第七章
第七章
「すごい」
光の輪を抜けるなり、目の前に現れたものにウォリフィオは型通りの感嘆を漏らす。ここに来るのは二度目だが、その時は外観を見ていないので、こうしてまじまじと目にするのは初めてだった。
文字通り壁となって立ちはだかる城壁は黒く、左右果てしなく続くように見えた。城門は扉部分こそ木製だが重要な個所には鉄が使われている。黒光りする鉄部分に加え、木目部分も黒く、見るからに禍々しい。森の奥、唐突に途切れる緑の中に聳える城。あまりにもお約束な城壁と門、物語で見た挿絵はきっとこれを見たことがある人が書いているに違いない。
「すみません。お待たせしました」
暫く待つように言われたウォリフィオが半ば呆然と見上げていると、静かな声がかけられた。
「参りましょう」
歩み寄るのは白いローブを纏った、ウォリフィオが雇った魔術師だ。
「アッシュア、開くのか、これ?」
人の手で開けられるような門には見えない。重量は一体どのくらいあるのだろう。
「造作もありません」
白髪の美貌の人物が答える。妖しく紺色の瞳が閃く。そっと手を上げ、指を指すようにして巨大な門扉を前にあくまでゆっくりと横に薙ぐ。
黒い門扉にさらに黒い線が刻まれた。アッシュアが手を下ろすと黒い線は光を放ちはじめる。それに手をかけると、その手が切れ目へと沈む。まるで何かを持ち上げるような動作で切れ目を捲りあげ、アッシュアがウォリフィオを振り返った。
ついてくるのかと問うているように見える目は無機質でどこか不気味だった。ここで引くわけにもいかない。ひとつ息をついて、ウォリフィオはアッシュアの後を追った。
「アルフ様、動いております」
アルフレディオが頷く。が、内心では舌打ちをしていた。
わざわざパルムが告げたのは自分が何の反応も示さなかったからだ。本来なら言われずともわかることがわからず、感じられない。その様子を察したのだろうパルムが注意を促したのだ。
森を囲う結界は解除してあった。だからこそセルリアーナは徒歩で出られたのだが、城含め敷地内は結界を残してあった。パルムの言葉は敷地に誰かが入ろうとしていることを告げていた。とは言え強固な結界ではなく、人が避けて通るようにする程度のものなのだ。大した力はなくとも多少修業を積めば、解除は難しくはない。侵入されること自体は驚きに値しない。
しかし、である。
本来ならこんな小細工のようなことは不要なものをとアルフレディオは歯噛みする。
目覚めて間もなく、己の中で蠢くものを感じた。つまりそれは術者が生きている証であり、同時に未だに自分に執着していることを示している。徐々に強くなる支配に、近々その元凶が自分の元へ来ることは予想していた。無論、正体は承知している。自分が万全ならば、結界を残すような悪足掻きなどせず、正面から迎え撃ち、完膚なきまでに叩きのめすというのに――。
「アルフ様?」
漂う剣呑な雰囲気にかカルテミアがくねっとした声を出した。
「大丈夫ですわよ、私がおりますから」
傍らの美女へ頷きつつ、アルフレディオは足を組み替える。
「後悔しておいでですか? セナを戻されたこと」
いや、とアルフレディオは目を伏せる。
「あいつを巻き込むつもりは、ない」
セルリアーナがいない今、己の中には空洞のような感覚が満ちていた。
意識が戻ってからしばし、内に在るはずのものが酷く不安定で意のままにならないことに気づいた。時間が経てばと考えていたが、幾日か経過しても安定度に欠け――まさかと思った。
そのまさかが確証になるのに時間は掛からなかった。己の精神も内なる力の制御も、セルリアーナが側にいる時が一番安定していた。試しに城から離れてみれば、結果は予想通り。セルリアーナの存在が己の魔力を左右している。
最初からそう理解していたわけではない。側に置こうと思ったのは単なる戯れであり、魔王たる自分を殴ったことに対する腹いせであったのだ。それが接するうちに興味は好意へと変わり、今ではすっかり本気である。どうしてセルリアーナなのか。それは自分にもわからないが、どうしようもなく惹かれる――感情が揺さぶられる存在だからなのかもしれない。
