第四章
第四章
ここに来てはじめて靄のかかる朝だった。早朝からセルリアーナは庭に出ていた。
自宅にいる時は朝早く起き、栽培している薬草に水をやるのが日課だったので、身についた習慣はなかなか抜けるものではない。なんとなく目が覚め、そのまま衣服を着替え、ひんやりとした空気の中を散策に出た。大きく息をつくと、呼気が僅かに白を纏って散っていく。
帰ることができないまま、季節は既に秋から冬へと移っていた。ルールゥは自分の不在をどう思っているだろうか。幼馴染達もどうしているだろう。畑も今では雑草が伸び放題なのに違いない。考えれば考える程に溜息が出る。毎日、溜息が出ない日はなかった。特にこんな風に一人の時間はどうしても村のことを考えてしまう。
正面の庭はここへ来た日にも目にしたが屋敷の裏手はまだ未知だった。見ればいくつかの小屋が並び、その中にガラスに覆われたような建物がある。見たことのない半透明の中は緑色に混ざってところどころ華やかな色合いが見えた。
不思議に思い歩み寄れば、どうやら何かが栽培されているらしいことはわかった。入口を探し引き戸を見つけ早速中へと入ってみると、そこは外気温とは全く違う温度を持っていた。春かと思う暖かさだった。
「すごい」
入った途端、香水に似た、けれどそれよりも透明感のある匂いが鼻孔を刺激する。思わず深呼吸したくなる爽やかで甘やかな香りの中、目にも鮮やかな花々が緑の中で輝いているようだ。
「随分と早起きなのだな」
突然かけられた声に、セルリアーナは勢いよく振り返った。
「な、なんでいるのよ」
「随分な言い方だな。というか……ここは俺の家だが」
確かにセルリアーナの言葉の方がおかしい。だが、この場合は「今」「なんで」「ここに」いるのかということだ。
「なんとなく目が冴えて散歩をしていたのだが、お前もか?」
「あ、あたしは違うわ。花を見に来たの」
自分でもよくわからない回答だと思ったが、魔王は特に気に留めた様子はなかった。
「ここは温室というのだそうだ」
「温室?」
「サフが作ったらしい。いつでも暖かいそうだ。ほら、端に湯を通すパイプがある。あれで温めているらしい。まあ、花好きのサフらしいが」
サフとはこの屋敷の庭師だった。確か、屋敷内の花瓶に花を活けているのも彼だとイリーナから聞いている。
「まあ、色々とやりたがる奴だからな、ここも趣味のひとつであろう」
庭に勝手にこんなものを建てられてもなんとも思わないのだろうか。が、それは確認するまでもないように思えた。花に目を向ける彼の視線はそんな行動を微塵も責めていない。
「俺も手伝ったことがある。一度だけな」
魔王自らとは驚きだった。そんな疑問が顔に出たのか、楽しそうだったからと魔王が補う。
「だが、それ以後、二度とさせてはもらえない」
どうしてと尋ねようとして躊躇した。それは眠ってしまった為かと思ったのだが、続く言葉はどうやらそれとは無関係なようだった。麗しの美貌を不機嫌そうに歪めて、
「泥遊びは他でやれと追い出された」
「はあ?」
「はじめから遊んでいたわけではない。途中から参加したリディの相手をしていただけだ。それなのにサフは邪魔だと言ったのだ」
セルリアーナとしてはリディという名前はあまり耳にしたくないものだった。自分がこの状況に陥る原因はあの黒猫にある。
「主に向かって邪魔と。酷い話だろう」
「せっせと作業している横で遊んでたら、確かに邪魔よね」
なぜだ、と魔王が真顔で尋ねる。
「ちょっとしたオブジェを作っただけだぞ。会心の出来だった」
「オブジェって?」
「素晴らしくリアルな女のむ――」
「それは邪魔! 絶対! サフが正しい」
言わんとすることを察し慌てて遮った。こいつはこの優雅な見た目に反して結構愚かだ。
三百年は眠っていたのだから、それはそれは恐ろしい実年齢なのだろうが、中身は結構子供だ。それともそれこそが永く生きる魔族の性質なのだろうか。
「あたしも、薬草の世話してるの」
この話題からは離れようと、セルリアーナは別のことを口にした。
「本当はルールゥの畑なんだけど、何もしなくて」
