第二章
第二章
目の前は一瞬、闇。
だが、すぐにまた行く手を篝火が灯し、進むべき道を示していく。
階段や廊下の手摺はよく磨かれて金色に輝いていた。明かりが届き切らないのではっきりとは見えないが、高い天井や梁にも細かく模様があるのがわかる。
端々に飾られている壺やら鏡といった調度についても高価だろうことは容易に想像できた。廊下には落ち着いた色合いの絨毯が敷かれており、あまりに見事な光沢は泥に汚れた靴で歩くのが申し訳ないくらいだ。
城などというものに足を踏み入れるのははじめての経験である。物語で想像した景色が、全く裏切らない形で目の前に広がっていた。森の中にこんな城があるとは想像もしていなかったが、ウォリフィオの話が本当だとするならば、これは悪の王の城ということになる。
セルリアーナの抱く悪の王とは当然のこと、極悪な感じだった。城もおどろおどろしくて薄暗く、そこかしこには髑髏が飾られているというお決まりのパターンである。ところがこの城にはそんな暗い様子は全く感じられなかった。門こそ仰々しい構えであったが、内装は白を基調とした爽やかな雰囲気で、とてもではないが悪の王とはこれっぽっちも結びつかない。
三つほど扉を過ぎたところで明かりが途切れ、代わりにゆっくりと奥から一つ手前のドアが開かれた。過ぎてきた篝火がひとつ、またひとつと消える中、足を止めたセルリアーナはじっと扉を見つめ、腕組みをする。
「入ったら、また扉が閉まるって仕組みよね、きっと」
それについてはつい先程も経験した。
まるでセルリアーナを誘うように明かりが灯され、扉が開き、扉が締まる。行動の主導権を城側が握っているかのような状況が続いていた。抗うように立ち止まれば明かりが消えて暗闇になる。進めばこれまでいた場所の扉が締まるという寸法だ。
戻ることができなければ進むしかないが、なんとか向こうの思惑通りにならずに済む方法を確保しておきたかった。扉は内開きなのでドアノブを掴もうとした時点で室内に入ったことになってしまうので、部屋に入らずになんとかする必要がある。
セルリアーナは上着を脱ぐと袖口を使って輪を作った。服の反対を持ち、輪投げの要領でドアノブを目がけ、投げる。外れればまた投げる。できるだけ身を乗り出し、投げ続けること数十、なんとか引っかかり扉が引き寄せられた。ドアノブの内と外を服で結び、縛る。これで扉が閉まることはないから鍵は掛けられないはずだ。
そうそう思い通りになってたまるかと思う。不可思議な状況であるから、こんなことは些細な抵抗かもしれない。それでも何もしないよりはいいに決まっている。
覚悟を決めて部屋へと踏み込んだ。案の定、扉が閉まろうとする気配があるが、細工のお蔭で、扉が完全にしまることはなかった。
「お次はなに?」
少しだけ勝ったような気分で室内を見渡すが扉が閉まらないと明かりはつかない仕組みらしい。薄暗い中、どうしたものか思案をしながら中程まで進んだところで何かに躓いた。無様に両手をつく羽目になった己の迂闊さに舌打ちしつつ、座り込んだままセルリアーナは室内を見回した。
ひとつだけ消えずに残る篝火のおかげでわかるのは、あまり広くない部屋だということだった。椅子とテーブル、壁にはぎっしりと本が並んだ書棚がある。今蹴躓いたのは豪奢な布張りの椅子の一つで、恐らくは高級品であろう、立ち上がろうと触った感触からして恐ろしいくらいの肌触りの良さだ。
「もう、あたしをどうしようってのよ」
「別にどうもしません」
「――ひ」
質問を投げかけてもそれに対する答えはないだろうと思っていた。この状況でそんなもの期待できるはずもない。ところが、突如返された答えにセルリアーナは飛び上がった。そして盛大な悲鳴とともにその場にあった手近なもの――つまり、椅子を投げつけていた。
椅子はかなりの重量があったが、そんなことは全くもって問題ではなかった。自分でも驚く程の怪力で投げつけると、ぐえっという奇妙な声がした。
「し、質問に答えただけなのに」
呻くような声にセルリアーナは手を止める。目を凝らせば、乱れた室内で黒い影が蹲っているではないか。
「えっと……だ、大丈夫?」
「こんな顔になってしいましたが、なんとか」
振り返った顔は奇妙だった。大きく腫れた額は恐らくセルリアーナのせいであろう。だが、問題はそんなことではなかった。あるべき場所にあるべきものがないのだ。赤くなった額の下にあるのは大きな鼻、その下に落ちくぼんだ目が縦に並んでいる。口はというと、あろうことか額を抑えた手の甲にあった。
「――っ」
