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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第93話 雪解けの絶局と、背水の突撃陣

長く、あまりにも過酷な冬であった。

西国と北国の国境地帯を完全に白銀の絶望で覆い尽くした猛吹雪は、数ヶ月にわたって両軍の身動きを封じ込めた。

物理的な戦闘は完全に停止したが、それは「戦い」が休止したことを意味するものではなかった。極寒の大自然という、人間には到底抗えぬ無慈悲な第三の敵を相手にした、命を削る生存競争。

そして、翌年の春。

分厚い雪雲がようやくその色を薄め、温かな陽光が凍てついた平原に差し込み始めた頃。

雪解け水が再び大地を泥濘へと変えていくその景色は、一年間に及んだこの「北国戦役」が、ついに最終局面を迎えたことを告げていた。

北国軍の本陣。

かつては一寸の隙もない完璧な統制と、山のような物資を誇っていた氷雪の要塞。しかし今、その内側は静かな、しかし確実な「死の気配」に包まれていた。

地下に掘られた巨大な貯蔵庫には、もはや何もない。

天井まで積まれていた塩漬けの肉も、干した魚も、根菜も、すべてが空っぽになっていた。陣を温めるための薪はとうの昔に尽き、兵士たちは肩を寄せ合い、互いの体温だけでこの厳冬を耐え抜いてきたのだ。

「……シュウスイ様。昨日をもって、兵糧は完全に底を突きました。馬に食わせる藁すら、もう一握りも残っておりませぬ」

冷え切った天幕の中で、ひどく頬の痩せこけた副将が、乾いた唇を震わせながら報告した。

「傷病兵の凍死者も、この十日で急増しております。兵の体力はすでに限界。これ以上の陣地維持は……不可能です」

副将の報告を聞きながら、床几に腰掛けたシュウスイは、目を閉じて静かに頷いた。

彼の顔にもまた、深い疲労の色が刻み込まれていた。

しかし、その背筋は二百年の歴史を背負う大樹のように微動だにせず、深淵のような瞳の奥には、一切の絶望も後悔も宿っていない。あるのは、すべての数式を解き終え、最後の一手だけが盤面に残されたという、極限まで研ぎ澄まされた冷徹な理性の光であった。

「よく耐えてくれた。皆、本当によく耐え抜いてくれた」

シュウスイの低く、静かな声が天幕に響く。

「我々は一年間、十万の大軍を相手に一歩も引かず、北の民とルリ様をお守りするという大義を果たし続けた。……旭州の兵站は南の海と豊かな西国に支えられている。対して我々は、限られた備蓄のみでこの冬を越した。計算上、ここで糧が尽きるのは必然であり、誰の失策でもない」

シュウスイはゆっくりと立ち上がり、天幕の入り口から、春の兆しを見せ始めた雪解けの平原を見つめた。

遥か南には、旭州軍の十万の巨大な陣地が、再び活動を再開しようと黒々と蠢いているのが見える。

ジンは、冬の間も水運の凍結ギリギリまで兵站を繋ぎ、西国の都市部と前線を交代で回すことで、大軍の損耗を最小限に抑えきっていた。このまま春を迎え、旭州軍が完全な補給を取り戻せば、もはや北国軍に勝ち目は万に一つも存在しない。

「退却の道は、ないな」

「……はい。我々には、北へ撤退するための食糧も、馬の体力も残されておりません。背を向ければ、旭州の追撃部隊に背後から蹂躙され、そのまま北国の主城まで雪崩れ込まれるでしょう」

シュウスイは、懐から一枚の小さな布切れを取り出した。

それは、北国を出陣する際、カレンが持たせてくれた、生まれたばかりのルリの産着の切れ端であった。

シュウスイは、その布切れを自らの武骨な指でそっと撫で、そして、意を決したように懐の奥底へと深く仕舞い込んだ。

「ならば、道は一つしかない」

シュウスイは振り返り、集まった将軍たちを真っ直ぐに見据えた。

「これより、我々は陣を捨てる」

その一言に、将軍たちは息を呑んだ。

「防御網、後方支援、兵站部隊。それら戦を支えるすべての概念を、この場に放棄する。……我々に残された最後の武力、その一兵卒に至るまでを、ただ一つの『巨大な槍』として再編成しろ」