「前にも聞いたな、ルールゥという名を」
「あたしの母です。血は繋がってないけど」
魔王はほんの少しだけ目を眇めた。
「飲んだくれで、だらしなくって。でも、尊敬できる……素敵な人」
ルールゥにはおよそ母親らしさも女らしい一面もない。けれど、どういうわけだか不思議な色気と魅力を持っていた。
「同じ匂いがするな、その母とやら」
「誰と?」
「俺と。いい加減なところは通じそうな気がする」
早朝である今もきちんとした身なりをしているところを見ても、いい加減そうには見えない。そう告げるセルリアーナに魔王は苦笑する。
「まだ目覚めて間もない。少しは改心しないと、苦労させたパルムが悲しむだろう」
だから今はまだいい子にしているのだと、わざとらしく襟元を整えてみせたりする。
「それに」
「それに?」
「恋しい人間の前だからな。気を使っているのさ」
砕けた口調で微笑する。ほんの少し照れが滲んだようなその笑顔は甘く、思わず見惚れる程の美しさだった。
妻にするという耳を疑う発言を聞いて以降、魔王は時々そんなことを言う。美麗な容姿で本気とも冗談ともつかない言葉は、恋の経験の浅いセルリアーナにはどうしたって甘美なものだった。勿論、本気であるはずがないのはわかっている。相手は魔王、人間の自分を相手にするはずがない。戯れの台詞を真に受けるほど自分は甘くない、つもりだ。
「恋しいなんて嘘ばっかり」
視線を引きはがすようにして、セルリアーナは背中を向けた。
「目覚めるなり殴り飛ばしたあたしに腹を立ててるくせに」
「ああ、なかなかいいパンチだった。何せ三百年も寝ていたらしいからな。おかげですっきり目が覚めた。感謝している」
「感謝なんて言葉、あなたの辞書にあるの?」
「少なくとも、お前よりは掲載されている言葉は多いからな」
うまい返答ができず、セルリアーナは内心、己に腹を立てた。
「おまけに目覚めたらブスがいたもんだから、驚いてよけいにすっきりってところよね」
「ブス? 誰が」
「あんたが言ったんでしょ」
振り返ったセルリアーナの言葉に、魔王は目を丸くした。
「俺はそんなこと一言も言っていないだろう」
「言いました」
考えるように顎に指をやって、魔王は何かに気付いたように目を開いた。
「ああ、単にもっと妙齢というか、派手な色気女かと思っていただけだ。別に他意はない」
「言い方を変えたって同じよ。結局、グラマラスな美人がよかったってことでしょ」
「そうは言っていないだろう。想像と違ったというだけで」
「やっぱりそういう想像をしていたということじゃないの」
「想像するのは自由だ。あんな風に起こされるなら見目良い方がいいに決まっている」
男とはそういうものだという論法はわからなくはない。初対面であるなら、なおのこと真っ先に目につくのはその容姿であるのだから。
「悪うございましたね、麗しくもなく、色気もなく、妙齢でもない。ただのブスな小娘で」
魔王が口元を抑える。肩が上下しているところを見ると、必死に笑いを堪えているようだ。
「出たわね、笑い上戸大魔王」
「なんだ、それは」
「あんたが笑いすぎだからよ」
「なら、お前は怒りんぼ女王とでも呼ぼうか」
「なんですって?」
魔王が笑いを収める。ほんの一瞬、その表情が曇ったように見えた。
「俺と話す時、お前は怒ってばかりだからな」
セルリアーナは言葉に詰まった。確かに、よく怒り、怒鳴っているような気もする。
「泣き顔よりはいいだろうが、笑った顔も見てみたいものだ」
魔王が手を伸ばした。はっとしたセルリアーナの髪に、いつの間に手折ったのか一輪の花を挿す。
「きっと愛らしいのだろうに」
さて、と魔王が言う。
「殴られる前に退散するか。じきに朝食だ。お前も部屋に戻りなさい、セルリアーナ」
言われて、拳を握っていたことに気付く。が、これは別に殴ろうと思ったわけではない。
去っていく広い背中に何を言うこともできず、ただ見送ることしかできなかった。
僅かにのぞかせた表情。語られる言葉。それらが自然と、もしかしたらという思いを抱かせる。そんなはずはないと否定する心を覆そうとする。セルリアーナの気持ちが荒い波を立てる。どうしてかざわめいて落ち着かない、まるで嵐のように。
