか、それ以下の時間で落とすなどと、いかに貴様の奇策をもってしても……」

「奇策じゃありませんよ、大将」

ジンはシュウスイの怒号を軽く受け流し、地図の前に歩み寄った。

「正面から木を運んでトントン叩いてるから、矢を射られるんです。だったら、矢が飛んでこない安全な場所で砦を全部作っちまって、完成品を敵の目の前に『ポン』と置けばいい。……たった一夜でね」

「一夜だと……? 貴様、ついに正気を失ったか。砦は家ほどの大きさがあるのだぞ。それをどうやって運ぶというのだ」

「まあ、詳しい種明かしは完成してからのお楽しみってことで。ソウガ様、俺の部隊にこの任務、任せてもらえますか? もちろん、成功の暁には、またたんまりとボーナスをいただきますがね」

ソウガはジンの底知れない自信に満ちた目と、その後ろで冷たく微笑むシオンの顔を交互に見つめ、やがて獰猛な笑い声を上げた。

「フッ……ハハハ! 良いだろう、草売り! あの対岸に一夜で幻の城を築いてみせろ! もしできなければ、貴様のその減らず口を叩く首を暴牙川に沈めてやる!」

その日の午後。

暴牙川から数里上流に位置する、鬱蒼とした針葉樹の森。

ジン隊の野営地は、さながら巨大な木材加工所のような喧騒に包まれていた。

千人に膨れ上がった泥犬部隊の兵士たちは、槍や剣を置き、全員が手斧や鋸を手に、狂ったような速度で木を伐採し、切り分けている。

「おいゴウ! その丸太はまだ皮が剥けてないぞ! 力任せに運ぶな、木が傷む!」

「うるせえ! 俺は木こりじゃねえんだよ! なんで戦場に来てまでこんな丸太運びをやらなきゃならねえんだ!」

文句を言いながらも、ゴウは大人三人掛かりで運ぶような巨大な丸太を一人で肩に担ぎ、作業場へと放り投げている。

その作業場の中心で、竹竿の代わりに墨壺と曲尺かねじゃくを手にしたガクが、感情のない冷徹な目で木材の寸法を測り、次々と指示を飛ばしていた。

「……そこの班、切り込みの角度が二分(約六ミリ)ずれている。これでは組み合わせた時に隙間ができる。やり直せ」

「柱の長さは全て統一しろ。規格外の木材は一本たりとも許さない」

ガクの指示は、ただの砦作りではなかった。

通常の築城は、現場の地形に合わせて木を切り、その場で一本ずつ組み上げていく。しかし、シオンが提案し、ガクが設計図に落とし込んだのは『規格化された組み立て式建築』であった。

「……さすがですね。私の大雑把な構想を、これほど精密に具現化するとは。ゲホッ、孤児にしておくには惜しい頭脳だ」

シオンが白湯を啜りながら感心したように言うと、ジンも隣で頷いた。

「ああ。ガクの親父は、昔は腕のいい大工だったらしいからな。……親を戦で殺されてなきゃ、今頃は立派な棟梁になってただろうさ。この乱世は、本当に才能の無駄遣いばかりだ」

ジンは積まれていく木材の山を見つめた。

柱、梁、床板、防壁。すべてのパーツがあらかじめ正確な寸法で切り出され、接合部には釘を使わずに木と木を噛み合わせるための『凹凸の仕口』が精巧に彫り込まれている。

これらを現場に運び込み、巨大な立体木琴のように組み立てる。それが『一夜城』の正体であった。

「ジン殿、木材の準備は明日の夕方には完了します。問題は、この大量の資材をどうやって敵の目の前まで運ぶかですが……」

「そっちは俺の仕事だ。暴牙川の流れを計算して、イカダを組む。夜の闇と川の音に紛れて、上流から資材を丸ごと流し込むのさ」

ジンは泥だらけの草鞋で地面を踏み固めながら、ニヤリと笑った。

「あとは、敵の目をどう逸らすかだ。対岸の連中が夜通し見張ってりゃ、いくら闇夜でも川を下るイカダに気づかれる」

「その点については、すでに手を打ってあります」

シオンが懐から一枚の密書を取り出した。

「シュウスイ将軍の精鋭部隊に、明日の夜半、築城予定地から数里下流の地点で、派手な渡河作戦の『ふり』をしてもらいます。篝火を大量に焚き、銅鑼を鳴らし、いかにもそこから本軍が突撃するように見せかける。敵の守備隊の目は、確実にそちらへ釘付けになるでしょう」

「シュウスイの大将が、よくそんな囮役を引き受けたな」

「彼も武人です。金啼の谷であなたに命を救われた借りを、ここで返すつもりなのでしょう。……ゲホッ、誇りという病も、使いようによっては便利なものです」

そして翌日の深夜。

暴牙川の上流から、音もなく無数の巨大なイカダが滑り出した。

イカダそのものが規格化された砦の資材であり、その上には千人の泥犬部隊が息を潜めて乗っている。空は分厚い雲に覆われ、月明かりすら一切ない、まさに暗殺と奇襲にうってつけの『泥犬の夜』であった。

「……親父。目的の岸が見えてきた」

先頭のイカダに乗っていたガクが、夜の闇に目を凝らして低く囁いた。

対岸の敵陣地からはるか下流の方向で、煌々と赤い炎が燃え上がり、微かに銅鑼の音が響いているのが見える。シオンの策通り、シュウスイの囮部隊が敵の注意を完全に引きつけていた。

