第八章
第八章
自宅は高台だ。その前にウォリフィオの家に寄るべくセルリアーナは麓の邸宅へ向かう。
あの夜以来になる。突然やってきたウォリフィオ、連れ戻すと言って口づけて去って行った。正直、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
思わずついた溜息をリディが聞き逃すはずもなかった。
「なんか憂鬱そう。嫌なら会わなかったらいいのに」
「そういうわけにはいかないわよ」
首を傾げたリディがつかつかと進む。セルリアーナが何かを言うよりも先に扉をノックした。
「ちょ、ちょっとあんた――」
「後戻りできなくていいでしょ?」
確かにその通りだ。ここで隠れたりしたら単なるいたずらと同じである。時には勢いも大事なのだなと思いながら待つも、誰かが出てくる様子は全くない。いつもならウォリフィオの母親あたりがいるのだが、もしかしてまだ町長の家で看病をしているのだろうか。それならばともう一つの幼馴染の家を尋ねるも、やはり誰もいなかった。
そういえばと思い出す。
「もしかしたら雪化祭かも」
「せっかさい?」
「雪が降る前のお祭り。だとすると、村は空っぽかも」
便宜上、村と呼んでいるが特に名前があるわけではなかった。ウォリフィオの祖父が町長を務める町に属しており、少し離れた集落というだけだ。祭りも町で行われ、その時には皆総出で手伝いに行き、参加する。
村中が留守とはタイミングが悪かったかもしれない。だが、これまでどこにいたのかと好奇の目で見られることがないのはありがたかった。どうするのか問うリディにとりあえず自宅に向かうことを告げる。坂に差し掛かるとリディは人型から猫の姿になり、当然とばかりにひょいっとセルリアーナの肩に乗る。
「なぜ、乗る」
「歩きたくないから」
明快な答えには呆れて言葉も出ない。
慣れた坂を登っていく。目を上げれば遠くの山々が白く化粧をしていた。この間までは緑の連なりであったというのに。確実に時間は流れているのだ。季節も。冬本番の風は乾いて、冷たく過ぎていく。
ルールゥはどうしているだろう。祭りで町に行っているだろうか。自分の不在をどう思っているだろう。心配していただろうか。久しぶりに会ったら、何を話せばいいのだろう……。
何からどう説明すればいいのか。予想する問いと答えをいくつか思い浮かべるも、頭も中はまとまらずに霧散していく。あれこれ考えている間に、見慣れた扉の前に到着していた。
肩から降りた猫が見上げてくる。勝手に開けられるのも何なので、頷きを返すと、セルリアーナは勇気を出してドアを開けた。
「オーリャ?」
ルールゥはいなかった。代わりにいたのは幼馴染の少女だった。
開いた扉を振り返るなり、オーリャが動きを止める。どうしてと思い、すぐに不在の間オーリャが留守を守っていると話していたウォリフィオの言葉を思い出す。
「セナ」
「えっと……ただいま」
駆け寄ったオーリャがセナの体を力強く抱きしめた。どちらかというと華奢な彼女の体のどこにこんな力があるのだろうと思う程に強い力だった。
「魔王に掴まったって聞いてたの。だから、だから――」
オーリャの腕にますます力籠る。
「セナ、食べられちゃったかと思ってて」
生贄の話が頭に残っているのだろうか。
「でも、ぶ……ぶ、よかった。無事で、ほんとに、よか、よかた」
嗚咽でとぎれとぎれの声に思わずセナは笑ってしまった。なんで笑うんだと一喝され、詫びを述べる。だが、怒った本人も笑いはじめ、泣き笑いのような変な顔になっていた。
「ごめんね、オーリャ。心配かけて」
オーリャが首を振り、涙を浮かべたままの表情でセルリアーナを見やる。
「フィオは一緒じゃないの?」
「フィオ?」
瞬いたセルリアーナに、オーリャには珍しく険しい顔をした。
「フィオ、セナを取り戻すってワールデア・ワルトに行ったんだよ。会ってないの?」
「まさか、フィオが一人で?」
「魔術師と一緒。とてもすごい魔術師らしくて」
