第三章
第三章
窓の外が明るくなるのを一睡もすることなくセルリアーナは見つめていた。
森に入って丸一日。今日はまだいい。だが、いずれはルールゥが帰宅する。その時留守だと知ったら、どれだけ心配するだろう。森ではぐれたウォリフィオやオーリャが本当に無事なのかもわからない。こんな状況で暢気に眠ることなどできなかった。
衣服は昨日のうちに改めさせられていた。柔らかい布は恐らく絹だ。肌の上を滑る感じが滑らかでくすぐったい。それだけではない。用意された部屋は魔王の居室よりほんの少し小振りなだけの、広い豪奢なものだった。天蓋付のベッド、落ち着いたアイボリーの壁紙、クリーム色の絨毯。木目の調度類は多分恐ろしく高価なのに違いない。窓際と枕元にあるテーブルの上に大きな花瓶と花が飾られている。心地よい芳香はこの花束から香っているものだった。
虜囚かと思ったが、この扱いは客人のようだ。ただ油断はできない。殺す前に夢を見させたいだけなのかもしれない。その証拠に大きな窓の鍵は開けることができなかった。
「お目覚めですか?」
密やかなノックと共に声が掛けられた。振り返ると鮮やかな橙色の髪の少女が入ってきた。年の頃はセルリアーナと大差ないか、少し上といったところに見えるが、この屋敷にいるということは見た目通りの年齢ではないのだろう。そして人間でもないに違いない。
「お食事の時間です。寝間着のままではいけませんから、お召し物をかえましょうね」
眉根を寄せるも、少女は特に構う様子もなく、背を向けてひとつのドアへと向かう。
「お嬢様はこちらのお色が似あいそうですね」
そこは衣裳部屋のようだった。色とりどりの服がいくつもかけられている。その中から淡い青色のドレスを手に取ると、セルリアーナにあてがう。
「髪は下ろしている方がお好きですか?」
「あ、あのさ。これ、どういうこと? あたし、虜囚じゃないの?」
「虜囚? どなたがですか?」
「あたし」
少女が一瞬目を見開くと、すぐに口元を抑えた。
「何をおっしゃっているんですか。おかしな方ですね」
戸惑うセルリアーナをよそに、少女はてきぱきと準備を整えていく。ドレスを着せ、背中にある大きなリボンを結ぶ。ブラシで髪を梳いて、上半分を器用に束ね飾り櫛を刺す。
「まあ、とても可愛い」
それは自分の技術を褒めているのではないだろうかと思うも、普段あまり身なりを気にしないセルリアーナも鏡の中の自分に正直驚いてはいた。
「さあ、参りましょう」
「ちょ、ちょっと待って。えーっと、その……」
「イリーナと申します、お嬢様」
少女が笑う。自分なんかよりよっぽど可愛いのではないかと思う笑顔だ。
「あ、ありがとう、イリーナさん」
「いいえ、私の仕事ですから当然ですし、それから私のことは呼び捨てで結構ですよ」
「あの、どこに行くの? こんな恰好して」
こんな衣装を身に着けたことはいまだかつてない。
「お食事と申し上げましたが?」
行きましょう、とイリーナの笑顔が促す。わけのわからない気持ちは解決しないままだが、イリーナに問うたところで仕方ないのだろう。魔王に直接問いたださねばなるまい。この全くもって理解不能な状況は、一体全体何の真似なのかと。
ドレスは歩きづらい。イリーナに裾裁きのコツを聞きながら到着した食堂は無意味に広かった。ずらりと並ぶ椅子と必要以上に大きなテーブルは軽く二十人は座れそうなだ。
清潔そうな白いクロスに等間隔で配置された燭台。その間に置かれた果物の籠。ゆったりとした室内の端々にはやはり豪華な花が飾られている。部屋の奥にある暖炉が暖かな火を揺らめかせて、室内を心地よい温度に保っていた。
