第100話(最終話) 瑞穂の果てと、泥犬たちの新しき覇道
長く、あまりにも血生臭かった戦乱の世が、北の鬼神シュウスイの壮絶なる立ち往生をもって幕を閉じてから、数年の歳月が流れた。
西国と北国の国境地帯を分かち、終わりのない殺し合いを続けてきた広大な大陸は、今や「旭州」という一つの巨大な名のもとに完全に統一されていた。
覇王ジンが即位して最初に発した「すべての剣を鍬に持ち替えよ」という大号令は、数年の時を経て、この大地に奇跡のような変革をもたらしていた。
見渡す限りの荒野や、血に染まっていた古戦場は、すべて黄金色に輝く麦畑や、豊かな水を湛える水田へと姿を変えている。
西国の金牙城を中心とした統治機構は、ゲントの編纂した新法典によって身分に関わらぬ公平な裁きをもたらし、悪魔の軍師クロウが計算し尽くした物流網は、かつて飢えに苦しんでいた辺境の村々にまで、絶え間なく食糧と物資を運び届けていた。
無口なる将ガクは、天下の治水と街道整備の総責任者として、自ら泥にまみれながら巨大な水路を次々と完成させている。
特攻隊長ゴウは、その有り余る怪力と無尽蔵の体力を開拓事業に注ぎ込み、岩山を切り拓いて新たな農地を次々と生み出していた。
沙那の次男レンは、故郷である釜田峡谷を天下有数の交易の要衝へと発展させ、かつての仲間たちの慰霊碑の前で、平和な宿場町の喧騒を見守っている。
北国の主城周辺には、シュウスイの遺志を継いだカレンと、健やかに成長した幼きルリの姿があった。彼女たちの周りには、かつての黎州の残党たちが穏やかな笑顔で農作業に精を出し、誰も飢えることのない、シュウスイが夢見た平和な日常が確かに根付いていた。
薬草売りから身を興した泥犬の覇王、ジン。
彼が創り上げたのは、武力で押さえつける恐怖の帝国ではない。民の「胃袋」を満たすことを最優先とし、誰もが明日を笑って生きられる、真の意味での豊かで平和な天下であった。
初夏の風が心地よく吹き抜ける中。
覇王ジンは、数名の側近のみを連れて、大陸の最も東の果て、誰も足を踏み入れることのない「最東端の岬」へと国情視察の足を伸ばしていた。
「親父殿。これより先は、馬を進めることは不可能です。岩肌が険しく、道と呼べるような場所はありません」
十文字槍を杖代わりにしながら、ガクが静かに報告する。
「ああ、分かってる。お前たちはここで待っていろ。……少し、風に吹かれながら一人で歩きてえんだ」
ジンは、豪華な王の外套を脱ぎ捨て、かつて薬草売り時代に着ていたような動きやすい軽装になると、たった一人で切り立った崖の斜面を登り始めた。
「ジン殿。あまり無理をなさらぬよう。天下の主が足を滑らせて海に落ちたなどと歴史書に記されれば、私の編纂する記録の美しさが台無しになりますゆえ」
車椅子の上から、クロウが皮肉交じりに声をかける。
ジンは笑いながら手を振り、険しい獣道を一人で黙々と登っていった。
大陸の最東端。
二百年の戦乱の歴史の中で、誰も見向きもしなかった最果ての地。
ジンの目的は、単なる視察ではなかった。数年前、病に倒れた天才軍師シオンが遺した膨大な古代文書の解析記録。その最後の1ページに記されていた「天下の果てにある真実」を、自らの目で確かめるためであった。
荒々しい海風が、ジンの髪を激しく揺らす。
急な岩肌を登り切った先、視界が急激に開け、眼下にはどこまでも続く果てしない蒼い海が広がっていた。
「……すげえな。これが、天下の端っこか」
ジンは、岩山の頂上に立ち、広大な水平線を見渡して息を呑んだ。
だが、彼の視線を釘付けにしたのは、その絶景の海ではなかった。
岬の突端、強烈な潮風に晒され続ける場所に、それは鎮座していた。
巨大な、人工物の残骸。
それは、木や石で造られた城や砦などとは根本的に異なる、未知の物質で構成されていた。
