ウィキペディア風小ネタ話集ダソペディア後編
人物
剛力無双にして非常に大柄な人であった。現存する着物や甲冑から210センチ前後あり長忠について言及された物で身長に触れない物は先ず無いと言っていい。また極めて健啖家であった。
先端巨大症だったのでは無いかと言う研究もあるが裏付ける資料は無い。父の内藤秀忠も母竹も大柄で怪力の持ち主である事から純粋に遺伝と見られる。ただ長い期間長忠の剛力について誇張が含まれているのでは無いかと疑問視されていた。
長忠の怪力に関する逸話については子孫も誇張した物と考えており長忠の怪力伝説は冗談の類か誇張した物ないし尾鰭の付いた話だと信じられていたようである。
内藤家は武門の家で真柄家の鬼流や真壁家の霞流などを習っていたが得物は重くても10キログラム程で、武術家として名を馳せ内藤示現流を創始した内藤忠健も怪力なのは間違いなかったとして祀られている金砕棒は破城槌の類だろうと答えていた。しかし長忠公祭りの際に直系の十八代忠国提督(当時少尉)がその長忠の使っていたとされる150キログラムの金砕棒を一人で担ぎ上げた事で否定が出来なくなってしまう。また自身の怪力に驚く忠国提督の協力の元で持ち上げられる最大重量を検証したところ、長忠伝説の残る様々な岩や鐘を持ち上げられた可能性が生じてしまった。身体運動学の常識を破壊している。
性格は温厚で真面目だったと伝わり、加えて様々な発明に裏付けられる様に好奇心旺盛、以て気が利き洞察力があった。いわゆる信長マニュアルを制作し信長が手紙を書く際に枚数を使う事など様々な心構えを載せた手引書を書いている。また特段に慈悲深く動物園を作り生物保護をした事で獣にさえも優しいと評されている。
武将として
長忠は数多くの一騎討ちを経験した。特に北畠具教、真柄直隆、本庄繁長、島津義弘に関しては長忠が強敵として挙げており特に真柄直隆に関しては内藤家の大太刀指南に招いている。なお尾張時代に並べられた柴田勝家に関しては味方としての印象が強いと語っている。
同じ五大老であった柴田勝家は長忠に敬意を抱いて居たが鍛錬の話を聞いた時だけは本気で正気を疑ったという。内容は当時の冗談しか伝わって居ないが「正気にあらず」や「異常に尽きる」など散々な評価で相当な物だった様である。
とは言え大老になった頃から一族には将とは戦う者ではなく家臣が戦える様に支える者だと語っている。内藤家や織田家に残る楽睡庵として執筆した長忠が預言者と呼ばれる所以の一つである百年後戦記においては大将が武器を持った時点で敗北であるとまで記されている。
ただ本人は文字通り死ぬまで金砕棒を振っており百十二歳の頃に子供を襲った2メートル程の赤みがかった熊を金砕棒で叩き殺した。また漫画や文書を作成しながら金砕棒を振る様な事もままあったという。そんな有様だった為に嫡男の忠吉は父上の言葉は全くもって正しいが誰も納得できていなかったと想起している。『内藤家古文書』
長忠は織田家郎党として侍大将の父と共に信長の備として活躍し、小姓馬廻を経て侍大将となり城主から郡守となり軍団長となっている為、全ての立場で戦さを語ることが出来る存在だった。その為に余りにも質問が多かった為か戦指南書を書いており後にまとめられ内藤兵法書として残っている。
また丹羽家の長秀言録によると長忠は戦に出るのが比較的早く丹羽長秀が既に名を上げていた長忠に注意点を聞きに行った。戦場を広く見る事を助言され何よりも肝要な事としてトイレに行く様に促されたと言う。丹羽長秀は腹が捩れる程に笑ったがおかげで恥をかかず済み真理であったと語っている。