シュウスイは、戦況図の上に残されていた自軍の駒をすべて払いのけ、たった一つの楔の形にして、旭州本陣のド真ん中へと突き立てた。

「背水の突撃陣だ。目標は、旭州覇王ジンの首。……それ以外のすべてを無視し、全軍の命の残滓をこの一点にのみ集中させる。防ぐ必要はない。ただ前に進み、前の者が倒れれば後の者がその屍を踏み越えて進め。これが、黎州二百年の歴史を締めくくる、我々の最後の戦いだ」

飢えと寒さで限界を迎えていた将軍たちの顔に、恐怖の色はなかった。

むしろ、長すぎる我慢比べから解放され、ついに武人としての本懐を遂げる時が来たという、壮絶な歓喜と誇りの色が浮かび上がっていた。

「……シュウスイ様。我ら旧ハクヤ軍、元よりこの命は冬の雪原に捨てたもの。最後まで、鬼神の背中をお守りいたします」

白狼の毛皮を纏った老将が、深く頭を垂れる。

「黎州の武人の恐ろしさ、泥犬どもに骨の髄まで刻み込んでやりましょうぞ!」

黒甲冑の古参兵もまた、血の滲むような笑みを浮かべて槍を握り直した。

「行くぞ。時代を終わらせに」

シュウスイの静かで、絶対的な号令が下された。

数刻後。

雪解けの泥濘が広がる平原に、異様な軍勢が姿を現した。

旭州軍を警戒させるための防壁や、前哨陣地はすべて解体され、北国軍の全兵力が、平原の中央にただ一つの巨大な「縦長の楔」となって密集していたのである。

最前列には、分厚い大盾を持った重装歩兵。その後ろに、長槍部隊が隙間なく続き、さらにその後方に弓兵が続く。それは一見すると通常の突撃陣形のように見える。

しかし、旭州軍の本陣から双眼鏡でその様子を観察していた悪魔の軍師クロウは、その陣形の異様さに気づき、青白い顔に戦慄を走らせた。

「……なんと恐ろしい陣を敷くのだ、あの男は」

クロウの握る杖が、微かに震えていた。

「どういうことだ、クロウ。あれはただの猪突猛進の陣形じゃないのか?」

本陣の物見櫓の上で、ジンが目を細めて問う。

「違います。ジン殿、よくご覧ください。あの陣形には……『逃げ道』が一切存在しません」

クロウは、忌々しげに舌打ちをした。

「通常、いかに強力な突撃陣形であろうと、部隊の間には退却や配置転換のための『隙間』を設けます。しかし、あのシュウスイの陣は、全兵士が文字通り肩を寄せ合い、前後の間隔を異常なまでに詰めている。……あれは、前の兵士が倒れた瞬間、後ろの兵士がその死体を物理的に踏み台にして、一歩も立ち止まることなく前進し続けるための、純粋な『人間粉砕機ミートグラインダー』です」

クロウの説明に、隣にいたゲントも表情を硬くした。

「……背水の突撃陣。防御や生存という概念を一切切り捨てた、絶対死の陣形。しかし、それをあの規模で、一切の乱れなく統制するなど、正気の沙汰ではありません」

「兵糧が尽き、後がないと悟ったか。だが、絶望からの暴走ではない。あの陣形は、極限まで計算され尽くした『理』の産物だ」

ジンは、物見櫓の欄干を強く握りしめた。

遥か彼方、数万の兵が密集する楔陣の最も先頭。そこに、誰よりも巨大な大槍を構え、漆黒の軍馬に跨る鬼神シュウスイの姿があった。

指揮官みずからが陣形の最も危険な先端に立ち、自らの命を最初の矛先として十万の大軍に叩きつけようとしているのだ。

「……軍略も、兵站も、二百年の歴史も。全部やり尽くして、最後に残ったのが、あの狂気みてえに純粋な『一直線の槍』ってわけか」

ジンの胸の奥底で、かつてないほどの熱い血が沸騰し始めていた。

泥水の中から這い上がり、生き残るためにあらゆる卑怯な手も使ってきたジン。しかし、目の前にいるシュウスイという男は、そのすべての策を正面から受け止め、耐え抜き、そして最後に自らの全存在を懸けたこの一撃にすべてを託してきたのだ。