セルリアーナは目を瞠った。これ以上ないくらいに目を見開き、息を呑む。今度は悲鳴すら上げることができなかった。あまりのことに遠ざかる意識がそのまま気を失うことすら許してくれない程の衝撃だった。
「まままままままも、まも、まも――」
魔物、と言葉にすることができなかった。驚愕したままずんぐりした小男を見下ろす。
「パルムと申しますが」
淡々とした声が告げる。
「まあ、これはほんの冗談ですが」
言いながらパルムと名乗った人物は何やら被り物を放り投げた。新たに現れた顔はほんの少し爬虫類じみてはいるが、意外にも普通の人間の顔のようだった。
「久しぶりに客人が来たもので、はしゃいでしまいました」
驚きましたかと淡々としていながらも、僅かに弾んだ声が問うてきた。
「ふざけるなあ」
驚いたなんでものではない。セルリアーナは脱力を通り越して、怒りを覚えた。そして再び手探りで探し当てた椅子を振り上げるとパルム目がけて投げつけてやった。
「ったく、冗談じゃすまないと思わない?」
豪奢な椅子に足を組んで座るセルリアーナの前でパルムがすみませんと項垂れる。すっかり恐縮して正座をすると、ただでさえずんぐりとした体躯が余計に丸く見える。
パルムの額は最初の攻撃で赤く腫れ、新たな第二撃で後頭部にもこぶができていた。どちらかと言えば後者の方が痛むのか小さな手でこぶをさすっている。その手にはもう口はない。
「……こんな気の強い娘ははじめてだ」
パルムの呟きを聞き咎めて、セルリアーナはじろりと睨みつける。すると小刻みに首を振りながらパルムはさらに小さく身を縮めた。
主導権はすっかりセルリアーナにあった。それもそうであろう。椅子を投げつけられた上に馬乗りで殴られ、挙句首を絞められたパルムは殺されると思ったに違いない。ほんの出来心でしたでは怒りを鎮めることはできるはずもなく、気圧されるままに今に至っていた。
「そもそも、なんだってこんな手の込んだことしてるわけ?」
「それはですね」
「またいたずらとか言ったら、殺す」
恐ろしいとパルムが気の毒なくらいに怯えて後ずさった。あまりの勘気にセルリアーナならやりかねないと思っているのかもしれない。冗談だと言ってやるとパルムは気を取り直したようにひとつ息をついた。
「実はご主人様のことなのですが」
ご主人様とはこの城の主ということだろうか。
「眠ったままなのです」
「起こせばいいじゃない」
「早い返しですね」
にべもない言葉に、パルムが懐から白いハンカチを取り出した。
「いや、勿論お起こししてますけど」
「気合が足りないんじゃない?」
そうかもしれませんが、とパルムは額を抑える。
「ですが、もう、随分とお目覚めにならない」
パルムが溜息をつく。その様子は色々試みて万策尽きたというような、酷く疲れたものだった。
眠ったままの病気などあるのだろうか。それ程多くを教わったわけではないが、セルリアーナは知る限りの病気を考えてみるも、該当するものは思い当たらなかった。
「どのくらい眠っているの?」
「そう、かれこれ……」
――三百年程、と。
そう言ったパルムの瞳が怪しく光った気がした。
――この小男は何と言ったのか。
三百年など、人間が生きられる年数であるわけがなかった。セルリアーナは改めて目の前の男を見やる。そしてこれまでに至った状況を思い起こす。
姿のない獣に追われてたどり着いた城。
行く手を示す篝火。
誘うように開く扉。
そして、突然現れたこの男。
「ど、どういうこと?」
パルムが立ち上がる。セルリアーナの目を覗き込むようにして顔を寄せた。
「我が主、魔王アルフレディオ様はもう永い時間眠ったまま目を開けることがないのです」
「ま、魔王?」
「わけあってつかれた眠りですが、さすがに三百年は長すぎる。眠りを解くにはその魂を揺り起こす存在が必要なのです。これまでにも幾多の娘を呼び寄せるも、いずれもその力及ばず」
「娘を呼び寄せる?」
ウォリフィオの話が思い出された。年に一度娘を生贄に奉げたという昔話。ならば、あれは真実ということか。
目の前に迫った黒い瞳を見返す。篝火を映すそれはひどく無表情で、薄ら寒い。
「あんた、魔物なの?」
「魔族です」
爬虫類に似た顔がにたりと笑って訂正する。耳まで裂けるかと思うほどに大きい口から延びるのは二つに割れた長い舌だ。今や縦に細くなった黒目を、ちらつく舌先が舐めあげる。
先程の異様な顔は確かに冗談だったのかもしれない。なぜなら本来の顔であろう今の方がよほどに化け物じみている。
パルムが魔族だというのなら、魔王の話も本当ということだろうか。だとすれば……。
――あたしは……生贄?