セルリアーナは一瞬眩暈がした。そういえば現れた時に雇ったと言っていたことを思い出す。
「魔王は本当にいるんだって、フィオは言ってた。セナはそこにいるって」
「だからって、なんで、そんな……」
なぜと言いつつも、セルリアーナは強く責めることはできなかった。自分だって魔王などという存在は知らなかった。魔族もどんなものか知りもしなかった。魔物、魔族、魔王。どれを聞いたって、恐ろしい響きしかない。もしウォリフィオなりオーリャなりが掴まりでもしたら、自分も同じ行動をとっていたかもしれない。
「私、止めたの」
オーリャが震える声で言った。
「悪く思わないで。セナが心配じゃないってことじゃなくて、セナもいないのにフィオもいなくなっちゃったらって思うと怖くて、私」
オーリャの目に涙が再び浮かんでくる。
「大丈夫。大丈夫よ、オーリャ。あたしがなんとかする」
オーリャの肩を支えながら、とりあえず椅子へと座らせた。視界に金色の輝きが映る。腕輪を使えば城へはすぐに戻れる。ただ次はいつ外出させてもらえるかわからないことを考えると、ルールゥには会っておきたかったという思いはあった。
「セナ、お母さんに会わないで帰るの?」
まるで心を読んだかのように、リディが問うた。投げられた問いにセルリアーナはぐっと口を引き結ぶ。
「セナ……今の、誰の声?」
自分達以外の声を不審に思ったようだ。あたりを見回すオーリャに、どう説明すべきか悩むセルリアーナの足元に黒猫が歩み寄る。ちらりとオーリャを見上げると唐突に黒猫から人型へと変化した。
「――きゃ」
オーリャがほんの少し遅れたタイミングで声を発した。オーリャらしい反応の鈍さに、こんな時だがなんだかほっとしてしまう。
「猫さん……どういうこと?」
「この子は、魔王のところにいる子よ」
その説明は若干語弊があるが詳しく話したところで意味はないだろう。リディも特に訂正する様子はなかった。
「ま、魔物ってこと?」
真ん丸に開かれた視線はリディに据えられたままだ。だがセルリアーナが落ち着いているせいなのか、それとも愛らしい子供姿のせいなのか、オーリャの肩から徐々に力が抜けていく。
「魔族って言うんだよ。お姉さん」
リディが片目を閉じてみせて、それから改めてセルリアーナを呼んだ。
「お母さんに会いにきたんじゃないの?」
それはそうだが、そうも言ってられない。アルフレディオが残忍なことをするとは思わないが仮にも魔王だ。ウォリフィオの側も魔術師なんてものを同行している以上、間違ったことが起こらないとも限らない。
俯いたセルリアーナの袖口をリディが引っ張った。
「様子を見るだけなら、戻らなくても平気だけど、どうする?」
「そんなことできるの?」
リディは気まぐれで、手を貸すとか協力するとかそういう意識は持ち合わせていないと思っていた。そう言うとリディは肩を竦める。
「まあ、基本的にはそうなんだけど、セナはミジンコ筋の豆取り代わってくれたからね」
なんだか微妙に間違っているが、小さなことでも役に立つのだとセルリアーナはしみじみ感じた。
「どっちを確認する? アルフ? 友達?」
セルリアーナが僅か思案する。そしてアルフレディオと告げた。もしまだ何もなければ戻って彼に告げることができる。
「できるだけ大きな盥にお水を張ってくれる?」
リディの指示の元、それはすぐに用意された。
「揺らしちゃだめだよ」
リディが小さな手をかざす。振動も風もないのに、水の表面が不自然に波立つ。やがておさまると不自然な波紋がいくつも生まれて、広がる。
「すごい。リディ、ほんとに魔族だったんだね」
「どういう意味、それ」
いつものんびり寝そべっているか、いたずらをしている姿しか見ていない気がする。せいぜい猫になるくらいしかできないと思っていたが、考えてみれば、こいつも高貴な魔族なのだ。
ぼんやりとしていた像が形を結ぶ。やがて城門正面の庭が映し出され、玄関テラスがはっきりとしてくる。
「――な、なに……これ」