長忠の戦いは敵を受け止め精兵を要所に突撃させる戦い方であり、信長の戦いと非常に酷似していた。即ち突進突撃を繰り返す織田幕府軍の悪癖の根源は信長、それを決定づけたのは長忠である。事実として敵に突っ込んで壊滅させている味方がいればそれは長忠だった。『信長公古今録』
様々な古文書で懐古されているが殿軍を務めて敵を壊滅させた事が何度かあったと言う。尚、殿すなわち殿軍とは撤退戦の際に敵を足止めする役割で全滅を避けるための行動である。決して攻撃行動ではない。
非常に強大な弓を使っていた。現存する矢は凡そ短槍である。実際に外海で長忠から弓を贈られた人々は槍として愛用した。
長忠の書籍の表紙を持ち歩く文護符の謂れは織田信忠がその武勇に肖り長忠の手紙を御守りにしていた事からである。最初は戦勝祈願が主だった御利益とされていたが年を経るにつれて今日の様な様々な御利益があるとされた。尚、直々に頼まれた際に長忠は自分の手紙程度で気休めになるのならと出来る限り送っており現存枚数は甚だ多い。
長忠の武芸は知れ渡っておりその術を学びたい者は多かったが、長忠としては主に体躯と剛力を活かした物で武術とは呼べないと言っている。尚、何度か剣術家などから果し状を受け取り喜び勇んで立ち会ったが金砕棒代わりに丸太を担いだ結果戦えない事の方が多かった。
その為に実際に立ち会っただけでも名を上げることになり一太刀入れれば剣術指南役として引く手数多となった。また一太刀入れた剣術家達も実践なら十回に一度勝てれば良い方だと述懐している。
統治者として
長忠の統治は極めて評価が高い。先ず彼の鍛錬と練兵により極めて治安の改善が為される事は様々な文献に残る。加えて実験や研究の為に職にあぶれる者が少なかった。
長忠が様々な料理を作った事は有名だが特に最初期に作られた今で言うところの蕎麦は爆発的に普及したようである。『信長公記など』
更に偶然とは言えバタタ芋など栽培の簡便な食物と共に調理法が普及した事で人口爆発に至ったという研究があり、更に出産の常識を変えたり大型の農器具や農業の大規模化が拍車をかけたと見られておりこれは先ず間違いない。長忠の出生年から死亡年の推定人口は1.5〜2倍ほどの人口増加傾向が見え、長忠が亡くなってからも人口増加は加速度的に上がっている。
築城と街づくりは有名であるが特に大火事などが起こる前から大きな交通路を整備していた。これは牛馬や軍勢の流通に優位に働き経済的に極めて大きな意味を持たせている。当然それは敵の侵入や領地の防衛の観点から見ると不安を覚える物だったが長忠が居るので問題視されなかった。『信長公記』
また長忠の施策の規模は非常に大きく隣接した領地をも富ます物だった様で佐久間古文書や柴田古文書をはじめ長忠の領地との人の行き来や流通に付いて相談する文書が数多残っている。
鬼走り振らば諸共塵芥狼藉者は夜も眠れず
織田信長と敵対した際に足利義昭の御所に書かれた落首である。『言継卿記』
発明家として
長忠の発明に関して枚挙に暇が無い。武将として高名な前半生であっても紡績、火薬、火器、船舶、産鉄、印刷などに革命をもたらしており特に紡績業に関しては上杉家や北条家との開戦原因の一つとされる。
特に重要な発明の副産物として藤尺がある。これは長忠が様々な物を発明するにあたり自身の身長から既存の尺貫法では制作が困難だった事から生み出された。また内藤日記にある通り製造における規格統一の重要性を早くから理解しており尺の統一を行なった。
南蛮時計と振子を用い線智目取り(メートル)の定義を行い、それを長忠の造った旋盤との兼ね合いで二線智とした。
また万象論を書き上げるに及び料理を参考に制定した一斤を六等分にしたものを十集めた千具等務等である。
長忠の発明における特に重要な物は紙幣、転炉、教育である。