目覚めない魔王の為の生贄。どのような形で供されるのかは想像もつかないが、間違いなく命はないと思われた。
ほんの数日で戻る予定だった。だからルールゥにも何も言わなかった。帰ったらワールデアの葉を見せて驚かせようと思ったのだ――勿論見つかればの話だが。それがこんなことになるなんて、想像もしていなかった。
「二人は……?」
一緒に来た幼馴染達はどうなったのだろうか。まさか彼らもどこかに捕らえられているのだろうか。もしそうなら無責任に誘ってしまったことが悔やまれてならない。勿論、自分も生贄など冗談ではないがそこは自業自得である。ワールデアなる薬草を求めた罰だと諦めよう。だが、他の二人はセルリアーナに誘われただけだ。欲を持っているのはセルリアーナだけ、二人は助けてほしかった。
「生贄はあたしだけで充分でしょ? だからフィオとオーリャは助けて、お願い!」
「何を仰るんですか、生贄なんて、そんな野蛮なことあるわけないでしょう」
パルムの手が縋ったセルリアーナの肩にかかる。思いのほか暖かい。
「人間とは恐ろしいことを平気で思いつくものですな」
パルムが深々と溜息をつく。
「確かにそういう輩もおります。ですがそれが全部ではないのです。私は勿論、ご主人様とて、無下に人を殺めるようなそんな残忍な方では、決してございません」
「……ほんとに?」
「一部の者のせいで魔族の全てが悪だと思ってほしくはありません。確かに、このような不躾な形で招いたことは否めませんが」
魔獣や魔物はごく当たり前にいる。昔に比べ、その数は減ったともいわれる。魔法使いや魔物退治を生業とする者も未だに存在はしていた。現在ではそれほど頻繁に見かけるものではないが、それでも弱い魔物の類などはさほど珍しくもなかった。
一般的に「魔族」とは「人間」と同じように「魔」の中の一種族だと考えられていた。魔族全部が人間に害を為すというわけではなく、得てして悪さをするのは「魔」の中の「獣」だったりする。ただ魔物と魔族は混同され、魔物も魔族の一種、或いはその逆と考える節もあり、結局のところ全貌は不明であった。いずれにしても人とは異なる力を持ち、未知なだけにそれだけでも畏怖の対象となりうるのだが……。
「お立ちください」
パルムがセルリアーナを立たせる。所作は紳士そのものの見事なものだ。見た目こそ不気味ではあるが、この魔族に対し、恐怖は感じなかった。
「我らの願いは主を目覚めさせてほしいというもの。あなたには、そのお手伝いをしてもらいたいだけです」
「じゃあ、あの二人は?」
「森にいる獣は人を寄せ付けない為のもので人は襲わないよう躾けられております。森の外へと追い立てるようにしているので恐らくは無事に森から出ているでしょう」
よかったとセルリアーナは胸を撫で下ろす。
「でも、じゃあ、なんであたしは」
「ご主人様を目覚めさせてくれそうな方だからです。これまでにも幾人が訪れたことか。いずれも適わず、放り出し――いや、帰らせたことか」
娘なら一緒にいたオーリャでもよかっただろうに。そう問うとパルムは「あちらは風邪気味のようなので」と答える。彼らなりに気を使った結果なのだろうか。
「なら、あたしも放り出してもらえるってことね」
「なぜ放り……ではなくて、帰ることが前提なんですか」
「だって、あたしに何かできると思ってるの? 特技は豆の筋取りと肩もみくらいよ」
パルムの言うことが本当ならセルリアーナは放り出されるはずだ。目覚めさせる方法などさっぱりわからないのだから、役に立たない可能性は高い。だが、殺されることはないのだとわかってほっとした。自分がいなくなっては、誰がルールゥの世話をするというのか。
「何をすればいいの?」
「なんだかいきなり前向きな感じが」
できなければ帰してくれるというのならさっさと済ませてしまいたい。腕まくりをするセルリアーナを複雑な表情が見上げる。ひとつ咳払いをすると、こちらへと白い手袋が誘う。
