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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第95話 泥濘の散華と、誇り高き死兵たち

春の雪解け水が作り出した広大な泥濘の平原は、数万の兵士たちが入り乱れる、この世の地獄と化していた。

シュウスイが全軍の命を一点に集中させた「背水の突撃陣」。

それは旭州の誇る十万の分厚い防衛網に正面から激突し、その最も外側にある堅牢な盾の壁をいとも容易く粉砕した。しかし、旭州軍が「受け」から「包囲」へと陣形を変化させたことで、戦況は一つの巨大な楔から、無数の局地戦が同時多発的に発生する壮絶な乱戦へと移行したのである。

「退くな! 敵はすでに兵糧が尽きている! 持久戦に持ち込めば必ず我らが勝つ! 陣形を維持し、数の力で押し潰せ!」

ゲントの喉が裂けんばかりの号令が、戦場の喧騒を切り裂く。

旭州軍の兵士たちは、泥に塗れながらも必死に長槍を突き出し、四方から北国軍を包囲して圧縮しようと試みていた。圧倒的な兵力差。そして、ひと冬を温かい飯で越した旭州軍と、飢餓の極限にある北国軍。誰の目にも、勝敗は時間の問題であるように思えた。

しかし、包囲の網を狭めようとした旭州の千人将たちは、自らの槍の先から伝わる異様な手応えに、次々と戦慄の声を上げることになる。

「な、なんだこいつら……! 槍が刺さっているのに、倒れないぞ!」

旭州の足軽が放った三本の槍が、黒い甲冑を纏った黎州の古参兵の腹部と太腿を深く貫いていた。常人であれば即死、あるいは激痛で地面にのたうち回る致命傷である。

だが、その古参兵は口から大量の血を吐き出しながらも、決して膝を折らなかった。それどころか、自らの肉体に突き刺さった槍の柄を両手で強く握りしめ、旭州兵を道連れにするように、さらに一歩、泥濘を前へと踏み込んできたのである。

「うおおおおッ! 我が命、二百年の歴史の礎となれェッ!」

古参兵は自らの肉を引き裂きながら間合いを詰め、手にした折れた剣を旭州兵の首筋に深々と突き立てた。そして、相討ちとなって泥の中に倒れ込むその瞬間まで、彼の顔には微塵の恐怖も、死に対する絶望も浮かんでいなかった。

あるのは、武人としての本懐を遂げるという、凄絶なまでの誇りと歓喜の表情だけであった。

「怯むな! 槍を引け! 次の列、前へ出ろ!」

ガクが自ら十文字槍を振るい、狂気のような気迫で迫る北国の兵士たちを薙ぎ払う。

無口で冷静なガクの瞳にも、隠しきれない動揺が走っていた。

彼がこれまで戦ってきたどの軍隊とも違う。ソウガの狂気に怯えていた兵士とも、トウガの無謀な突撃に付き合わされていた兵士とも違う。

今の北国軍は、一人一人が「己の死に場所」を完全に理解し、その命を最も効率よく、最も敵に損害を与える形で使い切るためだけに動いているのだ。

「……これが、死兵か」

陣の奥から戦況を分析していた悪魔の軍師クロウは、車椅子の肘掛けを指が白くなるほど強く握りしめていた。

「兵法において、死地に陥った軍は時に通常の三倍の力を発揮すると言われます。しかし……あれは狂乱や自暴自棄ではない。極限まで研ぎ澄まされた理性が、自らの命を『シュウスイ様を進ませるための足場』として消費している。……恐怖で支配された軍でも、欲望で動く軍でもない。純粋な『大義』と『誇り』だけで結びついた軍隊が、これほどまでに恐ろしいとは」

クロウの背筋に、冷たい汗が流れ落ちた。

彼の得意とする謀略、心理戦、情報操作。そのすべてが、今の北国軍の前では一切の無意味と化していた。彼らはすでに死を受け入れており、揺さぶるべき心そのものが、強固な一つの槍となってしまっているからだ。

戦場の中央。

白狼の毛皮を被った旧ハクヤ軍の戦士たちが、巨大な戦斧を振り回し、旭州の重装歩兵の盾を次々と叩き割っていた。

彼らは北国の極寒を耐え抜いた強靭な肉体を持っているが、すでに数日間ろくな食事をとっておらず、その頬はこけ、目は落ち窪んでいた。しかし、その眼光だけは異様なまでにギラギラと燃え盛っている。