「見られる姿になったな」
テーブルには既に魔王の姿があった。セルリアーナを見やって浮かべた微笑は恐ろしいくらいに美しい。
上座に座る青年の右手の椅子をイリーナが引く。促されるままに腰を下ろして、セルリアーナは気合を入れるべく背筋を伸ばした。
「俺とお前だけだ。固くなる必要はない」
あんたと二人だから固くなるんだ、と思ったものの口には出さず、ひきつった笑顔を返す。そんな様子に魔王が僅かに目を細めた。
給仕係がワゴンで食事を運んできた。スープと焼きたてのパンの香りが広がる。魔王がなにやら指示をすると、給仕係が急いで下がる。すると間もなくサラダが盛りつけられた皿とメインディッシュらしい器が並べられた。
「せっかく二人でいるのに、途中で邪魔が入るのも無粋だからな」
軽く会釈をして給仕係が辞すると、魔王は優雅な動作でスープに手を付ける。
「腹が減っているだろう?」
それは確かだった。昨日昼に食べた携帯食以来、何も口にしてはいない。食べなければ何かされそうな気がして、セルリアーナはパンへ手を伸ばした。
当然のことながらテーブルマナーなどわからない。だが、それを悟られるのはなんだか悔しい。とにかく細かくパンをちぎり、時間をかけてそれを口に運んだ。
食べているんだかいないんだか、魔王はじっとセルリアーナを見つめている。視線を感じつつ食事をするのはなんと居心地の悪いことか。特にあの瞳に見つめられながらというのは酷く緊張を強いられる。ろくに味わうこともできず、ひたすらパンを押し込んでいたセルリアーナは喉を詰まらせてしまった。慌てて水を飲んで息をつくと、やはり魔王はこちらを見ていた。
「あの、なんなの?」
堪らずセルリアーナは口を開いた。
「なんでそんなに見るのよ」
「パンしか食べないのか?」
「は?」
質問の答えではなく、予想外の質問にセルリアーナは眉根を寄せた。
「先程からパンしか食べていない」
「べ、別にいいでしょ。あたし、パンが食べたかったんだからっ」
「喉が詰まるほどか」
セルリアーナは今度は言葉を詰まらせた。
「パンが好きなんです」
くすくすと魔王が笑った。
「いくらでもある。そのように急がずとも、誰もとったりはせん」
がっついてると思われるのは癪だが、見られてるから緊張するとか、テーブルマナーが苦手とか告げるのも同じように癪な気がする。
「もしかして、口に合わないか?」
「いいえ。そんなことはありません」
魔物の用意した食事だ。だが、普段食している――よりも相当豪華な気がするが――内容と大差はない。それどころか、一口すすったスープはとても美味だ。
「ちなみに、今お前が使ったスプーンは、デザート用のものだがな」
笑い含みに指摘され、セルリアーナは頬がかっとなった。
「あたしのミスをあげつらうために眺めてるわけ?」
元々きついと言われるセルリアーナである。気の強さは育ての親であるルールゥ譲りだ。恥ずかしさに怒りを乗せて、思いっきり睨みつける。
「さっきからなんなのよ」
「別に、何も」
「じゃあ、じろじろ見ないでください。それとも、人間が珍しいってこと?」
あっさりと魔王が頷いた。
「一理ある。暫く目にしていなかったからな。まあ眠っていたのだから当たり前だが」
「いいですね、そんなに長いこと眠っていられるなんて。王様ともなると眠っていても身の回りの世話から何から、何もかも家臣がやってくれますもんね」
「そのようだな」
優雅な動作でワイングラスを手にすると、怪しい視線が向けられた。