「ここはご主人様の書斎で、隣が寝室になっています」
まさか魔王の私室まで来ているとは予想外だった。先に立ったパルムが書斎と寝室を隔てる扉にノックをする。返事は望めないだろうに、律儀に失礼しますと声をかけてから開いた。
途端に華やかな芳香が漂う。書斎と異なり、白を基調とした部屋は明るく、魔王という肩書にそぐわない清涼さがあった。
正面、大きな窓がまず目に入った。刺繍の見事なカーテンは括られて、白いレースが雨上がりの日差しを受け止めている。壁際の棚には大きな花瓶があり、色鮮やかな花が香りとともに部屋を飾る。決して多くはない家具類の重厚さが明るすぎないように程良い落ち着きを演出し、毛足の長い象牙色の絨毯が部屋全体に柔らかな印象を与える。広い中、窓に向かう形で大きな揺り椅子が一つ。そして中央に天蓋のついたベッドが置かれていた。
白い紗の向こうに、確かに眠っている人影がある。
「アルフレディオ様にございます」
パルムが手招く。あっさりと側へと呼び寄せるなど不用心な気もするが、いざとなれば人間の小娘などどうとでもできるのだろう。そうでなければ眠ったままの主人の側へ誘う等普通ならばあり得ないはずだ。
言われるがままにセルリアーナはベッドの傍らに立った。パルムがそっと薄布を避ける。
「……これが、魔王?」
色の白い青年だった。黒髪が余計に肌の白さを際立たせている。
魔王というから角でも生えているのかと思った。もしくは恐ろしい形相を想像していたのだが、横たわっているのはごく普通の人間にしか見えない。それどころか――。
――なんて、綺麗な人……。
形のよい頬から理想的なラインを描く輪郭に通った鼻筋。眠ったままでも充分にその美しさが感じられた。伏せられた長い睫毛の下、この美貌を仕上げる瞳はどんな色なのだろうと想像せずにはいられない。
そういえば、魔族というのは非常に美しいのだと聞いたことがあったのを思い出す。
「あたしは、どうすればいいの?」
「口づけを」
セルリアーナはパルムを振り返る。激しく瞬きを繰り返し、ややあって問い返した。
「…………………………………………………はい?」
「ですから、口づけを」
「ななななな、なに言ってんの!」
真っ赤になったセルリアーナが後ずされば、それをパルムは不思議そうに見上げた。
「ご主人様は人間の感覚からしても相当にお美しい部類に入るはず。不満ですか?」
「ごめん、ちょっと待って」
眠っている本人の枕元で話すのもなんなのでセルリアーナはパルムの手を取って部屋の入口へと戻った。こんなことで起きるはずもないのだろうが、思わず声を潜めてしまう。
「不満とかなんとか、そ、そういうことじゃなくて」
確かに美しい、美しすぎる。それは認める。だが、だからといってはいそうですかとできるものではないだろう。
「だめですか?」
「だめとかいう問題じゃないでしょ。そういうのは、こんな風にすることじゃないし」
それより何より、セルリアーナはキスをしたことがなかった。はじめては好きな人とそれなりの雰囲気の中でするものだという、娘らしい夢がある。それが何が楽しくて、いくら美形とはいえ、初対面のしかも人間ですらない相手とせねばならんというのか。
「我らを、ご主人様を助けると思ってはもらえませんか」
「た、助けてあげたいけど」
四本指の両手を組んで見上げるパルムの目は真剣そのものだった。他に方法はないのかと問えばパルムはないのだとの頷きを返す。
「直接、気を送り、ご主人様の魂が揺り起こされるかどうか。それが一番効果的、且つ、唯一の方法と言われているのです」
「唯一なんて、そんなこと、まだわからないじゃない」
「いいえ、わかります」
「みんなで大声で呼ぶとか、くすぐるとか」
パルムが首を振る。さんざん賑やかにしているのに反応がないのだ。言われるまでもなく、効果はないのはわかりきっている。
「えっと、じゃあ、水をかけるとか」
「無理でした」
「……試したんだ」