「よし、総員、音を立てずに上陸しろ。ここからは時間との勝負だ。夜明けまでに、この泥地に俺たちの城を建てるぞ!」

ジンの号令とともに、千人の兵士たちが一斉に冷たい川の水に飛び込み、無言でイカダを岸へと引き上げた。

そこからは、まさに神業というべき光景が繰り広げられた。

「一番隊、土台の設置! 二番隊、外壁の柱を立てろ! 三番隊は内部の足場だ!」

ガクが小声で、しかし極めて的確な指示を飛ばす。

泥犬たちは武器を巨大な木槌に持ち替え、規格化された木材を次々と組み上げていく。

釘を打つ音はしない。ただ、木と木がパキン、パキンと正確に噛み合っていく鈍い音だけが、川のせせらぎに紛れて響き続ける。

「ゴウ! あの巨大な主柱を立てろ!」

「オラァッ!!」

ゴウが大人五人掛かりで立てるような太い柱を、凄まじい膂力で一気に持ち上げ、土台の穴へと突き刺す。その圧倒的な馬鹿力が、重機の存在しないこの時代において、信じられないほどの作業速度を生み出していた。

暗闇の中、誰も言葉を発しない。ただ荒い息遣いと、泥に塗れて這い上がる者たち特有の、生き残るための異常な執念だけが、砦の形を急激に形成していく。

ジンは松明もつけず、暗闇の中で周囲の警戒にあたっていた。

(……すげえな。まさか本当に、一夜で砦の形になりやがるとは)

ガクの設計の完璧さと、孤児たちの過酷な労働に耐えうるスタミナ。これらが一つでも欠けていれば、絶対に不可能な作戦だった。

シオンの悪魔の頭脳が描いた絵図面を、泥犬たちが完璧な手足となって実行する。ジン隊は今や、単なるゲリラ部隊の枠を超え、不可能を可能にする黎州軍最大の切り札へと進化していた。

やがて、東の空が白み始めた頃。

最後の見張り櫓の屋根が組み上がり、防壁の隙間に泥が詰められ、完全に強固な砦が姿を現した。

「……完成だ。予定時刻より、半刻(約一時間)早い」

ガクが額の泥を拭いながら、小さく息を吐いた。

「よくやった、お前ら。さあ、敵の豚共が目を覚ます時間だ。俺たちの幻の城から、盛大な挨拶をしてやろうぜ」

ジンは完成したばかりの真新しい櫓の上に登り、ニヤリと笑った。

夜明け。

暴牙川の対岸に陣取る連合軍の守将は、下流での黎州軍の動きが単なる陽動であったことに気づき、疲労困憊で本陣へと戻ってきたところだった。

「おのれ、黎州の小賢しい真似を……。まあよい、我が軍の防衛線は揺るがぬ。奴らが川を渡ろうとすれば、いつでも蜂の巣にしてくれるわ」

守将が欠伸をしながら、ふと川の対岸、自分たちの陣地の真正面にあたる場所を見遣った時である。

「……な、なんだ、あれは?」

朝霧が晴れていく中、昨日までは見渡す限りの泥の湿地帯しかなかったはずの場所に、巨大な防壁と、天を突くような見張り櫓を備えた立派な砦が、突如として出現していたのだ。

「ば、馬鹿な!? 昨日の夕方までは、あんな物影も形もなかったはずだぞ!!」

「一晩で……一晩で城が湧いて出たというのか!?」

連合軍の兵士たちが、まるで幽霊でも見たかのようにパニックに陥り、絶叫する。

不可能だ。人間の手で、たった一夜にしてあのような巨大な建築物を築けるはずがない。あれは悪魔の仕業か、さもなくば妖術の類に違いない。

完全に戦意を喪失し、恐怖に顔を引きつらせる敵兵たち。

その『一夜城』の櫓の上から、一人の男が巨大な黎州の軍旗を振り下ろした。

「おはようさん、西の豚共!! ここは今日から黎州の領土だ! 文句があるなら、俺たちが手塩にかけて一晩で作ったこの城を落としてみやがれ!!」

ジンの挑発的な声が、川面を渡って敵陣に響き渡る。

それと同時に、一夜城に配備された泥犬部隊の弓兵たちが、一斉に対岸へと矢を放ち始めた。完全に安全な防壁の内側から放たれる矢の雨に、開けた場所に陣取っていた連合軍は一方的な被害を受け、蜘蛛の子を散らすように後退していく。

「……信じられん。本当に、たった一晩で……」

少し離れた場所からその光景を見ていたシュウスイは、大槍を取り落としそうになるほど驚愕していた。

彼の常識、武人の誇り、兵法の定石。その全てを粉々に打ち砕く、圧倒的で理不尽なまでの生存戦略。

ソウガがなぜあの最下層の泥水啜りの男を重用するのか、その真の理由が、ついにシュウスイの骨の髄まで理解できた瞬間であった。

「……見事だ、ジン千人将。貴様は、乱世の戦そのものの概念を変えてしまう男かもしれん」

シュウスイは、かつて見下していた男の泥だらけの後ろ姿に向かって、無意識のうちに深く頭を下げていた。

暴牙川の渡河作戦を成功に導いたこの『墨染めの一夜城』の伝説は、田楽狭間、金啼の退き口に続く第三の奇跡として大陸全土に轟き渡ることになる。

しかし、名声が高まれば高まるほど、黎州内部の古い秩序を重んじる者たちからの反発と嫉妬もまた、暗い影を落とし始めていた。

覇侯ソウガの掲げる『新しい世界』への歩みは、いよいよ血塗られた天下統一への最終局面へと突入しようとしていたのである。

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