幕間 泥犬たちの食卓
金啼の谷での絶望的な撤退戦から数日後。
黎州軍が新たに制圧した城塞の裏庭には、平穏とは程遠い、けたたましい怒号が響き渡っていた。
「おい、ゴウ! お前、山に入って何を狩ってきやがった!」
ジンが両手で頭を抱え、半狂乱になって叫んだ。
その視線の先では、泥犬部隊の特攻隊長であるゴウが、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、自身の体長を優に超える巨大な獲物を肩に担いで立っていた。
それは猪のような輪郭をしているが、体毛は異様に硬そうで、何より皮膚のあちこちに不気味な青紫色の斑点が浮かび上がっている。どう贔屓目に見ても、まともな生き物ではない。
「へへっ、どうだ親父! 裏山で一番デカくて強そうな奴をブチのめしてきたぜ! これで今日は百人全員、腹いっぱい肉が食えるぞ!」
「馬鹿野郎、そいつはただの猪じゃねえ! 『斑痺れ豚』だ! 不用意に食えば、舌どころか全身が三日三晩痺れて動けなくなる致死猛毒の獣だろうが!」
ジンが青ざめて説教する中、無口なガクが手製の定規のような木の棒を持って獲物に近づいた。彼は感情のない目で豚の大きさを測り、ボソリと呟く。
「……ゴウ。計算が足りない。この体表の硬さでは、解体するのに支給された手斧の刃が三本は欠ける。武器の損耗率を考えれば、極めて非効率的な狩りだ」
「なんだと!? 俺がせっかく苦労して引きずってきたのに、文句ばっかり言い上がって! ならお前らには一切食わせねえぞ!」
ゴウが巨大な鉄砕棒を振り回して暴れようとしたその時、背後の建物の陰から、ひきつけを起こしたような咳払いが聞こえてきた。
「ゲホッ……ゴホッ。朝から実に騒々しいですね。私の貴重な睡眠時間を削るのなら、それ相応の理由を用意してもらいたいものです」
毛布を頭からすっぽりと被り、まるで幽霊のようにフラフラと歩いてきたのは、天才軍師のシオンだった。彼は青白い顔でゴウの足元に転がる不気味な豚を一瞥すると、冷たい笑みを浮かべた。
「ほう。斑痺れ豚ですか。ジン殿、そこまで慌てる必要はありません。この獣は、首の付け根にある毒腺さえ一ミリの狂いもなく正確に摘出すれば、肉質は極上ですよ。……もっとも、包丁の刃が少しでも毒腺を傷つければ、この場にいる全員が毒の霧を吸ってあの世行きですがね。ゲホッ」
「誰がそんなロシアンルーレットみたいな調理法やるか! 今すぐ山に捨ててこい!」
ジンがゴウの尻を蹴り飛ばそうとした瞬間である。
「ええい、五月蝿いぞ貴様ら! 軍の神聖な拠点内で、野盗の宴会のような真似をするな!」
雷鳴のような怒声と共に裏庭に現れたのは、先陣大将のシュウスイだった。彼は常に鎧を身につけ、武人としての規律を重んじる男である。ジン隊の泥臭く無軌道な振る舞いは、彼の神経を常に逆撫でしていた。
「ジン! 百人将ともあろう者が、部下の統率もできずに裏庭で何の騒ぎだ! 武人たるもの、食事は静かに、かつ作法に則って摂るべきであろう!」
「大将。作法もクソも、コイツが致死量の毒を持った豚を昼飯に持ってきやがったんですよ。ほら、大将も一口どうです? 武人の作法で食えば、毒も引くかもしれませんぜ」
ジンが投げやりな態度で豚を指差すと、シュウスイは顔を真っ赤にして怒った。
「馬鹿にするな! そのような得体の知れない獣の肉など、誇り高き黎州の武人が口にするわけが……」
「面白そうなものを狩ってきたな。俺にも食わせろ」