長忠は撰銭令などの発布に際して琵琶湖水運で使える代替紙幣を発布しておりこれが兌換として流通した。織田幕府の始まる前から武田家がこの紙幣を参考に金本位制を取り入れており、織田幕府の広がりに合わせて金地金本位制へと変化している。当初は銀が加えられ続いて石油が加わり国債本位制に代わるまで続いた。
長忠は美濃と領地が近かく信長が瀬戸物を保護していた事からか窯に対する知見を養っていた様で高炉と反射炉を作り上げている。定説では反射炉で鉄を混ぜる事で鋼鉄が作れる事を知っていた為に空気が複数の集合体である事を察していたのでは無いかとされる。更に転炉の完成により膨大な鋼鉄が生産できる様になった。
農具が鉄製になり大規模化し紡績機の鉄を利用した性能強化による余剰人口の発生、船舶の巨大化と高速化により物流強化、架橋や鉄道延伸による経済の拡大など発展の根幹と言えるだろう。
教育に関しては二度の地震の影響が大きく孤児の衣食住の世話だけではその場凌ぎにしかならないと技術や学問を教えている。現在まで続く基礎学問の国語、算術、理科、技術、社会、武術はこの頃からである。これらの内から才能や希望を募った上で長忠は職の斡旋を行なっており内藤財閥の下地が出来た。その為に織田幕府の要望を受け制度の普及を手伝う事になっている。
冷間圧延や遠心調速機や蒸気機関車の安全弁の錘など副産物も非常に重要な物が多い。特に蒸気機関制作の際は計器や中水機、霧吹き機、逆転機など蒸気機関部よりも蒸気機関を安全かつ簡易に用いる機器類の制作に頭を悩ませたと長忠自身が述懐している。また与三備忘録には長忠が蒸気機関車を走らせた際に「……出来ちゃった(原文:難儀いたし候由故出来ちゃった等勝三愕然として曰く)」と呟いた事が記され非常に難儀したとも書かれている。
外海で原住民から伝授された粉末治金や圧気発火具などの技術があった事から原住民との関わり方に気を遣った。
詳しくは長忠の残した発明品一覧を参照。
万象論
長忠が提唱した化学の根幹的な思考を名言家した書物。森羅万象を数値化し加減を用いて同現象を生じさせる考えである。また重力や圧力や電力など様々な定義の言及が為されている。
有名な弟子の一人に佐久間信栄がおり長忠から放電により窒素固定をする高電圧放電法もとい佐久間法の研究を託された。息子の代に至り大壁堤に設置された水車を用い電動機を回して放電による最初の工業的な窒素固定である。
また様々な動物や物質の特性などを記している。特に長忠が匂いを嫌っていた鉛の毒性を解明し、また妙薬とされていた水銀が毒物である事を証明しており、そう言った危険物扱いには最大の注意を促した。また後に他国で起きた公害被害が比較的少なかったのは長忠のおかげとも言える。
文化人として
長忠は非常に器用であった。特に絵は得意で武将として地図を即座に書き上げる様子が信長公記に幾度も出てくる。また内藤絵と呼ばれる三つに絵柄があり写実絵、漫画絵、紋様絵に大別される。
写実絵では『家族絵』漫画絵では『信長公桶狭間馬上図』紋様絵では『御将軍蓬莱鷲背負い狩衣』が代表作。
また残された文書はもちろんだが残した文書も非常に多い。万象論の他に内藤日記などに始まり内藤家家訓など数百に登る数が現存する。更に娯楽話も絵を描く暇がない場合などでは文字で書く事があった。機関車戸升の五話は有名で孫に泣かれて慌てて挿絵を描いている。
鬼絹や勝三織は一世を風靡している。着物全体に刺繍の広がる大柄物、背中に大きな刺繍を入れた背負い物、一箇所に精巧な刺繍を入れ小粋物などである。また綿入れを連ねた長綿入れは珍重され特に肩麒麟と呼ばれた長綿入れは信長が非常に愛用した事で知られる。
茶の湯も嗜んでおり侘び寂びを旨とする利休の侘び茶に対して楽しければ何でも良い道楽茶の創始者とされる。宴会程に派手では無く美味い物を食べ茶を傾ける気楽な茶会であり主に町民に親しまれた。