セルリアーナがいなければ魔力は使えない。そうなればただの人間と大差ない自覚はあった。だが、自分の側にいることに、迷いを持ったままの彼女を置いておくことはできなかった。それこそ利用しているような気がして、アルフレディオ自身が納得できなかったのだ。
――ならば、どうするか。
アルフレディオはカルテミアに助力を求めた。魔王に匹敵する力を持つ、無位の高位魔族。
通常、魔王たちの間に交流はない。助力を求めることも本来ならあり得ない。そもそもそれがなされていればアルフレディオが傀儡術に侵されることもなかったと言える。
アルフレディオは魔界ではなく人間の世界で育った。本来、積極的に交流を持たない魔王にして、風変わりな父王は人を真似たものか、魔王同士の繋がりを持とうと務めた。結果、同じく風変りと言われていた幾人かが友人となった。そのうちの一人がカルテミアの父である。
しかし、それでも直接、魔王に助力は求められない。魔王同士が組み、何かをするとなればそれは大事になってしまう。アルフレディオの身に降りかかったことはあくまでアルフレディオ個人のものだ。魔界まで動かすような騒ぎにはできなかった。故にカルテミアを呼んだ。しがらみが少ない上に、大きな力を持つ彼女は適任だった。正直に打ち明けて、カルテミアは承知し、その父は娘の我儘として黙認するとなったのだ。
「私は賛成ですのよ、彼女を戻したこと」
目を上げたアルフレディオを美麗な笑みで見下ろす。
「彼女、己の無力さもわきまえず相手に食ってかかりそうですもの。あなたに限らず、それが例え私の為でも。そういう子な気がしますわ」
魔物に椅子を投げつけたり、魔王を殴ったり、魔女姫に喧嘩を売ったり……気の強さもあそこまでくればいっそ立派なものだ。そう言うカルテミアにパルムも同意する。
「まあ……否定はできんな」
だからこそ惹かれるのかもしれない。
アルフレディオがソファから立ち上がると、パルムが主を呼んだ。
「アルフ様、決して前面に出ないでくださいましよ」
誰かの後ろに隠れるなど恐ろしく自分の意に反する。人間の王ならいざ知らず、力がすべての魔族において、家臣に守られるだけの魔王など本来ありえない。
だが、己のつまらないプライドが家臣を余計な危険に晒すことは目に見えている。眠るにあたり多くを解雇しており、残っているのは古参で家族同然の大切な家人だ。もし自分がでしゃばれば守ろうと必死になることはわかっている。せめて足手まといにならぬように控えているのが一番いいのだ。
「だが、出迎えくらいはしてやろう」
アルフレディオは修復さればかりの、鮮やかなステンドグラスで飾られた扉に手をかけた。
門を抜けてきたのは人影は二つ。石畳の上をまっすぐ屋敷へと向かって歩いてくる。左右の噴水や見事な庭の造作に目を向けるでもなく、ただゆっくりと館へと近づいてくる。
「どういうことだ」
玄関前のテラスから見下ろし、アルフレディオは首を傾げた。眼下までやってきた少年ともう一人の人物を冷ややかに見つめる。
どこか不快な笑みを浮かべる白髪の背の高い、ローブを纏った中性的な姿。
「誰だ、お前」
ここに来たのだから間違いないとの思いはある。その身に纏う気配も不本意ながら己の嫌悪するものと同じ。そもそも魔王たる自分を狙うような奇特な輩など限られているのだ。
だが、その姿は記憶にある見知った容姿とは離れすぎていて、思わず問うていた。これは今、己の中の魔力が失われているからそう見えているのかと疑ってしまう。
「まだ感情は出せるようですね」
にやりと笑う。
「さすがに魔王といったところでしょうかね」
普通ならばとうに人形になっていたといわんばかりの口調だ。事実、セルリアーナの気配が薄れて以降、抵抗するだけの力が失せたのか、魔力は疎か、傀儡の術が再び体を侵食しつつあるのを感じてはいた。
「ですが、そのわりに、お力が感じられませんよ?」
見上げる挑戦的な眼差しを、魔王は冷淡な目で見下ろす。
間違いないと思った。姿も声も、口調すら違うのに、勝ち誇ったような口振りがよく知る者と似ている。否――言葉に宿る憎らしい雰囲気はまったく同じだ。
白髪の人間が手を広げるのと、カルテミアが手を振り下ろすのとは殆ど同時だった。
カルテミアの炎が、放たれた風を押し返していた。侵入者達の立つ位置まで到達した火炎が地面を焼いた。
