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ウィキペディア風執筆断念話ダソペディア中編

大航海時代と探題就任

天正七年(皇2239・西1579)南方探索提言が認められてから準備を進めた。嫡男の内藤忠吉に吉備岡山藩の前身である吉備斎服藩を、内藤忠存に近江今浜藩を任せ隠居し波進斎望識を名乗る。七島衆などから高山国の話を集めた。


幕府から外海探題に任じられ数年間に渡り己の半身となる櫂付き南蛮船井上丸に乗り二十隻艦隊で出航した。七島衆と共に琉球国と交渉し尚真王天皇に謁見して再び高山国の話を確認して探索を開始し琉球の南方諸島の先に島を発見した。そこで出会ったケタガラン族と物々交換を端緒に言葉文化の記録を行い他部族や倭寇と戦いケタガラン族と友好を深め氣多伽藍城を建てる。特に水路の制作と水田地を作った事で立場を得たと航海日誌に残っており南方探索の一大拠点となった。


氣多伽藍城はケタガラン族の居住地から離れた倭寇や他部族との境目にあり防衛と万一の日本との連絡用に船の半数を残して十隻艦隊で日本に帰還。期間を限定した墾田私財法の提言を行い事実上の入植準備を行なって氣多伽藍城の一帯を高山国とする事が決まる。そして高山国府および高山国司を設置認可を受け高山国司に木下秀吉などを推薦。


彼と共に物資を乗せた艦隊を伴い高山国に戻り長忠は探索を続け呂宋島に到達。そこでイスパニアのヌエバ・エスパーニャ副王マルティン・エンリケス・デ・アルマンサと面会。会談の結果イスパニアと造船修復契約と寄港補給地の要望を聞き交渉の引き継ぎの為に三隻を帰還させた。


そして呂宋島で食料の補給を受け南下して巨大な島を発見するも艦隊の一隻が無風地帯に入る。櫂を用いて脱出し遠目に発見した巨大な島、現在の関門島に沿う様な形で進んで唯一風の通る後の関門航路を発見。高山国に一時帰還しマカタオ族と交流を持ち摩訶田多城を築き寄港地とした。高山国府から明智光秀を呼び大規模な寄港地整備を指示している。


天正八年(皇2240・西1580) 摩訶田多湊から出発し関門航路を進み赤嶺島(現赤嶺大陸)を発見。多数の原地民と同時に会合する事になり特にジャプカイ族と深い交流を始めた。複数部族がと居合わせた事から一時的に赤嶺人や彼等の文化から紋人と断定的に呼び始め定着している。尚、長忠としては原住民の言葉や文化を記録しておきたかったが数が多く、また公開の難易度から難しかったと後悔日誌にて悔やんでいる。


長忠は帰還して赤嶺国府および国司設置、赤嶺墾田私財法の発布を上奏。また今回は部族の多さから紋人司の設置を提言した。この帰還道中にてイスパニアとの交渉に参加しており双方の国の常識が違う事を明言して擦り合わせの助力をしている。


これによって織田幕府がイスパニアと契約を結ぶ一方で長忠は交渉の中でイスパニアがセブ島から西に向かいたい事を察知し航路がある事を確信。当時アプカルコ・ガレオンと呼ばれた航路を発見し艦隊を率いて西進。凡そ半年をかけて蓬莱大陸を発見する。


さらに蓬莱には赤嶺以上の部族がありトングヴァ族・チュマシュ族・カフイラ族・モハーヴェ族・クミアイ族など数千から数万人規模の部族がいた。彼等も赤嶺の前例に倣い一時的にだが羽人と呼称する事にしたが長忠としては不本意な事に後に現地に定着してしまっている。


尚、羽人という当て字は特徴的な羽の冠から来ている。しかし鳥に羽の冠は高山国や赤嶺国の原住民も付けていた。それを蓬莱人に付けた理由は特に大きく立派な羽の冠だった事からである。ホウライワシと呼ばれる信長が極めて珍重した蓬莱原産の白頭の鷲を使った冠は圧巻だった様で公開日誌に細かく記しており、また食料を得るために探索を行い襲ってきた蓬莱熊を倒した事で蓬莱鷲の羽が使われた物を送られた事は非常に大きい。


長忠はある程度の生活拠点を得てから南下して内藤家艦隊はアプカルコへ進出した。阿布㮶アプカルコ貿易の交渉を持とうとするがイスパニア側は難色を示す。長忠は蓬莱に帰還し拠点整備(蓬莱館)と周辺地理の聞き込みを行なった。