――そして、嵐は数日の後、本当にやってきた。
この屋敷に来て思うのは、朝は静かなものなのだということだった。セルリアーナの朝は大概が慌ただしく、寝起きの悪いルールゥの世話から始まる。そういった日常からかけ離れているここでの生活は至って静かだった。それはいっそ退屈と思えるほどに。
……ところが、である。
がしゃん、と派手な音がした。
続けざまに「ぐわがらごっしゃあああん」という音が響き渡る。最初の音は恐らくどこかの窓が割れたのだろう。その後の派手な破砕音はかなりの「何か」が破壊された音。その僅か後、響く女性の叫び声。一体何事かと、セルリアーナでなくても驚くというものだ。
慌てて部屋を駆け出す。恐らくは玄関の広間の方からであろう。そちらを目指していると、イリーナが早足で階段を下りていくのが見えた。
「イリーナ」
橙色の髪が揺れる。階段の途中で呼び止められ、振り返った彼女は明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「お起こししてしまいましたね。申し訳ありません」
「そりゃ、あの音で起きない人はいないでしょ」
あれだけ大きな音がして気づかなかったら、それはもはや死人だ。
「どうしたの?」
「来たんですよ。面倒なのが」
深々と息をつく。この温和なイリーナにして面倒と言わしめるとは一体なんなのだろう。
「北の魔女姫です」
「ちょっと失敗しちゃったんですの、ごめんなさいね」
ホールの中央に立った女が誰にともなく大きな声で訴えた。
それは遠目にもわかる見目麗しい女だった。金色に波打つ長い髪に裾の短い黒い毛皮のボレロ、そこから見える濃い緑のドレスがその美しさを際立たせている。体の線がはっきりわかるデザインは彼女のスタイルの良さを強調していた。
「ごめんなさいって割に反省の色はなさそうね」
セルリアーナがイリーナに囁くと、やはり疲れたような溜息が返ってきた。
玄関ホールは酷い有様だった。
まず割れているのは正面扉の上のステンドグラス。それからホール中央に吊られていたはずの豪奢なシャンデリアが落下していた。白く輝く破片が広間中に散らばっている。朝日を受けて光を反射する様は美しいが、これははた迷惑な美しさであった。
そんなただ中に立つ女は口元を抑えつつ、笑っている。周りの光の残骸はそんな彼女を見事に引き立てているようだ。
「ここまで派手に壊して平然としてられるなんて、恐ろしい神経の持ち主だわ」
セルリアーナとしては花瓶にしても皿にしても触るのは緊張する。高価だという以上に、持ち主が奴だからだ。壊したりしたら何を見返りに求められるかわかったものではない。
「あのくらいで驚いていてはだめです」
イリーナがうんざりしたように言った。
「我儘っぷりもさることながら、空気の読めない自己中心ぶりがまた凄まじいんですから」
なんとなく、それはわかる気がする。そうでなくて、あの図太さは持ち得ないだろう。
イリーナが階段を下りる。それに従ってセルリアーナも階下へと向かう。二人を見つけた女は麗しく微笑んだ。
「イリーナ。お久しぶりだこと、元気だったかしら」
「お久しぶりでございます。仕事が山ほどありますから、倒れる暇もございませんので」
「あら、それはよかったわ」
セルリアーナは目を丸くした。あのイリーナが皮肉るなんてよっぽどだ。だが、相手はやはり相当に図太いらしく、そんな言葉を正面から受け止めて笑う。そこに込められた「お前が来たせいで休む暇もねえよ」という意味は、恐らく通じてないに違いない。
「久しぶりに来たものだから、入口が分からなくって」
きゃっと笑いつつ、続ける。
「あたしは平気だったのよ。荷物がね、勢い余っちゃったの」
荷物? とセルリアーナが見回す先には、巨大な鞄が三つ転がっている。わざとらしく大きな溜息をつくと、イリーナが手にしていた箒で欠片を集め始める。
「ですから、いらっしゃる時は必ず直前にご連絡くださいとお願いしておりますのに」