「道を開けろォ! シュウスイ様のお通りだァッ!」

「させるかよ、雪国の田舎モンどもがァッ!」

ゴウが、折れた肋骨の痛みを無視して、隻腕で巨大な鉄砕棒を振り回す。風を切る豪腕が、白狼の戦士たちを数人まとめて宙へ吹き飛ばした。

だが、吹き飛ばされた戦士たちは、空中で自らの体を捻り、着地と同時に再びゴウの足元へと特攻を仕掛けてくる。

「チィッ! どいつもこいつもしぶとすぎんだよ!」

ゴウが舌打ちをした瞬間、彼の死角から北国の槍兵が肉薄した。

「沙那の六文銭、通らせはしない!」

真紅の甲冑が閃き、レンの十文字槍が間一髪で北国兵の喉笛を貫く。秋の戦いで受けた肩の傷がまだ開いているにもかかわらず、レンの動きには迷いがなかった。

「助かったぜ、レン!」

「礼はいい! ゴウ、気をつけろ! こいつらはただの特攻じゃない! 自らが死ぬことで、我々の陣形に意図的な穴を開けようとしているんだ!」

レンの直感は正しかった。

北国軍の兵士たちは、ただ無闇に突撃しているわけではなかった。彼らはシュウスイという絶対的な指揮官の視線を背中に感じながら、旭州軍の包囲網の「継ぎ目」や、指揮官のいる「急所」に向かって、自らの命を弾丸として正確に撃ち込み続けていたのである。

「ドォン! ドォォン!」

リョウガの率いる海狗衆が、丘の上から火薬兵器「火吹き竜」を乱射する。

凄まじい爆発と鉄屑の雨が北国軍の密集地帯に降り注ぎ、数十人の兵士が一瞬にして肉塊へと変わる。

だが、爆風が晴れた直後、そこに広がっていた光景に、リョウガは手にした導火線の松明を落としそうになった。

「な、なんだあいつら……バケモンかよ」

直撃を免れ、半身を吹き飛ばされた北国の将校が、残った片腕で自らの腸を押さえながら、倒れた味方の屍を踏み越えて歩みを止めなかったのである。

彼は火吹き竜の砲座がある丘を見据え、血まみれの口元に笑みすら浮かべていた。

「ルリ様……。どうか、健やかに……。我らのこの血が、新しき黎州の豊かな大地を育む肥やしとなりますように……!」

将校は最期の気力を振り絞って旭州の砲兵に組み付き、そのまま丘の斜面を転げ落ちて絶命した。

圧倒的な絶望。

十万の旭州軍は、数の上では北国軍を完全に包囲し、圧倒していた。しかし、精神的な重圧は、むしろ旭州軍の方に重くのしかかっていた。

「ひぃぃッ! 来るな! 来るなァッ!」

恐怖に耐えきれなくなった旭州の若い足軽が、槍を放り出して後退しようとする。

「退くなッ!!」

その足軽の首根っこを、泥まみれの手が力強く掴んだ。

覇王ジンであった。

ジンは自らも最前線で長剣を振るい、全身に無数の返り血を浴びていた。その顔は泥と血で汚れ、薬草売り時代の面影はない。天下を背負う王としての、壮絶な覇気が全身から立ち上っていた。

「よく見ろ! 敵はもう限界だ! 腹を空かせ、傷つき、それでも意地だけで立ってるんだ! 俺たちがいまここで一歩でも退いたら、あいつらの死ぬ気覚悟の命の重さに負けたことになるんだぞ!」

ジンの声は、戦場の騒音を突き抜けて、旭州軍の全兵士の耳に届いた。

「あいつらは立派だ! 二百年の歴史を背負って、見事に散りやがる! だからこそ、俺たちはあいつらの覚悟から目を背けちゃならねえ! この十万の質量で、俺たちの泥臭い意地で、真っ向からすべてを受け止めて、すり潰すんだ!」

ジンは長剣を天高く掲げた。

「生き残れ! 今日この地獄を生き残って、明日、腹がちぎれるほど美味い白米を食うんだ! 俺たちの創る新しい天下は、誰も腹を空かせない世界だ! そのために、踏ん張れェェェッ!!」