天正九年(皇2241・西1581)長忠は春を待って艦隊を率いて沿岸伝いに北上し北奥を発見。凍傷に見舞われ遭難しかけたところをウネクフルミウト族に助けられている。


犬橇を用いていた事から赤嶺や蓬莱の踏襲で橇人と言う当て字を考えていた様だが専ら天佑人という呼称が用いられるのはこの事からである。


マニラ航路を用いて日本に帰還し蓬莱国府および国司の設置、蓬莱墾田私財法と羽人司の設置、これらを上奏。また北奥国府および国司設置と北奥墾田私財法に付いては極寒の地である為に準備が必要だと提言した。


また長忠に影響された者達も増えており後に蝦夷の更に北で千島列島、八寒、白地に加えて小笠原諸島なども発見されている。これらを探索した者達は傾奇者と呼ばれ尊崇を受けた。


天正十年(皇2242・西1582)浅間山が噴火し特に甲斐信濃に甚大な被害が及んだ。田畠が火山灰に埋まるなど特に宿老家だった甲斐武田家の被害は極めて大きく、後に甲斐信濃と駿河で分裂し諏訪武田家、御一門武田家に分裂する武田騒動の端緒になってしまう。


長忠は将軍信忠の意向と自身の意思で発見はされていたが未到の地であった蝦夷の北方への探索を中止。また大老として復帰する事になり正三位外海探題長忠として幕政に参与し武田騒動の収集を図る事になる。


先ず大規模な難民と飢餓に備え、駐屯期間の長さから最も土地が広く開発が進んでいた蓬莱国を中心にした移民を提言し承認される。これにより数年をかけて外海の各所へ総勢数万人を送り届ける船出令を施行。


喫緊の食糧問題解決に蕎麦とバタタ甘薯を中心に調理方法と共に奨励し、開墾の進んでいた吉備国や尾張国からの大規模船団輸送を指示した。特にバタタ甘薯はどんな場所でも田として使え多く取れる事から場田多と呼ばれる甲斐信濃の名産品となる。掻き集めた穀物と開墾道具を満載させた船団の半数を甲斐信濃に運ぶ為に駿河に降ろし、空いた船に身体頑強な者を乗せて外海各所に送り出した。


この天正大船出による大規模な移動は開拓団を編成する下地となっている。飯盒船に加えて大爪鋤と牛馬や物資のみを運ぶ為のいわゆる輸送船一隻を必ず用意する事等が決められた。特に蓬莱国は広大な土地があり、また交流が頗る上手くいった蓬莱では躑躅国の前身となる躑躅村が開拓され、今でも蓬莱訛りは甲斐信濃訛りに近い。


天正十一年(皇2243・西1583) 武田騒動が落着し長忠は北方探索を始め蝦夷で北見金を発見する。アイヌと交流交渉の後に帰還して各航路の経験から航路意見書。特にガレオン航路と呼ばれた北行南帰法を提言した。


幕府と朝廷は大海探題令発令と大海墾田私財法を発布する。それを見届けて長忠は再度の隠居を行い楽睡庵を名乗った。この頃から文化人や技術者として活動する様になる。


技術においては特に長忠は鉄の製造と蒸気機関に情熱を傾けた。技術書や設計図においては阿武楽斎組楽を名乗っている。また執筆活動等もこの頃から始め大半の漫画で名乗る波陸斎侘介や使用例は少ないが楽睡庵もこの頃から用いた。


波陸斎侘介の作品として特に有名な環一大宝伝を始めとした跳躍物語では一貫して波陸斎侘介を名乗っている。当時から楽睡庵として発表された漫画とは隔絶した人気を誇った事から同一作者だと認識していない者が非常に多く、波陸斎侘介の号で描かれた漫画の事を聞かれると言葉を濁したと言う。波陸斎侘介として残した作品に関しては「ただ名だけでも残したい」と語っており当初は発表する気が無かったのでは無いかと推察されている。


織田幕府が外海の三ヶ所に太宰府を設置するにあたり内藤家は長忠が発見し現実的側面から探題に任ぜられた。赤嶺鉄礬ヶ原藩の元になる鉄礬ヶ原城、蓬莱望ヶ浜藩の元になる望ヶ浜城、北奥氷室藩の元となる氷室城が吉備藩の管轄になる。長忠が息子を補佐する形で代官の選定などを行った。