無理だという回答よりも試したことに驚きを感じた。
「やはり、無理ですか」
パルムが肩を落とした。きっちりと結われた白髪の束までが落ち込んだようにしおれる。
あまりの気の毒さ加減に詫びを述べようとした時だった。パルムが何かを決意したように顔を上げた。
「仕方ありません。ワーサ!」
パルムの声に答えるように遠く、低く遠吠えのような唸りが空気を震わせた。
「な、なに?」
セルリアーナは何事かが近づいてくる気配を感じた。そして目を向けた先、寝室にあったもう一つの扉が開いた。
「お呼びですか、パルム様」
現れたのは目を瞠るほどの巨大な大男だった。高い天井に合わせ、扉もまた大きいのだが、それすらかがまなければくぐることができない。
規格外は背だけではなかった。岩そのもののような筋肉が身に着けたシャツを盛り上げている。恐ろしく太い首に、厳つい顔。彫が深すぎて、目は影になり、一体どんな表情を見せているのか伺い知ることができなかった。
「やっちゃってください」
パルムが言った。
「これまでにいなかったこの気の強さ。今回はいけそうな気がします」
大男が迫る。あまりのことに立ち尽くしたままのセルリアーナへと肉厚の手が伸びる。
「え、ちょっと――なに?」
できないとわかって放り出すということだろうか。なるほど、この丸太のような腕で窓から投げ捨てたりすれば、文字通り放り出すと言えるだろう。
「おとなしくなさってください」
くぐもった低い声が告げる。反応する間もなく、あっさりと捕らえられたセルリアーナはそのまま巨体の脇に抱えられていた。
「やだ、なんなのよっ!」
てっきり投げ捨てられるのかと思いきや、ワーサと呼ばれた大男は寝台へと歩み寄る。まさかと思ったが、案の定、眠る魔王にセルリアーナの顔が近づくように体を抱え直す。
「ちょっと、こんな強制的なのいや! 離して」
「我々も必死なんです」
パルムの声がする。
「そっちが必死ならあたしだって自分の貞操を守るのに必死よ。離せバカ!」
抵抗したところで無駄なのはわかっている。相手は二人で、その上、人間ではないのだ。もがこうと、足をばたつかせようとほんの些細な抵抗でしかないのだろうが、それでも暴れずにはいられなかった。
――いやだ、こんなの。
急激に視界が滲んだ。ぽろぽろと涙が零れる。これだけ騒いでも魔王の瞼が動くことはなかった。形のよい頬にセルリアーナの涙が次々と流れていく。どこからも救いはないのだ。もはや諦めるしかないとセルリアーナが目と口をきつく結ぶ――と、頭上で鼻を啜る音がした。
「む、無理です、パルム様!」
ワーサが言った。どうしてだか、涙声だった。
「やはり、これは……あまりにも」
「ワーサ、私だって、心を悪魔にしているんだよ」
元々魔物であり、時には「悪魔」と呼ばれることもあるくせにおかしな発言だ。
「わかっております。ですが、いくらなんでも――このお嬢さんが、可哀想すぎます」
ワーサがゆっくりとセルリアーナの体を下ろした。乱れた服を大きな手で整えてくれる。当のセルリアーナより激しく涙を流す大男は、ごつい手で己の顔を拭う。
「ひどいことをしてしまった。女の子がこんなこと……嫌に決まっている」
許してくれと詫びる大男にセルリアーナは呆然としつつ頷いた。どこからどう見ても凶暴そうなのに、なんというか調子の狂う魔物達である。
恐らく、彼らは彼らなりに一生懸命なのだろう。互いを慰めながら涙を流しあう様子を見ていると、拒絶した自分の方が悪者のような気がしてきてしまう。
「……」
そんなにこだわることでもないのだろうか。別に減るものでもなし、嫌には違いはないが、これだけの美貌なのだ、容姿に対しての不満は一切ない、人間ではないけれど。
キスとは、本当に好きな人とするべきもの。
それは間違いないのだろうが、けれど、それはセルリアーナの気持ちの問題である。ほんの少しの勇気――少し違う気もするが――あればいいだけのこと……なのかもしれない。
