第五章
第五章
カルテミアは魔王ではない。だが彼女の父は公爵位を持つ魔王の一人であり、魔界においてもかなりの重鎮で、娘であるカルテミアは魔女姫と呼ばれている。だから我儘なのも、自己中心的なのも仕方ないことかもしれない。所詮庶民でしかないセルリアーナは彼女からすれば顎で使う召使であり、おまけに下等だという人間だ。虫けらどころかミジンコ程の存在でしかないのかもしれない。――だが、しかし、である。
「ミジンコにだって意思はあるのよ」
「ミジンコって?」
パルムが魔女姫の世話に追われ、日課の魔界に関する講義は休みとなっていた。暇を持て余したセルリアーナは、サフご自慢の、中庭に面した部屋で豆の筋取りをしていた。
隣で日向ぼっこをしていたリディがセルリアーナの呟きに不思議そうに首を傾げた。何を隠そう、こいつのせいでセルリアーナは魔王を目覚めさせる羽目になったのだ。普段は黒猫姿でいることが多いこの少年は、眠ったままの友人を見舞ったところ、たまたま目を覚ましたのでそのまま滞在することにしたらしい。艶やかな黒猫の毛並そのもののような黒髪に金の瞳をした少年姿の今、どこぞのご子息よろしく、これまた非常に見目麗しくていらっしゃる。
「ミジンコって言うのは、ちっさい生き物のこと」
「ふうん」
セルリアーナの説明も適当だがリディの返事も適当だった。多分どうでもいいのだろう。
「セナは筋取り上手で早いね」
本来この仕事を頼まれていたのはリディだ。面白そうだからやらせろとねだったくせにすぐに飽きたらしい。通りすがりに手伝いを申し出たところ、あっさりと受け入れられたものだ。セルリアーナにとってはごく日常の作業のひとつであり、今更褒められる程のものでもない。
サフの手入れは行き届いている。緑色の絨毯かと思うくらい芝生は綺麗に刈り込まれていた。季節がら今の中庭の大きな花壇の主役は緑だが、春や夏には中庭を抜けるアーチ部分を含め、目にも鮮やかな彩りでさぞ美しいに違いない。セルリアーナの自宅裏にも小さな畑と花壇がある。畑にはハーブや薬草、花壇はいくつか花を植えているが、それも今はきっと雑草だらけに違いない。それともルールゥが世話をしてくれているだろうか。
ぼんやり庭を見つめ、手を止めてしまっていたところに軽やかな女の笑い声が届いた。見れば、アルフレディオと連れ立ってカルテミアが部屋へと入ってくるところだった。
「あら、何していらっしゃるの?」
小バカにしたようにくねくねが言った。答えを返そうという気が失せるくねくね具合だ。
「ミジンコの豆取りだよ、知らないの?」
無視するかどうするか、迷う間にリディがにこやかに答えた。が、カルテミアの頭には「?」が浮かんだのが見えたような気がする。
「あのね、リディ、ミジンコは関係ないのよ」
「あれ、そうだっけ? ま、いっか」
所詮その程度の興味だったのだ。説明するのをやめたリディのおかげで、カルテミアの頭の中は「ミジンコの豆取り」とはなんぞやというままに終わっているに違いない。
「筋取りか」
絨毯に直接腰を下ろしていたセルリアーナの隣にアルフレディオがしゃがみこんだ。
「品のない恰好ですよ、アルフ様。柄の悪い不良みたいです」
「品がないのはお前も同様だろう。そんなことアンドロワにでもやらせればいいのに」
アンドロワとはアンド、トロワの給仕係の双子のことだ。なんでもこの二人は魔獣化すると合体するらしい。ちなみに双子と言えば内向きの仕事をしているリリアとノノアの姉妹もそうで、こちらも二人で一つの妖獣なのだそうだ。よくわからないが、なんだかあまり好ましいことは想像できないので、どういう姿になるのかは確認していない。
「別にいいじゃないですか。あたしがどこで、何をしようと」