天正十二年(皇2244・西1584) 備前乙子城にて転炉の試作品を完成させた。此れは非常に優れた製鉄技術を有し革命を起こしている。


更に研究を続けていた水車式紡績機が完成するも織物強訴が起きた。内藤家は井上城時代から紡績事業を担っており職を失う不安が爆発したのである。長忠自らが説得して刺繍配田令を発布し田畑の配分を約束。


蓬莱内藤家として家を建てる事として希望者を募った。




隠居大老時代

天正十三年(皇2245・西1585) イスパニア偽銀事件が起こる。イスパニア商人が造船の支払いにメキシコのプラチナを銀と偽って使用した。日本国内は沸騰するがヌエバ・エスパーニャ副王ペドロ・モヤ・デコントレラスと長忠が交渉を行い下手人の処罰と偽った分の銀の支払い、または金剛石での代替を認めた。


此の際に長忠個人の興味によりイスパニア側からの賠償として偽銀を受け取り、長忠が金や銀に変換して幕府に納めている。


ただしこの問題中に小競り合いが起きかけた事で南蛮選定令で南蛮商人を長崎に、日本の認めた者のみ淡路に居住許可、京都南蛮寺にてのみ活動許可としていた物を高山国へと移している。また天下総無事と配鍬刀狩令に合わせて全ての宗教に対して出された佩刀禁教令を徹底させ決着とした。


この時に送られた金剛石を用いて長忠は旋盤を作り、その旋盤で旋盤を作り、その旋盤で旋盤を作っている。旋盤を作るにあたり物作りの基礎となる目取り尺を規定した。時計のと振り子を用いて一目取(メートル表記で1001mm)とした。


そして初めて日本のみで時計を制作。全ての船に設置される様になる内藤薇時計である。


この年の冬に天正大地震が起きる。正月に家臣達が集まる為に長忠を始め内藤家は大阪に居た。地震発生時に長忠は無事な屋敷の中へ家族を避難させ織田家の面々を探す。織田信長と織田秀信が崩れた屋根に潰されかけるが屋敷を担ぎ上げて救った。


長忠公屋根担ぎ像はこの時の物で有り得ない大きさの屋根を支えており、誰もが誇張した物だと算出していたが間違いのない事実とされる。『信長公記』『信忠公御言録』


詳しくは長忠伝説の実証実験の項目を参照。


また織田信長や信忠と共に無事だった者達に指示を下し屋敷にあった衣類を帯にし、助からない者に黒帯を、重症者に青帯を、軽傷者に白帯を巻かせた。城下の救難に加えて即座に吉備を中心に服と食料を掻き集めさせている。しかし冬の寒さや夜であった事から救えなかった命も多くこの日から数日間書かれていなかった長忠の日記には悔恨に塗れており後に供養塔と御救い寺を建てている。


実際に地震で親を亡くした子供を集め悲田院を建てようとした。しかし当時の空気から子供であれば誰であっても世話する為に孤児院と名を変えて設置している。なお幼少期に関わりがあった上に外海に出た経験もあり、長忠自身は非人と呼ばれた人々に対しては隔意は無かったようで、日記等の中に否定的な捉え方をしていない。


孤児院は吉備国、近江国、尾張国で建てられ特に尾張国では一時的とは言え一万人近い人数が集められた。仕事を失った者や職場が無くなった者を雇っており代わりに食事を出している。


またこの時の被害から町の構造に対する御触書の発布や狭い範囲だが上下水道の整備などを行なった。


天正十四年(皇2246・西1586) 転炉完成と赤嶺での鉄ヶ原発見により既存の生産量とは比較にならない産鉄が可能になる。長忠は手始めに梱手無や滑車台などに鉄を用い始めた。更に鉄鋼の費用軽減と開墾等の諸理由からくる牛馬の高騰から、蒸気機関の試作を開始し連羽機関や円筒機関を発案。


また此の際に転炉の増加による多々良製鉄の技術文化の消滅を恐れ、それ等を残す為に多々良人社を創建した。


円筒機関による蒸気排水機を作成し、また紡績機が何処にでも建てられるようになる。これにより被災後の寒さもあり綿花の需要が激増し天竺との交渉が模索された。


しかし上野織物問題が噴出。絹織物の生産増加に伴い質の低かった関東産の絹織物の価格下落が続いていたが、天正大地震により蚕の仕入れが出来なくなり北条家の絹織り産業の存続が危ぶまれた事が発端である。更に上野の領地で小競り合いが重なり北条家との仲が冷え込んだ。