「そんな家臣のおかげもあって、ゆっくりと眠り、そして誰かさんの口づけで目覚めたわけだ」
セルリアーナは目を逸らした。忘れたい事実を改めて突き付けるなんて、まさに悪魔としか思えない。
「あ――あれは事故でしょ。あたしの意思じゃないわ」
「俺の意思でもない。そういう意味では事故と言ってもいいかもな」
あっさりと認める口調に、セルリアーナは意外に思った。もしかしたらもう話にはのぼらないのかもと内心ほっとする。が――。
「まあ、俺はそうは思っていないが」
セルリアーナの気持ちを知ってか、そんなことを言う。あっさりとしてやられたセルリアーナは下唇を噛む。それを楽しそうに魔王が見やった。
「なんなんだよっ!」
部屋に戻るなりベッドへと飛び込んだ。柔らかな枕を掴み、壁に向かって投げつける。
完全に負けている。まあそれも仕方ないだろう。見た目こそ二十代前半といったところだが相手は何百年も生きているのだ。それに比べて自分は正真正銘の、たかだか十六年。憎たらしいが、向こうの方が経験値は高い。
「いや、違う。あいつは寝起きだ」
なんとかぎゃふんと言わせたい。そして帰っていいと言わせたい。何かあるはず――そう思いはするが、どうだろうか。
氷の王だと言う称号に違わぬ冷たい美貌、流れるような所作、優雅にグラスを傾ける様子など容姿や仕草には残念ながら欠点はない。それどころか危く見惚れそうになるくらい完璧だ。目の前で動いているのが信じられない美しさである。あれが魔王なんかではなく、ごく普通の青年で、あんな性格でなければどんなによかったことか。
食事の時間を思い出すと、悔しさがこみ上げてくる。
分が悪くなるとすぐにあの話を持ち出す。免疫がないだけにそこを持ち出されると一気に形勢逆転となってしまう。セルリアーナにとって魔王とキスをしてしまったことは忘れたい出来事だ。人生の汚点だ。それをあろうことか武器として振りかざしてくるなんて。
ルールゥともよく口喧嘩する。勿論本気の喧嘩ではないが、お互い相手をぎゃふんと言わせてやろうと思っている節はある。大概悔しい思いをするのはセルリアーナの方だったりするのだが、なんだかそんなやり取りに似ている気がする。
……ルールゥは今頃どうしているだろう。
溜息をついて仰向けになった。天蓋に描かれているのは大きな白い花々の絵。淡い色調が目に優しい。憎々しいのは背景が薄水色だということ。どっかの誰かを彷彿とさせる色だ。
どうして帰ってはいけないのだろう。もう自分にできることはないはずなのに。何が目的でここに留め置くのか。
……それは、魔王を目覚めさせてしまったからか。
これまでの娘達は目覚めさせられなかったから帰されたのかもしれない。自分は目覚めさせてしまった。魔王の存在を知ってしまったから人間の世界へ戻せないということなのではないだろうか。そしてそういった場合、大概において――待っているのは、死だ。
今与えられているこの状況は、死ぬまでせいぜい贅沢を楽しめという意味かもしれない。
――逃げなくては。
無駄だろうと思いつつ窓を確かめると、なぜか鍵はすんなりと開けられた。
屋敷を出ても、周囲は森だ。あの森にはよくわからない獣がいる。だが、ここでおとなしく死を待つわけにもいかない。
――果たして、夕食時。
セルリアーナは再び、魔王の隣でパンをちぎっていた。
身に着けているのは淡い水色のドレスである。汚してしまったのでイリーナの手によって着替えさせられたものだ。スクエア型に開いた襟元は紺のビロード、その上にレースがあしらわれている。所々に煌くのは宝石で、一際濃い紺色のリボンが七分丈の袖口を飾っている。