長忠十二茶器は有名だが長忠は最上物を拝受信長公瀬戸黒茶碗とし茶碗においては内藤天目、瀬戸黒大杯、黒金継ぎ曇天逆雷をよく用いた。
長忠といえば傾奇者であるが実態としては長忠が傾奇者の意味を変えてしまっている。当時は長忠の様相を真似る者が多く特に長忠のいわゆる馬尾髷が髷の基本形になる程であった。長忠がいわゆる流行の最先端を担う一人と目されていたのである。
そして当時は戦に出て一人前という風潮も強かった。しかし戦いの場は失われ持て余す者たちが多く出たのである。特段に派手な鬼絹を纏い長大な得物を持ち乱暴狼藉を働く者が現れ幕府が対応せざるおえなくなった。
彼等は徒党を組んで総髪変わり髷と言う独特の結い方で頭を揃え傾奇者と自称しまたそう呼ばれる事を好んだ。いよいよ下京で騒乱が起き幕府は治安悪化を懸念し対応を迫られたがある歌が大阪を中心に広がる。
『称して情け無しや傾奇者、船にも乗らねば鬼真似も出来ず』
要は船にも乗らずに傾奇者を気取るなと言う挑発である。外海探題となる為に人手を集めていた長忠から外海探索の術を学び新天地を求めて日本を出る者が続出した。それで成功を収めた者のみが傾奇者を名乗る様になったのである。
外海の原住文化に対する理解や保存に熱心で今では話者のいなくなった言葉をカタカナを用いて残した。加えて生物保全に並々ならぬ情熱を傾けており鼠取りと猫を首輪をつけて飼う事を奨励している。赤嶺のウォンバット大鼠やカカポ大鳥を非常に気に入っていた。また蓬莱の蛮尊牛などの名付け親で猛進する蓬莱牛を見て蛮尊と名付けたのは余りも有名。
長忠自身も文化を好んでおり家族の勧めで狩野永徳に写実絵を描いてもらう話になった時は恐縮しており非常に分厚い礼状と一封を送っている。『長忠鎮座図』
絵師や文字書き猿楽師や能に加えて歌舞伎踊りにも援助をした。また数は少ないが晩年に音楽も幾つか残している。
たたら製鉄を存続させる為に多々良大社を創建しており現代まで続く新年の刀打ち儀式は長忠が始めた。長忠の残した百八刀や金砕棒など文化財の保存も多々良神社が担っている。
料理に関しては内藤長忠が考案した料理一覧を参照。
探検家として
長忠の基本姿勢は一貫しており探索先の原住民との物々交換と言葉の理解、文化と習慣を聞き出して交流するのが主である。実際に現地の文化と習慣を知れば現地の危険を知ることができる為に必ず知っておくべきであると航路意見書に繰り返し記載され、また食に関しては互いに交換して現地の物を食べておくべきだとしており共に食卓を囲めばそう悪い事にはならないと記す。
日本で食肉が広く普及するのは長忠の公開日誌が公開されてからである。
外海探索において九州の戦いで猛威を奮った島津家に連なる薩摩の人材を特に重用し、警戒され家名は残っても領地は与えられなかった島津家を復興させた。これはあくまで織田家に従う代官の形であったが外海探索への熱を燃え上がらせることとなり上杉家や北条家に始まり名門の家が織田家の代官としてだが広域の領地を治めることになった。
商人として
長忠は絹産業に関して全権を与えられていたがそれは凡そ妻達により担われていた。しかし後々は様々な発明品の研究や販売の販路維持の必要が出て悪戦苦闘している。しかし地震で子供達を引き取った事から彼等の中から実質的な官僚技術者集団と化し大規模商社とかした。外海の各地に領地があった事から財閥の情報網が出来上がり今日の内藤財閥の下地となる。
それらを琵琶湖水運で行っていた保険を真似る形で株仲間などの制度を構築し織田家に株を買って貰い一気に大規模化。特に二度目の大地震の際の鉄道延伸と港湾整備では長忠の献金を大規模投機して貰っている。これは後に織田幕府の財政の根幹とも言えるこのになった。