素っ気なく答えて、セルリアーナは豆取りに専念する。本当は部屋を出たかったが、二人が来たから出るというのもあからさますぎて、後でアルフレディオに余計な攻撃ネタを与えるような気もする。それ以上に先にいたのは自分なのだ。遠慮する必要はどこにもないはずだ。
頼んでおいたのかイリーナがお茶を運んできた。カップが魔王と魔女姫の二人分しか用意していなかった為に慌てて取りに行こうとするのを必要ないとセルリアーナは制した。一方、リディは元気よくいらないと宣言して、ワーサの所在を尋ねる。
「裏庭におりますよ。薪を割っております」
薪割り? とリディの声が弾んだ。
「豆はもういいの? 全部やっちゃうよ?」
「いいよ、それつまんないんだもん。薪割りしてくる」
リディが身軽く部屋を走り出る。なんというか気まぐれな性分だ。結局は手伝いだったはずのセルリアーナに完全に押し付けているのだが、そんなことは全く気にもしていないのだろう。
「特別に取り寄せたお茶ですの。アルフ様、気に入ってらしたようだから」
イリーナを下がらせると、ソファに座ったままカルテミアは手ずから茶を入れる。香りに誘われるようにして、魔王がカルテミアの座る長いソファの隣に腰を下ろした。
「いつぞや空のカーテンを見に行きました際にお持ちしたものと同じですのよ」
「ああ、確か香りがよかったな。覚えている」
豊かな香りが部屋に広がった。薔薇だろうか、濃い花の匂いが漂う。
「あの夜は素敵でしたわ。揺れる光を眺めながら、暖かく包んで頂いた」
明らかにそれはセルリアーナを意識しての言葉に違いなかった。鼻にかかった独特のくねり節で、ちらちらとこちらを伺いながら、どれだけ美しく、素晴らしい夜だったかを続ける。その手には乗るまいと思いつつも、自然と聞き耳を立てずにいられない。
「またご一緒に参りたいですわ」
「お前の住まう城からならいつでも見られるだろうに」
「アルフ様とご一緒にが良いのですの」
だだをこねるような明らかな猫撫で声にアルフレディオは笑う。
「そうだな、いずれ行こうか」
いずれという枕詞付ではあるが何の衒いもなく魔王が応じる。是非にと微笑むカルテミアが明らかにセルリアーナに向け、にやりとしたのがわかった。
――勝手にどこへでも行けばいいじゃないのよ。
セルリアーナは仏頂面になっていた。何が悲しくて、優雅にお茶を楽しみながらアツアツの思い出話をするカップルの前で筋取りなぞしているのか。何とも言えず惨めな気がしてきた。
「セナ、お前も飲んでみないか?」
よほどお奨めのお茶なのか、それとも何か不穏な空気でも感じたのだろうか。アルフレディオが呼びかける。それに対し、セルリアーナは結構ですと文句のつけようのない笑顔を返した。
「筋取りも終わりましたし、私は戻ります。それでは御機嫌よう」
丁寧な一礼を残し、部屋を後にした。アルフレディオが顔色を失くしたような様子が視界の端に移ったが、振り返ることはしなかった。
夕食時、セルリアーナは微笑みを絶やさなかった。
魔女姫が魔王に笑って話しかける様子を見守り、答える彼にも微笑を向ける。自分に声がかかれば笑顔とともに言葉を返す。いとも穏やかに、平静を装うのははっきり言って物凄くエネルギーを使った――が、平静とはなんだろうか。それは装うものであっただろうか……。
泡立つ心は自分でも掴みようがなくて、どうしていいのかわからない。わからないからその答えを捕まえたい。けれどそれはしてはいけないことのように思えてならない。
カルテミアは悪い人ではないというのは数日の間に理解できた。我儘は否めないが、あのくねくねと鼻声さえ耐えられれば人柄としては悪くはない、とは思う。先日もソファで眠ってしまったセルリアーナにショールをかけてくれたり、食事の時もさりげなくテーブルマナーのフォローをしてくれたりと、どちらかと言えば優しい。見目麗しい上に愛想もよくて人懐っこいようだ。だからこそ、みな煙たがりつつも彼女を受け入れているのかもしれない。