呆然としたのはセルリアーナだけではなかった。リディもまた息を呑む。
手入れの行き届いた庭だったはず。だがその面影はない。そこここに焼けた跡、焦げた跡、立ち上る黒い煙。石畳の両脇にある豪奢な噴水は破壊され、辺りを水浸しにしている。
無数に蠢くのは赤く揺らめく獣の群れ。獣はその身に纏う炎を口からも吐き散らしている。それらを迎え打っているのは普段は優しい家人達、その本来の姿だった。羽を持つ妖鳥、橙の羽が鮮やかなそれはきっとイリーナに違いない。火炎を避け、果敢に炎へと挑む黒い巨大な狼はサフだろう。石のような体躯のワーサもちらりと見えた。
見慣れた姿のままの双子の姉妹リリアとノノアがその身を持って庇っている影がある。それは幾筋も流れる血に深紅のドレスを黒く染めたカルテミアの姿だった。
「……こんな」
およそ、想像もしていなかった情景だった。日常から、あまりにも大きくかけ離れた状況に呆然としたセルリアーナが呟く。
「……アルフ様」
写し出された映像に、肝心の姿が見当たらなかった。
「ねえ、アルフ様はどこ」
待ってと言い返すリディの声にも苛立ちがあった。
この惨状にあってアルフレディオが静観するとは思えない。あれだけ慕われているのだ、その彼らを、魔王もまた愛しているのはわかっている。
リディの翳す手に合わせ、視点が変化していく。俯瞰するようにゆっくりと、もどかしく動く景色の中に、白髪の姿が見えた。女のようだ。その女の見つめる先、冷ややかな眼差しを向けているのは魔王アルフレディオだった。無事だったという思い。だが、決して安堵できる状況ではなさそうな様子にセルリアーナは思わずよろめいていた。
――なに、あれ。どういうこと?
掴まろうとした手がテーブルを揺らしてしまい、盥の中の映像が途切れる。支えきれなかった体を咄嗟にオーリャが抱きかかえてくれた。
「今の、何?」
セルリアーナがリディを見上げる。呆然としていたリディが視線を逸らしたのがわかった。
「ねえ、リディ! なんなのあれ――どうしたの、何があったの」
セルリアーナはオーリャの手を払い、リディへと膝で詰め寄る。細い腕を掴んで、乱暴に揺すった。
「もしかして、フィオのせいなの?」
ウォリフィオはただの人間だ。それはないと思いたかった。だが魔術師と共に行ったというなら、一役担っていてもおかしくない。
「わかんない……僕もこんなのは聞いてない」
リディの言葉にセルリアーナは眉を寄せた。
「――聞いてない?」
俯き、唇を噛みしめるリディは泣きべそをかきそうな顔になっていた。
「聞いてないってどういうこと? まさかこうなるって知ってたってこと?」
震えの止まらない声に、リディが小さく頷いた。
「そうだよ。あいつが来るのは知ってた。僕もアルフも、みんな」
だって、とリディが金色の目を上げる。
「だって、あいつが来るから。だからセナを村に戻したんだもん」
「あいつ?」
「魔王女エリージア。アルフに傀儡の術をかけた魔女だよ」
「魔王女……?」
魔女エリージア――通称、魔王女。
魔界において、女性に爵位の継承はない。だが伯爵家に生まれ、類まれなる素質に恵まれた彼女は女性であることを惜しまれる程の巨大な力を有していた。一族の貢献度が考慮され、異例の家督の継承を認められた彼女ははじめて爵位を有する魔女――魔の女王となった。
エリージアは異常な程、美しいものに執着するという変質的な面を持ち合わせていた。人や動物、魔物に関わらず、彼女が美しいと思ったものは何でも手に入れようとしていた。どちらかといえば自由な気質を持つ魔族において、珍しくも勤勉な性格だった勤勉で熱心な彼女は、ある時、己の究極の術を作り上げる。それが傀儡術だった。
生きながらにして人形に変えていく。変わる間のその苦悩すら、最終的に完成する人形の魅力としてしまう。幾人もの魔族がそれによって人形へと変化させられていく。やがて彼女はもっと美しいものを求めて、日々を過ごしていた。求める美しさ、それを満たしているのは居並ぶ魔王達。だが、そこに手を出すには相手の立場も力も強すぎる。