えー、と女が体をくねる。
「いらっしゃるたびにこれでは困りますと申し上げておりますでしょう。連絡をくださればお迎えにあがると前々からお約束しているではありませんか」
「だってえ、三百年ぶりだもの、忘れてましたわ」
三百年という数字を聞いて、セルリアーナは改めて、ここは魔王の城なのだと認識する。
「それに、私、とーっても慌ててたのよ。もう、ドジっ子よね。うふ、私のお馬鹿さん」
なんだろう、この背中に走るぞわりとした感覚は。
「な、殴りたいと思うのはあたしだけ?」
セルリアーナの小さい呟きに、いいえとイリーナが小さく首を振った。
必要以上に体をくねくねと動かすのはどういう意図があるのか。男性相手に媚を売るうち、誰に対してもくねってしまうという悲しくも愚かな癖であろうか。どちらにしてもねっとりと鼻にかかる不快な喋り方は、はじめて対面するセルリアーナにして、既に限界に近かった。
ただ立っていても、このわけのわからない女の話相手にされそうな気がする。セルリアーナはとりあえず近場に落ちている大きな破片を、イリーナが掃き集めている場所へと拾って置いていくことにした
……が、それがいけなかったらしい。動き始めた新入りに、女が赤く輝く瞳を向ける。
「そちらの小さいの」
自分のことだとわかったが反応しないことにした。その方がお互い幸せに決まっている。
「ちょっと、そこのあなたよ。聞こえているのでしょう?」
女の手が肩にかかる。思わず弾き返してしまってから、セルリアーナはしまったと顔を顰めた。無下にあしらうつもりはなかったのだが、如何せん、生理的に排除してしまった。
「あの……い、忙しくて、つい」
苦しい言い訳に女は瞬きを返す。自己中で我儘ではあるが、短気な性質ではなさそうだ。
「いいのよ、そんなの放っておいて。この私が話しかけているんだもの」
何様のつもりなのだ、とセルリアーナは思った。この惨状は彼女のせいだというのに。
「でも、早く片付けないと、危ないですから」
「イリーナがやってるじゃありませんの」
「忙しいんです!」
思いのほか強い口調になってしまったが、後悔したところで言葉が戻るわけでもない。その語気の強さにぎょっとしたのは美女だけではなかった。イリーナもまた驚いて目を瞠る。
「あなた、その態度はないんじゃないかしら」
魔族というのはどいつもこいつもとんでもなく我儘な性格が多いのだろうか。自分中心な態度も腹立たしいが、やはり生理的に受け付けないくねくねがセルリアーナの気を短くしたのかもしれない。思わず「忙しいから忙しいと言ってんのよ」と言い返していた。
「なんなの、生意気なおちびさんね」
セルリアーナは憮然とした。平均よりやや低いことは、幼馴染のオーリャと並んでもわかっている。だが、そんなに指摘するほど極端に小さいわけでもない。
「あんたがバカみたいなヒールを履いているからあたしが小さく見えるのではなくて?」
ガラス片を踏んでいる足元は上げ底も上げ底、靴裏だけでもかなり分厚い。妙に細いヒール部分も合わせれば相当ごまかしている。それがなければ自分と大して変わらないではないか。
「あなた、見たところ人間のようね。下等な存在のくせにその口のきき方ってある? この私に対して失礼じゃなくって?」
女が少しむっとしたようだ。構わず、セルリアーナはその顔を睨みあげた。
「あんたこそ初対面の人間に向かって失礼連発でしょ? 『慌ててたのわたしドジっ子』じゃないわよ気色悪い。バカじゃないの? よっぽどあんたの脳みその方が下等じゃない」
「セ、セルリアーナ様――」
慌てるイリーナから箒をひったくると、セルリアーナは女の鼻先へと向けた。
「あんたがやったのよ。お喋りしてる暇があるなら少しは自分で片付けたらどう」
短気でないが、怒らないというわけではない。あまりにもイラっと――否、腹立たしくてついつい言ってしまってから、はっとした。奇妙に増した熱気。そう、彼女は人間ではないのだ。
やってしまったと思ってももう遅い。