だが、ことアルフレディオが絡むとカルテミアは女をむき出しにしてくるので、いささか辟易する。そして、それは自分の中に落ち着かない気持ちがあることを嫌でも思い出させる。
「セルリアーナ様」
ノックに目を上げると、花を手にしたイリーナが入ってきた。
可愛らしいピンク色の一本の薔薇だった。白い紙で軽く包んで水色のリボンが結んである。その結び目に小さなカードが挟まれていた。
「一輪挿し、お水を入れておきましたから」
ここに置きますとイリーナが枕元のテーブルに置く。花をもらう意図がわからず、怪訝な表情をするとイリーナが苦笑した。
「アルフ様からですよ。なぜだか、とても怖かったと仰ってました」
食事中の話だとはすぐにわかった。およそセルリアーナらしからぬことだからだろう。カルテミアなんかは疑問を持たなかったろうがアルフレディオは何かうすら寒いものを感じたに違いない。案の定、イリーナが退出するのを見計らい二つ折りのカードを広げてみると、
――怒った顔が見られず淋しい。愛しの怒り姫。
笑った顔が見たいとか言いつつ、笑ってやったらこれかとも思うが、言っている「笑顔」の種類が違うことは勿論理解している。アルフレディオが自ら呼んだ客人である為、カルテミアを立てていることはわかる。その上で自分にも気を使っていると言う事なのか。
「……それはないな」
セルリアーナはひとりごちる。あの魔王はそんな殊勝な心を持っているはずがない。
魔王が何を考えているかもわからないし、自分自身のこの変な心のもやもやもよくわからない。セルリアーナはしみじみ溜息をついた。一輪挿しの花瓶に薔薇を挿そうとして、何気なく窓を見やり、そして――目を瞠った。
「な、ななな」
ベランダの窓の外にいたのは、金髪の麗しい美女だった。まるで後ろから何かに押し付けられているかのように、押しつぶされた蜘蛛よろしく、無様に張り付いているではないか。
「なにやってんの、あんた」
窓越しの会話も不便だ。おまけに仮にも「炎の女王」だの「魔女姫」だのと呼ばれる人が醜態を晒しているのを放置するわけにもいかない。仕方なく、セルリアーナは窓を開けた。
冷たい夜風が入ってくる。夜はますます寒くなって、季節は完全に冬へと移っていた。少し濡れたような空気は明日の天気を予想しているようだ。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
セルリアーナが開けたことで解放されたのか、慌てて細身のドレスの裾を整える。
「なんだか私に対して、悪意を感じる結界が張ってあったみたいで、窓ガラスをノックをしようとしたら、体の自由が奪われてしまって」
本当かどうかはともかく、こっそり入ろうとしたにしろ、ノックをしようとしたにしろ、先程の状態は奇妙すぎる。恐らく彼女の性格を考えて、魔王が何かをしていたに違いない。
「あなたと、お喋りがしたくって。少しお時間よろしいかしら」
「よろしくないです」
それでは、と閉めようとした隙間に、あの恐ろしいピンヒールが差し込まれた。
「ちょっと。あなたどう見ても暇そうよ。時間くらいあるでしょう?」
「あたしは人間で下等な生物ですからあなた方と時間の流れが違うんです。無駄に過ごす時間はありませんので」
「痛い痛いっ!」
無理やり閉じようとする側と意地でも閉じさせまいとする側の不毛なせめぎあいは、セルリアーナの方が折れた。
「下等と言ったことはお詫びするわ。頭に血が上って心にもないことを言ってしまったのよ」
「心になくても頭にあるからそういうことを仰るのでしょう?」
「あなた、何気に私のこと嫌いでしょう」
「そんなことありません。苦手なだけです」
「いい性格してるわ」