お互いを慰め合っている妙な魔物二人からすっかり放置状態のセルリアーナは、再び眠る美貌の主を覗き込んだ。見下ろして、やはり無理だと、溜息をついた。
その時だった。
「――?」
後頭部を軽く押された。それは人が押したとかいうよりも、身軽な何かが乗っかったというような感じだったが、気が付いた時には冷たい柔らかな感触が唇にあった。
「あ、これ、リディ様」
いけませんとパルムの窘める声が届いた。我関せずとばかりに黒い猫が走り去る。が、セルリアーナはそのどれもがもはやどうでもよかった。慌てて体を起こすと、口を拭う。
――今、確かに唇が触れた。
「……しちゃった」
「へ?」
「キス、しちゃった」
パルムが目を瞠る。ワーサもまたあんぐりと口を開けた。
「今のは事故。そう、あたしの意思じゃない」
セルリアーナはひたすら己に言い聞かせる。だが、言い聞かせれば言い聞かせる程に冷たい感触が蘇る。あり得ないと否定するこの行動自体がその事実を肯定しているのだ。否定することすら認められないなんて、もはやどう考えてなかったことにすればいいのかわからない。
「……ここは……――?」
座り込んで両手を組んで、事故だと繰り返す耳に、低く掠れた声が聞こえた。
「目覚めたのか……俺は。どうして」
どこか不思議そうな声音に、身動きする様子が重なる。
「違う、あれは事故だから絶対違う。あたしは関係ない。そう、関係ない」
年頃の娘らしく色々と思い描いていたシーンが頭の中で音を立てて崩れていく。相手もおらず、片田舎に暮らしていてどれだけロマンティックな状況が作れるのかという突っ込みは都合よく忘れていた。なんといっても妄想――否、夢見るだけなら、タダだし誰の迷惑にもならないではないか。それがものの見事に粉砕されたのだ。
「おい、そこの」
セルリアーナの頭を何かが小突いた。
「ちょっと、放っておいて。今、あたしの頭の中、大変なんだから!」
頭を抱え、目をきつく閉じる。呪文の如くひたすら嘘だと唱え、不本意な事象を記憶から抹消することに忙しいというのに、しつこく頭を突かれ、セルリアーナは勢いよく顔を上げた。
「だからっ! 今、あたしはっ――」
見上げて、止まった。
すぐ間近にあるのは春の空のような、優しい淡青の瞳だった。興味深そうに寝台から乗り出すようにしてセルリアーナの様子を伺っている。
「め、め、目ざ……めざめ」
金魚のように口を開閉させてセルリアーナは、目を瞠る。
間違いなく目覚めている。ならば自分は紛れもなくこの青年とキスしてしまったのだ。それだけではない、この自分が魔王を目覚めさせたのだ。
眠っていてもあれだけ綺麗だったのだ。生気を取り戻したその容貌はさらに麗しい。まるで魅入られたように、セルリアーナは呆然と青年を見上げた。
「お前が、俺を起こしたのか?」
差しのべられた手が頬に触れ、顎を支えて引き寄せる。見つめられただけで頭の芯がぼうっとしてくるなんて、まさに魔性の美しさだ。
「もっと色気むんむんの美女だと思っていたが」
言って、しげしげとセルリアーナを眺める。
「こんな小娘とは、意外だな」
「――」
どこか不満げにも聞こえる物言いだった。一気に現実に引き戻されたセルリアーナの中で何かが弾けた。
「ふ――ふざけんなあ」
セルリアーナは拳を握ると――気が付けば青年の頬を思い切り殴っていた。
「人の気も知らないで! 感謝しろとは言わないけどなんなのその言い草。口の悪いルールゥだって遠慮してあたしに色気がないってこと言わないのに、あんた失礼すぎじゃない」
殴り飛ばされた青年は頬を抑えてベッドに顔を伏せた。肩で息をしながら青年を見下ろし、セルリアーナは改めて口を拭った。
「もう、あたしは用済みよね」
呆然と立ち尽くしていたパルムが殺気立った声に何度も頷く。
「帰らせてもらいます!」
足音も荒く扉へと歩み寄る。難なく開いた扉を前にセルリアーナはくるりと振り返った。
「ごきげんよう魔王様。もう会うこともないでしょう」
