第91話 双牙の散華と、届きし鬼神の刃
鉛色の空から、白い粒が一つ、また一つと舞い落ちてきた。
ついに北国の冷酷なる冬が、この泥濘の大地にもその牙を剥き始めたのである。
西国と北国の国境地帯、旭州の巨大な本陣。
手薄になった中央の防衛線を単騎の勢いで食い破り、十万の大軍の心臓部たる広場へと躍り出た最強の鬼神、シュウスイ。
そして、その行く手を阻むべく、旭州の誇る二人の若き猛将が、左右から同時に爆発的な踏み込みで襲いかかった。
「オラァァァァッ!!」
右から猛然と突っ込んだのは、特攻隊長ゴウであった。
彼の身の丈ほどもある巨大な鉄砕棒が、唸りを上げて空気を圧縮し、シュウスイの乗る黒毛の軍馬の胴体を真っ二つにへし折らんばかりの横薙ぎの一撃となって放たれる。並の武将であれば、その風圧だけで姿勢を崩し、馬ごと肉塊に変えられているほどの規格外の膂力である。
「遅い」
シュウスイの低く冷徹な声が、ゴウの鼓膜を打った。
ゴウの鉄砕棒が命中する寸前、シュウスイは手綱を絶妙な力加減で引き、軍馬をその場で半歩だけ後退させた。
ゴウの渾身の一撃は、軍馬の鼻先を掠めて完全に空を切る。凄まじい遠心力によってゴウの体が大きく前方へと泳いだ、まさにその絶対的な隙を突き、シュウスイの大槍の石突きが、ゴウの無防備な脇腹に向かって正確無比に突き出された。
だが、シュウスイのその一撃は、目標に到達することはなかった。
「沙那の六文銭、見切れるか!」
左の死角から、真紅の甲冑を纏ったレンが流星のような速度で踏み込んできたからである。
彼の手にする十文字槍が、シュウスイの喉笛、心臓、そして馬の首という三つの急所を同時に狙う、神速の三段突きとなって閃く。ゴウを庇うと同時に、シュウスイの命を確実に刈り取るための、完璧な連携攻撃であった。
「……見事な連携だ。だが、刃が軽い」
キィィィンッ!!
金属が甲高く悲鳴を上げる音が、本陣の広場に響き渡った。
シュウスイは、ゴウに向けていた石突きを瞬時に手元へ引き戻し、巨大な大槍の柄の部分を盾のように回転させて、レンの神速の三段突きをすべて弾き落としたのである。
「なっ……!?」
レンが驚愕に目を見開く。
自らの最高速の突きが、全く力みを感じさせない最小限の動きで捌かれた。それだけではない。シュウスイは大槍でレンの十文字槍を絡め取ると、そのまま円を描くようにしてレンの姿勢を崩し、空振りの体勢から立ち直ろうとしていたゴウの方へと、レンの体を力強く投げ飛ばしたのである。
「うおッ!?」
「くっ!」
ゴウとレンは空中で激突しそうになるが、辛うじて互いの体を蹴り合い、泥濘の地面に無様に転がりながら距離を取った。
「ハァッ……ハァッ……」
「バケモンかよ、あのおっさん……。馬の上で、あれだけデカい槍を小枝みたいに振り回しやがる……」
ゴウが息を乱しながら立ち上がり、鉄砕棒を握る手に力を込める。レンもまた、痺れた両腕に気力を送り込みながら、油断なく十文字槍を構え直した。
シュウスイは、泥に汚れた黒毛の軍馬の上で、大槍を静かに下段に構えたまま、二人を見下ろしていた。
その深淵のような瞳には、敵に対する憎しみや侮蔑はなく、純粋な武力への評価と、静かな哀悼の念すら浮かんでいた。
「お前たちが泥水の中から這い上がり、生き残るために研ぎ澄ませてきたその牙。……確かに鋭く、そして重い。トウガ様が後れを取ったのも頷ける」
シュウスイの吐く白い息が、冷たい風に流れていく。