「アッシュア!」
ウォリフィオが叫ぶ。
「アッシュア、火を消してくれ!」
炎はウォリフィオの周囲を燃やし、今にも餌食にしようとしていた。反対にアッシュアは生み出した冷気で己の炎を鎮火していた。
「あなたはここまでの道案内。従って、もう用はありません」
「……え?」
「私がここに来るには魔力の道をつける必要があった。私を拒む力を押し退けるきっかけが」
話を聞いて、すぐに利用しようと思った。ワールデア・ワルトに入った為か、魔犬のおかげか、ウォリフィオからは求めるものの残り香があった。
「あなたが作る道が、私は必要だっただけです」
ウォリフィオを利用してこの結界内に痕跡を刻む。その役目は終わったのだから、あとは死のうとどうしようと関係ないとアッシュア告げる。
「ここで死んでくれれば面倒もない」
アッシュアが笑った。くいっと動かした指が、本来なら消されるであろう炎を煽り立てる。視界を染める赤い炎にウォリフィオは言葉を失った。
舞い踊る炎が消える。だがそれは白髪の人間の周りだけで、もう一人の少年は相変わらず炎に包まれようとしている。
「あれは仲間ではないのか?」
「恐らく、いつぞや屋敷に侵入した者と思われますが」
少年の方は明らかにただの人間だ。恐らく彼が「フィオ」に違いない。彼らにどんな齟齬があったのかはわからないが、彼の表情からして不本意な状況になっていることは察せられた。
アルフレディオが舌打ちをする。本能的に氷を生み出そうとして叶わず、代わりに反発する力が己の内に生まれ、鈍い痛みが腕を突き上げてきた。
「セナの友人だ」
彼氏かもとくねり節で言うカルテミアをひと睨みして、アルフレディオは執事に言った。
「守護檻でも作って、アンドロワに見張らせておけ。傷はつけるなよ」
考えるまでもなく、少年に何かがあればセルリアーナが悲しむことは必至だ。もしかしたら何もしなかった自分を疑うかもしれない。よって魔王は少年を確保するよう命じる。
「賢明な判断ですわ、アルフ様」
空中を旋回するイリーナを見上げたカルテミアが笑う。頷く様子を確認して、右手を振った。
突如放たれたのは光る熱玉。案の定、ローブを纏う人間がそれを叩き落そうとすると、辺りには眩い閃光が溢れた。
眩しさに目を覆った瞬間に体が浮き上がるのを感じた。焼きついた視界がかろうじて実像を結ぶと、自分を抱えているのは翼を持った橙の髪が鮮やかな女だった。
「――なっ」
ウォリフィオは動揺も露わに離せともがいた。手を離されれば命はない程の高さだったが、そんなことはすっかり頭になかった。幸いしっかりと抱える腕は力が緩む様子もなく、そのまま弧を描く階段の影へと下りた。女は動かないよう声をかけ、何事かを呟くと、途端に周囲を銀色の輪が包み込む。触れた指先に電流のようなものが走った。
「ここから出ないようにお願いいたします。出たら命の保証ができません」
驚くウォリフィオに向けられる目はどうしてだか労わるような色を宿していた。
「あなたは利用され、巻き込まれただけ。アルフ様はそれを理解しております。罪はない」
ウォリフィオが目を見開く。
利用――確かに、アッシュアはそう言った。もう不要だとはっきり断言し、自分を切り捨てた。セルリアーナを助けに来たはずが、何か見当違いのことをしていたというのだろうか。
「セナは」
「ここにはおりません」
どこへと問うも女が答えることはなく、指笛を鳴らした。応じるように大地からぬるりとしたものが湧きだすとそれはすぐに形を成していく。現れたのは獣だった。犬に似た緑の体に黒い鎖のような模様が刻まれた二つ首の魔獣。
「ここを頼みますアンドロワ」
唸り声が答える。
「この方はセルリアーナ様の大事なご友人。決して傷をつけぬよう」
「ちょっと、待てっ!」
ウォリフィオが呼び止めると女が足を止めた。
「セルリアーナ様って、一体、セナは――」
女が振り返った。向けられたその強い視線にウォリフィオは思わず口を噤む。
「あなたはとんでもない者と手を組んだ」
「え」
「魔族にとっても人にとっても害のある魔王女です」
「魔王女?」
「軽々しく魔の者に接してはならないのです。そこで反省なさい」
言うなり、女は空中へと舞い上がった。
魔族? 魔王女?