そんな折、お家騒動で魔界を訪れていた年若い貴族の青年を見初める。
魔界の帝王の寵愛篤い貴族の青年。それもそうだ。彼の母は帝王の末娘であったのだ。
内包する力ゆえの比類なき美貌。それはエリージアの心を捕らえた。狂おしく欲する彼女の欲望を叶えるにはあまりにも相手が悪すぎる。それでも抑えられない欲望。
――だが、好機はやってきた。
家督相続後、青年が魔力を消失する事態が起こった。理由かはわからないが、罪を犯した魔王ならばお目こぼしもあるかもしれない。何よりも、相手には対抗する力がないという状況。
エリージアは迷わなかった。
そしてアルフレディオに傀儡術を施したのだ。
「姿は違うけど、あいつだ。間違いなくエリージアの気配がしてた」
「なんで来るってわかるの?」
「予兆があったから。来たでしょ? セナの友達。あれはあいつの息がかかった力だった」
本当はね、とリディが続ける。
「本当はなんてことない話なんだ。エリージアなんかよりアルフの方がぜんぜん強いもん。すぐに追っ払えるはずなんだよ。僕はそう聞いてたし、実際そのはずだし」
魔王の中においてもアルフレディオの力は大きいのだとリディが言う。
「でもほんとは気づくべきだったのかもしれない。アルフは魔族の争いをセナに見せたくないって言ってたけど僕まで遠ざけたんだ。カルアを呼んで。その時に気づけばよかった」
小さな手が拳を握る。ひとつ息をついてから、リディがセルリアーナを見た。
「アルフは、力が使えないのかもしれない」
「え?」
セルリアーナが眉を寄せる。
「そ――そんなことない、だって、空を飛んで見せたし他にも」
「セナが、いたからだよ。セナがいたから使えたんだ」
――治療薬というカルテミアの言葉が脳裏をかすめる。
「だってセナが目覚めさせたんじゃない。きっとまだ完全じゃないんだ」
「目覚めて終わりじゃないの? 完全じゃないってなに?」
「そんなの僕にだってわかんないよ」
珍しく、リディが大声で反論した。
「アルフは二つの『病気』だった。傀儡と魔力を失う。でも魔力を失うってのはあくまで罰だから一時的なはずで、もう大丈夫だって僕も思ってた」
「眠りも病気?」
「違う。眠りは悪化させない為の措置だって聞いた」
魔力を失い人形となろうとし、眠り続けることでその進行を遅らせる。
「エリージアは封じられたんだ。アルフのことも、それまでの行いも含め、厳罰が下って、カルアのお父さんが封印した。本当は殺してしまいたかったけど、出来なかったから」
「できなかったって?」
どうしてか問うセルリアーナに、リディが体裁だと答えた。
「多分、そういうものだよ。あちらにもあちらなりのルールみたいなものがあるから」
だがエリージアは滅ぼされたわけではない。ならばいずれ出てくる可能性はあることは理解されていた。無論、魔界側でも予想されることで、アルフレディオ自身も知っているはずだ。
爵位を与えて一度は認めたが、その行いは目に余る。建前上、いきなり害すのは印象が悪いといった体裁を取り繕う事情が伺える。世論として滅ぼしたいが、明確な口実が欲しい。それがアルフレディオ自身の反撃だ。
その目論みは半分成功している。事実、エリージアは律儀に仕上げをしに来た。ただ誤算はアルフレディオの力が戻っていないことだ。
「リディ」
説明を終えたリディを見やって、セルリアーナが口を開いた。
「じゃあ、今、アルフ様はただの人と同じなの?」
力があるなら跳ね返せばいい。それだけの力を有しているのだから。しかし、それができず、追い詰められている。目覚めても、完全ではないと言うのなら――人間と同じではないのか。
「多分」
リディが頷いた。
途端、セルリアーナの全身から力が抜けた。慌てて支えたオーリャと二人でもつれるようにして床に座り込む。
「……セナ、大丈夫?」
オーリャが覗き込むように尋ねる。答える余裕はなかった。
――アルフ様が……死ぬ?
