第98話 武神の落日と、時代を背負う器
逢魔が時の赤い陽光が、見渡す限りの泥濘と無数の骸を、どこまでも凄惨に、そして美しく染め上げていた。
風の音すらも完全に死え絶えた、絶対的な静寂。
西国と北国の国境に広がるこの広大な平原において、これまで数万の命がぶつかり合い、怒号と悲鳴が天地を揺るがしていた喧騒が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
旭州軍、十万の将兵。
彼らは誰一人として、身じろぎ一つすることができなかった。振り上げた槍を下ろすことも、歓声を上げることも、あるいは涙を流すことすら忘れたかのように、ただ戦場の中央で繰り広げられた結末を、畏怖と極度の緊張をもって見つめ続けていたのである。
戦場の中心。
そこには、無数の北国兵の骸の山に囲まれるようにして、二人の男がいた。
一人は、泥濘の中に倒れ伏した旭州の覇王、ジン。
彼の右胸には、シュウスイの放った必殺の大槍が深々と突き刺さり、完全に肉体を貫通したまま背中へと抜け出ていた。流出した鮮血が彼の周囲の泥を底なしの赤黒い沼へと変えており、常人であればすでに十度は死を迎えているであろう致命的な重傷であった。
そしてもう一人。
最強の鬼神、シュウスイ。
彼の分厚い黒甲冑は完全に引き裂かれ、その強靭な胸板、すなわち心臓のど真ん中には、ジンの放った刃こぼれだらけの長剣が、鍔元まで深々と突き刺さっていた。
二人はそのまま、まるで永遠の時間を封じ込められた彫像のように、一切の動きを止めていた。
「……親父、殿……?」
十万の軍勢の最前線で、無口なる将ガクが、血の気を失った唇を震わせて呟いた。
彼の手から十文字槍が滑り落ち、泥濘に鈍い音を立てて転がる。
隣に立つゲントもまた、かつての主君であったソウガの右腕、黎州最強の武神が心臓を貫かれたその信じがたい光景に、完全に言葉を失い、ただ目を見開いて硬直していた。
後方から車椅子を進めてきた悪魔の軍師クロウは、杖を握る両手をわななかせながら、その凄絶なる相討ちの様を食い入るように見つめていた。
(純粋な武力においては、シュウスイが完全に圧倒していた。……しかし、ジン殿は自らの肉体を巨大な枷として大槍の軌道に差し出し、己の命を削り取ることで、二百年の歴史が誇る完璧な理を打ち破った。……相討ち。いや、ジン殿の傷は……)
クロウが息を呑んだ、まさにその時であった。
「……ぐ、はッ……」
泥濘に倒れ伏していたジンの身体が、ビクリと痙攣した。
「親父殿ッ!!」
ガクが絶叫し、本陣から飛び出そうとする。
「来るなァッ!!」
血反吐を吐き散らしながら、ジンが泥の中から片手を高く突き上げて、ガクの歩みを制止した。
「……手出しは、無用だ。……この勝負、まだ、終わっちゃいねえ……!」
ジンは、自らの右胸を貫いている大槍の柄を、震える左手で力強く握りしめた。そして、全身の筋肉を軋ませ、骨の砕ける激痛に顔を歪めながら、ゆっくりと、信じがたい執念で泥濘の中から立ち上がったのである。
右胸から大槍の柄が突き出たままという、直視するのも恐ろしい姿。
しかし、その瞳の奥にある泥臭い野犬の光は、決して消え去ってはいなかった。彼は両足をしっかりと泥に根付かせ、激しい呼吸を繰り返しながら、正面に立つ巨漢を見上げた。
「……ハァッ……ハァッ……。どうだ、オッサン。……俺の命の重さ、あんたの歴史に、届いたかよ……」
ジンの問いかけが、静寂の平原に響き渡る。
その言葉に応えるように。
心臓を長剣で貫かれたまま、微動だにしていなかったシュウスイの巨体が、ゆっくりと動いた。
「……ああ。確かに届いたぞ、泥犬」