勢いよく扉を閉めた。溢れようとする涙を袖口で擦って、セルリアーナは走り出していた。
「アルフ様!」
駆け寄ったパルムが心配げに覗き込んできた。大丈夫だと応じ、そこでようやく顔を上げる。
――あの娘、この俺を殴った。
仮にも魔王と呼ばれる自分。それをどの程度理解しているのかいないのか。だが、あの勢いならその恐ろしさを充分理解していたとしても同じ行動をとっているに違いない。
驚きから怒りへと変化した瞳、それにともなって変わる表情。大して痛かったわけでもないのに顔を上げなかったのは素直に表された感情があまりにも見事で、痛み以上に与えられた衝撃が大きくて――面白かったのだ。
勝気そうな、青にも紫にも見える不可思議な瞳は魅力的だった。まっすぐすぎる視線はその心情を隠すことなく映し出し、興味をそそられる。
「パルム」
未だに驚きから立ち直れていない執事の名を呼ぶ。
「あの娘、連れ戻すぞ」
「は?」
「俺の側に置く」
「何よ、あの男っ」
美人だなどと思ったこともないし色気がない自覚もある。
まだ十六だから小娘と言われても仕方ない。
だが、その小娘にとってはじめてのキスは重大な問題だったのだ。まだ恋に夢見る年頃、描いている理想の恋だって色々あるというのに。怖い思いをして、ずぶ濡れになって、城に誘い込まれ――挙句、この状況。彼らの望みを叶えてやっただけで何の得があるわけでもない。見返りをよこせとは言わないが、不本意と言わんばかりの発言は許せない。さすがに魔王なだけはある。デリカシーといった類のものは持ち合わせていないと見える。
誘われた道順は覚えていた。迷うことなく玄関ホールに到達して弧を描く階段を駆け上がると雨と泥に汚れた荷物が転がっていた。
半分乾いてはいるがその分泥汚れが目立つ。見下ろせば自身の服も跳ね上げた泥やら、逃げる際に引っかけたのか破れもあったりで酷い有様だ。恐らく髪もぼさぼさなのに違いない。
「……」
なんだか急に恥ずかしくなった。
確かに見目麗しいとは言えない。ただでさえそんなに器量がいいとは自分では思っていないのだ。それが薄汚れていたら、それはそれはさぞかし醜いだろう。
「でも、あたしのせいじゃないもん」
ひとりごちて荷物を背負った。扉に手を伸ばすせば何の抵抗もなく開いた。
雨はすっかり止んでいた。薄暗い屋敷内に比べると曇り空でも目に痛い明るさがあった。瞳孔に受ける刺激に目を細めつつ、テラスへと出ると後ろ手に扉を閉めた。
「どこへ行く」
唐突に降ってきた声にセルリアーナは痛みを感じていたことも忘れて目を見開いた。その目の前に、黒いガウンを纏った姿があった。
「退出を許した覚えはない。戻れ、娘」
「はああ?」
セルリアーナは力一杯問い返した。
「なんで、あんたの許可をもらわなくちゃいけないのよ」
「この城の主人は俺だ。ここでは俺の指示に従ってもらう」
一方的に連れ込んでおいて何を言っているのか。やんごとなき方々は大層我儘なのだと噂に聞いたことがあるが、ただの王ではないだけに勝手振りが意味不明だ。
「それはそっちの勝手でしょ。あたしはあたしの勝手にするんだからそこをどいてよ」
「断る。帰ることは許さない」
見下す双眸は強い。伊達に魔王ではないのだ。王と呼ばれるだけの力と自信に裏打ちされたものが宿っている。視線を逸らさずそれを見返すのはかなりの気合が必要だった。
「許さないとか、何の権利があって言ってるわけ? 御断りはこっちの台詞よ。あんたの都合なんか知らない。あたしは帰るのよ」
乱暴に荷物を振り上げて、傍らを通りすぎようとする腕を魔王が捕まえた。さして力があるようにも見えないのに、振りほどこうにもびくともしない。
「帰さないと言っている」
淡い水色の瞳が光ったように見えた。
威圧するのは彼の纏う気配だ。明らかにパルムやワーサとは違う圧力に対し本能的に全身が恐怖する。背中が泡立つような感覚に、さすがのセルリアーナは言葉を失った。
