第97話 捨て身の牙と、鬼神を穿つ泥濘の剣
泥濘の平原の中央で、二つの影が激突した。
落雷のような轟音と共に、交差した長剣と大槍から凄まじい火花が散り、周囲の泥が爆発したように吹き飛ぶ。
「ハァァァァッ!」
シュウスイの大槍が、雷神の如き速度で繰り出された。
それは二百年という悠久の歴史の中で、数多の武将たちが血と汗を流して完成させた「黎州武術」の極致であった。巨岩をも砕く圧倒的な質量を持ちながら、その穂先は羽毛のように軽く、変幻自在に軌道を変える。上段からの打ち下ろしを躱した直後、すでに石突きが下段から顎を狙って跳ね上がり、それを防げば即座に胴を薙ぎ払う無慈悲な一撃が襲い来る。
「ガァッ……!」
ジンは、自らの長剣を盾にして必死にその猛攻を凌ごうとしたが、純粋な武の次元が違いすぎた。
一撃受けるごとに、ジンの腕の骨が悲鳴を上げ、全身の筋肉が断裂するような激痛が走る。シュウスイの槍は、ジンの変幻自在な剣の軌道を完全に読み切り、そのすべてを力と技の暴力でねじ伏せていく。
ズシャァァッ!
「ぐあっ……!」
大槍の刃が、ジンの右肩の甲冑を紙のように引き裂き、深く肉を抉った。
鮮血が宙を舞う。しかし、シュウスイの追撃は止まらない。間髪入れずに放たれた螺旋の突きが、ジンの左脇腹を掠め、さらに横薙ぎの一撃がジンの胸板を強打した。
「がはッ……!」
ジンは肺の中の空気をすべて吐き出し、泥濘の中を無様に転がった。
泥と血にまみれ、息も絶え絶えになりながら、なんとか長剣を杖にして片膝をつく。彼の全身はすでに無数の裂傷と打撲に覆われ、立っていることすら不思議なほどの重傷であった。
「……終わりだ、ジン」
シュウスイは、大槍を静かに下段に構え、血だらけの覇王を見下ろした。
「貴様の我流の剣は、泥水の中から生き残るために研ぎ澄まされた、確かに恐ろしい生存本能の結晶だ。だが、それはあくまで『個』の戦い。私が背負っているのは、二百年間、数万の武人たちが命を懸けて繋いできた『歴史という名の理』だ」
シュウスイの瞳には、一切の驕りも油断もなかった。
彼は目の前の男が、どれほど理不尽な生命力を持っているかをすでに理解している。だからこそ、武神としてのすべての敬意をもって、完全に、一寸の隙もなくその息の根を止めるつもりであった。
「歴史の重みの前に、個人の執念など無力。……安らかに眠れ、新しき王よ。貴様が創ろうとした新しい時代は、私がこの大槍と共に引き継ごう」
シュウスイが、ゆっくりと間合いを詰める。
その一歩一歩が、まるで死神の足音のように重く、冷酷に戦場に響いた。
周囲で見守る旭州の将兵たちは、息を呑み、絶望の表情を浮かべていた。重傷のゴウもレンも、そしてガクやゲントでさえ、この絶対的な武力の差を前に、己の主君の死を覚悟せざるを得なかった。
だが。
「……ふざ、けんな」
泥濘に伏していたジンが、震える両足に力を込め、ゆっくりと、だが確実に立ち上がったのである。
「歴史の、重みだと……?」
ジンの口から、血の混じった唾液が滴り落ちる。
彼の視界はすでに赤く染まり、まともにシュウスイの姿を捉えることすらできていなかった。しかし、その瞳の奥にある「野犬の光」だけは、いまだにギラギラと燃え盛っている。
「二百年だか千年だか知らねえがな……。あんたらの言う歴史ってやつは、一体誰の腹を満たしてくれたんだ?」
ジンの脳裏に、凄惨な過去の記憶が蘇る。
薬草売りとして地べたを這いずり回っていた頃。権力者たちの誇りや歴史のために戦が起こり、その度に焼かれる村、奪われる麦、そして、道端で泥を啜りながら餓死していく無数の民たちの姿。
「誇りのために戦って、歴史のために人が死ぬ。……そんなもんのために、これ以上誰かに腹を空かせさせてたまるかよ!」
ジンは、自らの血で滑る長剣の柄を、両手でギリギリと握りしめた。
「俺が背負ってるのはな、過去の亡霊じゃねえ。今日を生き延びて、明日、腹いっぱい美味い飯を食いたいって泣いてる、この天下のすべての民の『胃袋』だ!」
ジンの咆哮が、静寂の戦場に雷鳴のように轟いた。
「俺がここで死んだら、あいつらがまた飢えるんだよ! だから俺は、てめえの理屈なんかに、絶対に殺されてやらねえッ!!」
それは、武人としての誇りでも、英雄としての使命感でもない。
ただ「誰も飢えさせない」という、薬草売り時代から抱き続けてきた、泥臭く、しかしあまりにも巨大で純粋な一つの執念であった。
その言葉を聞いたシュウスイの目が、微かに見開かれた。
二百年の歴史の結晶である自らの武に対し、真正面から「胃袋」という最も生々しい命の根源をぶつけてきたのだ。シュウスイは、目の前の男が、自分が想像していた以上に巨大なものを背負っていることを完全に理解した。
「……ならば、その執念ごと、私が完璧な理で粉砕してやる」
シュウスイは、大槍を自らの頭上に高く掲げた。
彼の全身から放たれる闘気が、限界を超えて膨れ上がる。周囲の泥濘が風圧で波打ち、空間そのものが歪むほどの凄まじいプレッシャー。
それは、シュウスイが放つ最強にして最後の絶技。防御も回避も一切不可能な、相手の存在そのものを空間ごと圧殺する「完璧なる一撃」の構えであった。
(来る……!)