シュウスイの低く、地鳴りのような声。
心臓を破壊されているにもかかわらず、その声には一片の苦痛も、死に瀕した者の弱々しさも混じっていなかった。彼は膝を折ることなく、ただ静かに、貫かれた胸に手を当てて、自らを討ち破った若き覇王を見つめ返していた。
「な、なぜだ……。心臓を貫かれているというのに、なぜ立っていられる……!?」
満身創痍の身体を引きずりながら最前線に辿り着いたゴウが、信じられないものを見るように叫んだ。
隣で肩を押さえるレンもまた、その人間離れした光景に戦慄を隠せない。
「あれが、二百年の歴史を背負った武神の執念だというのか……。精神力だけで、肉体の死をねじ伏せている……」
シュウスイは、周囲のどよめきなど全く気にする様子もなく、ただ真っ直ぐにジンだけを見据えていた。
その深淵のような瞳からは、かつて彼が纏っていた氷のような冷酷さも、武人としての強烈な殺気も、すべてが完全に消え去り、驚くほど穏やかで、澄み切った光だけが宿っていた。
「見事だ、ジン。貴様の我流の剣、いや、貴様の背負っているその『明日への執念』は、黎州二百年の歴史が束になっても砕くことのできない、恐るべき重さであった」
シュウスイは、自らの口の端から一筋の血を流しながら、微かに口角を上げて笑った。
「私が放った最後の一撃。あれは、二百年の武術の極致であり、誰にも躱すことのできない絶対の死であった。それを貴様は、逃げるでもなく、防ぐでもなく、自らの身体で受け止めるという狂気をもって打ち破った。……自分の命よりも、その背後にいる者たちの『胃袋』を優先したのだな」
「……当たり前だろ。俺がここで死んだら、何十万っていう民が、また元の地獄で泥を啜ることになるんだ。……そんなの、絶対に御免だからな」
ジンは右胸の傷を押さえながら、血に染まった歯を見せて不敵に笑い返した。
シュウスイは、深く、静かな息を吐き出した。
「ジン。私がなぜ、北国の国境を封鎖し、この一年間、貴様との決戦を待ち続けていたか分かるか?」
「あんたの主君の仇討ちと、誇りのためだろうが」
「……それだけではない」
シュウスイは、静かに首を振った。
「トウガ様が討たれ、黎州の正統なる血脈が西国で断たれたと知った時、私の心にあったのは怒りではない。……『これでようやく、無益な血を流す時代が終わるかもしれない』という、密かな安堵であった」
その言葉に、かつて黎州の千人将であったゲントが、ハッと息を呑んだ。
旧主君の右腕であり、誰よりも黎州に忠誠を誓っていたはずの鬼神から出た、信じがたい言葉。
「二百年だ。我々武人は、ただ己の誇りと血脈を守るためだけに、終わりのない殺し合いを続けてきた。どれほど領土を広げようと、どれほど強大な軍を築こうと、民は常に飢え、戦火に怯え続けていた。……私は、そんな戦乱の世の虚しさを、誰よりも最前線で痛感し続けてきたのだ」
シュウスイの瞳が、遥か西の空、沈みゆく赤い太陽へと向けられた。
「悪魔の軍師クロウが、カレン様という火種を北国に放った時。私はそれを好機と捉えた。だがそれは、黎州を再興するための好機ではない。……天下を真に統べる『本物の器』が誕生したかどうかを、この私の全存在を懸けて見極めるための好機だ」
シュウスイは、再びジンへと視線を戻した。
「私がただ北国に引きこもり、あるいは貴様に降伏していれば、北国の旧ハクヤ軍や黎州の残党たちは、決して心から貴様に従うことはなかっただろう。必ずどこかで反乱が起き、新たな火種となり、また無益な血が流れる。……この二百年の呪わしい歴史を完全に終わらせるためには、誰かが『旧き時代のすべて』を背負い、巨大な壁となって立ち塞がり、そして……新しき王の圧倒的な力と器の前に、完膚なきまでに叩き潰される必要があったのだ」