北条家が上野国へ侵攻し丹羽長秀に撃退されたが、これにより織田信忠は小田原征伐を決定した。日本全国の大名に参戦を命令し長忠も隠居の立場であったが軍師として帯同を要請している。その為に長忠は息子達や織田信忠を補佐しながら準備に奔走し真壁久幹伝いに佐竹家との折衝などを担った。


天正十五年(皇2247・西1587) に備前鉄工所運搬機関車を試作車両が完成。この年に執筆される汽車乃絵本、後の機関車戸升のモデルとなる一号機関車である。鉄工所内での運搬作業が主だった仕事だったが直ぐに延伸され柵原鉱山から鉄工所を経て乙子港までの道のりでも運用された。また飛脚と馬借を駅麾下で雇い物流網の基礎を築く。


長忠は鉄工所で用いる一号機関車を短躯式一号機関車と呼び斎服山城から大阪城までの道を進む炭水車を連結した機関車を転駄式一号機関車と呼んだ。これは転駄台と当時呼んでいた転車台を用いる為である。しかし転駄式の呼称は余り用いられず現在でも一般的に呼ばれる長躯式機関車と呼ばれ、二ヶ月後に完成した長躯式二号機関車と共に一号機関車も長躯式一号機関車に改められた。珍しく長忠がイジけたと書かれている。『内藤家古文書』


蒸気機関車は被災者への食糧運搬や小田原征伐に用いられる鉄砲や兵糧の運搬に兵の移送にも用いられた。


小田原征伐では本陣で様々な助言を行なっており一夜城築城の提言を行い小田原茶会で何度か差配を任された。その後は北条家の降伏を受け軍勢を送って来なかった者達の討伐に奥州平定へ向かった織田信忠と別れ吉備国に帰還。


転羽式蒸気船試作を試作する。円筒式蒸気機帆船とは違い此方は上手くいかなかった様で完成まで数年をかけた。この事から技術などを教える為の学問所を建てており手始めに御救い寺の子供達に教育を施しており後に人材の供給源となる。またこの際の子供への教育経験から万象論執筆を決意する理由にもなった。


鉄道の延伸と合わせる形で鉄工所を大規模化しており、この際に底吹き転炉を制作して大型化させ、鉄道と合わせて産鉄量を更に増やしている。またこれによって古い転炉を銅に用いる様になり銅銭の織田幕府における貨幣発行が容易になった。貨幣は災害に対する補償としても用いられ代文割符と銅銭が大規模に流通を始めた理由の一つである。


円筒式蒸気機関を用いた機帆船試作一号機の進凪丸が進水。家屋や燃料として材木需要の爆増により鉄の船体を持った船で、その威容を乙子港から大阪城まで進み見せつけ、地震で落ち込んでいた空気を払底している。またこの船によって特に赤嶺への移民と鉄鉱石取引および探索と高山開発が進んだ。


これ以降数年は発明活動よりも文化活動と各領地への助言や息子の補佐に注力した。特に文化活動に傾注しており跳躍物語集の環一大宝伝はこの頃に出版している。汽車乃絵本を代表に孫や家族の為に多数の物語を作った。


漫画においては跳躍物語集、信長公戦記、天佑姫、天正合戦狸絵巻など。絵においては太政大臣御一家御座屏風画、外海万物画集、画聖狩野永徳像など。また紙を数枚使って動くパラパラ漫画を初めて作ったのもこの年とされる。


長忠の記したこれらの物語は出版され濁点や半濁音の統一が進んだ。加えて候文から文言の一致する簡易的な口語文の広がりは漫画娯楽小説による所が大きい。


また外海万物画集の発行によって現地の言葉をカタカナを用いて表現する為に全国に広がった。”いろはにほへと“から“あいうえお”に手習の形が変わったのも外海万物画集に読み方の説明が記されていた事が大きい。


またこれらの物語によって日本の倫理観が変遷していったとする研究も多い。


天正十八年(皇2250・西1590)に鋼滓煉瓦を用いて水路を作る事を提言した帰りに遠江にて武田信勝に草生水の話を聞き油を見聞する。石油と名付けて灯台櫓の証明として用い始め、これは後の蓬莱国の南下先で石油が発見される端緒となる。


