崩壊の始まり
神栄団本部、フローゼル。
午前の光が差し込む大廊下を、一人の男が歩いていた。
黒の制服。セイレンの紋章。
知的な顔立ち。穏やかな目。
すれ違う団員たちが会釈すると、丁寧に返す。
「アイゼルバッハ団長、お疲れ様です。」
「ありがとう。君も精が出るね。」
自然な笑顔だった。
力みがない。嘘くさくない。
誰もがそう感じる笑顔だった。
アイゼルバッハは月次報告書を小脇に抱え、龍王室へ向かった。
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龍王室の扉を軽くノックした。
「失礼します。セイレン隊長、アイゼルバッハです。月次報告に参りました。」
返答があった。入室した。
だが——そこにセルドアはいなかった。
代わりに、書類に囲まれた机の前に男が座っていた。
細身で落ち着いた目をした男。
戦闘の気配はない。だが油断のない目だ。
「龍王は不在だ。報告なら私が聞こう。」
右大臣、ジェイズ。
リチャードと共にセルドアを支える男。
戦の才はない。だが頭脳はエルドラ屈指だ。
「そうでしたか。」アイゼルバッハは軽く頭を下げた。「ならまた日を改めます。報告書は置いていきましょうか。」
「……。」
ジェイズは立ち上がらなかった。
書類から目を上げ、アイゼルバッハを見た。
「なにを企んでいる。アイゼルバッハ。」
「はい?」
「前々から気になっていた。」
ジェイズは立ち上がった。
窓の外に目をやり——それからアイゼルバッハを見た。
「お前のような禍々しい気を放つ者が、なぜ団長などしている。」
アイゼルバッハの顔から、何も消えなかった。
笑顔のままだった。
「……禍々しい気、ですか。私はそのようなものは——」
「私に闘の才がないからといって舐めるな。」
ジェイズの声は静かだった。
だからこそ、重かった。
「長年政を見てきた。人を見てきた。
戦える人間だけが脅威ではない。
お前が発する邪気は——お前の物言いの端々にも滲んでいる。
私には、わかる。」
沈黙。
アイゼルバッハは少し目を細めた。
「やはりあなたからか。」
声のトーンが、変わった。
穏やかさが消えた。
笑顔が——消えなかった。笑顔のままで、何かが消えた。
「消さなければならないのは。」
「——!」
ジェイズが机を蹴って後退した。
同時に警護を呼ぼうと息を吸った——
アイゼルバッハの手が上がった。
音がなかった。
光もなかった。
ただ——ジェイズの動きが止まった。
机に手をついたまま、固まった。
崩れるように——膝をついた。
「あなたは優秀だった。」
アイゼルバッハは歩み寄りながら静かに言った。
「セルドアの傍に置くには、惜しいくらいに。」
ジェイズは床に手をついた。
体が動かない。声が出ない。
だが目だけが——アイゼルバッハを見ていた。
恐怖ではなかった。
怒りでもなかった。
「……お前は……セルドアを……」
「安心してください。」
アイゼルバッハはしゃがみ、ジェイズの目線に合わせた。
穏やかな顔だった。
「全てが終われば、この国は今より良くなります。私の理想は——誰よりも高い場所にある。」
「……それが……支配欲と、何が違う……」
「違いますよ。」アイゼルバッハは静かに答えた。「私は世界を手に入れたいんじゃない。」
立ち上がった。
「世界を、作り直したいんです。」
ジェイズの目から、光が消えた。
「私の理想に——あなたは邪魔なんですよ。」
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龍王室に静寂が戻った。
アイゼルバッハは報告書を机の上に置いた。
それから窓の外を見た。
リンドウェルの街並みが広がっている。
人が歩いている。子供が走っている。
活気がある。
セルドアが作った国だ。
「もう少しだ。」
アイゼルバッハは静かに呟いた。
「セルドア。お前を封じた後——この世界はようやく正しく動き始める。」
廊下から足音がした。
アイゼルバッハは瞬時に笑顔を作り、扉に向かった。
すれ違った団員が会釈した。
「お疲れ様です、アイゼルバッハ団長。」
「ありがとう。」
穏やかに、自然に、返した。
その後ろの龍王室で何が起きたか——廊下を歩く誰も知らなかった。