「だが、お前たちの武は、あくまで『個』の生存本能に根ざしたものだ。二百年という途方もない時間の中で、数多の天才たちが血を流して洗練させ、受け継いできた『歴史の重み』を持たぬ。……その程度の牙では、この私の鱗一枚貫くことはできんぞ」
「歴史の重みだと? 笑わせるな!」
レンが、真紅の兜の下で鋭く吠えた。
「二百年続こうが千年続こうが、最後に泥に沈んだら全部同じだ! 俺たちは、今を生きるために戦ってんだよ!」
「親父をここで死なせるわけにはいかねえんだよ! 俺たちが新しい時代を創るんだ!」
ゴウもまた、凄まじい咆哮と共に泥濘を蹴り飛ばし、再びシュウスイへと突進した。
「右は俺が塞ぐ! レン、お前は左から死角を突け!」
「応!」
二人の若き猛将は、もはや己の命すらも省みない捨て身の特攻へと打って出た。
ゴウが正面から馬の突進を己の肉体で受け止める覚悟で鉄砕棒を大上段に振りかぶり、レンがその隙にシュウスイの側面へ回り込み、最も威力のある渾身の一撃を放とうとする。
二人の呼吸は完全に一つに重なり、彼らがこれまで培ってきた野犬としての泥臭い執念のすべてが、この一撃に込められていた。
いかなる猛将であろうと、この完璧な挟撃を完全に防ぎ切ることは不可能に思えた。
だが、彼らが対峙しているのは、戦乱の世の頂点に君臨し続けてきた天下最強の鬼神である。
そして今のシュウスイは、ただの古き良き武人ではない。愛する妻カレンと、生まれたばかりの娘ルリを守り、新たな王としてこの天下を背負うという、絶対的な大義と覚悟をその身に宿していた。
(守るべき未来がある。……私には、まだここで倒れるわけにはいかない絶対の理由があるのだ!)
シュウスイの全身から、それまでとは次元の違う、爆発的な闘気が立ち上った。
周囲に舞い落ちていた雪の粒が、その熱気によって一瞬で蒸発し、白い蒸気となってシュウスイを包み込む。
「ぬううぅぅぅッ!!」
シュウスイは、馬の上から自ら泥濘の地面へと飛び降りた。
馬という機動力を捨て、大地に両足をしっかりと根付かせる。それと同時に、彼の手にする大槍が、凄まじい風切り音と共に円の軌道を描いた。
ゴウの鉄砕棒が振り下ろされるより一瞬早く。
そして、レンの十文字槍が突き出されるよりさらに一瞬早く。
シュウスイの大槍は、まるで巨大な竜巻が発生したかのような圧倒的な速度と質量をもって、二人の武器を同時に薙ぎ払った。
ガガァァァァンッ!!!
鉄と鉄が激突する、落雷のような轟音。
ゴウの巨大な鉄砕棒は、シュウスイの大槍の圧倒的な威力に弾き返され、その反動でゴウ自身の両腕の骨が悲鳴を上げた。
レンの十文字槍もまた、軌道を完全に逸らされ、空を突く結果となる。
「なっ……!?」
「まだだッ!」
驚愕する二人の隙を、鬼神は見逃さなかった。
武器を弾き飛ばされたゴウのがら空きの胸板に向かって、シュウスイは大槍の石突きを雷のように打ち込んだ。
ドゴォッ!!
「がはァッ……!?」
分厚い甲冑がひしゃげる凄まじい音と共に、ゴウの肋骨が数本同時に砕け散る音が響いた。
ゴウの巨体が、まるで枯れ葉のように泥濘の中を十数メートルも吹き飛ばされ、血反吐を吐きながら地面を転がっていく。
「ゴウッ!! おのれェェェッ!!」
レンが激高し、姿勢を崩したまま十文字槍を振るってシュウスイの首を薙ぎにかかる。
しかし、シュウスイは静かに一歩を踏み込み、レンの懐へと瞬時に潜り込んだ。
「若き虎よ。その気迫、見事であった」
シュウスイの静かな宣告と共に、大槍の鋭い刃が、下から上へと逆袈裟に振り上げられた。
ズシャァァッ!!