尚、石炭と同じ様に用いれる物だと考えていた様で南方探索で赤嶺人から譲り受けた圧気発火機を用いた石油機関を考えていた様であるが今までとは打って変わって非常に困難を極め転羽式と同じく長い年月を必要とした。


琵琶湖で帆布と鉄を用いて乗り凧を作りこれが飛行機の原型となる。また磁石と銅線を用いて電動機を作り水車と接続し発電を行い水力発電を始めた。それを用いて磁石を量産している。


また後に記した万象論にある様に稲妻と言う言葉から電気を用いて肥料、延いては硝石の製造の可能性を見ており、これは長忠の死の五年後に実現された。長忠は偽銀に圧力と熱を加える研究をしており後の佐久間硝石法も考えていたのでは無いかと言う分析もある。研究自体は失敗したようであるがこの圧力をかける際に水圧式、油圧式円筒を思い付く。


転圧式圧延機や蒸気式掘削機を作った。特に後者は先ず吉備国や甲斐などで水路整備や災害復興に用いられている。この際に田畠用の水路を鋼滓煉瓦に変えたところ水腫脹満が消滅した記録が残り四つ死貝を絶滅させた可能性がある。また開拓先にも送っており日本に始まり開墾や鉱山で用いられ蓬莱、赤嶺、北奥の発展が一挙に進んだ。


文禄元年(皇2253・西1593)に万象論を発表。科学的思考の源流とも言える。


万象 此れ加および減と思い候 鍛治料理始め万事に用い森羅の一端を知らんと欲す


この一文で始まり料理や鉄鋼業に船上の経験を踏まえて科に分け学としている。また万象論は重力などに関しても言及しており非常に革新的な書物だった。原子に関する考えは万象論が発端と言える。


有から無は生まれず無から有は生まれず


最後に記されたこの考え方は一石を投じる思考だった。『言継卿記』『信長公記』など。


対馬問題や朝鮮使節の問題から信忠から朝鮮出兵の是非に関して問われた。此の相談をされた際に駐屯と占領の無意味さを進言しており人材は外海の太宰府へ送るべきだと提言している。その結果として機帆船を用いた海賊行為に終始したが、明および朝鮮の沿岸経済が壊滅した。効果的とは考えられていなかった嫌がらせ程度のつもりの物であったが非常に効果的で既存領土の確定と賠償を受け取る事で手を引いている。


文禄五年(皇2256・西1596)に慶長大地震が起きる。長忠は大阪に急行し織田家一家の無事を確認。京と大阪の復興に尽力。前回の地震の対応を応用して対処した。


同時に斎服山城から大阪城の路線延伸を図り大阪城から京、京から今浜城、今浜城から岐阜城、岐阜城から井上城、井上城から清洲城の鉄道網整備計画を立てる。これは被災範囲が余りに大きかった為に被災者に仕事を与える為であった。これに加えて上下水道の整備や通路の拡張も提言し即金で一万両を幕府に進上している。


特に後に影響を与えたのは鉄道駅整備と共に行なった大阪城港の整備でありその基礎を築いた事だった。また合わせて外海太宰府各所へ移住受け入れの準備を大々的に要請し一先ず数年をかけて数万人を送り出した。また多数の人と物を送る為に転羽式蒸気船蓬莱丸を予定を早めて進水させている。これは水割り衝角と蒸気を冷やして水に戻す復水器を搭載した革新的船舶だった。


此の震災では大阪城の被害が大きく北条征伐以降に織田家が開発に力を入れていた江戸へ一時的に将軍の居城を移す事になった。長忠も一時的に江戸へと居所を移し蓬莱や東北へ向かうための港湾設備の建設を提言。鉄道の延伸も合わせて提言し凡そ十年をかけて完遂させている。


サン=フェリペ号事件が起った。これは土佐に漂流したサン=フェリペ号が複雑な経緯を辿って悶着を起こした物である。織田家の陪臣である長宗我部家の独立意識や白人と黒人の扱いやフランシスコ会とイエスズ会などの確執など様々な要因があった。


この対応に長忠も助力する事になり端的に結果挙をげればイスパニアと日本の国交深化およびマニラ日本人町に商館の建築とフランシスコ会の日本入国禁止が締結されている。


長忠はこのイスパニア側との交渉の際にイスラム教の多い呂宋南部地域の買収を持ちかけておりこの時は熟慮の後に謝絶された。しかし後に破産したイスパニア側の要望により一部を買い取っている。尚、破産する度に買った為に現在の領域を保持するに至った。