わなわなと震える女の手にはセルリアーナの目にもわかる赤く揺らめくものが現れていた。それは炎だった。普通手の平に炎を宿して平気でいられるはずもないが、勿論普通の人間ではないのだから、そんなことは問題ではない。むしろそれは彼女の怒りが生み出したものだというのは明らかだった。
思わず後ずさったセルリアーナに向かい、女が手を振り上げる。赤く踊る火の玉。それが放たれれば避ける術はない。
「な、な――なんなの、あなた。何様のつもりよ!」
炎の塊が迫る。イリーナが咄嗟に手を伸ばすも、セルリアーナと女は至近距離である、間に合うはずもなく。
「――?」
思わず顔を覆ったセルリアーナの耳に何かが溶けるような音が届いた。庇った両腕を恐る恐る下ろすと、女は歯ぎしりせんばかりの顔を上向けていた。
「何をしている、カルア」
玄関ホールを囲うテラスの上にいるのは、冷徹な表情を浮かべた魔王だった。たった今生み出された炎は、魔王の力によって逸らされ、消されたものらしい。
「調度を壊しただけならまだしも、我が妻に手を出せばいかなお前でも容赦しないぞ」
これほど冷たい声は耳にしたことがなかった。はじめて会った時だってこれ程に冷淡ではなかったと思う。たった今熱せられた空気さえも凍らせるかのような、氷そのものの声音で宣言すると、魔王はテラスから飛び下りるなりセルリアーナをさりげなくその背に庇った。
「つ、妻?」
カルアと呼ばれた女が声を発した。それにセルリアーナは間髪入れず否定をする。
「ち、違います!」
「妻あ?」
「そうだ」
「だから、違います やめてよ煽らないで!」
「事実だろう?」
「事実じゃないし、こんな状況で相手を刺激するような適当なこと言わないでくださいっ」
「適当を言ってるつもりはない」
「だったらそれは妄想です」
「妄想ではなく、未来の話をしている」
「勝手に人の未来を決めないで!」
「なによなによ、いちゃいちゃしちゃって!」
いやいやをするように体をくねくねと動かし、あの恐ろしい高さの靴で地団駄を踏む。
「違うって言ってるのに。ちょっと、ちゃんと訂正してよっ」
魔王は肩を竦めただけで何も言わない。颯爽と登場して事態を収めるのかと思いきや、文字通り火に油を注いでいる。
「妻ですってえ」
どういうことよ、と女がアルフレディオの胸ぐらを掴んだ。
「しかも、どうみても人間じゃないですの 妻だなんて、どういうことです」
「言葉通りの意味だ」
女が急に力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「ひどい、アルフ様のバカあああっ」
叫ぶと同時に一気に周囲の温度が上がった。異変を感じ、セルリアーナは魔王を見上げる。
「な、なんだか、やばそうな気配を感じるんですけど」
わかっていると頷いて、魔王はイリーナを振り返る。既に承知済みなのか、イリーナは目で答えて箒を振り上げた。
「カルテミア様、失礼を!」
「ちょっと、イリーナ」
あろうことか、「様」付した相手を、イリーナは容赦なく箒で殴った。奇妙な一音を発するなり、女はばったりとその場に倒れ――熱は急激に収まった。
やれやれと、魔王は涼しい顔で前髪をかきあげた。
「はあ? いいの、これ」
何を落ち着いているんだと思わずにいられない。しかもなんて古典的な手で終わらせたのか。およそ魔王らしからぬではないか。
「まずいんじゃないの、いろいろと?」
「大丈夫です、セルリアーナ様。むしろこれが正解なんです」
「そ、そうなの」
回答を求めて見やると、アルフレディオが小さく息をついた。
「カルアは炎の魔女だ。切れると加減を忘れるから、始末が悪い」
切れる要因を作った張本人は澄まして言う。
「加減を忘れるってことは、つまり」
焼き殺される、とごく平然と魔王が答えた。
「ああ、お前は死にたがっていたが、焼いてもらいたかったか?」
「だから、死にたいなんて思ってません」
「心配するな。カルアについては後でフォローしておく」
切れると焼き払うというのか。魔族とは、なんとはた迷惑な存在なのだ。さしずめ目の前の魔王は氷の王らしいので、切れれば凍らせるとでも言うのだろうか。