表面は長い年月の間に緑色の分厚い苔や蔦に覆われ、赤茶けた錆のようなものが付着しているが、その所々からは、現在の鍛冶技術では到底作り出せないような、滑らかで不気味な鈍い光沢を放つ金属の肌が露出している。
あまりにも巨大なその鉄塊は、全長数百歩にも及び、かつて海を支配したであろう威容を今に残していた。大地に深々と突き刺さり、そのまま数百年の時を停止しているかのような、異様な光景であった。
「これが……シオンの言っていた、旧き時代の遺物か」
ジンは、その巨大な残骸にゆっくりと近づき、表面を覆い尽くしている分厚い苔を、無骨な手で力強く引き剥かした。
パラパラと乾燥した植物の残骸が落ち、その下から、深く刻み込まれた巨大な文字が姿を現した。
『瑞穂武尊』
ジンは、その文字を指でなぞりながら、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
それは、天才軍師シオンが己の命を削って解読し、ジンに遺した古代の記録媒体の解析文書、その最後の1ページであった。
ジンは、潮風の中でその文書を開き、静かに読み上げ始めた。
『……我が親愛なる覇王、ジンへ。
あなたがこの手紙を天下の最東端で読んでいるということは、私たちの夢であった戦乱の終結が、無事に成し遂げられたということですね。
私は生前、天帝の書庫から持ち出した古代の記録を解読し続け、ついにこの世界を根底から覆す「残酷な真実」に辿り着きました。
ジン。私たちが血を流し、覇権を争い、何百万という命を懸けて奪い合ってきたこの「天下」と呼ばれる巨大な大陸。
古代の記録によれば、ここは「瑞穂」と呼ばれる、外界から完全に隔絶された、ただの「小さな島国」に過ぎないのです。
あの巨大な鉄塊は、かつて海を制し、外界と交わるために造られた超弩級の乗り物。それが時を経て、この地に朽ち果てているのでしょう。
私たちの住むこの瑞穂の地の外側には、終わりのない争いなど存在しない、豊かで、広大な、本当の「世界」が広がっています。
私たちは、巨大な箱庭の中で、外の世界の存在すら知らされず、ただ限られた土と水と誇りを奪い合い、二百年もの間、無意味な殺し合いを演じさせられていただけなのです。
……ジン。あなたが心血を注いで統一した天下が、世界から見ればただのちっぽけな箱庭であったと知った時、あなたは絶望するでしょうか。
あの泥水の中から這い上がった時と同じように、不敵に笑ってくれるでしょうか。
あなたの歩む覇道が、この小さな箱庭で終わらないことだけを、祈っています』
羊皮紙を持つジンの手が、微かに震えていた。
荒れ狂う波の音が、絶壁の下から轟々と響き渡る。
二百年。
ソウガが狂気に落ちたのも、メイカクが己の命を投げ打って正道を貫いたのも。
トウガが無惨に泥に沈んだのも、シュウスイが己の胸を貫かせてまで守り抜こうとした、歴史の重みも。
すべては、このちっぽけな「瑞穂」という名の、外界から隔離された小さな島国の中だけで行われていた、井の中の蛙たちの殺し合いであったというのか。
外には、争いのない広大で豊かな世界が広がっているというのに、彼らはその存在すら知らず、ただ足元の僅かな泥を奪い合って命を散らしていったのだ。
この真実を知れば、いかなる英雄であろうと、自らの成し遂げた偉業のちっぽけさに膝を折り、その残酷さに絶望して心を壊すだろう。
ジンは、巨大な鉄塊『瑞穂武尊』の冷たい金属の肌に背中を預け、ただ黙って、眼下に広がる果てしない水平線を見つめていた。
「…………」
長い、長い沈黙。
やがて、ジンの肩が、微かに震え始めた。
「……くっ」
その震えは次第に大きくなり。
「くっくっく……はははははッ!!」
