第94話 十万の壁と、鬼神を喰らう鉄の牙
雪解けの泥濘を震わせ、北国軍の巨大な楔が突き進んでくる。それは数万の命を束ねた、純粋な殺意の塊であった。
先頭に立つシュウスイが掲げる大槍は、まるで戦場という海を切り裂く船首のように、旭州軍の防衛陣の「正道」を容赦なく抉り取っていく。
「陣形を維持しろ! 槍衾を緩めるな! 敵を中央に深く引きずり込み、横腹を露出させろ!」
旭州軍の最前線では、ゲントが血走った目で絶叫していた。
彼が指揮する盾部隊は、シュウスイの突撃によって次々と粉砕されていた。盾を支える兵士の腕は限界を超え、骨の軋む音が聞こえるほどの負荷がかかっている。しかし、旭州の兵たちは一歩も引かなかった。彼らはかつてのトウガ軍のような無能な軍勢ではない。この一年間、泥にまみれ、死線を超え、ジンと共に飯を食い、絆を深めてきた「覇王の軍」である。
「食い止めろ! あのおっさんに、これ以上先へは行かせるな!」
ゴウが重傷を負った身体を引きずりながら、防衛線の隙間に飛び込んだ。彼は鉄砕棒を鈍い音を立てて泥に突き立て、自らの体重をかけて陣形の「栓」となる。彼の咆哮に呼応するように、旭州の兵士たちが死体となって積み重なる友の屍を踏み越え、さらに分厚い壁となってシュウスイの前に立ち塞がった。
「面白い」
シュウスイは、自らの槍先で旭州兵の胴を貫きながら、その戦いぶりに不敵な笑みを浮かべた。
彼の周囲には、すでに百を超える旭州兵の亡骸が折り重なっている。しかし、その後方からは、無限に湧き出るかのように次の壁が現れる。ジンが築き上げた、食糧と規律による「十万の質量」が、シュウスイの突破力を物理的な絶望へと変えていく。
「シュウスイの陣形は、前の者が倒れれば、後ろの者が死体を踏んで突き進む形。……ならば、その死体の山を、二倍、三倍の高さに積み上げてやるまでだ!」
後方支援の指揮を執るクロウが、車椅子の上で杖を激しく叩きつけた。
「リョウガ! 火吹き竜を前線へ直打ちしろ! 敵の楔の先端を完全に封じ込め、足を止めさせるのだ!」
クロウの指示に応じ、リョウガが操る水運部隊が、川沿いに設置した特製の砲座から次々と砲弾を放つ。
ドォォン! ドォン! と轟音と共に地面が抉れ、シュウスイの周囲の兵士が巻き上げられる。突撃の勢いが削がれ、シュウスイの黒毛の軍馬が泥濘の中で一瞬、その足を止めた。
「今だ! ガク! レン! 左右から完全に包囲しろ!」
ジンが全軍に号令を下すと同時に、ガクが指揮する槍兵部隊と、傷を負いながらも復帰したレンの遊撃部隊が、三日月形に大きく陣形を変化させた。
先ほどまで「受け」に徹していた旭州軍が、突如としてシュウスイの楔を飲み込むような「包囲網」へと変貌を遂げる。
「正道をもって正面を受け止め、邪道をもってその首を絡め取る……。ジン、お前の覇道、確かに受け取ったぞ!」
シュウスイは、四方を旭州の十万の軍勢に囲まれたことに気づきながらも、その表情には一片の動揺もなかった。
彼は馬から飛び降りると、周囲を取り囲む旭州兵の槍衾を、大槍の円舞をもって掃き払う。二百年の歴史を背負ったその武力は、十万の壁を前にしてもなお、衰えるどころかさらに研ぎ澄まされていく。
「全兵、楔を解け! ここからは個々の武をもって、あの泥犬の首を獲るための乱戦に持ち込め!」
シュウスイの指示により、北国軍の楔陣形が霧散し、旭州の十万の包囲網の中で、無数の小さな戦いが同時多発的に発生する「地獄の乱戦」へと突入した。
陣形という枠を超え、兵士と兵士が泥の中で組み合い、血を流し合う凄惨な光景。
ジンは、その乱戦の只中に、自ら長剣を振るって飛び込んでいった。
「守る必要はねえ! 俺の背中を隠せる場所にいる奴は、全員俺と一緒にあのおっさんの元へ走れ!」
覇王自らが先頭に立ち、旭州の十万の質量が、まるで雪崩のように北国軍を飲み込んでいく。
正道の防衛陣と、邪道の包囲網。
そして、その中心で繰り広げられる、覇王と鬼神の最後の総力戦。
春の陽光の下、大地は兵士たちの鮮血によって赤く染まり、泥濘の平原は、文字通りの「地獄の底」へと姿を変えようとしていた。