面倒だとイリーナが言ったのを思い出す。セルリアーナも全く持って同感だと思った。
「ワーサ」
ワーサが大きな体を揺すりながらやってくる。
「すまないな、片づけを頼む」
溜息交じりに言った魔王自身も多少は面倒だと思っているかもしれない。
「イリーナ。カルアの部屋は整っているか?」
「はい、昨日のうちに」
頷いた魔王は横たわった女の体を抱き上げた。ぐったりと力なく倒れつつも、なんだか指先のあたりが不自然なシナを作っているように見えるのは、余計な勘繰りだろうか。
「あ、あの」
思わず呼びかかけたセルリアーナを魔王が振り返る。
「あ、いえ……なんでもないです」
美男美女、なんというかとても絵になる。得てして魔族は美しい。力が強くなればなるほどに美しいのだと魔王について話を聞いた時にパルムが言っていた。魔王と魔女姫。聞くだけで身分も高そうなら、魔力も強そうだ。となれば美しいのも当然だろう。
「騒がしい朝になったが、ここは危ない。とりあえずは部屋に下がっていなさい」
アルフレディオはそのまま階段を上がっていく。それがまた様になっている。黙って見送り、セルリアーナはなんとなくもやもやとした、気持ちの悪い感情が心に広がるのを感じていた。
「セルリアーナ様?」
イリーナが心配げに声をかける。それに首を振って、セルリアーナは片づけをするべく箒を拾った。
ホールに散っていたガラス片は皆の者の働きで徐々に綺麗になっていく。大きな分厚い布にまとめられたガラス片を一気にワーサが運び出す。飛散した破片全部を片付けるのは大変だろうと思ったが、集めてしまえば、とりあえず運び出しは楽なようだった。みな魔物であり、魔族だったりするのだ。魔法とかでなんとかできそうなものなのに、そういった様子は見受けられない。魔族らしいとすればワーサの怪力くらいなものだ。
一方セルリアーナはというと、こんな作業をさせるわけにはいかないとの意見でやむを得ず自室に引き取っていた。お姫様育ちとは程遠いのだ、雑用には何の苦も感じないというのにお許しが出ない。自分だけ手伝えないのは心苦しい。
結果として、やることのないセルリアーナはベランダから庭を見ていた。時折作業の為に外に出てくるワーサやサフの姿が横切る回数を意味もなく数えたりしている。
太陽はそろそろ真上に到達しようとしていた。この騒ぎで朝食はお預けとなったが、恐らく昼食も簡単になるだろう。別に質素は不満ではないが、せめて台所仕事くらい手伝いたいと思う。勿論、断られるに決まっているので、おとなしくしているしかないのだが……。
ベランダの手摺に寄りかかり室内へ目を向けると、花瓶の花が外からの風に揺れていた。白を基調とした中に一本、毛色の違う花が混ざっている。先日魔王にもらった深紅の薔薇だった。
暫く日数が経過しているというのに、枯れる気配がない。サフが花を入替えに来た際、その一輪の薔薇を見て首を傾げていた。活けた覚えのない薔薇があるのが不思議だったのだろうが、改めて用意してきた花束と一緒にそのまま飾っていってくれた。
サフは優しい。イリーナも優しい。パルムもワーサも給仕係のアンダ、トロワの兄弟や内向きの仕事をしているリリア、ノノアの姉妹も。時折姿を見せる黒猫のリディも。ごく普通の日常が流れていると、彼らが魔族だなんて思えないくらいに。
……そして、魔王アルフレディオも。
「恋人、いるんじゃん」
思わず呟いていた。
超がつく我儘だという彼女を慣れた様子で扱うあたり、ただならぬ関係が伺える。既に部屋も用意されていた様子からして今朝の訪問は予定されたものということだ。いつものこととばかりの対応、そしていつものこととばかりに軽々と抱き上げた。
イリーナの話では以前からアルフレディオとはつかず離れずの仲で、その付き合いはかなり長いものらしい。魔族達の間では既に公認との噂もあるのだという。「私は反対ですけど」とイリーナはそう加えるのを忘れはしなかった。
確かに多少――かなり面倒くさい性格のようだが、言い換えれば一生懸命でかわいいと思えなくもなくもなくもなくもない、かもしれない。何より、間違いなく魔王を好いているという意味においては真剣なのに違いない。セルリアーナが妻だと聞いて怒った彼女。明らかなやきもちは素直でいっそ気持ちがいいくらいだ。
