第96話 泥と歴史の交差点、完全なる一騎討ち
逢魔が時の赤い陽光が、おびただしい数の骸で埋め尽くされた泥濘の平原を、どこまでも赤く、凄惨に染め上げていた。
風の音すらも死え絶えたかのような、絶対的な静寂。
旭州軍十万の将兵たちは、誰一人として声を上げることも、一歩前に出ることもできなかった。彼らはただ、血の海と化した戦場の中央に立つ二人の男の姿を、畏怖と極度の緊張をもって見つめていた。
数万の軍勢を自らの盾とし、ついに最後の一人となった最強の鬼神、シュウスイ。
そして、そのすべての質量と誇りを正面から受け止め、満身創痍となりながらも長剣を下げて立つ旭州の覇王、ジン。
「……良い景色だ」
シュウスイは、周囲を取り囲む旭州の軍勢と、足元に転がる無数の骸を見渡し、静かに呟いた。
「これだけの死地にあって、貴様の兵たちは誰一人として私に背後から矢を放とうとはしない。恐怖で竦んでいるのではない。彼らは、貴様という王の決着を、その目に焼き付けようとしているのだな」
シュウスイの言葉通りであった。
ガクも、ゲントも、重傷を負ったゴウやレンでさえも、この神聖な決闘に手出しをする気は毛頭なかった。二百年の歴史の最後を締めくくる鬼神に対し、絶対的な敬意をもって、彼らは自らの主君との一騎討ちを見届ける覚悟を決めていたのである。
「当たり前だ。俺たちは泥犬の集まりだが、泥棒じゃねえ」
ジンは、血と泥に塗れた顔で、ニヤリと笑った。
「あんたが命を懸けてここまで来たんだ。俺も、俺の持ってる全部を懸けて、あんたを真っ向から叩き潰す。……それが、俺たち新しい時代の人間が、あんたの歴史に払える最大の敬意だ」
ジンは、刃こぼれだらけの長剣をゆっくりと正眼に構えた。
定石も、型もない。ただ重心を低く落とし、全身のバネを極限まで圧縮した、野生の獣のような構え。泥水の中から這い上がり、あらゆる死線を潜り抜けてきた男の、最も純粋な生存本能の結晶。
対するシュウスイもまた、自らの身の丈を優に超える巨大な大槍を、音もなく中段に構えた。
その構えには、一寸の隙も、一欠片の無駄な力みも存在しなかった。二百年という途方もない時間の中で、黎州の天才たちが血を流して洗練させ、受け継いできた武術の極致。
完璧なる防御にして、必殺の攻撃。理性の塊とも言えるその姿は、まるで戦場に降り立った武神の彫像のようであった。
「黎州覇侯代行、シュウスイ。……往くぞ」
「旭州覇王、ジン。……来いッ!」
次の瞬間、二人の巨体が爆発的な速度で激突した。
ガガァァァァァンッ!!!
長剣と大槍が交差した瞬間、落雷のような轟音が戦場に響き渡り、二人の足元の泥濘が凄まじい風圧で放射状に吹き飛んだ。
「ハァァァァッ!」
シュウスイの大槍が、雷神の如き速度で連撃を放つ。
上段からの打ち下ろし、心臓を狙う鋭い突き、足を薙ぎ払う横薙ぎ。そのすべてが、常人であれば目で追うことすら不可能な神速でありながら、針の穴を通すような恐るべき精密さを持っていた。
大槍という巨大な武器を扱っていながら、遠心力に振り回されることが全くない。シュウスイの卓越した体幹と理にかなった身体操作が、大槍を自らの指先のように自在に操っているのだ。
「チィッ……!」
ジンは、その完璧な猛攻を、泥濘を転がるようにして紙一重で躱し続けていた。
まともに受ければ、長剣ごと身体を両断される質量。ジンは自らの剣を盾として使うことを放棄し、シュウスイの槍の軌道を予測して、ただひたすらに最小限の動きで死を回避する。
刃がジンの頬を掠め、肩の甲冑を削り飛び、太腿の肉を浅く裂く。
一瞬の瞬きすら許されない、死の舞踏。
「どうした、ジン! 逃げてばかりでは、私の歴史は斬れんぞ!」
シュウスイの冷徹な声と共に、槍の石突きがジンの顎をかち上げようと下から跳ね上がる。
「誰が逃げるって言ったよッ!」
ジンは、上体を極限まで後ろへ反らしながら、空いた左手で泥濘の泥を鷲掴みにし、シュウスイの顔面めがけて投げつけた。
剣術の定石には存在しない、泥臭い目潰し。
しかし、シュウスイは目を瞬くことすらなく、槍の柄を回転させてその泥を完全に弾き落とした。
だが、ジンの狙いは目潰しそのものではなかった。
泥を弾くためにシュウスイの大槍がわずかに弧を描いた、そのコンマ数秒の隙。
ジンは反らした上体をバネのように戻し、地面を這うような極端な前傾姿勢から、シュウスイの懐深くへと一気に潜り込んだのである。
「もらったァッ!」
ジンの刃こぼれだらけの長剣が、下から上へ、シュウスイの胸板を狙って獰猛に跳ね上がる。
正道も何もない、ただ敵を殺すためだけに研ぎ澄まされた、変幻自在の牙。
ガギィィィンッ!!