自分が雇ったのはそういったものを倒せる「人間」のはずだ。
「何が、どうなって……」
「魔物は自分以外の者が作った結界に入るのは大変なのだ」
首の一つがウォリフィオを見た。青い目をしている。
「外から壊すこともできるが無駄に魔力を使う。何か糸口があると、それが意外とあっさりできることがあるのだ」
「あんたはそれに使われたんだよ。セルリアーナ様の友達さん」
引き継いで説明をしたのは黄色い目をした首だった。
とんでもない者と、空を飛ぶ女が言った。魔物がそんな風に言うなんて、自分は一体、何を引き連れてきてしまったというのだろうか。
ふわりとカルテミアがアッシュアの前に立った。今日も見事なピンヒールだ。スリットの深く入った深紅の光沢あるドレスがその見事なスタイルを引き立てる。
「あなたの相手は私」
アッシュアが鼻で笑う。
「代打ですか、みっともない」
「なんとでもお言いなさい。今のあの方、そういう言葉にはあまり動じないのよ」
カルテミアが両手に炎を宿す。挨拶とばかりにアッシュアに放てば、手の平が受け止める。
アッシュアが何事かを詠唱した。途端にそこここに黒い影が起き上がる。見る間に人型を取ったそれは異様に手だけが大きい奇怪な陰影だった。影のような存在でありながら鋭い爪が光ったようだった。
半眼になったカルテミアが背筋を伸ばす。そこに影が躍りかかった。軽々と跳躍して躱せば、別の影が襲い掛かる。今しも斬り裂かれるかという瞬間、影が動きを止めた。かと思うと、内部から爆発するようにして微塵に砕け散った。
背後に詰め寄った影を見やることもせず、カルテミアは手の一振りで燃やす。燃え落ちるのを見届けるよりも早く、空中へと躍り上った。
両手を合わせる。すぐに離れた手の平の間には炎の帯。鞭となって撓ると、残った黒い影をすべて薙ぎ払う。
「さすがにお強いですね、魔女姫」
カルテミアが黒い影を相手にしている間にアッシュアは何かを空中に描く。そして一つ息をかけると、そこからまったく別の生き物が生み出されていた。
白い鬣を靡かせる四足の獣が威嚇するような咆哮を上げる。
呼応するように次々呼び出されたのは同じように鬣を持つ獣だった。顔全部を覆う体毛がそのまま背中へと繋がり鬣となっている。目はない。額と思しき場所から一角が伸び、地面を払う細い尾は先端が鋭く尖っていた。
カルテミアが指を鳴らした。浮かんだ朱金色の力を、だがアッシュアが消し去る。続けて指を鳴らしたカルテミアが、最後には指先をアッシュアへと向けた。
顔面に突如生み出された火炎にアッシュアは顔を背けることもしなかった。真空だろうか、生み出された風によって消されたようだ。
「随分慣らされてますのね、その体」
「慣らしたのではありません。私が取り込んだのです」
「……取り込んだ?」
カルテミアが柳眉を上げた。
「相手は魔女よ。それもかなり極悪で性質の悪い、嫌われ者の。それを人間の、あなたが?」
「そうですよ、魔女姫」
帝王の命により封印を行ったのはカルテミアの父である。だが、それは安易なものでもあった。魔王同士の暗黙の了解というか、体裁というのか――恐らく、知人であるアルフレディオ自身に始末させようという意図は明らかだ。帝王の命に逆らい、世に出たならば、それを口実に滅ぼされても罪には問えず、殺された側には文句は言う権利はないことになる。
「……お父様も甘かったのね」
かつての姿と違うことについて、カルテミアはアルフレディオ程の驚きはなかった。むしろ想定の範疇だとも言える。何故なら魔王女の肉体は封じられていた。もし再び現れるのであれば肉体を捨てているだろうことは考えられる。父から魔王女が姿を変えたことがあるという話は聞いており、肉体を失えば別の体を見つけるだけだろうと教えられていたのだ。