ねえ、とカルテミアが口調を変える。
「お土産も持って来たの。お願い、少しでいいからお話しましょ?」
セルリアーナはものすごく大きく、諦めの溜息をついた。
そう、このカルテミア様は自己中で我儘なのだ。至極普通の性格の自分が意思の通し合いで勝てる相手ではないのだった。
「これね、私が作ったの」
広げられた箱には意外にもクッキーが入っていた。チューリップ、鳥、動物型は猫だろうか。絞りのクッキーまである。
「私、お料理は何もできないけどお菓子だけは作れるの。久しぶりに作ってみたのよ」
伏し目がちに言う彼女はやはり美人だ。緩く束ねた金髪の、その零れ具合がまた色っぽい。
「せっかくのお菓子ですけど、お茶がないですよ」
「大丈夫。お持ちしたわ」
お菓子の箱が入っていた鞄から茶器が取り出され、そこからティーポットが姿を見せた。なんと準備がいいことかと思うが、魔法か何かでぱっと出すのかと思いきや、普通に鞄から出してくるというのが何というか奇妙な感じだった。
「冷めちゃってるんですけど」
カルテミアは片目をつぶって見せる。両手でティーポットを包むように持つ。暫くすると、温かな湯気をあげる紅茶に戻っていた。
変に人臭いと思えば、人外な力を発揮する。その境目がよくわからない。
「便利ですね、魔族って」
炎の女王自ら温めたお茶はジャスミンの香りがする。
「不便でもあるのよ。だって、人から見たら魔物と一緒でしょ」
「説明になってないですよ」
「でも、本当にそうなのよ」
赤い瞳がティーカップへと注がれる。
「だってね、生きるって大変よ。永遠に近い時間が、延々と続くっていうのも意外と苦労があるって思わない?」
病気と老いがないだけでもかなりなところ、生きることにかけては苦労が軽減されるように思う。そう言うとカルテミアは少し考える風を見せてから、どっちもどっちだと微笑んだ。
「哲学語ろうとして面倒くさくなってやめたクチですよね、今の」
「いいじゃない。それよりアルフ様の話をしましょうよ」
「あたしは別に話すほど知りませんし、どうでもいいです」
「そんなことなさそう。私はライバルだと認めているのよ」
「勝手な認識はやめてください。とってもものすごく迷惑です」
どうして魔族のお偉方は勝手に人の立ち位置を決めようとするのだろう。
「……あなた、結構いじめっ子ね。私、そういう子好き」
なんだか恍惚としたような表情で言われ、セルリアーナは思わず身を引いていた。
なるほど、と気づいた。どうやらカルテミアは相当にマゾ的な要素を持ち合わせているようだ。アルフレディオは間違いなくいじめっ子の側に属すであろう。あの意地悪さが魔女姫のお好みなのだとしたら、カルテミアは相当倒錯している。
「相変わらず、お美しいわよね、アルフ様。氷晶王は健在でよかったわ」
それが、とカルテミアがセルリアーナを正面から見返した。
「どうしてあなたみたいなのと結婚することになったの」
「あたしが教えてほしいです。っていうか、承諾してませんし」
「どうして? どこが嫌なの? あんな完璧な方いないでしょう?」
「完璧だろうとなかろうと、種族が違うんです。あたしは人間なんですから」
「くだらないことにこだわるのね」
種族の違いは決してくだらなくはないはずだ。あっさり断言する辺りが人間とは違う。つまりこれは魔王との認識の違いでもある。そう思うと少し淋しい気ような気がした。
「私、小さい頃から知ってるの。はじめてお会いした時の、私を見つめたあの鋭い眼光。お側によったら目を逸らされて、離れなさいって、そっと距離を取られて。紳士としてのたしなみよね。小さい子供もレディとして扱ってくださるなんて」
それは単に子供が嫌いだったのでは、とは言えない雰囲気だ。夢見るような表情で話されては真実を告げるのは酷と言うものだ。
