第99話 泥犬の覇道と、誰も飢えない明日
泥濘と血に塗れた「一年戦争」が、北の鬼神シュウスイの壮絶なる立ち往生をもって幕を閉じてから、数ヶ月の時が流れた。
西国、南国、東国、そして北国。
二百年にわたり、数多の血が流され、無数の命が使い捨てられてきた戦乱の世は、一人の元・薬草売りの手によって、ついに完全なる一統を果たした。
新国家「旭州」の旗が天下の隅々にまで翻り、終わりのない殺し合いの歴史は、ここに完全に終結したのである。
初夏。
かつてシュウスイが絶対の防衛線を敷いていた北国の主城に、覇王ジンは自ら足を運んでいた。
右胸を貫いた大槍の傷は、ジンの人外とも言える生命力と、旭州が誇る医官たちの必死の治療により、奇跡的に塞がっていた。いまだ癒えきらぬ痛みを隠しながらも、ジンは堂々たる足取りで城の広間へと進み入る。
そこで彼を待っていたのは、ソウガの正室であり、今は亡きシュウスイの妻となったカレン、そして彼女の腕の中に抱かれた幼い赤子、ルリであった。
周囲には、生き残った旧黎州の将兵たちが、緊張に顔を強張らせて並んでいる。
彼らにとってジンは、自分たちの主君や仲間を討ち果たした仇敵である。覇王となったジンが、後顧の憂いを絶つために、黎州の正統な血脈であるルリを処刑したとしても、誰も逆らうことはできない。重苦しい沈黙が、広間を支配していた。
だが、ジンはカレンの前に歩み寄ると、静かに、そして深く頭を下げた。
「……遅くなって済まねえ。あんたの旦那は、立派だった。……俺が今まで出会った誰よりも、強くて、誇り高い本物のバケモンだったよ」
ジンの飾らない、しかし心からの敬意に満ちた言葉に、カレンは静かに目を伏せ、一粒の涙を零した。
「ええ……。彼は、私たちを守るため、そしてこの狂った時代を終わらせるために、自らのすべてを懸けました。……覇王ジン。どうか、彼の死を無駄にしないでください」
「ああ。約束する」
ジンは顔を上げ、広間に集まった旧黎州の将兵たちを見渡した。
「お前たちも、よく聞け。俺は、旧き時代を終わらせるためにシュウスイのオッサンを倒したが、お前たちの誇りまで踏みにじるつもりは毛頭ねえ。……今日この日をもって、黎州の残党という呼び名は捨てる。お前たちは全員、今日から旭州の正規の民だ」
ジンの宣言に、将兵たちの間にどよめきが走った。
「カレンとルリには、帝宮の近くに十分な領地と屋敷を用意する。俺が生きている限り、指一本触れさせねえし、絶対に飢えさせるような真似はしねえ。……それが、俺があのオッサンと交わした、最後の約束だからな」
そのジンの言葉に嘘偽りがないことを悟り、カレンは深く安堵の息をつき、静かに頭を垂れた。
旧黎州の兵士たちもまた、武器を置き、新しき覇王の圧倒的な器の大きさに、心からの臣従を誓ったのである。
二百年の遺恨は、泥犬の覇王の「生かす」という決断によって、完全に氷解したのだった。
天下を一統したジンが、覇王として最初に下した勅令。
それは、豪華な宮殿の建設でも、自らの権力を誇示するような祝兵でもなかった。
『戦場を耕せ。剣を鍬に持ち替え、すべての土地を開拓せよ』
ジンの号令のもと、旭州の十万の大軍は、その圧倒的な質量と組織力を、すべて「復興と農業」へと注ぎ込むことになった。
薬草売りとして地べたを這いずり回り、誰よりも土の匂いと飢えの恐ろしさを知るジン。彼にとっての天下とは、権力ではなく「誰もが腹一杯に飯を食える世界」を創ることそのものであった。
西国の金牙城を中心として、天下の大号令が響き渡る。
かつてジンを守るために絶対防衛陣を敷いた無口なる将、ガク。
彼は今、その類稀なる空間把握能力と統率力を、巨大なインフラ整備に発揮していた。
「ここは水はけが悪い。水路の角度を三度修正しろ。橋の強度が足りない、石組みをやり直せ」
ガクの指揮のもと、荒れ果てていた街道は次々と整備され、乾いた土地には清らかな水路が引かれていく。彼の精密な「正道」は、防衛陣から治水工事へと見事に転用されていた。