ジンの口から、腹の底から湧き上がるような、豪快で、突き抜けるような大爆笑が弾け飛んだ。
覇王の笑い声が、最果ての岬の潮風に乗って、広大な海へと響き渡る。
そこに絶望の響きは、微塵も混じっていなかった。
「……なんだよ、シオン。お前、頭が良すぎるからって、そんなちっぽけなことで絶望すると思ってたのか?」
ジンは、笑い涙を指で拭いながら、手にした羊皮紙を愛おしそうに丸めて懐に仕舞い込んだ。
「箱庭だろうが、隔離された島国だろうが、そんなの関係ねえんだよ。……俺たちが流した血も、泥水すすって食った飯の味も、シュウスイのオッサンが懸けた誇りも。全部、本物だったじゃねえか」
ジンは、再び『瑞穂武尊』を見上げ、そして、その向こう側に広がる、まだ見ぬ本当の「世界」の果てを力強く睨みつけた。
「俺たちが血みどろになって統一したこの天下が、ただの小さな島国だって言うんなら……それはつまり、この海の向こうには、まだまだ俺たちの知らない『美味い飯』と『豊かなどでかい土地』が、無限に転がってるってことだろうが!」
ジンの瞳に、かつて天下の頂点を目指して泥の中を這いずり回っていた時と同じ、いや、それ以上に巨大で、強烈な「野犬の光」が燃え上がった。
二百年の争いを終わらせ、天下を統一した。
誰もが腹一杯に飯を食える、豊かな国を創り上げた。
覇王としての彼の役目は、すでに完遂されたはずであった。彼が望めば、このまま玉座で安寧の余生を過ごすこともできただろう。
しかし、ジンは生粋の野犬であった。
泥の中から這い上がり、常に高みを、常に明日を求め続ける、果てしない生存本能の権化。
この天下がまだ世界のほんの一部に過ぎないと知った今、彼の内にある「覇道」への野心は、燃え尽きるどころか、新たな燃料を得て爆発的に燃え広がっていたのである。
「……おい、お前ら!」
ジンが岬の突端から大声で叫ぶと、崖の下で待機していたガクとクロウが、驚いたように顔を上げた。
「ガク! ゴウとレンを呼べ! それと、リョウガの水軍の船大工どもを、一人残らず金牙城に集めろ!」
「……? 親父殿、突然いかがなされましたか!」
ガクが首を傾げる。
「クロウ! お前の頭脳で、この海を渡るための、一番でかくて頑丈な船の設計図を引け! 農業と開拓の次は、造船だ!」
ジンは、岬の上から身を乗り出し、子供のように無邪気に、しかし覇王としての絶対的な威厳を持って宣言した。
「この島国を完全に豊かにして、倉に麦が入り切らなくなったら……次は俺たちが、この海の向こう側の世界に打って出る番だ! 外の世界の連中に、泥犬が創り上げたこの国の意地と、飛び切り美味い飯の味を教えてやるんだよ!」
崖の下のクロウが、ジンのその無茶苦茶な号令を聞き、呆れたように、しかし心からの敬意と歓喜を含んだ笑みを浮かべて深く頭を下げたのが見えた。ガクもまた、理由など問うことなく、自らの主君の新たな覇道に向けて、強く十文字槍を握りしめている。
「……待ってろよ、まだ見ぬ世界」
ジンは、再び一人で海へと向き直った。
吹き付ける強烈な潮風が、彼の髪と、泥に汚れた衣服を力強くはためかせる。
かつて薬草売りとしてその日暮らしをしていた少年は、戦乱の世を終わらせる覇王となり、そして今、未知なる広大な世界へと船出する「新たなる開拓者」としての第一歩を、この最果ての岬に確かに刻み込んだ。
「俺たちの覇道は、ここからが本当の始まりだ」
広大な蒼い海を見据えるジンの背中は、どこまでも大きく、そして果てしない未来への希望に満ち溢れていた。
二百年にわたる瑞穂の戦乱の歴史は完全に終わりを告げ、泥犬たちの泥臭くも眩しい新たなる伝説が、今、海の向こうへと向かって、静かに幕を開けようとしていたのである。
【草売りから始まる覇道戦記・完】