「その時から憧れの方だったのよ。それからずっと密かに想いを抱いてきたのに」
どこら辺が密かなのか疑問だが、彼女の密かには「公に」と書くのかもしれない。
カルテミアはくねっと恥ずかしそうに顔を伏せる。幸せだったという日々をうっとりと思い出しているのだろう。
「二人の暑苦しい恋話を聞かせに来たんですか?」
くねくねは見るに堪えない。溜息をつき、セルリアーナは魔女姫の夢想を切り捨てた。
「あ、違うのよ。別に自慢しに来たわけじゃないの」
――自慢かよ。
「もうお加減はよろしくなったのかしら、と思って」
「あたしは健康ですけど」
首を傾げるセルリアーナに、カルテミアはアルフ様よ! と声を張った。
「誰があなたの心配なんてするのよ」
もっともなことだとセルリアーナは頷く。
「お目覚めにはなられたけど、ご病気はその後どうなのかしら?」
カルテミアが形のよい顎に指を添える。
「今ご一緒にいる限りでは以前とお変わりないようにも思えるんだけど、でも時々不安定な感じがするの。お力が安定していないということなのかしら。どう思う?」
「どうって……」
セルリアーナはカルテミアを見やった。
「病気だったんですか?」
「知らないの?」
驚くとともに、少し優越を感じたような口調だった。
そんな話は聞いていない。ただ単に目が覚めなくなったということしか知らされていなかった。考えてみれば眠ったままということ自体が不自然なことだ。自分の意思で眠ったのならば、自分の意思で起きることができるはずだろうに。
「少なくとも、三百年前から生きているような大年増ではないですから」
カルテミアが目を潤ませる。
「何、この感じ。あなたの言葉って、私の心をすごく揺さぶるの」
「そんなことどうでもいいですから、病気のことを教えてくださいませんか?」
カルテミアに対して嫌味を言うのはやめようと思った。なんだか――よくない気がする。
「アルフ様は一度魔力をなくされているらしいの」
「魔王が魔力を?」
そんなことあり得るのだろうか。そう問うと、カルテミアは首を振った。
「詳しいところは私も知らないのだけどね。で、その時に傀儡の術をかけられたらしいのよ」
「傀儡?」
「感情がなくなってしまうのですって。心と体が離れてしまって、いずれ表すことのできなくなった感情は己の内側に還り、そして自我を壊してしまうのだとか」
「壊してどうなるんですか?」
「人形になってしまうの。姿はそのままでも、中身がないのよ」
表に出せない分、内側に鬱積する感情。それがアルフレディオの精神を蝕み、そこからアルフレディオという人格が影響を受けはじめた。
「だからお眠りになられたのだと聞いてるの」
「それが、病気……ですか?」
「正しい呼び方ではないけど、傀儡術に侵されているなんて言うよりもいいでしょう?」
傀儡術とは聞き慣れない言葉だった。
「心が死ぬ前に眠られたから、感情を取り戻すまではお目覚めにならないって話だったの」
「なら、もう治ったってことじゃないんですか?」
今のアルフレディオが無表情で無感動だとは思えない。憎らし程の笑い上戸で、嫌味も言ってくる。それだけではない。やんちゃな笑顔も不機嫌な表情も、あの減らず口と一緒に存分に発揮しているではないか。
だがカルテミアはそれでも完全ではないような気がするのだと表情を曇らせる。
「時折、無表情をなさるのよ。感情がある人の無表情ではなくてね。どうしようもなく無表情と言えばいいかしら。それにね」
「なんです?」
「以前のような口の端をあげて、眇めるような視線をくださらないもの」
それは明らかに蔑みか見下しの表情であり、また別の話だと思うものの、カルテミアが真剣な表情をしているので指摘するのはやめておいた。
「術をかけた者は、今はもういないはずなんだけれど、嫌な感じがあるの。多分、アルフ様も感じていらっしゃるんだと思うわ」