華やかなドレスでも、着ているセルリアーナの顔は不機嫌そのものだった。というのも、逃走を試みたがあっさり掴まってしまった為だ。
やたらと庭が広いのがいけないと思う。それ以上になぜ城門が開いてくれないのか。開かないものだから庭を歩き回る羽目になり、パルムに見つかってしまったのだ。そしてワーサに抱えられて部屋へと戻されてしまった。
逃走失敗は仕方ない。一度で成功するとも思えないからだ。だが、それをこの魔王は当然知っているはずで、今度はそのネタを振りかざしてくることは目に見えている。それなのに、ここまで逃走失敗についての発言が一切ない。魔王は静かに食事を口に運ぶ。このわざとらしい沈黙はなんだというのだろう。不気味だ。気持ち悪い。
「なにかあるのか?」
セルリアーナが目を丸くした。
「今度はお前の方が俺を見ている」
「き、気のせいじゃないの?」
「俺に惚れたか?」
「何血迷ったこと言ってんのよっ」
魔王の肩が揺れる。
「……言いたいことがあるなら言えばいいでしょ」
そんな風に笑われるくらいなら、何か言ってくる方がよほど精神的にはいい。
「次はどうやって逃走をはかるのかと思ってな」
新たなネタを与えてしまった自分が腹立たしい。
「放っておいてください」
「地面でも掘るか? なんなら手伝うぞ」
完全にバカにしている。手伝うだなとど、ここから逃げることなどできないことを知っているからこその言葉だ。
「城や庭はパルム様の結界がありますから、すぐにわかってしまいますよ」
傷などないか確認した際イリーナが気の毒がって教えてくれた。無駄なのだと言われたところで殺されるかもしれないのだ。おとなしく手をこまねいているわけにもいかない。しかし結界などと理解できないものがある状況でどうやって外へ出ればいいのか。悔しいが、本当に地面でも掘るしかないのだろうか。それが有効な手段なのかはさっぱり見当はつかないのだが。
「まるで百面相だな」
考えているままに表情を変えていたのだろうか。笑い含みの声に、セルリアーナは完全な無表情を浮かべた。人のことを眺めていちいち感想を言うのはやめてもらいたい。
再びパンばかりと言われるのも腹が立つので、今度は外側にあるスプーンを取りスープを口に運んだ。マナーについては、ほんのさわりだがイリーナからこっそり聞いたのだ。
「そのドレスはお前が選んだものか?」
今度は何だと言うのか。唐突な質問にセルリアーナは眉をひそめる。
「よく似合っている。俺の目の色と同じドレスだな」
イリーナがこの色を選んだのにはそんなわけがあったのかとはじめて気づいた。
「褒めても、何も出ません」
「なんだって?」
「何を言っても無駄です。あたしは虜囚なんだから」
魔王が目を丸くした。
「あんたの、魔王の秘密を知ったから殺されるんでしょ」
どうせ捕らえてあるのだから、ついでに人間を観察してみようとでも考えた。昼間じーっと見られていたことも、それなら納得できる。
「死ぬってわかってて愛想よくする必要なんかないし」
弾かれたように魔王が笑い出した。あまりに唐突な反応に思わずびくりとする。魔王はたまらないとばかりにマナーそっちのけでテーブルを叩き、腹を抱える。一向に収まる気配のない笑いにセルリアーナは眉を寄せた。一体なにがそんなにおかしいというのか。
「ちょっと……なんで笑うの?」
暫く横を向いた肩が揺れている。すぐに答えることができず、ややあってから魔王は手の甲で口元を抑えつつ顔を上げた。
「お前、面白すぎる」
「あたしはちっとも面白くなんか」
笑ったせいだろうか。酷薄な瞳はどういうわけだか優しく見えた。