小細工は、もう通用しない。

どんな謀略も、罠も、あの死を恐れぬ数万の質量の前には、紙屑のように引き裂かれるだろう。

「ジン殿。我々も総力を結集して防衛にあたらねば、あの槍は真っ直ぐにこの本陣を貫き、あなたの首を刎ね飛ばします。……ガクとゲントの正道陣形に、すべての兵力を集中させ、幾重にも壁を作るしかありません」

クロウが、かつてないほど切羽詰まった声で進言する。

「ああ、分かってる」

ジンは物見櫓から飛び降り、泥にまみれた本陣の広場に降り立った。

そこには、秋の戦いでシュウスイに重傷を負わされ、ようやく傷が癒えて戦線に復帰したゴウとレン、そしてガク、ゲント、リョウガといった旭州の全将軍が顔を揃えていた。

「お前ら、見ただろう。あのおっさん、ついに持ってるもん全部捨てて、俺の首一つだけを獲りに来やがった」

ジンは、腰の長剣を引き抜き、泥濘の地面に突き立てた。

「俺たちはこの一年、飯を食わせ、陣を保ち、耐え抜いてきた。……あのおっさんの兵糧が尽きた時点で、俺たちの『戦略的』な勝ちは決まってるんだ。だがな」

ジンの眼光が、野獣のように鋭く研ぎ澄まされる。

「戦略で勝っても、戦術で負けて俺の首が飛べば、この天下はまた元の終わらねえ乱世に逆戻りだ。……あのおっさんは、二百年の旧き時代のすべてを背負って、最後の落とし前をつけに来た。だったら、俺たち新しい時代の人間が、それを真っ向から受け止めて、完全に叩き折ってやらなきゃ筋が通らねえ」

「へっ、言ってくれるぜ親父。秋にやられた借りは、きっちり千倍にして返してやるよ」

ゴウが、巨大な鉄砕棒を肩に担いで獰猛に笑う。

「ああ。沙那の六文銭、今度こそあの鬼神の急所を貫いてみせる」

レンもまた、真紅の甲冑を鳴らし、十文字槍の切っ先を北へ向けた。

「ガク、ゲント。陣形の指揮は任せる。一番分厚くて、一番嫌らしい壁を作れ」

ジンが指示を飛ばす。

「承知。千波万波の陣、その最終形態をもって、あの狂気の突撃を泥の中に沈めてみせます」

「俺の盾は、親父には絶対に届かせない」

ゲントとガクが同時に頭を下げ、直ちに最前線へと走っていく。

「リョウガ! 火吹き竜の準備はいいか! 煙幕じゃねえ、ありったけの火薬と鉄屑を詰め込んで、敵の先端を物理的に粉砕しろ!」

「おうさ! 海狗衆の弾薬庫は空っぽだ! 全部あのバケモンオヤジの頭上に降らせてやるよ!」

旭州軍十万の総力が、泥濘の平原に巨大な「受けの陣」を形成していく。

それは、かつて東国軍を飲み込んだ陣形よりもさらに分厚く、さらに強固な、絶対防衛の最終形態であった。

前線には何万もの盾が並び、その後方には無数の長槍が森のように林立し、小高い丘には火薬兵器が砲門を連ねている。

「……来いよ、シュウスイのオッサン。俺が背負ったこの天下の重み、あんたの槍で貫けるか試してみろ!」

ジンは、本陣の最奥で長剣を構え、自らの命を狙う巨大な楔を真っ直ぐに見据えた。

その時である。

遥か前方、北国軍の楔の先端で、シュウスイが大槍を天高く掲げた。

「全軍――ッ!! 我が屍を越え、覇王の首を獲れェェェェェッ!!!」

天下最強の鬼神の咆哮が、雪解けの泥濘を震わせた。

ズシンッ、ズシンッ、と、数万の兵士が全く同時に足を踏み出す地鳴りが響き始める。最初はゆっくりとした歩みは、次第に速度を増し、やがて平原を揺るがす巨大な黒い雪崩となって、旭州の十万の大軍へ向けて猛然と突進を開始した。

一切の退路を持たず、ただ殺すためだけに研ぎ澄まされた二百年の歴史の集大成。

対するは、泥の中から這い上がり、すべての正道と邪道を尽くして迎え撃つ新しき天下の壁。

一年間に及んだ泥沼の戦役の、最後にして最大の総力戦。

両軍の将兵の咆哮と、金属が激突する凄惨な轟音が、春の空に響き渡ろうとしていた。

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