シュウスイの言葉を遮るように、さらなる声が響いた。
その場にいた全員の動きが止まる。
身の丈ほどの大剣を無造作に肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべて現れたのは、黎州覇侯ソウガその人であった。
「ソ、ソウガ様! いけません、それは猛毒を持つ……」
「構わん。実力で狩った肉ならば、それが毒であろうと喰らい尽くすのが俺の覇道だ。草売り、貴様の生き汚い知恵でなんとかしろ。昼までに極上の肉を出さねば、貴様の首をこの場で刎ねる」
ソウガは理不尽極まりない命令をあっさりと下すと、近くの倒木にどっかりと腰を下ろしてしまった。
覇侯の絶対命令である。シュウスイは言葉を失い、シオンは「おや、これは見物ですね」と毛布に包まったまま面白そうに笑っている。ゴウは「ほら見ろ! ソウガ様も食うって言ってんだろ!」と得意げだ。
ジンは深い、深いため息をつき、腰の短刀を抜いた。
「……たく、人使いの荒い主君を持っちまったもんだぜ。ガク、裏の森から『黄土草』と『中和苔』をありったけ集めてこい。ゴウ、お前は粘土質の泥をバケツ三杯分掘ってこい! 急げ!」
それから一時間。裏庭には奇妙な光景が広がっていた。
ジンは豚の毒腺を慎重に避けて解体する代わりに、大量の薬草を豚の腹に詰め込み、さらにその上から分厚い泥で豚を丸ごとコーティングして巨大な泥の塊を作り上げたのだ。そして、それを焚き火の真ん中に放り込み、蒸し焼きにし始めたのである。
「泥で肉を包むだと……? そのような乞食の調理法、まともな味がするわけがなかろう!」
シュウスイが眉間によわを寄せて抗議するが、ジンは汗を拭いながらニヤリと笑った。
「毒草を中和するには、土のミネラルと薬草の蒸気で一気に蒸し上げるのが一番安全なんだよ。それに、泥が熱で固まれば、肉の旨味が一切外に逃げねえ」
やがて、焚き火から泥の塊が引き上げられた。
ジンが短刀の柄で固まった泥をコンコンと叩き割ると、パカッと泥の殻が外れ、中から湯気と共に、暴力的なまでに食欲をそそる濃厚な肉の香りが裏庭いっぱいに広がった。
毒の青紫色の斑点は消え失せ、艶やかな飴色の極上の肉が姿を現している。
「ほう。泥喰らいの貴様らしい、見事な料理だ」
ソウガが一番に肉を切り取り、豪快に口に放り込む。数回咀嚼すると、彼は満足げに喉の奥で笑った。
「……美味い。命を賭して喰らうに値する味だ」
その言葉を聞き、ゴウとガク、そして集まってきた泥犬部隊の兵士たちが一斉に歓声を上げて肉に群がった。
シュウスイは「泥で包んだ獣の肉など……」と最後まで渋っていたが、ジンに無理やり口に肉をねじ込まれると、そのあまりの美味さに目を見開いた。
「……ば、馬鹿な。見た目に反して、口の中でとろけるような……いや、俺は武人としてこのような野蛮な……おかわりだ! もっと寄越せ!」
結局、シュウスイも武人の誇りを一時忘れて肉の争奪戦に加わってしまった。
「ゲホッ。栄養価の計算は完璧ですね。少し塩分が足りませんが」
シオンは騒ぎの輪から少し離れた場所で、切り分けられた上品な一口サイズの肉を咀嚼しながら、小さく微笑んでいた。
「まったく、戦場よりこっちの世話の方がよっぽど命懸けだぜ」
ジンは騒がしい食卓を眺めながら、自分用の肉の塊にかじりついた。
泥だらけの底辺から這い上がってきた者たちの、行儀は悪いが生命力に溢れた宴。
二百年続く乱世の真っただ中において、この裏庭だけは、不思議な熱気と笑い声に包まれていた。




