宿命の器
医療棟を駆けた。
廊下を曲がり、扉を開ける。
フユは足を止めた。
フラットがベッドに横たわっていた。
顔が白い。唇の色がない。
体の至る所に包帯が巻かれていた。
だが何より——
「悪魔因子……。」
かすかに紫の光がフラットの体表に滲んでいた。
オークのものだ。あの禍々しい気配と同じものが、フラットの体の中に入り込んでいる。
「フユ。」
声がした。
ベッドの傍に、大きな男が立っていた。
エリックだ。元トップ団長。フラットの義父。
その顔が——見たことがないほど歪んでいた。
「……エリック団長。」
エリックは何も言わなかった。
フラットから目を離せなかった。
医師が傍で言う。
「悪魔因子が全身に回っています。エンシェントスペルを試しましたが効果がありません。通常の治癒術も同様です。悪魔因子への干渉は——私たちには手が届かない領域で。」
医師は俯いた。
「死ぬ。ってことか。」エリックが静かに言った。
沈黙が落ちた。
エリックの大きな手が、フラットの包帯に触れた。
「……どうすれば。」フユは声を絞り出す。
誰も答えなかった。
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扉が開いた。
「エリック。」
声を聞いた瞬間、フユは硬直した。
背が高い。
細身だが、纏う気配が別格だ。
穏やかな顔。だが目が——全てを見透かすような目だ。
「せ……。」
フユの声が出なかった。
バークエンを統治する龍王。
内地戦争を終わらせた英雄。
エルドラに住む人間なら知らないものはいない。
セルドア=ルーズフェルトが、そこに立っていた。
「セルドア……。」エリックが呟く。
「ああ、わかってるよエリック。」
セルドアはエリックの傍を通り、フラットのベッドの前に立った。
フラットを静かに見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
セルドアの手がフラットの胸の上に翳された。
薄く——緋色の光が滲む。滅光龍ラフニールの力だ。
「……取り出せる。」セルドアが言った。
「悪魔因子を抜き取ることならできる。」
「なら——!」フユが前に出る。
「だが今は抜けない。」
セルドアの目が静かにフユを見た。
「今のこの子の体は、因子が生命を支えている。抜けば——体が持たない。」
エリックが目を閉じた。
「取り除けば死。このままなら因子に飲まれて死。ってことか?セルドア」
セルドアは静かに頷いた。
「そう。」
フユは拳を握った。
「……じゃあどうすれば。」
セルドアは答えようとした。
その時。
扉が開いた。
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「んあ——。」
だるそうな声だった。
赤髪のパーマ。無精髭。右の袖がない。
隻腕の男が部屋に入ってきた。
3人が警戒した。
エリックが反射的に前に出る。セルドアの目が鋭くなる。
フユは剣の柄に手をかけた。
男は全員の反応を見て、頭を掻いた。
「んー、殺気すごいな。
別に取って食いやしねえよ。」
「誰だ。」エリックが低く言う。
「んー、まあ通りすがりみたいなもんだ。
それよか——。」
男の目がフラットに向いた。
「こいつぁマジぃなぁ。」
3人の間を抜け、ベッドに近づく。
エリックが腕を伸ばして止めようとした。
「触るな。」
「触んねぇよ。見てるだけだ。」
男はフラットを覗き込んだ。
嗅ぎとるように、因子の気配を確かめているようだった。
「コイツを生きさせるにゃ悪魔を宿さないとなんねぇ。
んなことはもうわかってるんだろ?セルドアの兄ぃさんよ。」
フユが男を見た。
セルドアの兄ぃさん——この男はセルドアを知っている。まあ当然といえば当然だが....
セルドアは少し間を置いた。
「……その通りだよ。宿し、試練に勝つしか方法はない。」
「なんっ……!」
エリックの声が割れた。
「頼む、セルドア……俺の大事な息子なんだ……それしか方法はないのか……!」
「わかってる……だけどね……」
エリックの手が震えていた。
あの大きな手が——震えていた。
男が頭を掻きながら言った。
「早い話こうだ。」
全員が男を見た。
「コイツを生きさせるにゃ冥級との契約が必要だ。
因子を宿して、そいつに打ち勝てば生きられる。」
「……。」
「俺が宿してやろうか?」
沈黙。
エリックがセルドアを見た。セルドアが目を閉じた。
フユは男を見た。
「お前は——何者なんだ。」フユが問う。
「んー、まあ通りすがり。それ以上でも以下でもないよ。」
「なぜそんなものを持っている。」
「持ってるから持ってんだよ。深い理由なんてねぇ。」
男は懐に手を入れた。
小さな瓶を取り出した。
黒い。
瓶の中で何かが蠢いている。気配だけで息が詰まる。
禍々しさが部屋の空気を変えた。
フユの胸の奥——自分の中の因子が、それに反応して揺れた。
冥級だ。
「……。」セルドアは目を開けた。「他に方法はない。」
エリックは唇を噛んだ。
男はエリックを見た。
「親御さんよ。大事な息子なんだろ。
なら賭けてみろ。このガキは強い目をしてる。
負けるとは俺には思えねえ。」
エリックはフラットを見た。
白い顔。薄い呼吸。
長い沈黙の後——
「……頼む。」
エリックが絞り出した。
「じゃあ満場一致ってことで。」
男はあっさりと言った。
瓶の栓を抜いた。
禍々しい気配が部屋に広がる。
黒い霧のような何かが瓶から漏れ出し——フラットの胸へと向かった。
静かに、しかし確実に。
フラットの体表の紫の光が、一瞬強くなった。
それから——落ち着いた。
呼吸が、少し深くなった。
「……。」医師が計器を見た。
「生命反応が安定しています……。」
男は瓶を懐にしまい、振り返った。
「あとはコイツ次第だな。
悪魔に勝てるかどうか。心の中の話だ。誰も手出しできない。」
「……君は何者だ。」セルドアが静かに問う。
「んー。」男は出口に向かいながら、首だけ振り返った。
「強いもんを探して生きてる、ただの男だよ。」
扉が閉まった。
残されたのは——重い沈黙と、安定した呼吸音だけだった。
フユはフラットを見た。
白い顔は変わらない。
だが呼吸がある。
「……勝てよ、フラット。」
フユは静かに言った。
セルドアとエリックは謎の男の隠していた途轍もないオーラを感じ取る。
しかし今はとにかく奴を信じるしかない。
なにかあっても私が。
そうセルドアは誓う