「魔族同士だし」
ここよりも北方に住む魔女姫。炎の女王とも呼ばれているらしい。
魔王と名乗ることができるのは魔族の中でも限られた者なのだとパルムが話してくれたことがあった。頂点は魔界の帝王になるが、その直下に序列される。魔界において爵位を有し、それを持ってはじめて魔王を名乗ることができるのだという。氷の力を扱う頂点。氷晶王の称号と侯爵位を持っているのがアルフレディオだという。カルテミアに爵位はないので王を名乗れないが、彼女の父が爵位を有す魔王だそうだ。
何かと複雑な仕組みを持っている世界のようだが、つまりはアルフレディオはかなり偉くてすごい魔族なのだということはわかる。そもそも自分なんてお呼びでないのだ。ただでさえ場違いな存在。人間である上に、庶民である。
――俺が嫌いか。
脳裏に浮かぶ、不敵に告げられた言葉。それに反し、笑った顔が見たいといった声。切なげに、時に優しく。様々見せる表情はどれも人と変わらなくて、ふと忘れてしまいそうになる程――けれど、間違いなく魔族なのだ。その事実は、どうしてだかほんの少し、落ち着かない気分にさせる。なんともなかったはずなのに、穏やかな波を逆なでするような心のざらつき。
これ以上考えてはいけないような気がする。考えたら、抜け出すことができない。それなのに、思考は思いの答えを見つけようと心を彷徨う。
「ちょうどいいじゃない、魔王も魔王女も、二人とも高貴で美形で。お似合いよ」
声に出して言い聞かせる。それでいい。そう思うことが一番いいのだ。
「ひとりで寛いだ時間にも関わらず、俺のことを考えているとは、光栄だな」
突然かけられた声に、セルリアーナは思わず声を上げた。振り返れば扉に寄りかかった魔王が不敵な笑みを浮かべていた。
「今のは、やきもちと捉えていいか?」
まさか独り言を聞かれるとは思わなかった。なんと油断がならないのか。
「……なんで勝手に入ってきてるんです」
「いくらノックをしても答えがなかったものでな」
悪びれる様子もなく肩を竦める。さらに言い募るのに答えることもせず、魔王は室内へと足を進め、尖った視線を向けるのに構うことなく隣に並んだ。ベランダの柵に肘をついた魔王は暫く庭を見下ろしていたが、やがて静かにすまないと詫びの言葉を述べた。
「なんですか、急に。気持ち悪いですね」
セルリアーナの中で魔王は自分と同様いじめっ子に分類される。同じいじめっ子の性として、なぜか素直な言葉には裏があるのではないかと思ってしまう。
「不快な思いをさせたのではないかと思ってな」
「なんのこと?」
セルリアーナはそっぽを向いた。
「別にアルフ様に恋人がいたところで、あたしは何とも思いませんけど」
アルフレディオがこちらを振り返る。なぜだか少し驚いたような様子があった。
「な、なによ。本当になんとも思わないんだから。勝手に妻だとか言われて、迷惑してるくらいなんですからね」
「ほう?」
「あたしを痴話げんかの材料にしないで。アルフ様からちゃんとあの人に言っておいてください、あたしは関係ないって」
セルリアーナの言葉に、魔王はにやにや笑いを浮かべた。魔女姫を前にしていた時とはまるで別人のような表情だ。威厳というものが全くない。
「な、なんですか」
「俺が詫びたのは、全く別のことだが?」
「え?」
途端にセルリアーナは赤くなった。恐らくセルリアーナの独り言を聞いて、わざとわからないように話したのに違いない。なんだかしてやられたような気がして面白くなかった。
「べ、別ってなんですか」
語気が強くなってしまうのは自分でも不満だ。
「カルアに、下等と言われたと」
思わず目を瞠る。そんなことすっかり頭になかった。
「上等だの下等だの、何を基準にして決めるのか。愚かな発言だな。同じ魔族として詫びを述べようと思ってな」
すまないと詫びる魔王に、セルリアーナは首を振った。
「アルフ様が詫びることじゃないですし、それにそんなこと、気にしてません」