だが、取り込んだというのは予想外だった。それでは別人になってしまい、口実が成り立たなくなってしまう。
しかし、何かがおかしいとカルテミアは思っていた。
封印が解かれたことも、予想外とはいえ別人となったことは納得したとしても、それならば何故、こいつはここに来たのか。
アルフレディオに固執しているのは魔王女である。魔王を殺せばハクがつくとでも考えたのだろうか。それなら弱ったアルフレディオは格好の餌食だろうが、それもまた腑に落ちない。
――本当に取り込んだのだろうか。
違和感は気配だ。完全に取り込んだなら、今、感じている魔族に似たこの強烈な気配はなんであるのか。単に別人の皮を被っただけならば、むしろ取り込まれたのは器の方ではないか。
「あなたのお名前を伺いましょうか?」
「アッシュアと申します」
お見知りおきをという瞬間に呼び出した獣をけしかける。優雅に空中に舞いあがったカルテミアは顔を顰めた。
古い召喚魔術。どこまでもあの魔王女と同じ技だ。この魔術師がそんなものまで自分のものにしたというのか。
ピンヒールの足が強く地面を踏む。途端、大地から湧き上った無数の火柱が上がり、地上に現れた炎は獲物を目がけてはい回る。そうして捉えた獲物を赤い力が包み込んだ。
獣が一瞬にして炎を纏う。だが獣はカルテミアの生み出した炎をその身に宿したまま数を増やしていく。
「他人の力を頂こうなんて、下品ね」
珍しくカルテミアが舌打ちをする。悪態をついたところでこれではキリがない。しかも他人の力を自分の力に取り込むというのは魔王女が得意とするところでもある。取り込むとは、術までをも、こうまで完璧に操れるものだろうか。
ただの人間が――いかに魔術師でその能力に恵まれていようと、魔王に匹敵する力を持つ魔女を取り込むなどあり得るだろうか。
「あなた、本当に取り込んだの?」
炎を収めたカルテミアが聞く。躍りかかる獣を手をかざすことで遠くへと吹き飛ばす。
「そう申し上げております」
「その割に、お人形遊びが好きみたいですけど」
アッシュアが眉を寄せた。
「この技も力も、すべてあの方の物じゃないかしら」
ぱちんと指を鳴らすと、周囲の獣が一気に消え失せた。カルテミアの深紅の瞳がアッシュアを射抜く。立ち上る気に髪が揺れる。
「本当は違うんでしょう?」
いい加減、苛ついていた。わざとらしく、これ見よがしに隠れているなんて、貴女ごときに見つかるかしらと馬鹿にされているような気がする。
「隠れるのはおやめなさい。そんなに強く気配を表しておいでなのに、無駄ではなくて?」
それとも、とカルテミアが小さく息を吹く。と、殆ど同時にアッシュアの頬を小さな炎が焼く。さすがのアッシュアもこれには反応が出来ずに目を瞠った。
「それとも、以前の自分の行いが恥ずかしくて人前に出られないのかしら」
「いい表情ねえ、魔女姫」
発せられた言葉に目を剥いたのはアッシュアだった。カルテミアが特に表情も変えていないというのに、驚愕の表情を浮かべたのは、たった今声を発したアッシュア自身。だが、その言葉はこれまでのアッシュアの口調とは全く違うものだった。
「違う、私は――」
大きく見開かれた目が物凄い勢いで左右に動く。
「諦めなさいな、アッシュア」
間違いなくアッシュアの口から洩れる言葉。頭を抱え、髪を掻きむしるようにしてアッシュアが苦しむ。それなのに高らかな笑い声をあげる。
「け、契約したではないか――封印を解くから、力を貸すと」
「いい思いをさせてあげたでしょ。稀代の魔術師なんて言われて」
「エリージア!」
「呼び捨てにするなんて、下等な存在のくせに」
ひとつの顔が二人分の言葉を発する。同じ声でありながら、全く別人の言葉を。