蓬莱の東岸部に太宰師の織田信澄と望ヶ浜藩主を務めていた息子の内藤忠広の要請を受けて蓬莱国へ行き西進を進めた。現地で鉄工所の大規模化と鉄道および造船所の拡大などを補佐しつつ蓬莱人との融和および文化記録を促進させている。ここで未開の地に油田発見の報告を受けており後に油井国と呼ばれる所以となった。


後の事であるが赤嶺や北奥などでも同じように開拓が広げられた。その結果、各地で原住していた人々の共通語や記録に日本語が多用され文化的な日本人化が進んでいる。その報告を受けた長忠は原住文化の保護を願って各所に手紙を出している。


蓬莱から帰ってから顕微鏡を作った。これは後に伝染病の発見などで非常に重要な役割を果たしている。顕微鏡を思い付いたとされる日の日記に蓬莱の人々に広がった奇病に付いて悔恨が記されているが、忘れていたと言う一文があり此れが何を指すのかは定説を見ない。


ここから『白黒医』などを書き上げており数年間は今まで書いた漫画などの続編執筆や各機関の研究などに時間を費やしている。


慶長四年(皇2259・西1599)に石油機関を作った。また重油燃焼式の蒸気機関車もこの頃に製作している。


長忠が最初に作った石油車はの側戸式であるが陽光天皇、織田信長、織田信忠になどの要望により後門式に作り替えられた。また鉄輪に注連縄の様な縄を鋼綱で巻き獣皮で覆った帯野は非常に高価な物となる。これは護謨樹や合成護謨が出来るまで車の普及を阻む理由の一つとなり長忠を悔しがらせた。長忠は馬借に用いる事を想定していた様である。


『起動戦士巌打武』『鉄腕阿闘無』『ドラ衛門』など空想万象物や夢想未来物と呼ばれる物を書き始めた。


またタニセタムと呼ばれた花、徐虫菊を用いた蚊取線香。橅木を乾留させ抽出した油層を用いた胃腸薬などを作っている。珍しい事に長忠の意図とは違い蚊取線香は香、胃腸薬は防腐防虫に用いようとした物が偶々別の効果を発揮した物だった。特に胃腸薬は腹痛の状態の助手の一人であった佐久間信栄が摘み食いをした為に効果が発見されており日記で反応に困っている。


慶長五年(皇2260・西1600)リーフデ号事件が起きた。織田幕府はイングランドおよびオランダと関係を持ち蓬莱における相互の領地の確認と認証をする事になるが長忠はイングランドの強大化を予言している。長忠の提言と木綿の交易を狙って織田幕府は東インド会社への使者を派遣した。


この際に長忠は後漢末期の中華の様にエウロパと言う地に複数の国がありキリスト教も仏教と近しく複数の宗派に別れている為に、複数国と関係を持ち出来ればエウロパの情勢状況を見極めるべきであると上奏している。


科学研究の補助や資金提供、研究成果の保護保全を行う万象館を設立した。また蓬莱、赤嶺、北奥へ飛び回り製鉄所と物流の増強、動植物や鉱石の探索採取、各地の文化保護を後押ししている。


この年の宇喜多騒動において長忠は調停を行なった息子の補佐を務め迅速かつ穏当な解決に一役かっており岡山城への鉄道延伸と出奔した宇喜多家家臣の斡旋をした。


慶長十四年(皇2269・西1609)猪熊事件において猪熊教利の前歯をヘシ折る。娘に乱行へ加わる誘いをされたと聞いて怒り狂った事が発端であった。この時に書かれた長忠の日記には他では先ず見ない罵詈雑言が乱筆で羅列されその怒りを今に伝えている。また斬刑に処される際に執行人に名乗り出て止められており怒り様は参加した公家の心胆を寒からしめた。


尚、天下無双の美男子と呼ばれた猪熊教利は長忠に追い回された上に死なない程度に加減はされたが激しい制裁を受け首を斬られるまで鬼が来ると譫言を繰り返し見る影もなかったと言う。