人物像および評価
主君である織田信長は烏帽子親を務め長の字を偏諱している事から分かるように非常に長忠を信頼していた。常々弟の様な存在として名を上げており後年になるが最も頼りになる弟として名を挙げ次点で織田秀孝をあげ長忠を恐縮させている。ただ厳密に言うと長忠は信長の義弟ではなく義子に当たる。
対して長忠も信長を兄の様に慕っていた。特に甘味の調理法は一番に通達しており南国の果物は一番に信長へ届けている。長忠の居城や居館には常に信長用の部屋と甘味が用意されていた。
信長から受け取った之定の小太刀と加藤市左衛門作の瀬戸黒天目は特に大事にしており家宝の中でも元服と継承の儀式に用いる重要な物とした。
左権国司家と呼ばれ半身とされた青山吉次は父の同輩であった青山信昌の息子である。青山信昌が討ち死にした事で内藤家で養育した為に事実上の兄弟だった。長忠の貴重な減速役であり政治や指揮の代理役として活躍しており長忠の外海探索中は息子達の補佐も担っている。また隠居後は長忠と共に研究や発明を手伝った。
それほど信用されていたからこそ初代右権国司家の岩越高綱と同じく明け透けな評価が残っており。
「勝三(長忠)の思い付きは何時もの事でガラクタを作る事もあるが無為とはならない」
「戦場で目を離すと気付いたら敵に突っ込んでいる。自分の身分と立場をいい加減に覚えて欲しい」
「兵に戦に行っている時の方が身が休まるなんて言われている時点で鍛錬として愚行」
などの評価を残し何なら本人に言っている。『長忠古文書』
しかし研究が中々実らなかった際などに擁護したり藩主代理を任されても不満一言で応じるなど最後まで関係は良好だった。
織田家一族との関係は良好だったが取り分け織田信長の妹である織田市とも非常に関係は良かった。織田幕府の無病息災を願う賀輿鬼の儀式は織田市と長忠が元である。初と江は織田市の娘である事は暗黙の了解であちゃが長忠が親である可能性が示唆されている。『京極家古文書』
実際に京極家は初の輿入れにより蓬莱国入浜藩六十万石を任されおり当時としては破格だった。また徳川家康と松平信康の関係悪化による徳川騒動で三河松平家と遠江徳川家に別れた際に、隠居していた長忠が和解の仲介役を担ったのは徳川家に嫁いだ江による所が大きい。しかし抜本的解決にはなるが問題解決の為に国替の提案までしているのは少々過剰である。
同輩からの評価も高く木下秀吉は「あの人がいる戦場は大概勝てる」と書き残し、森可成は「負けても負けた気がしない」と書き残し佐々成政は「飯がうまい」と書き残しているが当時の古文書では大抵似た内容が書かれている。
織田三柱の岩室重休は「戦で勝つ術が思い浮かばない」と言い同じく織田三柱の丹羽長秀は「最も優れた采配をなさるのは信長様で次点が岩室殿、そして長忠殿がいれば取り敢えず負けない」と評価した。また織田四天王の一人である池田恒興は「剛力異常(原文まま)が目立つが政も卒ない」と書き残している。
長忠は武人らしく好敵手であった相手には敬意を持って居たが真柄直隆の事は特に尊敬しており剣術指南役として隠居した真柄直隆を呼び一族を家臣として取り立てている。
徳川家家臣の本田忠勝は長忠と私信を続けており息子への文護符を願っているが即座に用立てて貰った上に小太刀を進呈されている。
木綿藤吉、米五郎左、算盤村井に舟守滝川、かかれ柴田に退き佐久間、対せば誉の欠けなし岩室、負けても泣くな大鬼内藤。当時の京で流行った童歌である。『言継卿記』
宣教師ルイス・フロイス評
「背丈は見上げる様に大きく容貌は鼻は小さいが甚だ立派で彫像の様な肉体を持っている巨人」