「「「おおおおおッ!!」」」

ジンの泥臭く、しかし真理を突いた叫びに、旭州軍の士気が再び爆発的に跳ね上がった。

恐怖は消え去り、代わりに「生き残る」という最も根源的な生存本能が十万の兵士を一つに束ね上げた。

彼らは逃げなかった。

死を恐れぬ北国の特攻に対し、旭州の兵士たちもまた、泥に足を深く埋め込み、決して陣形を割らせまいと文字通り肉の壁となって立ち塞がった。

槍と槍が交差し、盾と戦斧が砕け散る。

泥濘の平原は、人間の血と内臓、そして砕けた鉄の破片で完全に埋め尽くされていった。

凄惨な総力戦。

時間が経つにつれ、圧倒的な兵力差と兵站の差が、残酷なまでに結果として現れ始めた。

一万、五千、三千。

北国軍の数は、旭州軍の分厚い壁に激突するたびに、波に削られる岩のように徐々に、しかし確実に減っていった。

だが、その死体の山の中心、ただ一つの「巨大な槍」だけは、決して歩みを止めることがなかった。

「……見事だ。我が精鋭たちよ。お前たちの誇り、この腕に確かに刻み込んだ」

シュウスイであった。

彼の乗っていた黒毛の軍馬はすでに無数の矢を受け、泥の中に斃れている。

シュウスイは馬から降り、自らの両足で大地を踏みしめながら、大槍を振るい続けていた。

彼の周囲には、最後まで彼を守り抜こうとして散っていった、北国軍の近衛精鋭たちの亡骸が山のように積み重なっている。

シュウスイの全身もまた、無傷ではなかった。

旭州軍の無数の槍が彼の甲冑を掠め、矢が肩や大腿部に突き刺さっている。しかし、鬼神の歩みは微塵も揺るがない。

彼は、倒れていった自軍の兵士たちの屍を静かに踏み越え、彼らの無念と誇りを自らの大槍の重みに変えて、ひたすらに、ただひたすらにジンのいる本陣の最奥へと進み続けていた。

「止めろォ! あのおっさんだけは通すなァッ!」

旭州の千人将たちが束になってシュウスイに襲いかかる。

しかし、シュウスイが冷徹な一瞥と共に大槍を横薙ぎにすると、十数人の兵士が甲冑ごと胴体を両断され、血の雨となって周囲に降り注いだ。

「遅い。軽い。……脆い」

シュウスイの呟きは、誰に宛てたものでもない。

二百年間の戦乱の歴史の中で、彼が研ぎ澄ませてきた武の極致。それは、小細工も謀略も一切通用しない、純粋な暴力の結晶であった。

「……来い。道を開けろ!」

ジンの声が響いた。

ゴウが、レンが、ガクが、ゲントが。旭州の将たちが、血の海と化した戦場の中央で、静かに左右へと道を開いた。

その先には、数万の北国軍を完全に殲滅し、自らも満身創痍となった旭州軍のド真ん中で、ただ一人、長剣を下げて立つ覇王ジンの姿があった。

日はすでに西に傾き、血塗られた泥濘の平原を、逢魔が時の赤い光が照らし出している。

数万の命が激突した凄惨な喧騒が、嘘のように静まり返っていた。

風の音すら消え失せたかのような、絶対的な静寂。

シュウスイの背後には、彼と共に死地に赴いた北国軍のすべての兵士が、誇り高き屍となって泥に沈んでいる。彼らは一人残らず討ち死にしたが、誰の背中にも逃げ傷はなかった。

そして、ジンの周囲には、多大な犠牲を払いながらも彼を守り抜いた旭州の将兵たちが、荒い息を吐きながら鬼神の姿を畏怖の目で見つめていた。

「……私の軍は、全滅したか」

シュウスイは、周囲の屍の山を静かに見渡し、そして、正面に立つジンへと視線を戻した。

「ああ。あんたの兵士たちは、最後まで一歩も退かなかった。見事な軍隊だったよ」

ジンは、泥と血で汚れた顔のまま、最大の敬意を込めて答えた。

「そうか。ならば、私に残された役目は一つだけだ」

シュウスイは、自らの身体に突き刺さっていた数本の矢を、顔色一つ変えずに無造作に引き抜いた。鮮血が甲冑を伝って泥に落ちるが、彼の放つ圧倒的な闘気は、むしろ先ほどよりもさらに巨大に膨れ上がっていた。

「二百年の歴史を背負った、最後の黎州武人として。……そして、ルリ様とカレン様を守る、北国の王として。泥犬のジン、貴様の首を貰い受ける」

シュウスイが大槍を中段に構えた瞬間、空気が凍りついたかのような錯覚に陥った。

もはや、軍と軍の戦いではない。

戦乱の世を終わらせるための、たった二人の男による、純粋で完全なる一騎討ちの舞台が、数万の屍の上に整えられたのである。

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