そのシュウスイの真意を聞き、旭州の将兵たちの間に、声にならない衝撃が走った。
「まさか……シュウスイ殿は……最初から、ジン殿の踏み台となるために、この一年戦争を引き起こしたというのですか……!」
クロウが、自らの知略が全く及ばなかった、一人の武将のあまりにも巨大な自己犠牲の精神に、車椅子の上でわななきながら呻いた。
「勘違いするな、軍師よ。私は決して手加減などしていない。兵糧を計算し、完璧な陣を敷き、本当に貴様らの首を獲るつもりで全力で戦った。……もしジンが、ただ武力が強いだけの覇侯であったなら、あるいは民の命よりも己の誇りを優先するような愚王であったなら、私は躊躇なくその首を刎ね、私が自ら覇王となって天下を力でねじ伏せていた」
シュウスイは、真っ直ぐにジンの瞳を覗き込んだ。
「だが、貴様は違った。泥水の中から這い上がり、民を食わせることを何よりも重んじ、そのためならば己の命すらも泥の中に投げ捨てることができる。……ジン。貴様こそは、私が二百年間待ち望んでいた、この戦乱の世を完全に終わらせる『本物の器』だ」
シュウスイの声には、自らの死を前にした悲哀は微塵もなく、ただ果てしない満足感と、すべてを成し遂げた清々しさだけが満ち溢れていた。
彼は心臓を貫かれながらも、誇り高く胸を張り、新しき覇王に対する最大級の賛辞を贈ったのである。
ジンは、右胸の激痛に耐えながら、そのシュウスイの言葉を黙って受け止めていた。
「……オッサン。あんた、本当に不器用なバケモンだな」
ジンは、深くため息をつきながら、苦笑した。
「俺を試すためだけに、自分ごと数万の兵を死地に追いやったってのか。……あんたの背負ってた荷物は、俺が思ってた以上に、途方もなく重くて、冷てえ代物だったんだな」
「王とは、そういうものだ。……だからこそ、貴様にはその重さに耐え、新しい時代を創り上げる義務がある」
シュウスイは、懐に手を入れると、血に染まった小さな布切れを取り出した。
それは、彼が最後まで大切に持ち歩いていた、ソウガの娘ルリの産着の切れ端であった。
「……ジン。私から、最後にして唯一の頼みがある」
シュウスイの強靭な顔が、この時初めて、一人の父親のような、慈愛に満ちた穏やかな表情へと変わった。
「北国の主城に、私の妻となったカレン様と、ソウガ様が遺された血脈である娘、ルリが残されている。……私がここで討たれれば、旧き黎州の血脈が貴様の覇道を脅かすことは、もはや永遠にない」
シュウスイは、その小さな布切れを、震える手でジンへと差し出した。
「どうか、彼女たちの命だけは奪わないでやってほしい。……歴史の敗者としてではなく、貴様が創り上げる『誰も飢えない新しい世界』の、ただの一人の民として、生かしてやってはくれないだろうか」
天下最強の鬼神が、己の命を奪った敵に対して、初めて頭を下げて懇願したのである。
それは、武人としての誇りすらも投げ打った、愛する家族を守るためだけの、最も純粋な願いであった。
ジンは、右胸の傷から流れる血を意に介することなく、真っ直ぐに前へ歩み出た。
そして、泥に汚れた左手で、シュウスイから差し出されたその小さな布切れを、しっかりと受け取った。
「……約束する。俺の創る天下じゃ、女子供を殺すような真似は絶対にさせねえ」
ジンの声は、低く、しかし絶対に揺らぐことのない誓いの響きを持っていた。
「カレンも、ルリも、俺が必ず面倒を見る。……腹いっぱい、温かい白米を食わせてやる。だからオッサン、あんたはもう、二百年の歴史なんていう重たい荷物は下ろして、ゆっくり休んでくれ」
