セイレンの報告
リンドウェルの外れ。
表通りから離れた路地の先に、目立たない建物がある。
看板はない。窓もない。扉だけがある。
カミルはその扉を押し開けた。
「ただいま帰りましたぁ」
誰もいない廊下。
薄暗い照明。
奥の部屋の扉が開いていた。
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「失敗したのか。」
声だけがあった。
低い。静かだ。怒っているのか怒っていないのか、判断がつかない声だった。
「はい。」カミルは答えた。「老人が先に処理してしまいました。」
「老人。」
「黒装束ではありませんでした。ただ——あの気配は普通ではないですよ。鵺を一太刀で仕留めた。」
しばらく沈黙があった。
「新人たちは。」
「生きてます。ボロボロでしたが。」
「お前は何もしなかったのか。」
「指示通り、鵺を持ち帰ることが最優先でした。老人が介入した時点で無理と判断して引きました。」
また沈黙。
カミルは部屋の奥の闇を見た。
顔が見えない。輪郭だけがある。
「……まあいい。」
声が言った。
「鵺の件は仕切り直す。お前は引き続き中級任務儀礼の連中と行動しろ。」
「めんどくさいからやなんだけどなあ。」
カミルは少し目を細めた。
「次に鵺級の呪獣が出た時、今度は確実に持ち帰れ。誰が介入しようと関係なくだ。」
「……了解です。」
カミルは踵を返した。
扉まで歩いて——立ち止まった。
「一つ聞いていいですか。」
答えを待たずに続けた。
「鵺を持ち帰って何をするんですか。」
沈黙。
「お前には関係ない。」
カミルは少し笑った。
それだけで部屋を出た。
廊下を歩きながら、天井を見上げた。
なんでなんだろうね。
自分が何のためにここにいるのか。
あの男の何のために動いているのか。
答えは出ない。
出ないまま、カミルはセイレンの建物を後にした。
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アギト本部。
「座れ。」
ムサシがフユの前に椅子を置いた。
フユは素直に座った。
ムサシは机の前に立ち、腕を組んだ。
しばらくフユを見ていた。
「お前の中に悪魔の因子がある。それは知っているな。」
「……はい。」
「キャブラ戦で暴発した。鵺の前でも漏れかけた。」
「はい。」
「制御できなければ、いずれお前は自分を失う。」
フユは黙った。
「悪魔を顕現させる必要はない。因子の力を引き出すだけでいい。それが氷の能力に変換される。」
「引き出すって——どうやって。」
「闘気だ。」
ムサシは自分の手の前に、薄く焔のようなオーラを纏わせた。羅法だ。
「闘気を高め、因子の入口に触れる。顕現まで持っていくな。入口を少し開けて、因子を薄く引き出す。それだけでいい。」
「……入口ってどこですか。」
「胸の奥だ。お前が今まで感じてきたざわめきがある場所。そこだ。」
フユは胸に手を当てた。
あの感覚。ノールの時から。キャブラの時から。鵺の前で溢れかけたあれ。
「触れたことはあるか。」
「触れた、というより——気づいたら漏れてた感じで。」
「だから暴発する。意識的に触れる練習をしろ。」
ムサシは静かに言った。
「急がなくていい。2ヶ月だ。毎朝1時間、俺が付き合う。」
フユは顔を上げた。
「……なんでそこまで。」
ムサシは少し間を置いた。
「団長だからだ。」
ムサシは立ち上がり、訓練場の方へ歩いた。
「来い。今日から始める。」
フユは立ち上がり、その背中を追った。
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【その後、1年間】
最初の1ヶ月。
フユは毎朝ムサシと向き合い、胸の奥に意識を集中させた。
何も起きない日が続いた。
「焦るな。」ムサシは毎朝同じことを言った。
37日目の朝。
フユの右手の先に、薄く白い霧が立ち上った。
氷ではない。霧だ。だが確かに冷たかった。
「……出た。」
「出た。」ムサシが頷いた。「それでいい。」
それからは早かった。
2ヶ月が経つ頃には、右手に薄く氷の膜を纏えるようになっていた。
暴発はしない。自我も失わない。
ただ、手が少しだけ白く凍る。それだけだ。
だがそれだけで十分だった。
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3ヶ月目。
フユは初めて氷の能力を任務で使った。
ノールの討伐任務。氷の膜を纏った剣が、ノールの核を一撃で砕いた。
「……やれた。」
セナが隣で「遅い」と言った。
それでも笑っていた。
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同じ頃。
レイは水槍の精度を上げていた。
10本を同時に制御し、全て核に当てる練習を繰り返した。
リヒトは何も言わなかった。ただ見ていた。
フラットは炎の出力を絞る練習をしていた。
大きく燃やすことは得意だった。小さく、正確に当てることが課題だった。
義父の元トップ団長エリックの手紙が月に一度届いた。毎回短かった。「元気か。」それだけだった。
バンは単独任務をこなし続けた。
結果を出した。数字だけが全てだという顔をしていた。
リザは任務の前に必ず資料を揃えた。
誰よりも準備が早く、誰よりも無駄がなかった。
カミルは——相変わらず任務に顔を出したり出さなかったりした。
顔を出した時は確実に仕事を終えて帰った。
誰も何も聞かなかった。
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6ヶ月目。
フユとレイが同じ任務に就いた。
2人で組むのはアルバトロス以来だった。
任務中、2人は無口だった。
連携は取れた。息は合った。
だがそれだけだった。
帰り道、フユが先に言った。
「なあ、レイ。」
「なんだ。」
「まだ俺のこと、信用できないか。」
レイは少し間を置いた。
「信用してる。」
「じゃあなんで——」
「信用してるが、怖い。」
フユは黙った。
「お前が次にあれを出した時、止められるか俺に。止められなかったら——」
レイは言葉を切った。
「……俺は、お前を失いたくない。それだけだ。」
フユはしばらく前を向いて歩いた。
「俺も失いたくない。お前のことも。だから練習してる。」
「……知ってる。」
2人はそれきり黙って歩いた。
だが6ヶ月前とは、空気が違った。
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8ヶ月目。
フユはノールを単独で3体討伐した。
氷の能力は剣に乗せるだけでなく、薄く射出できるようになっていた。
キャブラ戦の「暴発」とは全く別の、制御された冷気だ。
「上出来だ。」ムサシが初めてそう言った。
フユは少し照れた。
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1年が経った。
リンドウェルに秋が来た。
フユは訓練場で一人、剣を振っていた。
右手から薄く白い霧が漂う。氷の膜。1年前とは比べものにならない。
暴発は——1年間、一度もしなかった。
「フユ。」
セナが入口から声をかけた。
「緊急の召集だ。いつもと少し毛色が違う。」
「緊急?」
「団長から直接話がある。来い。」
フユは剣を収め、セナの後を追った。
1年間で変わったこと。
1年間で変わらなかったこと。
それを確かめる時が、そろそろ来る気がした。