「極めて温厚であり明るく施しを好む。料理の腕は大抵の料理人を凌駕する」
「鉄の柱を小枝の様に振るう力の持ち主で日本で最も果敢にして強力な勇者」
「異教徒であるが極めて善性が強く彼がキリスト教徒でない事が悔やまれる」
「非常に賢明で既知に富むが冗談を好み謙遜が過ぎ潔癖で粗食が出来ない」
国交の端緒を結んだ際の副王マルティン・エンリケス・デ・アルマンサ評
「アジアどころかエウロペでも稀に見る巨人で年齢よりも20は若く見える」
「食事を常人の5倍は食べる様は心地良い程で非常に温和で話し易い」
「彼の協力を得る事が出来れば中国にキリスト教を齎す事が出来るだろう」
偽銀事件の際の副王ペドロ・モヤ・デコントレラス評
「巨大にして凶悪なる怪物が日本から来た。鍛錬と言いながら鉄の柱を振り回す悪魔がマニラを滅ぼしに来たのだ。神よ我等を救い賜え」
「話す事と聞くことを何よりも大事にする温厚な男で異教徒だが敬うことが出来る」
「人間とは思えない力の持ち主であり彼と戦う事だけは避けねばならない」
イングランド商館長リチャード・コックス評
「非常に快活で巨大な老人。皇帝の最も信任する臣下。存在そのものが神秘」
フランス外交官リシュリュー評
「この世で最も敬えるだろう日本人」
「彼が王となり石田三成が宰相になれば出来ない事は何も無いが君主への忠誠と皇帝の才知故にあり得ない事である」
「日本の脅威的な拡張政策を支えた帆船の中に巨大な釜を設置し、まるで陸の上の様に真水を使い風呂にまで入れる飯盒船、これを作り上げたのは彼である」
「鼻と耳にかける眼鏡を頂いた。何と素晴らしい事だろうか」
「彼の年齢は東洋の神秘である」
「文化への造詣が極めて深く料理の腕は宮廷料理人にひけをとらない」
内藤家は非常に長寿であるが長忠はその中でも115歳と特段の寿命を誇っている。
1510〜1598秀忠(88歳) 初代
1540〜1655長忠(115歳) 2代
1565〜1663忠吉(98歳) 3代
1580〜1670秀忠(90歳) 4代
1600〜1682良忠(82歳) 5代
1625〜1700敏忠(75歳) 6代
1650〜1749定忠(99歳) 7代
1670〜1765慶忠(95歳) 8代
1690〜1800忠隆(110歳) 9代
1710〜1805長吉(95歳) 10代
1735〜1815貞吉(80歳) 11代
1750〜1845吉忠(95歳) 12代
1775〜1865忠連(90歳) 13代
1800〜1900忠綱(100歳) 14代
1828〜1930忠持(102歳) 15代
1860〜1945忠護(85歳) 16代
1890〜1987忠虎(97歳) 17代
1920〜2005忠国(85歳) 18代
1940〜2025忠鬼(現在85歳)19代
1965〜2025忠明(現在60歳)20代
1990〜2025忠龍(現在35歳)21代
2015〜2025忠明(現在10歳)22代
長忠の年齢を超えたのは三名しか居ない。七代目定忠の三男忠遊の120歳。十五代忠持の四男の忠麒117歳。十七代忠虎の五男の忠興118歳である。
系譜
父親 内藤秀忠
母親 寺沢竹
兄弟 内藤勝千代丸
内藤無病丸
青山吉次(養子)
妻子
織田秀子
長男・内藤忠吉 (正室織田鶴)
次男・内藤忠広 (正室岩室千)
長女・内藤藤 (織田秀信側室)
三男・内藤忠澄 (正室近衛宝)
山科稀
長男・内藤忠隆 (正室丹羽柳)
長女・内藤鞠 (青山吉之正室)
有馬幸
長男・内藤忠存 (正室織田淀)
長女・内藤帛 (岩越高興正室)
次男・内藤忠利 (正室柴田良々)
三男・内藤忠保 (正室滝川船)
養女
長女・内藤初 (京極高次正室)
次女・内藤江 (徳川秀忠正室)