ジンは、その圧倒的な死の気配を前にして、しかし逃げるどころか、長剣を下段にだらりと下げた。
防御を完全に放棄した、無防備な立ち姿。
「ジンッ!! 避けろォォォッ!!」
遠くから、ゴウの悲痛な絶叫が響く。
だが、ジンは一歩も引かなかった。
武の純粋な力において、彼がシュウスイに勝てる要素は万に一つもない。どれほど足掻いても、シュウスイの完璧な一撃を剣で防ぐことも、躱すことも不可能だ。
ならば、どうするか。
(完璧な一撃ってのは、絶対に標的を貫くってことだ。……だったら、貫かせてやるよ。俺の、この身体にな)
ジンの導き出した答えは、あまりにも狂気じみた、そして泥臭い「捨て身」の戦術であった。
「オオオオオオオォォォッ!!」
シュウスイの咆哮と共に、大槍が天から地へと、雷の如き速度と質量をもって振り下ろされた。
空間を断ち割る凄まじい風切り音。
ジンの脳天から心臓へ向けて、二百年の歴史を背負った必殺の刃が一直線に迫る。
その刹那。
ジンは、自らの身体を左へと半歩だけ強引に捻った。
回避するためではない。急所である心臓と首を外し、あえて自らの「右肩から右胸」にかけての分厚い筋肉と骨の束を、自らシュウスイの槍の軌道へと差し出したのである。
ズゴォォォォォォォンッ!!!
肉が裂け、骨が砕ける、背筋が凍るような重い音が戦場に響き渡った。
「がはァッ……!!!」
ジンは口から大量の鮮血を吐き出した。
シュウスイの大槍は、ジンの右肩口から鎖骨の下を完全に貫通し、その背中から無惨に刃を突き出していた。致命傷一歩手前。あと数ミリずれていれば、肺と心臓を破壊されて即死していたであろう、恐るべき一撃。
「……なっ!?」
完璧な一撃を放ったはずのシュウスイの顔に、この戦いで初めて、明確な驚愕と戦慄の色が浮かんだ。
シュウスイの大槍は、ジンの肉体を貫いた。
しかし、ジンは倒れなかった。それどころか、貫かれた自らの右胸の筋肉と、砕けた骨の破片を強引に収縮させ、シュウスイの大槍の刃を自らの体内へ「噛み付くように」強固に固定してしまったのである。
「捕まえたぜ……オッサン」
血反吐を吐きながら、ジンは悪鬼のように嗤った。
シュウスイの武術は「完璧」であった。だからこそ、一撃を放ち、それを引き抜いて次の動作へと移るまでの一連の流れに、一寸の淀みもない。
しかし今、その完璧な流れが、ジンの「自らの肉体を巨大な枷とする」という常軌を逸した泥臭い執念によって、強制的に、そして完全に停止させられたのだ。
大槍を引き抜くことができず、シュウスイの体勢が前のめりのまま、ほんの一瞬だけ硬直する。
二百年の歴史が誇る完璧な防壁に生まれた、針の穴ほどの、しかし絶対的な「隙」。
「これで、終わりだァァァッ!!」
ジンは、大槍に貫かれた激痛で意識が飛びそうになるのを、気合いと咆哮だけでねじ伏せた。
左手一本で握りしめた刃こぼれだらけの長剣。
それは、美しい剣技でも、洗練された奥義でもない。ただ下から上へ、己の残されたすべての命の炎を燃やし尽くして放たれる、泥水の中から天を突くための不格好な「突き」。
ザクゥゥゥゥゥッ!!!
鈍く、そして決定的な音が、静寂の平原に響き渡った。
ジンの放った刃こぼれだらけの長剣が、シュウスイの分厚い黒甲冑を強引に引き裂き、その強靭な胸板を、心臓ごと深々と貫いていた。
「…………あ、」
シュウスイの口から、微かな声が漏れる。
彼の見開かれた深淵のような瞳に、自らの胸に深々と突き刺さった、一本の無骨な長剣が映っていた。
風が、ピタリと止んだ。
泥濘の平原に立つ二人の男。
シュウスイの大槍はジンの右胸を貫き、ジンの長剣はシュウスイの心臓を貫いている。
まるで、二つの巨大な彫像が、互いを支え合うようにして折り重なったまま、静止していた。
「……親父、殿……」
遠くで、ガクが震える声で呟いた。
十万の旭州軍も、そして誰よりも近くで事態を見守っていたクロウでさえも、呼吸をすることすら忘れて、その光景をただ呆然と見つめていた。
純粋な武力において、ジンは最後までシュウスイに敵わなかった。
しかし、ただ「生きて飯を食う」という、人間の最も泥臭く、最も根源的な執念が、二百年の歴史が誇る完璧な理を、自らの命を削り取ることで打ち破ったのである。
ジンの長剣の柄から手が離れ、彼はそのまま糸が切れた操り人形のように、ドサリと泥濘の中へと崩れ落ちた。
全身を血に染め、右胸にぽっかりと巨大な風穴を開けたまま、覇王はピクリとも動かなくなった。
そして。
「……見事、だ」
胸を貫かれた最強の鬼神は、膝を折ることなく、ただ一本の大樹のように、静かにその場に立ち尽くしていた。




