第92話 泥犬の牙と、白銀の休戦
最強の鬼神が放った、天下を終わらせるための完璧な必殺の一撃。
その鋭く冷たい刃が、覇王ジンの首筋の皮膚を捉え、赤い血の筋を一筋浮かび上がらせた。
(……死ぬ)
常人であれば、己の死を認識する間もなく首を刎ね飛ばされている神速の突き。
しかし、ジンは首筋に冷たい鉄の感触を覚えたその刹那、武将としての「誇り」や「見栄」を完全にかなぐり捨てた。
彼は刃を剣で受け流すことすら放棄し、己の全身の脱力をもって、後ろへ向けて無様に倒れ込んだのである。
剣術の定石には存在しない、泥水の中から這い上がってきた野犬のみが持つ、絶対的な生存本能による完全な「死に体」。
ズバァァァッ!!
シュウスイの大槍は、ジンの首があった空間を凄まじい風圧と共に切り裂き、後方にいた旭州の兵士数人をまとめて吹き飛ばした。
「なっ……!?」
シュウスイの深淵のような瞳に、わずかな驚愕が走る。
自らの完璧な突きを、剣で防ぐのではなく、泥の中に身を投じることで間一髪躱したのだ。
「泥犬舐めんな、オッサンッ!!」
仰向けに泥濘に倒れ込んだジンは、そのまま体を捻り、足元にあった大量の泥水と小石をシュウスイの顔面めがけて蹴り上げた。
さらに、泥の中を転がりながら距離を詰め、下段からシュウスイの膝裏の関節という、甲冑の隙間を狙って刃こぼれだらけの長剣を薙ぎ払う。
「……ッ、下劣な!」
シュウスイは泥を被りながらも、瞬時に大槍の柄を足元へ滑らせてジンの刃を弾き返した。
ガァァンッ!!
火花が散り、ジンの手が痺れで弾き飛ばされそうになる。
「下劣で結構だ! 綺麗に戦って勝てるほど、天下は甘くねえんだよ!」
ジンは泥まみれの顔で獣のように笑い、そのまま地面を這うようにして再びシュウスイの懐へと飛び込んだ。
そこからは、戦乱の歴史上、誰も見たことのない異様な死闘が繰り広げられた。
二百年の歴史と伝統に裏打ちされた、一寸の無駄もないシュウスイの完璧な槍術。
それに対するジンは、定石も型も一切ない、完全に泥臭い「喧嘩殺法」であった。
シュウスイが上段から突きを下ろせば、ジンは剣を捨てて大槍の柄に抱きつき、その重みを利用してシュウスイの体勢を崩そうとする。
シュウスイが石突きで距離を取ろうとすれば、ジンは自らの外套を脱ぎ捨てて槍の穂先に絡ませ、目潰し代わりに泥を投げつけながら、隠し持っていた短刀で急所を狙う。
「ハァッ……ハァッ……!」
「……貴様、王としての誇りはないのか!」
シュウスイの槍がジンの左肩を掠め、鮮血が舞い散る。
しかしジンは、痛みに顔を歪めるどころか、その血を自らの顔に塗りたくりながら、さらに踏み込んできた。
「俺の誇りはな、生き延びて、明日も美味い飯を食うことだけだ! 飾られた玉座で澄ましてるだけの王なら、とっくの昔に死んでるんだよ!」
ガキンッ! キィィンッ!
ジンの長剣が、シュウスイの大槍と何度も激突する。
武力も、体格も、技術も、すべてにおいてシュウスイが圧倒しているはずだった。ジンの全身には無数の切り傷が増え、体力も限界に近づきつつある。
しかし、シュウスイは心の奥底で、目の前の男に対する底知れぬ戦慄を覚えていた。
(……この男、型がないゆえに、一切の隙がない。どんなに無様な体勢になろうとも、その瞳だけは常に私の命を狙い続けている)
追い詰めれば追い詰めるほど、ジンという野犬は鋭い牙を剥き出しにして反撃してくる。
それは、かつてソウガが持っていた恐怖による支配とも違い、メイカクが持っていた法による秩序とも違う。
泥水の中から生まれ、どんなに汚れても決して折れることのない「強烈な生命力」そのものであった。
「……ジン。貴様は間違いなく、この世で最も恐ろしい覇王だ」
シュウスイは、泥に汚れた顔で、深く重い息を吐き出した。
「だが、どんなに執念があろうと、肉体の限界という理には逆らえん。……これで終わりだ!」
シュウスイの全身の闘気が、再び爆発的に膨れ上がった。
彼が大槍を頭上で大きく回転させると、周囲の泥濘が竜巻のように巻き上げられる。
二百年の黎州武術の極致、防御も回避も不可能な、全方位を圧殺する「絶の槍」。
ジンは、全身の血を流しながらも、逃げなかった。
長剣を両手で強く握りしめ、自らの命と引き換えにシュウスイの心臓を貫く、相討ちの構えをとる。
(……来る!)