「本気で思ってたの? たかが人間が、この私を取り込めると?」
「――」
アッシュアの体が奇妙に揺れはじめる。異様な叫び声と呻きの合間に高らかな笑い声が混ざる。関節の動きから考えれば明らかに不自然な動きを繰り返し、まるで糸の切れた人形のように、唐突にその場に倒れ伏す。数回、痙攣をすると手足がぴたりと止まった。
――と、指先がぴくりと動いた。確かめるように拳を握ると、ゆっくりと体を起こし、立ち上がる。その動作はこれまでとは異なり、しなやかで実に女性らしい所作だった。
「悪くない器だわあ。アッシュア」
そこにいるのは同じ容姿なのに、全くの別人だった。
「アルフ様」
パルムが悲鳴に似た声を上げる。カルテミアが見上げた先、アルフレディオが胸を押さえるのが見てとれた。急いで降り立つイリーナが支えようとするのを忌々しげに振り払う。
「アルフ様、術が進みます。心を静めてください」
「――わかっている」
魔王女が完全に顕現したことで術の進行が加速しているのだろう。よろめく体を必死に支えて立ってはいるものの、呼吸が整っておらず、肩で息をする姿は明らかに苦しそうだった。だが、それでも、身に纏う覇気は衰えないのはさすがと言えた。
「美しいアルフレディオ。私を待っていたのでしょう?」
カルテミア同様にテラスを見上げたアッシュア――魔王女エリージアがうっとりと言う。
「あの瞳。強い意志を秘めた、その目。どんな宝石よりも美しいわ」
魔王女が歩き出そうとすると、その前にカルテミアが立ちはだかった。
「あら、まだ邪魔をするの? 火の王のお嬢ちゃん」
本日二度目の舌打ちをして、カルテミアは鮮やかな赤い瞳を向ける。
「やどかり女」
エリージアが目を丸くした。
「セナがいたら、恐らくそんなことを言ったでしょうね」
何の未練もなく体を変える。無論、カルテミアにはできないことだが、例えできたとしてもやりたいとも思えない。他人の体は他人の物、居心地がいいなんてあるわけもなく、嫌悪しか浮かんでこない。他人の力を利用する術もしかり、生きたまま人形にする傀儡の術と言い、なんて趣味の悪い技ばかりを使うのか。
「言ったはずですわ。あなたの相手は私。アルフ様に手出しはさせないわ」
カルテミアは火の玉を何の前振りもなく放った。顔を逸らすことでかわしたエリージアが愉しそうに目を細める。
「そんなに遊びたいなら遊んであげるわ、お嬢ちゃん」
カルテミアは鼻に皺寄せた。
「私はお嬢ちゃんじゃなくってよ」
周囲に熱気を生む。それはやがて熱風となり、舞い上がる。右手を目の高さまで上げると、紅玉の瞳で相手を見据えた。
「燃えなさい」
炎の鞭がエリージアへと襲い掛かる。エリージアは細く光る糸をたわめらせて、巧みに炎をかわしている。糸はエリージアが作り上げる傀儡用の術糸だ。
右、左と周囲に火の欠片を散らす。場所を入れ替え、お互いがけん制し合いながら、炎と糸のやり取りが続く。
「ちっとも効かない、無傷よ、お嬢様」
三度目の舌打ちをしたカルテミアは指を鳴らす。身に纏う熱気のままに大地から巨大な火柱が突きあがる――はずだった。
エリージアはアッシュアであるその顔でにやりと笑う。
カルテミアが目を瞠る。何かと思う間もなく、カルテミアはその場に崩れ、口元を押さえた。
「――ぐっ」
堪えられず口から溢れるのは鮮血、露出した皮膚に朱色の線が次々と生まれていく。
「素敵な技でしょう? 魔術師の返還の魔法らしいわ。放った人に力が還っちゃうんですって」
「返還の魔法?」
カルテミアが掠れた声で言う。