「ぐあぁッ……!」
レンの真紅の甲冑が斜めに切り裂かれ、その下から鮮血が派手に噴き出した。
致命傷は免れたものの、左肩から右脇腹にかけて深い斬り傷を負ったレンは、激痛に顔を歪めながら膝から崩れ落ち、そのまま泥濘の中へと顔から倒れ込んだ。
勝負は、一瞬であった。
旭州軍の中でも最強の武を誇る二人の若き猛将が、シュウスイの前に文字通り赤子のようにあしらわれ、重傷を負って戦闘不能に陥ったのである。
「ゴウ! レン!」
本陣の天幕の前で、ジンが顔を歪めて叫んだ。
二人は泥の中でピクピクと痙攣しながらも、必死に立ち上がろうと身悶えしているが、もはや武器を握る力すら残されていない。
シュウスイは二人を追撃し、その息の根を止めることはしなかった。ただの情けではない。今の彼の目的は、敵の総大将であるジンの首ただ一つであり、無力化した武将に構う時間は一秒たりとも惜しかったからだ。
「……終わったな、ジン」
シュウスイは、大槍の刃にこびりついたレンの血を無造作に振り払うと、ゆっくりと、確かな足取りでジンに向かって歩みを進めた。
彼の背後では、本陣を護衛しようとする旭州の兵士たちが幾人も斬りかかっていくが、シュウスイは振り向きもせずに槍を振るい、次々と彼らを泥の中に沈めていく。
もはや、覇王ジンと鬼神シュウスイの間を遮る者は、ただの一人も存在しなかった。
鉛色の空から降り続く雪が、二人の足元に広がる血の海を、少しずつ白く覆い隠そうとしている。
「……ああ、よくぞここまで来やがったな、シュウスイのオッサン」
ジンは、逃げることも、護衛を呼ぶこともせず、腰から引き抜いた無骨な長剣を片手に下げたまま、静かにシュウスイを見据えていた。
彼の顔には、死の恐怖はない。
ただ、自らの大切な仲間たちを傷つけられたことへの静かな怒りと、天下の頂点に立つ者としての揺るぎない覚悟だけが宿っていた。
「私の勝ちだ、泥犬のジン。……貴様がガクとゲントを両翼に配置し、本陣の守りを薄くした時点で、この結末は決まっていたのだ」
シュウスイは、ジンの数歩手前で立ち止まり、大槍の切っ先をジンの喉元へと真っ直ぐに向けた。
「貴様は兵を食わせ、民を救うためにこの天下を獲ろうとした。その志と器の大きさは、この私が誰よりも認めている。……だが、王たる者が兵の命を案じるあまり、自らの首を晒すような甘さを見せれば、それは結果として国を滅ぼすことになるのだ」
シュウスイの言葉は、敵に対する最後の手向けであり、王としての冷酷な教訓でもあった。
「私は新しい王として、貴様が作ろうとした新しい時代ごと、その首を斬り落とす。……恨むなら、自らの優しさを恨むのだな」
「……優しさ、だと?」
ジンは、突きつけられた大槍の切っ先を見つめたまま、ふっと口角を上げて笑った。
「勘違いすんじゃねえぞ、オッサン。俺は優しさなんかで本陣を薄くしたわけじゃねえ。……兵站を守ったのは、あの飯がなければ、ガクもゲントも、泥の中で震えてる足軽たちも、明日を生きられねえからだ」
ジンは、自らの手にある刃こぼれだらけの長剣を、ゆっくりと持ち上げた。
「俺は薬草売りだ。泥水すすって、泥にまみれて、失うもんが何もない底辺から這い上がってきた。……だから、仲間が明日を生きるための飯と、この俺の命を天秤にかけた時、どっちが安いかなんて、考えるまでもねえんだよ」
ジンの瞳に、凄まじいまでの野犬の光が宿る。
「俺の首一つでこの大戦が終わるなら、くれてやる。……だがな、俺の首は、二百年の歴史を背負ったオッサンの槍でも、そう簡単には落とせねえくらいに分厚くて硬いぜ」
「……見事な覚悟だ。ならば、その狂犬の如き命、私の全力をもって断ち切ってやろう」
シュウスイの全身の筋肉が爆発的に隆起し、大槍がジンの首筋へと向かって、雷神の如き速度で突き出された。
回避は不可能。防御も不可能。
最強の鬼神が放つ、天下を終わらせるための完璧な必殺の一撃。
その冷たい刃が、覇王ジンの首筋の皮膚を捉え、赤い血の筋を一筋浮かび上がらせた、まさにその刹那であった。