だからこそ自分がいるのだろうとカルテミアが付け足すように呟いた。
「まあ、私がいる限り滅多なことはないでしょうけどね」
カルテミアの言うことはよくわからない。術がどうとかいうこともわからないし、嫌な感じなんてこともわからない。だから魔女姫がいるのだという理由も。
「あなたが目覚めさせたのですってね」
カルテミアが元のくねくね口調で言った。
「ええ、ちょっと事故がありまして」
それは触れてほしくない出来事なのに、何故みんなして蒸し返すのだろう。
「だからあなたを妻にするとおっしゃってるの?」
「殴った腹いせでしょうね」
「な、殴ったの?」
「はい。ぐーで」
カルテミアが額を押さえた。
「あなた、相手は魔界でも知らぬ者のない王の一人よ」
「そんなことあたしは知りませんでしたし」
考えて殴ったわけではない。気が付いたら、である。
「腹いせなのだと祈りたいわ。もしくは単なる治療薬」
「え?」
「気づいてないのね」
立ち上がりつつ、それもそうかとカルテミアが続ける。
「あなたと一緒にいる時が一番表情をお見せになるのよ。さすが目覚めさせただけはあるわね。このまま完全に治してくれればいいんだけど」
治療薬という言葉に、カルテミアの悪気があったのかなかったのか。多少の嫉妬はありつつも、本心なのかもしれないがそれはセルリアーナには判断がつかなかった。
「お菓子は差し上げるわ」
紅茶セットだけを片付けると、やってきた時と同じように窓へと歩み寄った。
「あなた、セルリアーナと言ったかしら」
優雅な動作で振り返る。
「あなたとは良いお友達になれそう。アルフ様と同じ匂いを感じるの」
最大級に体をくねらせてカルテミアが笑う。その微笑は麗しいのだが、如何せん、今の発言は撤回してもらいたい。
「それじゃ、おやすみ。セナ」
「病気だったなんて」
賑やかなカルテミアが去ると、部屋は異様に静かに感じた。シンとした夜の静寂。静かに降り出した雨の音が聞こえる。
アルフレディオが三百年も眠ったままだったわけ。魔力をなくした上に感情を無くしてしまうという病気。正確には病気ではない。傀儡の術、つまりは呪いだ。その進行を食い止める為の眠りという防御策。だが、セルリアーナが衝撃を受けたのはそんなことではなかった。
――魔王が感情を取り戻すための存在。
確かにパルムは言っていた。直接生気を送り、その魂を揺さぶることが必要だと。そしてたまたまセルリアーナが適合した。本当ならそこで解放されるべきだったはずだ。ところが、そうはいかなかった。実際セルリアーナは未だに魔王の城にとどまっている。つまりはまだ完全ではということだ。だからこそセルリアーナが必要で、帰すことができない。
薬としてどう使われているのかはわからないが、確かになったことはある。必要なのは治療薬なのであって――セルリアーナ自身の感情はどうでもいいということだ。
魔王が優しいのは機嫌取りに違いなく、治療とやらにセルリアーナが乗り気にならなければ、恐らく意味がないのだろう。だからあれこれと気を使ってその気にさせようとしているだけ。もしかしてなんて、やはりないのだ。そんなことはわかっていた。わかっていたのに、酷く胸が痛かった。痛くて、体に力が入らないくらい。
セルリアーナはそのままベッドに仰向けになった。ぼんやり見つめる天蓋は淡い水色。堪らず目を閉じれば、目裏に浮かぶものも、同じ色の瞳。
「――」
目尻から零れるものがあった。次から次へと瞼を熱く火照らせ、頬を伝って落ちていく。
はじめから認めていなかったはずなのに。全く別の生き物であり、考えも、世界さえも違う。出会いも最悪で、今だってよく知るわけでもない。横暴でこちらの都合など一切考えない。何か言えばすぐにバカにしてセルリアーナの言うことをいちいち笑って――。