「名前を聞いていなかった」
「え?」
「なんと言う?」
「聞いてどうするの?」
それが素直な感想だった。虜囚の名前を把握してどうするというのだ。
「いつまでもお前と呼ぶわけにはいかないだろう」
「なんでもいいです。どうせ死ぬんだし。好きに呼んでください」
「バカでもいいのか?」
「――ど、どうぞ」
正直、反論したかった。が、なんでもいいと言った手前、否と唱えたら負けな気がする。
「なんでそんなに死にたがっている。一体、誰に殺される予定だ? まさか、俺にとか言わないだろうな」
他に誰がいるのだ。答えない代わりに睨みつけると、魔王は心外とばかりに肩を竦める。
「俺がいつそんなことを言った? まったく、どこをどうしたらそういう考えになるのか、不思議だ。人間とはそういうものなのか?」
「あたしは、どこをどうしたらそういう考えにならないのか不思議ですけど」
「死にたいのか?」
はい、と答えたらあっさり願いを叶えてくれそうな程に、あっけらかんとした言い方だった。危く頷きかけ慌てて手を振った。
「そ、そ、そんなわけないでしょ」
「じゃあ、何が望みだ――帰りたいということ以外で」
先手を打たれ、セルリアーナは口を噤んだ。今の自分には帰る以外の欲望は存在しない。
「……わかってるんじゃない」
魔王が首を傾げる。それをまっすぐに見やって、セルリアーナは続けた。
「あたしの望み。わかってるくせに、それなのにそれ以外なんて、あるわけない」
どうして、とセルリアーナは魔王を見た。
「どうして帰らせてもらえないの? あたしはちゃんと役割を果たしました。その他に何があるのよ。殺すつもりもなく、ただ閉じ込めるなんて、一体どういうつもりよ?」
ウォリフィオもオーリャも心配しているに違いない。ルールゥだって心配するだろうし、自分もルールゥが心配である。それに薬草畑の世話だってせねばならない。いつまでもこんなところにいるわけにはいかないのだ。
「あたしをどうしたいの? わけのわからないまま放っておかれるくらいなら、いっそのこと一思いにやったらいいじゃない」
意味も分からず留め置かれるのは堪らない。心配ごとと思い悩むことばかりが増えていく。たった一日でも落ち着かないのだ。時間が経てばそれだけ、気鬱は増していく。
「なあ、バカ」
「セルリアーナよっ」
セルリアーナは力一杯訂正した。
「ほんとに呼んでどうすんのよ!」
「バカでいいと言ったのはお前だが」
「真面目な顔でそんな冗談真に受けないで!」
くすりと笑った魔王は額にかかった黒髪を無造作にかきあげる。テーブルに肘を置くとそのまま頬杖をついた。
「なあ、セルリアーナ」
姿勢のせいか、口調が砕けたものになった。改めて名前を呼ばれるとなんだか緊張する。ごくりと唾を飲み、セルリアーナは姿勢を正した。
「俺が嫌いか?」
「………………………………は?」
「セルリアーナは俺が嫌いかと聞いたのだ」
セルリアーナは激しく瞬いた。質問の意味を理解しようと試みる。が――質問の意味もわからなければ、その意図も理解できない。
「お前をどうするつもりかって? そんなの決まっている」
どこかいたずらめいた表情が浮かぶ。邪気を含んだ笑みは、その秀麗な面に妖しい色香を漂わせる。
「セルリアーナ。お前は俺の妻になるのだ」
……どのようにしてあてがわれた部屋へ戻ってきたのだろうか。
世にも恐ろしい宣告を受けた後の記憶はなかった。もしかしたら気を失ったのかもしれないが、もはやそれすら定かではなかった。
気が付けばまたもや明るい日差しが差し込む……朝?