特攻隊長として戦場を駆け回ったゴウは、巨大な鉄砕棒を巨大な鍬に持ち替えていた。
「オラァァッ! こんな岩っころ、俺の腕力なら一発で粉々だぜ!」
彼は自らの怪力を活かし、開墾が困難な荒れ地や岩山の切り拓きを率先して行っていた。泥にまみれ、大粒の汗を流しながら笑うゴウの姿に、かつての敵兵たちも影響され、彼らは一つの巨大な建設作業隊として笑顔で汗を流していた。
盟友である沙那の次男、レン。
彼は自らの故郷である釜田峡谷に戻り、真紅の甲冑を脱ぎ捨てていた。
「ここはかつて、多くの血が流れた死地だ。だが、この険しい地形を切り拓けば、天下を繋ぐ最高の交易路になる」
レンは、亡き仲間たちへの祈りを込めながら、峡谷の安全な通行路の確保と、宿場町の建設に尽力していた。野犬のように生き抜いた彼の執念は、故郷を豊かにするという新たな目標へと向けられていた。
軍規を司るゲントは、旧態依然とした法律を撤廃し、身分に関わらず努力した者が等しく報われる、新時代の法典を編纂していた。
悪魔の軍師クロウは、その類稀なる頭脳を謀略ではなく、天下の物流網の最適化と、経済の活性化のための計算にフル稼働させていた。彼が設計した交易ルートにより、リョウガ率いる海狗衆の船団は、戦の物資ではなく、豊かな海の幸と南の果実を、天下の隅々にまで運び届けていた。
さらに数年の月日が流れた。
かつてシュウスイとジンが死闘を繰り広げ、無数の屍で埋め尽くされていた泥濘の平原。
そこは今、見渡す限りの黄金色の麦畑へと姿を変えていた。
秋の豊穣の風が吹き抜け、麦の穂が波のように揺れる。
そのあぜ道を、泥だらけの平服を着たジンが、一人でゆっくりと歩いていた。
彼の右手には、立派な長剣ではなく、土のついた無骨な鍬が握られている。
覇王となってもなお、彼は時間を見つけては自ら畑に出向き、民と共に土にまみれることをやめなかった。玉座でふんぞり返るのではなく、民の汗と土の匂いを直接感じていなければ、彼の心が休まることはなかったのである。
「……おーい、ジン様! 今年の麦は、見たこともないくらいの大豊作ですよ!」
畑の向こうから、かつては槍を握って震えていたはずの農民が、満面の笑みで大きく手を振ってきた。
「おう! 残さず刈り取れよ! 今夜は村の連中全員で、腹がちぎれるまで麦飯の宴会だ!」
ジンもまた、真っ白な歯を見せて大きく手を振り返す。
平和な笑い声が、黄金色の波の向こうへと広がっていく。
ジンは、その光景を眩しそうに見つめながら、ふと足を止めた。
そして、かつてシュウスイが立ったまま絶命した、そのまさに同じ場所に立ち、広大な空を見上げた。
「……おい、オッサン。見てるか」
ジンの呟きは、秋風に乗って静かに空へと溶けていく。
「トウガ。ソウガ。……それに、メイカクの旦那」
かつて、この天下を血で染め、己の覇道を懸けて散っていった者たちの顔が、ジンの脳裏に浮かび上がる。
彼らは皆、それぞれの正義と誇りを持っていた。しかし、その誇りゆえに戦い、傷つき、泥の中に沈んでいった。
ジンは、自らの手にある泥だらけの鍬を、愛おしそうに撫でた。
「あんたたちが残した歴史の泥水から、こんなに綺麗な麦が育ったぜ。……もう、誰も飢えねえ。誰も、明日を怖がって泣いたりしねえ」
天下は完全に一統され、平和と豊かさが大地を満たしている。
二百年の戦乱を終わらせるという、途方もない大事業は、一人の泥臭い薬草売りの手によって、ついに完遂されたのである。
「俺の創りたかった天下は、これで完成だ」
ジンは、大きく背伸びをして、澄み切った青空の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
戦乱の世は終わった。
しかし、この時のジンはまだ知る由もなかった。
彼が統一したこの「天下」が、果てしない外界から隔絶された、ただの一つの小さな島国に過ぎないという、残酷で、しかし果てしなく広大な世界の真実を。
新たな波乱の幕開けとなる「その日」は、静かで豊かな平和の影で、すぐそこまで迫りつつあった。