そのジンの力強い言葉を聞いた瞬間。
シュウスイの顔から、すべての緊張と、彼を縛り付けていた一切の重圧が、まるで春の雪解けのように完全に消え去った。
「……ああ。そうか」
シュウスイは、本当に嬉しそうに、心の底からの笑みを浮かべた。
「ようやく……終わるのだな。この、長すぎた戦いの歴史が。……見事な、天下だ」
シュウスイは、自らの心臓に突き刺さっているジンの長剣の柄に、ゆっくりと手をかけた。
「ジン。王の剣は、生かすために使え。……死にゆく敗者の身体に、これ以上その刃を留めておく必要はない」
「……オッサン」
「さらばだ、泥犬の覇王よ。……我らの無念と誇り、その背中にしかと託したぞ」
シュウスイは、自らの手で、心臓に突き刺さった長剣を一気に引き抜いた。
ドパァァァッ! と、凄まじい勢いで鮮血が噴き出し、シュウスイの巨体を真紅に染め上げる。それと同時に、シュウスイは自らの腰にあった短刀を素早く引き抜き、自らの喉元へと深々と突き立てたのである。
敵の刃によって死ぬのではない。
二百年の歴史を締めくくる武神として、自らの命は、自らの手で完全に終わらせる。それこそが、彼に残された最後の、そして最高の武人としての誇りであった。
「シュウスイ様ァァァッ!!」
北国の残党の誰かが叫んだ声が、幻聴のように平原に響いた。
シュウスイの巨体が、大きくぐらりと揺れた。
しかし、彼は決して泥濘へと崩れ落ちることはなかった。
彼は自らの両足を大地に強く根付かせ、手にした短刀を握りしめたまま、沈みゆく赤い太陽を真っ直ぐに見据え……そして、完全にその動きを止めた。
心臓を貫かれ、自らの喉を裂きながらも、最強の鬼神は、膝を折ることなく「立ったまま」絶命したのである。
「…………」
凄絶なる、立ち往生。
そのあまりにも誇り高く、気高い最期を前に、旭州軍の十万の将兵は、誰一人として言葉を発することができなかった。
風が吹き抜け、シュウスイの血に濡れた黒髪を静かに揺らす。
ジンは、自らの右胸を貫く大槍の柄を握りしめたまま、自らの前にそびえ立つ、決して倒れることのない偉大な武神の亡骸を、静かに見上げた。
「……ああ。あんたの誇り、確かに受け取ったぜ。シュウスイ」
ジンは、左手に握りしめたルリの産着の切れ端を、自らの胸ポケットへと深く仕舞い込んだ。
そして、周囲を取り囲む十万の旭州軍に向かって、血だらけの顔を向け、腹の底から湧き上がるような、天地を震わせる大音声で咆哮した。
「見ろォッ!! これが、俺たちの背負うべき『天下の重み』だ!!」
ジンの絶叫に、ガクが、ゲントが、ゴウが、レンが、そして十万の兵士たちが、一斉に姿勢を正した。
「二百年続いた殺し合いは、今日、この場で完全に終わった! 北の鬼神は立ち往生を遂げ、旧き時代は死んだ! ……これより俺たちが創るのは、誰もが泥水の中から立ち上がり、明日を笑って生きられる、新しい時代だ!!」
ジンの宣言が、夕闇に包まれようとしている泥濘の平原に響き渡る。
ガクが、無言のまま自らの十文字槍を泥濘に突き立て、深く膝をついた。
それに続くように、ゲントが、ゴウが、レンが、そして十万の全将兵が、次々と自らの武器を置き、新しき覇王ジンと、そして偉大なる鬼神シュウスイの立ち往生に対して、最も深い敬意と忠誠の礼をとったのである。
太陽が完全に地平線の向こうへと沈み、戦場が夜の闇に包まれていく。
薬草売りから始まった、泥臭くも果てしない覇道。
数多の強敵を打ち破り、最後の武神の誇りをも喰らい尽くした覇王ジンは、ついにこの戦乱の世を完全に統一し、天下の頂点へと上り詰めたのであった。