「もし帰ればお前の村を滅ぼす、というのはどうだ?」
「え」
「俺は氷の王だ。人間の世界を氷漬けにするくらいわけはないぞ」
目を瞠るセルリアーナを魔王の冷たい微笑が見つめる。
「お前がここを出たら、その瞬間に凍らせる」
ぐいっと腕を引き寄せる。間近に見た魔王は美しいだけにまさに氷のようで、冴え冴えとした美貌は恐ろしかった。それでも帰るのかと囁かれ、セルリアーナはその場に膝をついた。
魔王の秘密を知った者は外に出さないということだろうか。これまでの娘達が無事だったのは魔王が目覚めなかったからなのか、それともそもそもパルムの言葉自体が全くの嘘なのか。目覚めようと目覚めなかろうと、連れ込まれた娘達は殺される運命にあったのか。
セルリアーナは魔王の手を振り払った。再び掴もうとするのを触るなと払いのける。
「触らないで。捕まえてなくたって逃げたりしない」
単なる脅しかもしれない。だが、この目を見ているとそうは思えなかった。
セルリアーナを捕らえておこうというだけで村を凍らせるなど大げさすぎる。それだけの価値が自分にあるとは思えないが、実際、簡単なことなのだろう。たった一人の人間を戯れに捕まえるついでに実行できてしまう程に。
――そう、自分は魔王を目覚めさせた。今、改めてその事実を認識したのだった。
「ルールゥ」
馬を飛ばして、祖父の家に辿り着くなりウォリフィオはルールゥに駆け寄った。
「どうしたんだい? 血相変えて」
薬草を煎じていたのか乳鉢を片手に顔を上げたルールゥは、まだ腰が痛むらしく、椅子をテーブル代わりにして奇妙な座り方をしていた。
「ごめん、ルールゥ。実は」
ウォリフィオはセルリアーナとオーリャと森へ行ったことを話した。そして姿のない野犬に追われはぐれてしまったこと、オーリャと二人で探したが見つからなかったことを説明した。
「脅しみたいで、何もされはしなかったんだけど」
街や村といった人間の生活圏に比べ、森などでは魔物に出会う確率が上がるのは事実で、山や森を旅する場合には今でも専門の退治師を雇うのが一般的だった。
「今もオーリャがルールゥの家でセナの帰りを待ってるんだけど、まだ」
「……なるほど」
語尾を上げたルールゥの言い方に、ごめん、とウォリフィオが呟く。
「あればいいと思ったんだ」
「何が?」
「なんでもなおーる、だよ」
「ワールデア、か」
ルールゥが再び乳鉢に目を落とす。
「そんなもの、誰に聞いたんだい。あるわけないだろ、そんな都合のいいもんが」
「じゃあ、なんでワールデア・ワルトって呼ばれてるんだよ」
「人を寄せ付けない森だからだ。寄せ付けないから幻の樹木があるだろうと、いつからかそう呼ばれるようになっただけだ。もっと昔は迷いの森なんて言われたりもしていたね」
「迷いの森?」
「何せ、普通の森じゃない。が、だからといって別に何もない。お前さんみたいに追い出されるのがオチさね」
「じゃあ、セナは?」
ウォリフィオがルールゥの肩を掴んだ。
「どうやってセナを探せばいい? 奥に入ることができないんだ」
ルールゥが小さく息をついた。
「セナなら心配ない。そのうち戻る。そうでないなら……」
口を噤んだルールゥにウォリフィオが呼びかける。だが、ルールゥは首を振った。
「なんでもない。気に止む必要はないよ」
「ルールゥ!」
「心配いらないよ、放っておきな。セナは大丈夫さ」
どこか疲れたようなルールゥの口調はそれ以上の追及を許さない響きがあった。仕方なくウォリフィオは頷く。だが、それはルールゥの手前頷いただけだった。
大丈夫だなどとどうして断言できるのか。どうしてルールゥはそんなことをいうのだろうか。
疑問は幾つも浮かぶ。何が大丈夫なものか。森に取り込まれたまま戻らない事実は変わらないのに。恐らくセルリアーナは助けを待っているだろうに。
ならば、なんとしても探しに行くしかない。ルールゥが動かないのなら自分がなんとかするしかない。
ウォリフィオは密かに決意するのだった。