鬼神の必殺の一撃が振り下ろされようとした、まさにその瞬間であった。
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
ジンの背後、旭州軍の本陣の奥深くから、耳を劈くような規格外の爆発音が轟いた。
それと同時に、シュウスイとジンの間の中空を切り裂くようにして、燃え盛る巨大な「何か」が飛来し、二人のすぐ横の泥濘に深々と突き刺さった。
「な……!?」
次の瞬間、凄まじい閃光が戦場を真白に染め上げ、分厚い漆黒の煙が爆発的に膨れ上がった。
シオンの遺した火薬兵器「火吹き竜」。
しかし、それは通常の砲弾ではない。悪魔の軍師クロウが、殺傷能力を捨て、発煙と強烈な目くらましのみに特化させて調合させた、特製の「煙玉」であった。
「ぐっ……! 目が……!」
不意の閃光を至近距離で浴びたシュウスイは、思わず目を覆い、大槍の軌道を逸らした。
周囲は一瞬にして、一寸先も見えないほどに濃密な黒煙に包み込まれる。
「今だッ! ジン殿を回収しろォッ!」
煙の向こう側から、クロウの悲痛な叫び声が響いた。
シュウスイが視力を奪われている、そのわずか数秒の猶予。
ジンは、自らも煙に咽びながらも、決してシュウスイには追撃をかけなかった。盲目の鬼神に迂闊に近づけば、気配だけで体を両断されると本能で悟っていたからだ。
「……悪りぃな、オッサン。この勝負は、預けさせてもらうぜ」
ジンは、すぐ近くの泥の中に倒れていたゴウとレンの襟首を両手で乱暴に掴み上げると、自らの全身の痛みを無視して、火事場の馬鹿力で二人を引きずりながら、煙の奥の味方陣地へと向かって全速力で後退した。
「ジン大将! こちらです!」
飛び出してきたガクと近衛兵たちが、ジンと二人の猛将を受け止め、そのまま波が引くようにして本陣の奥深くへと退却していく。
「……逃げたか、泥犬」
数分後。
強風によって黒煙が晴れた時、本陣の広場には、大槍を構えたまま静かに佇むシュウスイの姿だけが残されていた。
彼がもう一歩踏み出せば、指揮官を失い混乱する旭州の本陣を完全に蹂躙し、大軍を内部から崩壊させることも可能であった。
しかし、シュウスイは自らの足元を見て、静かに大槍を下ろした。
彼の足元の泥濘は、いつの間にか完全に真っ白に染まっていた。
空からは、もはや雪の粒などという生易しいものではない。視界を白く塗り潰し、大地を一瞬にして凍結させるほどの、暴力的な「猛吹雪」が吹き荒れ始めていたのである。
北国の真の冬が、ついにこの泥濘の平原に牙を突き立てたのだ。
「……ここまでか」
シュウスイの吐く息が、白い吹雪の中に溶けていく。
急激な気温の低下により、泥濘は急速に硬い氷の塊へと変わりつつあった。
もしこのまま旭州陣地に深入りすれば、足場が凍りつき、帰還の道を断たれた自軍の兵士たちが、極寒の中で次々と凍死していくことになる。
軍を率いる王として、これ以上の無理な追撃は、自滅を意味していた。
「退け! 全軍、直ちに北の砦へ撤退せよ! 吹雪に飲まれる前に、氷雪の防衛線まで戻るのだ!」
シュウスイの号令に、敵の兵站線を脅かしていた北国の別働隊も、直ちに攻撃を停止し、整然と北へ向けて撤退を開始した。
一方、旭州軍の本陣。
天幕の奥に運び込まれたジンは、全身血だらけのまま、ゴウとレンの治療を軍医に指示していた。二人とも命に別状はないものの、シュウスイの一撃によって重傷を負い、しばらくは戦線に復帰できない状態であった。
「……ジン殿。私の作戦負けです。申し訳ありませんでした」
車椅子で近づいてきたクロウが、深く頭を下げた。彼がこれほどまでに打ちひしがれた顔を見せるのは、旭州軍に加わって以来初めてのことであった。
「両翼への攻撃は陽動。敵の真の狙いが、中央を手薄にさせてジン殿の首を獲ることだったとは。……あの鬼神の狂気と計算を、私は読み切れなかった」
「気にするな。お前がいなきゃ、今頃俺は首と胴体が離れてたんだ。見事な目くらましだったぜ」
ジンは、肩の傷を布で縛り上げながら、笑ってクロウを慰めた。
「だが、これで戦局は完全に振り出しに戻りましたな」
泥だらけの甲冑のまま、ガクとゲントが天幕に入ってきた。
「外は猛吹雪です。道は完全に凍りつき、南の川も数日中には氷に閉ざされるでしょう。水運が止まれば、我々の十万の軍の兵站は維持できません」
ゲントの冷徹な報告に、ジンは無言で頷いた。
「俺たちも、冬ごもりの準備に入るしかねえな。……部隊を下げろ。国境沿いに防寒の陣地を築き、春まで耐え凌ぐ最低限の兵力だけを残して、残りの軍は一度西国と南国の都市部へ引かせる」
「はっ。ただちに」
将たちが天幕を出ていく中、ジンは一人、入り口の隙間から外の猛吹雪を見つめた。
二百年の歴史を背負った鬼神の刃は、確かに新しき覇王の喉元に届いた。
しかし、野犬の泥臭い執念と、軍師の機転がそれをすんでのところで躱し切った。
結果として、この大がかりな陽動作戦と本陣突撃は、両軍に決定的な勝利をもたらすことなく、大自然の猛威の前に強制的な終了を余儀なくされたのである。
戦国最後にして最大の総力戦「一年戦争」。
泥濘の平原を白銀の雪が完全に覆い尽くし、両軍は互いの陣地へ退いて、分厚い氷の壁越しに再び睨み合う「休戦状態」へと突入した。
極寒の冬を越え、再び春の雪解けが訪れる時。
それが、真の天下の覇者を決める、血みどろの最終局面となることを、ジンもシュウスイも、深く魂に刻み込んでいた。