何がどう間違って自分はこんなことになっているのだろう。森に探検に出て、掴まって。たった数日で、なんと魔王が嫁にすると宣言するに至るとは。
「人生、何があるかわからないね」
力なく呟いて笑ってみたりする。夢かどうかの確認はもう数えきれないほど実行したので、もしかしたら顔が倍くらいに腫れあがっているかもしれない。
――お前は俺の妻になるのだ。
頭の中で木霊する声は甘美な響きなどさらさらなく、呪いの言葉でしかない。執拗に脳裏に繰り返され、貼りついてくる。
「嘘だよね。ほんとは殺されるんだ」
死ぬのは嫌だが、そちらの方がよっぽどましに思えるし、理解できる。
どう考えてもおかしな話だ。自分は人間なのだ。一体何年生きるかわからない、化け物の伴侶が務まるとは思えない。
「あたしのこと、ぶすだって言ったのに」
見目麗しい美姫に起こしてもらいたかっただろうに。初めて自分を見た時、意外だと言わんばかりの顔をしていたくせに。
「セルリアーナ様」
小さなノックの後、顔をのぞかせたのはイリーナだった。
「まあ、そんな。床に座り込んでしまわれて。いかがなされたのです」
「イリーナ。あたし、殺されるんだよね……その方がよっぽどいい」
イリーナは信じられない力でセルリアーナを抱きかかえるとビロード張りのソファへと下ろした。乱れた髪を整えて、苦笑する。
「お泣きになったのですか? 目が赤いですよ」
これもきっと絹なのだろう。柔らかな布で頬を拭うイリーナは優しく微笑む。
「アルフ様が心配しておられました。ずっとお休みのようだったので安心していたのですが、様子を見てくるように言われまして」
見に来てよかったとイリーナが言う。
「あたしの様子を?」
「そうです」
「奴隷の心配? 逃げてないかどうかってこと?」
「奴隷? あの、セルリアーナ様、一体何を勘違いなさっているのです?」
「だって奴隷でしょ。こんな魔物だらけの屋敷に閉じ込めて帰らせてももらえないんだよ」
ほんの一瞬、イリーナの表情が曇ったのがわかった。セルリアーナは慌てて口を開く。
「ち、違うの。そういう意味じゃなくて。その、イリーナはとっても優しくて、魔物が悪いとかそういうことを言ってるんじゃないの」
わかっておりますと答えたイリーナの笑顔は少し切なそうだった。とても良くしてくれる彼女を傷つけたのかもしれないと思うと申し訳なかった。
「……」
魔族だからだろうか、イリーナもまた端正な顔立ちをしている。自分の何倍も綺麗だ。その上、優しいし、気遣いもできるし、よほどふさわしいではないか。
もしかしてと思う。
目覚めた魔王を殴ったから、その腹いせだろうか。三百年も眠っていたのに年を取ることもないのだ。戯れに一人の人間を側に置いてみたところで、ほんの僅かな時間でしかないのかもしれない。人の一生など、魔物である彼らには頓着することなどない、短い時間。
それなら納得したくはないが、腑に落ちる……気がする。
「セルリアーナ様。アルフ様のことはお嫌いですか?」
暫く考えるようにしていたイリーナが口を開いた。
「とてもお優しい方ですよ。お嫌いですか?」
こんな状況で好きと言える人間がいたらお目にかかりたい。そもそも好きも嫌いもあったものではないが、正直、今のところは嫌いに傾いている。
「私は、お似合いだと思うのですけど」
「どこをどうしたらお似合いなんて発想が浮かぶわけ」
「すっかり打ち解けられ、親しげにお話をなさって、楽しそうでしたから」
食事の時の会話だろうか。イリーナも下がっていたはずだが、隣室で聞いていたのかもしれない。しかし、あの会話のどこが楽しそうという認識を生むのだろう。確かに、涙を流さんばかりに大笑いをしていた奴はいたが。
「アルフ様はなかなか他人に心を開かないお方。それがこんな僅かな間に、あんなにお喋りをなさるなんて。セルリアーナ様は魔法使いのようです」
魔族から魔法使いとか言われるとは、なかなかに複雑な賛辞だ。
「イリーナの方がよっぽどお似合いだと思うけど」
とんでもない、とイリーナは黒い瞳を見開いた。
「身分が違いすぎます。不釣り合いです。そんなこと考えたこともありません」