すべてが治療の為、セルリアーナを逃がさない為の檻。そう、所詮彼らは魔物なのだ。こちらが考えるような感情の機微はなく、全く別の思考回路を有していてもおかしくない。
そう思いつつも流れる涙が止まらない。乱れる思いを落ちつけようと、ベッド脇のテーブルに置かれた水差しへと手を伸ばした時だった。
「な、なに」
床に突如金色の輪が現れた。その中に奇妙な文字が浮かぶと、光が溢れ出す。咄嗟にセルリアーナは咄嗟に顔を覆う。室内を照らした光が急激に収まると、一人の人間を生み出していた。
「セナ!」
聞き慣れた声に目を眇める。すると、そこにはいるはずのないウォリフィオの姿があった。驚きを隠せないセルリアーナの肩を掴む手にはしっかりと体温があった。
「よかった、無事で」
そのまま抱き寄せると、心底安堵したように息をつく。セルリアーナの方もウォリフィオの無事を確認できたわけだから喜ばしいのだが、それよりも驚きが勝っていた。
「フィオ、どうしてここに……?」
「魔術師の力を借りてセナを探してたんだ」
「魔術師?」
そんなものを雇ったのかと問えばフィオが頷く。
「仕方ねえだろ」
森にいることはわかっているのに入ることができない。得体の知れない力が働いているのならその道の人間に相談するしかないとウォリフィオが説明する。
「よくわかんねえんだけど大きな魔法が動いたとかで、結界ってのが綻んだらしくて、ようやくここがわかったんだ。で、その魔術師に、本当にセナがいるか確かめる為に魔方陣で送ってもらったんだ」
だが魔方陣は一人しか転送できないのだとウォリフィオが悔し気に言う。
「今すぐは連れ戻せねえけど、必ず迎えに来るから」
「無理よ。あたしが帰ったら、この辺り一体が氷漬けにされちゃうのよ。だから帰れないの」
最近は表面的な言葉だけのこと思っていたが、治療薬でしかないとわかった今では単なる脅しではないのかもしれない。本来なら無理やり拘束してもいいくらいだ。治療道具でしかない娘との約束など、彼らに守る義理はない。
「あたしは大丈夫。別にひどいことをされるわけじゃないから」
「けど」
「ねえ、フィオが無事ならオーリャも大丈夫だったんだよね?」
もちろん、とウォリフィオが頷いた。
「それならいい。二人とも無事だったなら」
気がかりの一つが解決して、セルリアーナはほっと息をついた。
「それよりルールゥをお願い。放っておいたらお酒ばっか飲むし。あと、畑と、それから」
あれこれ心配事を口にするとウォリフィオが苦笑する。全てオーリャに任せているとの答えを聞いて、セルリアーナは胸を撫で下ろした。
「ありがとう、ちょっと安心した」
「うん」
不安を完全に拭えたわけでもないし、問題が解決できたわけではないが、とりあえず状況を確認し合えたことで少しだけ空気が和む。互いに安堵の笑みを交わすと、ふいにウォリフィオがセルリアーナの名前を呼んだ。
「お前、泣いてたのか?」
「え?」
「泣いてたんだろ」
顔を拭おうとした手を掴まれた。
「やっぱり辛いんじゃねえか」
大丈夫だと答えるセルリアーナに向き合うと、両肩にウォリフィオが手を乗せられた。
「俺が頼んだ魔術師はその道じゃかなり有名らしい。きっと村も守ってくれる。だから大丈夫だ。必ず連れ戻すから」
「……フィオ」
「もう少しの辛抱だ」
ウォリフィオの緑色の瞳が近づいた。何かと思う間もなく唇が触れる。そして再び強く抱きしめられた。
「絶対、迎えにくる」
数歩距離を取ると、ウォリフィオは右腕から金色の腕輪を外した。放り投げるようにして地面に転がされた腕輪は眩い光を発する。光は一本の線となり、現れた時と同じような金色の輪を描く。出来上がった光の輪の中にウォリフィオが立つ。待ってろ、という言葉を残し、その姿は金の輝きとともに姿を消した。