息が苦しくなり、目の前が暗くなろうとする。視線が、思考が定まらない。あまりのことで涙すら出てこない。
アルフレディオが死ぬなど、セルリアーナの認識の中には存在しない。なぜなら彼は強大な魔王なのだから。いなくなるなど、どうして想像ができるだろう。
月の下、自分を包んだ体温を思い出す。言葉としての本心を聞き出すことはできなかったけれど、あの震えた声と呼吸は何よりも明確な魔王の気持ちではなかったか。信じていると言った言葉は、そのまま彼の本心であるだろうに――どうして自分は答えなかったのか。
あの夜の温もりを取り戻そうとしてセルリアーナは己の体を抱きしめる。捕らえることなどできるはずのないものを求めてうずくまる。
どうして離れてしまったのだろう。治療薬でもなんでもいい。側にいたいのだというこの気持ちに、どうしてもっと早く正面から向き合わなかったのか。
空転する思考にセルリアーナは視線を彷徨わせる。何を見て、何を聞いて、何を考えて、どうすればいいのかわからない。停止した頭が目からの情報を処理できずにいた。定まらない視線の中、金色の輝きが目に入る――帰還の魔法の込められた腕輪。
――帰る場所はここだと告げる声。耳に降りた熱い声が胸に響いて、蘇る。
「アルフ様」
自分の帰るべき場所――それが失われようとしている。
再び、セルリアーナの目が金色へと注がれる。
「……帰る場所?」
自分が行けば戻る?
自分が行けば、魔王の力は戻るのだろうか。
――間に合うだろうか。
「……行かなくちゃ」
アルフレディオの元へ。
セルリアーナはふらりと立ち上がった。
治療薬だと言ったカルテミア。そして近くにいた時には魔力は健在だったと言うリディ。もしそれが本当なら、自分が行くことで力が戻るなら迷う必要なんてない。確率の低いかけでも、それでも、ほんの少しでも可能性があるならやらないわけにはいかない。あの温もりを失うことなど考えられないのだから。
「セナ」
じっと、親友を見ていたオーリャが呼んだ。
「大事な人、なんだね」
心の中で、オーリャの静かに告げられた言葉を反芻する。そしてしっかりと頷いた。もう迷いはない。自分はあの魔王に魅了されてしまったのだ。
「帰ります」
セルリアーナが告げた「帰る」という言葉の選択を、オーリャはどう受け止めたのだろう。だが、さすがに親友だった。静かにセルリアーナを抱きしめると、笑みを浮かべた。
「遊びに来てね」
うん、と答えると笑顔のオーリャの目から涙が零れた。
「フィオのことは任せて」
「お願い、セナ」
再び頷いて、セルリアーナは傍らの少年を見やった。リディが黒猫の姿に戻る。そしてセルリアーナの肩に乗った。
――アルフ様の元へ。
腕輪を床に置く。眩い金色の光が部屋に広がった。一際濃い金色の中に、足を踏み入れると、突如暗闇が訪れた。
「助けてくれる者はいないようね」
白髪の女が笑う。テラスの柵に降り立った女はパルムを指の一振りで吹き飛ばしていた。
横たわって目を開けない執事の体を背中に庇いつつ、これ以上ない程冷たい目で見つめるも、エリージアは身震いするかのように一層口の端を引き上げる。
「その目。それよ、どんな宝石よりも美しい」
「……」
「私はずっと欲しかったのよ。魔王アルフレディオ、あなたの人形が」
執着は理解していた。隙さえなければこんなことにはなっていない。だが、過ぎたことをとやかく言ってもはじまらない。
「俺は何があってもお前の人形にはならない。人形になるくらいなら、死を選ぶ」
高らかにエリージアが笑った。
「どうやって? 刃向う術もないどころか、その体、殆どが私の支配下になってるじゃない。どうやって死ぬって言うのかしら。それどころか動くのもままならないのじゃなくって?」
悔しいが指摘された通りだ。体の自由が利かなくなってきているのはわかっていた。重くなりつつある体は呼吸をも困難にしていく。
エリージアがついっとアルフレディオを指さす。はらりと幾筋かの黒髪が舞った。
「瀕死の状態で放置したっていいのよ」
エリージアが声を低める。それを睨んだ。睨んだつもりだが、どれだけ表情がそれを忠実に表現したかは甚だ疑問だ。
「顔だけ綺麗ならいいのよ。体なんて服を着せていればわからないんだし、穴が開いても塞げばいいものね」
にたりと笑う。別人の顔であるはずなのに、アルフレディオには記憶に残る、あの豪奢な金髪に緑色の瞳をした美女の姿がくっきりと思い出された。
「ほんとは苦しみがより美しくさせるけどもう充分ね。遅延措置のおかげかしら、妖艶な影が加わって素晴らしくてよ。これならもう待つ必要もないわ」
言ってなかったかしら? とエリージアは口角を上げる。
「私自身が手を下す分には死んでも人形になれるのよ」
エリージアが右手を高々と天に向かって突き上げ、振り下ろした。
――眩い光が炸裂する。
唐突に湧き上った光にエリージアだけでなく、アルフレディオもまた顔を伏せる。何事かを把握するよりも早く、エリージアの濁った悲鳴が上がる。
「生意気な」
吹っ飛んだのは黒い小さな塊。それが何かを理解するには、あまりに意外すぎて思考はついていかなかった。そして、自分にもたれるようにして崩れ落ちるものが何であるのか、目で捉えつつも理解することができなかった。わかったのは己が無傷だということだった。
間違いなくエリージアはこちらに力を放った。彼女の得意とするのは風、真空を刃のように振るう。確かに放たれたはずなのに掠めた形跡すらない。
「なんなのよ、その娘!」
――娘?