「そのようだな。お前は全く別のことに関心があるらしい」
言い返す言葉もなくて、なんだか腹が立った。
しかしとアルフレディオが笑いながら続ける。
「人の身で、よくあれに刃向ったな。イリーナたちも喜んでいたが。さすがに俺の妻だ」
「妻じゃありません」
「今はまだ、な」
「これから先もです」
くすくすと魔王が笑う様子が、どこか勝ち誇ったようでセルリアーナは慌てて言い返したが、さほど堪えているようには見えなかった。
今日はなんだかすっかり魔王のペースな気がする。大抵の場合、セルリアーナの方が何かしらの煮え湯飲まされることが多いようにも思えるのだが、いつにも増して魔王が余裕を持っている気がしてならない。
多分この瞳がいけないのだ。冷たい、色の薄い水色。そのくせ気分によって濃淡を変える不可思議な瞳。セルリアーナをまっすぐに見るそれは、今は少しだけ色を濃くしている。
あんなに冷たい表情が、どうしたらこんなに優しいものなるのだろう。思わずそんな疑問を抱く程にアルフレディオの瞳は優しい。向けられる微笑みも相変わらず美しく、そしてすべてを包むような温かさに満ちている。
セルリアーナと改めるように、魔王が呼ぶ。
「やっと、俺の名を呼んだな」
「……え?」
「だが……アルフ、か。家人と同じだが、まあ、今はいいことにするか」
「呼んでなんか」
「少しは、心を開いてもらえたということか」
蕩けるように優美な笑顔が向けられた。魔王などという呼び名が嘘かと思うほどの無邪気な笑顔だった。直視していることができなくて、セルリアーナは慌てて目を伏せた。どうしてか息が苦しくなる。
「あの騒ぎのおかげで朝食は抜き。おまけに昼食も簡単なものらしい。あとで運ばせるが」
視線を逸らしたセルリアーナを大して気にする様子もなくアルフレディオが続ける。
「今夜はイリーナが腕を振るうそうだ。ちなみに俺も手伝わされることになっている」
「アルフ様が?」
思わず反射的に言って、己の口から出た名前にはっとする。案の定、目の前の魔王は満足気に微笑んだ。
「お前を危い目に合わせたお詫びだそうだ。俺はともかく、イリーナは料理上手だから期待していいぞ、セナ」
はじめて愛称で呼ばれ、セルリアーナは目を瞠る。こちらが前に進んだから、自分はもう一つ先へ行くからついてこいと言っているように聞こえる。
「なんだか下男みたいですね、魔王なのに」
愛称で呼ばれたことを気にしていないというふりで言えば、楽しいからいいのだと魔王は笑う。実際、庭仕事を手伝ったり、炊事の手伝いをしたり。なんだか変わった王様だ。
「お寛ぎのところ、失礼いたしました。それではまた後程、セナ姫様」
冗談めかして言うと、魔王は片手を胸に、丁寧なお辞儀をして部屋を出て行った。
風はなかった。それなのに、目の前の人物の髪がふわりと揺れた。
なんとなくそれを見やったウォリフィオは、相手の表情が変わったことに気付く。これまで全く無関心のように見えた様子から一転、はじめてウォリフィオを見て口を開いた。
「なるほど」
何がなるほどかは全くわからない。
紺色の瞳は暗い色を湛えている。あまりに白い肌は生きているのか疑う程に不自然だった。線の細い体、同じく細くて長い指は骨ばっている。整った顔立ちは男なのか女なのかわからない。男というには華奢すぎるし、女というには丸みに欠ける。
「あなたの言うことは嘘ではないようですね」
随分と長い沈黙はウォリフィオの訴えを吟味していたというのだろうか。相手にされていないと思っていたが、実はその事実を自身の中で何か納得できるまで答えなかったのだろうか。
ウォリフィオが話したのはワールデア・ワルトでの一件だ。そしてそこに捕らわれた友人を救ってほしいというものだった。人の伝手を辿ってようやく見つけたアッシュア・ファム・グライハム。現在数を減らしつつある貴重な魔法使いだ。
「わかりました。やってみましょうか」
「本当ですか? グライハム様」
「アッシュアで結構ですよ」
耳にまろい声も中性的だ。
「必ずや、期待にお応えいたしましょう」
力強い言葉にウォリフィオは頷いた。