鈍い金属音が響いた。
ジンの渾身の一撃は、シュウスイの急所を貫く寸前で、大槍の太い柄によって完全に止められていた。
「……型のない我流。泥にまみれ、生き残るためだけに最適化されたその変幻自在の剣。確かに、恐ろしいほどの生命力だ」
シュウスイは、至近距離でジンのギラつく瞳を見つめ返した。
「だが、私の槍は、二百年間のすべての敗北と勝利を記録した歴史の結晶。……貴様のその泥臭い剣筋も、過去の天才たちがすでに通り過ぎ、そして私が克服してきた道のりの一つに過ぎん」
シュウスイは、柄でジンの剣を抑え込んだまま、自らの巨体から生み出される圧倒的な膂力で、ジンを力任せに前方へと押し飛ばした。
「ぐはッ……!」
ジンは泥濘の中を十数メートルも吹き飛ばされ、激しく咳き込みながら立ち上がった。
両腕の感覚が麻痺し、息を吸うだけで肺が焼けるように痛む。
「……化け物め。どんだけ理不尽な強さしてやがるんだ」
ジンは、口の中に溜まった血をペッと泥に吐き捨てた。
「貴様は兵を食わせ、天下を統べるにふさわしい器を持っている。それは認める。だが……純粋な武の力において、貴様は私には遠く及ばない」
シュウスイは、ゆっくりと槍を構え直し、無慈悲な宣告を下した。
「王の器と武の力は別物だ。貴様がどれほど民を想い、天下の重みを背負おうとも、私のこの槍を砕けぬ限り、貴様の新しい時代はここで潰える。……諦めろ、ジン。これ以上は、惨たらしいだけだ」
シュウスイの言葉は、揺るぎない事実であった。
周囲で見守る旭州の将兵たちも、その圧倒的な実力差に絶望の色を隠せなくなっていた。いかにジンが生命力に溢れていようと、純粋な武術の次元が違いすぎる。シュウスイは、文字通り手も足も出ない「完璧な壁」としてそこに君臨していた。
しかし。
ジンは、血だらけの顔のまま、フッと笑みを零した。
「……諦めろ、だと?」
ジンは、自らの震える両手を強く打ち据え、再び長剣を握り直した。
「あのな、オッサン。俺は今まで、諦めたらその日に飢え死にするような底辺を生きてきたんだ。……泥水すすって、草の根齧って、奪われて、踏み躙られて。それでも、明日は美味い飯が食えるかもしれないって、それだけで立ち上がってきたんだよ」
ジンの全身から、シュウスイの洗練された闘気とは全く質の違う、土臭く、青臭く、そして限りなく熱い「覇気」が立ち上り始めた。
「あんたの槍が二百年の歴史なら、俺の剣は、この天下で飢えて死んでいった何百万っていう民たちの、明日生きたかったっていう『執念』の塊だ」
ジンの一歩が、泥濘を深く踏みしめる。
「武術の次元が違おうが、才能がなかろうが関係ねえ。俺がここで倒れたら、俺の後ろで腹を空かせて待ってる連中が、また元の地獄に逆戻りするんだ。……だから俺は、絶対に倒れねえし、絶対に負けねえッ!」
ジンの咆哮が、逢魔が時の戦場にこだました。
「……ならば、その執念ごと、私の全力で断ち切ろう」
シュウスイの瞳に、哀れみは完全に消え去った。
あるのは、最大の敬意を持った敵を、己の持つ最高の技をもって完全に葬り去るという、武人としての冷徹な覚悟のみ。
シュウスイが大槍を腰の高さに構え、極端に姿勢を低くした。
周囲の空気が、ピシッと音を立てて凍りついたような錯覚。
黎州武術の秘伝、防御を完全に捨て、一撃必殺の速度と破壊力のみに全存在を懸ける、神速の突き。
対するジンもまた、長剣を正眼に構え、自らの命を顧みない特攻の姿勢をとった。
風が止んだ。
両者の間にある十数メートルの空間が、極限の緊張によって歪んで見える。
「おおおおおおおォォォッ!!!」
二人の咆哮が完全に重なり合った瞬間。
泥濘の平原を、二つの巨大な影が流星のように駆け抜けた。
二百年の歴史を背負った、完璧なる大槍。
天下の胃袋を背負った、変幻自在の剣。
もはや小細工も、策もない。互いの存在証明のすべてをぶつけ合う、最後の一撃が、戦場の中央で激しく交差しようとしていた。