放った力がすべて還る――ある程度緩めに仕掛けておいて、カルテミアが全開の力を出すまで発動しないようにしてあったのだろう。だからこそ最初はごく普通に使えた。そして一気に焼き尽くそうとした瞬間にカルテミア自身に反発という形でダメージを与える。カルテミアの力は魔王に匹敵する。その巨大な力が己に向かって放たれたも同然なのだ。体中に走る激痛に顔を上げることもできない。そんな様子を愉しそうに見つめつつ、エリージアが笑う。
「それから私ね、おもちゃ好きなのよ、お嬢ちゃん」
術者の手から離れた炎が周囲に燻っていた。炎を孕んで漂う力を何かが堰き止める。止められた炎は急速に何かに吸い込まれていく。空中で吸い込まれた炎が渦巻いて、それに引き出されるようにして無数の獣が現れた。
「可愛いでしょ、この子達。お嬢ちゃんも遊ばせてあげるわ」
己を囲う大きな魔術の力に、カルテミアは歯を食いしばる。
「さあ、お行きなさい」
エリージアが宣言する。咆哮を上げる大量の獣たちが一斉に走り出した。
激しい熱気と凄まじい音。何かが焦げるような匂い。
階段の影に置き去りにされたウォリフィオにはすべての状況を把握することはできなかった。もどかしく思いつつも、内心ほっとしている自分もいる。どんな状況かわからないのは不安だが、実際に目の当たりにしたら平静でいられる自信はないように思う。
目の前に鎮座した二つ首の化け物はそれでも静かにしていた。何をされるのかと思っていたのだが、こちらに背を向けたまま、やはり二つになっている尾を揺らすだけで特に何をする様子もなかった。
魔物を見るのは実ははじめてではない。とは言え、見たことがあるのは獣と大差のないような小物だ。授業の一環で行われた課外授業でウサギに似た一角をはやした魔物を目にしたが、人間を見るなり逃げていった。だからこれほど大きく、力のありそうな魔物を目にするというのははじめてだった。
ひとつの体躯を共有しながら、二つ首にはそれぞれ性格の相違があるのが不思議だ。時折そわそわするような仕草を見せるのは黄色い瞳の首で、そのたびに青い瞳をした首に「トロワ」と窘められる。それだけを見ると人間の兄弟となんら変わる様子がなく、なんだかおかしい。
「あの」
恐々、ウォリフィオは声をかけた。
「行っていいぞ。俺、逃げたりしないし」
勿論、逃げることはできないのだが。
「勘違いするな。我らは見張っているのではない。お前の安全の為にいるのだ」
「お前の身を守るのが俺たちの仕事なのさ」
ウォリフィオは顔を顰める。守るという意味がわからない。自分の為にいるとはどういうことなのか。
「守るってなんだよ。俺は敵だろ?」
「難しいことは知らん。ただそう指示を受けているだけだ。傷一つつけるなと」
青い目をした獣が静かな口調で答える。
――セルリアーナ様と彼らが口にしたのを思い出す。
自分が来るとわかっていたのはセルリアーナだ。ならばセルリアーナが魔王に頼んで自分を助けるようにしたというのだろうか。だが、それは何かおかしい。頼める立場にあるのなら、そもそも自分の助けは不要ということではないだろうか。ここにはいないというセルリアーナ。自分を守るよう指示を出したという魔王。
「……セナの、友達だからか?」
回答はわかっている。これは確認だった。案の定、青い目をした獣が肯定の答えを返した。その回答を補うように黄色い瞳がウォリフィオを振り返った。
「そうだよ。あんたに何かあるとセルリアーナ様が悲しむんだって。だから我慢する」
黄色い瞳――トロワの首がしゅんと項垂れた。
ここでのセルリアーナの立場は一体どうなっているのだ?
険しい顔をするウォリフィオの耳に芝生を踏む足音が聞こえた。また新たな魔物かと思ったウォリフィオは目を瞠る。
「アンドロワ。ここはいい。カルアが危ない。行きな」
振り返った二つ首の獣が、声をかけてきた人物を認めてそれぞれが頷く。そして炎渦巻く方へと駆け出して行った。




