終章
終章
緑の中に見える城はコの字を描いている。先端に尖塔を持ち、近くでは色気のない色合いだったはずが、日の光を受けている様子を高台から見下ろすとほんのりと白く見える。
すっかり元気になったセルリアーナをアルフレディオが遠乗りに連れ出したのは、病床から離れ数日たった頃だった。その後、特に人間をやめざるを得ないような自覚症状はないところをみると、もしかしたら人間のままなのかもしれない。
「今日はどうしたんですか?」
馬の背から降りるのに手を貸しながら、アルフレディオは目を見開く。
「遠乗りに行くなんて、急に」
朝食後、魔王は突然宣言したのだ。勿論、異存などあるわけがなく素直に従ったのだが、この魔王様は何か言いたいことがあると館を出る傾向にあるような気がする。
「別に。家にいたのでは、いちゃいちゃできない」
恐ろしい数の部屋があるのだからおかしな発言である。それでなくても隙あらばくっつこうとするのだから、それは理由としては苦しい。
「あたし、いちゃいちゃする気はさらっさらないですけど」
「お前にする気がなくても俺にある。ものすごく」
ふいに抱き寄せられたが、ここで流されてなるものかと、腕を突っ張って体を離す。
「そういうことは一人で勝手に決めることじゃないでしょ」
「そうかもしれんが、そんな力いっぱい抵抗することもないだろう」
わざとらしく拗ねたような顔をしてアルフレディオが腕を解く。
「俺って嫌われてるのな」
何をバカな、とは思ったが口には出さなかった。
どこをどうすればそんな考えが浮かぶのか。こっぱずかしいことに立派にバカップルなのだとの自覚はある。そしてそれを嫌だと思っていない自分がいることも理解している。
「まあいいか。楽しみは後にとっておくほうがいいからな」
このところ、アルフレディオの口調が砕けることが増えた。特に二人でいる時などは見た目相応の言葉を使ったりする。実年齢はともかく二十代前半といったところだから違和感はないのだが、魔王という肩書には大いにギャップを感じずにはいられない。
「そのうちゆっくり味わわせてもらうことにする」
「それってセクハラですよ」
「いいよ、別に」
最近は嫌味も嫌味と捉えてもらえていない。嫌味も皮肉も笑顔に吸い込まれてしまうようで、なんだか悔しい。
「なんだかアルフ様は変わりました」
「そうか?」
「威厳も何もありません。ただのすけべエロ魔王です」
やっぱり笑った魔王は後ろからセルリアーナの体を抱き寄せた。思わず硬直したセルリアーナを正面に向かせ、その頬を両方から押さえる。覗き込む目はまっすぐで、笑っていなかった。
「セルリアーナ」
改めて名前を呼ぶと、唇を引き結んで真剣そのものの表情を浮かべる。
「結婚してほしい」
「……え?」
何をいまさら改まってという言葉を飲み込む。
「お前は俺を嫌いか? お前の正直な気持ちを聞かせてほしい」
いつぞやの質問だった。まだ一度も答えを返してはいない。ちゃんとした形では。改めて言わなくたって承知しているだろうに。
「あ、あたしだって、一度もアルフ様の気持ちを聞いてません」
可愛くない答えなのはわかっていた。そして改めて聞かなくたって充分わかっている。けれど言葉として「好き」とか「愛してる」を聞いていないのは事実だし、自分だけ言わされるのはなんだか癪ではないか。
「何をいまさら」
言いやがったこの野郎、と思った。
「でも、聞いてません!」
あまりに近いので目を伏せていたが、思い切って見上げてみる。案の定、淡い空色の瞳は逸らすことなくこちらを見ている。
「いまさら聞きたいものか?」
そっくりそのまま返したい発言だ。頷くと簡単だと魔王が魔王らしい笑みを浮かべた。
「セナ、愛している。お前がいれば何もいらない」
恐ろしくまっすぐすぎる告白にセルリアーナは一瞬言葉を失った。よくもまあそんなものすごく恥ずかしくてクサイ台詞を、さらりと、一片の躊躇も臆面もなく口にできるなと思ったが、正直嬉しかった。
「何にやけてるんだよ」
「さらりと言ったなと思って」
「不満か? もっとうざいこと並べてやろうか?」
にやりと笑うのにセルリアーナは首を振った。これ以上は鳥肌ものだ。
「セナの番だな」
「いまさら聞きたいものですか?」
そっくりそのまま返してみたが、あっさり頷かれ脱力する。
自分も魔王の気持ちには不安があった。もしかしたら魔王の方もそうなのかもしれない。一度言葉という形で明確にしてほしい。その気持ちは痛いくらいよくわかる。
「……あ、あたしも」
言ってるそばから瞳が迫る。首の後ろに手が回され、傾げるようにして魔王の唇が近づいてくるのがわかった。
「……ア、アルフ様が好――」
好きですという言葉は最後まで言うことはできなかった。力強く抱きしめられて、息苦しいままに唇が塞がれる。ついばむように繰り返されるキスは重なるごとに深くなり、触れた場所から痺れるように火照りを広げていく。
甘やかな刺激が離れるとセルリアーナは熱くなった息をついて、大きく胸を上下させた。
「また聞けなかった」
「それはアルフ様が――」
真っ赤になったセルリアーナが見上げるとアルフレディオが鼻を鳴らす。
「なんだよ、俺がどうしたって?」
明らかにわざとだと言うのがこの一言でわかるというものだ。にやにや笑うのが憎らしくてセルリアーナは頬を膨らませる。せっかくものすごくとてつもなく恥ずかしいのを我慢して言ってやろうとしたというのに、なんという言い草だ。
「もう、絶対に言いません!」
それから、と付け加える。
悔し紛れに、これは上から目線で言ってやる。
「あたしの親に、きちんと頭をさげて、許しをもらってくださいね」
魔王の顔色が変わった。
「あ、姉上が義母か……」
二人の様子からするにアルフレディオにとって姉であるルールゥはかなり強い立場にあるように見える。それが妻の母という新たな立場を得るのだ。ますます頭があがらないというところだろう。
真剣に眉根をよせはじめた魔王にセルリアーナは笑ってみせる。
「大丈夫ですよ。あたしも一緒にお願いしますから」
魔犬に追い立てられて、魔王の城に来た。眠れる魔王を目覚めさせてから約半年。セルリアーナの世界はがらりと変わってしまった。そしてもう戻ることはない。なぜなら、この幸せを手放すことなど考えられないのだから……。