あたしなんて身分どころか種族も違うと思ったが、あえて口にはしなかった。
「まだよくわかりませんが、私はセルリアーナ様のこととても好きです。お仕えするに足ると思っております。これから色々お付き合いさせて頂けば、もっと好きになると思うのです」
だから、とイリーナが微笑む。
「セルリアーナ様も、アルフ様にお付き合い頂けませんか?」
「え?」
「アルフ様もセルリアーナ様をとても気に入っていらっしゃる。アルフ様は間違いなく尊敬できる御方。だから、今しばらくお側にいて差し上げてください」
「あ、あたしにだって都合があるのよ。母親だっているし、畑だって世話しなくちゃ」
「アルフ様は別に意地の悪い方ではないですから、何か事情がおありなのかもしれません。ですが、いずれお願いすれば外出を許してくださるかもしれません」
セルリアーナは顔を伏せた。
「そのうち、私やパルム様からもお願いして差し上げます。ですから」
「……」
魔族とはもっと横暴で、魔物とはもっと恐ろしいものではなかったのだろうか。
パルムも言ってはいたが、セルリアーナもすべてがそうだとは思っているわけではない。人間にだって乱暴者や小心者といるのだから、人間臭い魔物がいてもおかしくはないが、しかし、これでは本当に人間と大差なさすぎる。こんな縋るような目でお願いされて、無下に嫌だと言い張るだけの強さは持ち合わせてはいない。
いずれとはいつだろう。彼らとは持ち合わせている時間が違うというのに。
逃げ出せば村は氷漬けにされる。どちらにしても、セルリアーナには抗う術はないのだ。
「セナ、やっぱり戻って来ないよ」
セルリアーナの家で留守番をしていたオーリャが言う。
勝手知ったる幼馴染の家。薬草に水をやっていたオーリャは、坂を登ってやってきたもう一人の幼馴染に変わらぬ現状を報告した。
「そうか」
力なく頷いて、ウォリフィオは溜息をつくとオーリャもまた溜息をつく。
「それで、ルールゥは?」
「じいさんは落ち着いてきたんだけどな」
本当ならもう戻る予定だったが、自身の腰痛の上に、看病疲れのウォリフィオの母が倒れたりとなにかとばたついていて、ルールゥは戻るに戻れずという状況だった。
「ルールゥには話したんだよね」
ウォリフィオが頷いた。
「けど、心配ないって。そのうち戻るだろうって」
いなくなった日にも報告をした。それから数日が経ち、未だ戻らないことを告げても、ルールゥの態度は変わらなかった。
はじめは強がりなのかと思った。だが、治療をしている様子を見るに、どうにもそうではないと感じてきた。ごく僅かでも心配する様子があって然るべきだろうに、ルールゥはいつもと変わらない。ワールデア・ワルトのことも知っているような口振りからして、なんとも不信だ。
「どうして心配ないなんて言えるの?」
ウォリフィオの話にオーリャが目に涙を浮かべて問う。
「やっぱり、実の娘じゃないから?」
「それはないだろ。そんな人だったら、最初から引き取っちゃいねえよ」
セルリアーナとルールゥが不仲だと感じたことはない。言葉にこそ出さないが、二人が本当の親子同様、強い絆で結ばれていることは知っている。
だが、ルールゥは胸の内を明かそうとはしない。何も説明しようとはしない。
ならば、自分たちにできることをするしかない。
「オーリャ。俺、クベレの街に行ってくる。魔術師に会いに」
オーリャが目を丸くした。
「親父の知り合いにそういうことを知ってる人がいてさ。その人の伝手で探してもらってたんだ。で、クベレに優秀な人がいるらしいって」
ただ入っただけでは森の奥へは到達できない。それが何かの魔術によるものだというのは、魔犬の存在でも明らかだった。ならばそれを打ち破ることのできる力が必要だった。
「村に来てもらうの?」
そうだとウォリフィオが答える。
「それで一緒に森に行って、セナを探す」
ただ待っていてもセルリアーナが戻ってくる気配はない。そうこうしているうちに、どんどん日にちは経過してく。
いつもなら、薬草の匂いに満ちたセルリアーナの家。今はそんな生活感すら薄れている。
だが、必ず見つけ出す。見つけて、一緒に戻るのだとウォリフィオは心に誓うのだった。