苛立たしげな声にアルフレディオは、はっと我に返った。
「……」
まさかと思う。ここにいるはずがないのだ。巻き込みたくなくて遠ざけたはずの少女がいるわけがない。そう思う端で、体を満たしていくものを感じる。乾いた砂が潤いに満たされていくように、手指足の先まで流れていくものがある。
「アルフ……様。無事?」
見上げる瞳は像を結んではいなかった。青紫色の瞳は何かを求めて空中を彷徨う。
「……間に、あった?」
思わぬことに声もでない。力のない体を抱えるとぬるりと生温かな感触があった。手だけではなく、見下ろす先から色を変えていく衣服。とめどなく溢れ出るのは、人間が生命を維持するに絶対的に必要な血液であった。
「――セナ?」
無傷だったのはセルリアーナが庇った為だとようやく理解した。すべての風の刃をその体に受け止めたのか、セルリアーナの腕も胸も服ごと切り裂かれ朱に染まっていた。
流れる血は止まらない。特に酷いのは首からの出血だった。だらんと垂れた腕を伝い赤い血溜りができていく。呼びかける声にはもはや僅かに瞳が動くだけの反応しかない。
「なんなのよ、私の大事な人形を汚して!」
金切声が頭上から降ってきた。
「どきなさい。そんな汚らしい人間、消してあげる」
エリージアが再び手をかざした。アルフレディオは右腕でセルリアーナを抱く。力のない頭を自分の肩に乗るようにしっかりと抱き寄せると、血染めの頬に己の頬を寄せる。
「それはこちらの台詞だ」
アルフレディオが氷のような目を上げた。
何かがせめぎ合い、軋んで圧縮されるような音がそこかしこで鳴りはじめた。急速に冷えると空気も音を発するのかもしれない。突如立ち込めた冷気がその場にあるものを凍らせていく。
空気中の水分が凍結し輝く。これまで赤く燃えていた周囲が一気に白く変わった。急激な温度変化にその身に纏う炎を奪われた無数の獣が動きを止める、炎獄から極寒へと急速に冷やされた体が自由を失い、存在を維持できず自らの動きでその身を壊していく。
エリージアの表情に怯えが浮かんだ。今、目の当たりにしているのは、強大な力を有した魔界の王だった。侯爵位を持つ、王の中でも比類なき氷の魔王・氷晶王。
「そ――そんな」
驚愕するエリージアの体が徐々に凍っていく。足元から音を立てて這い登る冷気。髪や皮膚をを凍らされているのではない。体が内側から凍らされ、自由を奪っていく。
「あ……ああっ」
「お前の罪は、重い」
アルフレディオは腕に力を込める。まだ温かい、けれども閉じた瞼は開かない。
「俺は炎の王のように優しくはない」
エリージアが歯を食いしばり、かろうじて動く腕をあげ、風を集約しようと試みる。
「無駄なことだ」
エリージアの命令に従う風はなかった。歴然とした力の差が露見する。帝王の血族であり、侯爵位を有す、魔王としての格の違いが、エリージアを凌駕する。
「消えろ、愚か者」
「――っ」
キィィィィンという音が響いた。集めようとした魔力ごと、エリージアの体が青白く変色し、落下する。その体は細かく砕け、雪の結晶のように太陽の光を受けて消えて行った。
……そして唐突に静寂が訪れた。