またこの際に後陽成天皇から鷹の絵を贈られている。『蓬莱鷹攫猪熊図』




隠居

慶長十五年(皇2270・西1610)織田信長を看取っている。この年から数年間に渡り立て続けに妻や兄弟とも言える青山吉次などに先立たれ長忠は酷く消沈した。技術研究や文化活動に没頭する様を息子や孫達を始め多くの人々が心配している。以前から長忠は家族の絵や織田信長の絵を残しているがこの時期に書かれた物は非常に多い。『慶長十五年信長公鷹狩画』『三良妻茶会画』『兄弟鎧姿図』


永正十七年(皇2180・西1620)に重油式蒸気機関のみで動く船を作り上げた。加えて石油機関車や大型の重油式蒸気機関車なども作り上げている。また石油機関を用いた最初期の飛行機も完成させた。


慈振集を書き上げている。


カド川(蓬莱川)河口で小規模な交易ないし小競り合いを行なっていたブルボン朝フランスがエウロパにて勃発した三十年戦争を契機に接触を図り拗れた領地策定の為に訪れた後の枢機卿リシュリューとジョセフ神父を出迎えた。


長忠はリシュリュー(当時は日本特使)を非常に気に入り政治的には隠居の身である事を理由に協力を拒否したが私人として絵や甲冑に眼鏡など様々な物を送った。


その後には元より後進育成には積極的だったが精を出し始めている。各地に学校を建て孤児院の教育を流用し教育の普及に腐心した。


永正十七年(皇2180・西1630)に赤嶺へ向かう途上、嵐に会い船が一時航行不能となり海賊に襲われた。全員鯖折りにして船や積荷を鹵獲している。


「何処の者とも知れぬ賊供 乗り込んで火打銃を向ける 故に悉く鯖折りに致し候」


『長忠公航海日誌』


その後船団と合流して赤嶺に向かった。赤嶺の太宰で尚一層の生物保護を頼んでいる。鼠の駆除と猫の放し飼いに対する禁令は長忠の意見を聞いた結果だった。




晩年

寛永十七年(皇2300・西1640)百歳を越えた。日記に人間か疑われたと書かれており、加えて自分でも怪しく感じたのか否定が出来ないと書かれている。


この時期から非常に穏やかな生活をしており隠居所で客人を迎えるか蒸気機関車を走らせるか船に乗るか料理をするか執筆活動をしている内容が日記の大半を占めている。


ただ客人は非常に多かった様で何度か御忍びで将軍家や皇室を宿泊させたらしく菊庵と木瓜庵と言う館を隠居所に増築した。


慶安三年(皇2310・西1650)内藤家七代目来孫の定忠が生まれている。この辺りから軽い痴呆が始まった様で日記の内容が時折おかしくなるなど症状が出始めた。酷い時は孫と息子を間違える時があったが息子や一族は長忠が人間だった事に安堵している。また自身で作り上げた物語を朗々と語る事があったらしく、夢幻集として内藤家宗家に残っているが今まで一般公開された事がない。


ある時に長忠がボケて昔ながらの鍛錬をしてしまい街中を金砕棒を担いで走り回った時があったと言う。この時に傾奇者を称する乱暴狼藉者三名が轢き飛ばされている。後日に長忠自身が謝罪に行った。


またこの頃から歌を口ずさむ事が増えたという。これらは長忠翁歌と言われ特に三木間埋棲行進曲は有名。


明暦元年(皇2315・西1655)に将軍に昔話を請われた為に出向いた先の江戸で亡くなった。内藤屋敷に将軍織田信定がお忍びで泊まっており毎朝の鍛錬の最中に立ったまま死んでいたと言う。内藤敏忠と共に発見した織田信定が声を掛け漸く亡くなっている事に気付いた様である。『敏忠日記』『諸家系図伝』『四代様古文書集』


織田将軍家を始め多くの人が嘆きつつ感嘆し後西天皇より正二位を贈られた。


辞世の句とされる物は三つで。


すぎたる世 夢見夢追い 駆け行けば

良主良人 授かり良生


万象と 鉄船鉄車 唯前に

滾れ藤三つ 伸びよ木瓜


蓬莱石油 赤嶺鉄山 北奥富金

和戦極めて 地勢獲るべし


この三つの句が遺言状の上に置いてあった。

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― 新着の感想 ―
野望シリーズや無双シリーズでの能力値が見たい、あとBASARAシリーズとBASARA Xでの扱われ方や必殺技のコマンドと内容も ソシャゲや漫画でも面白いことになっていそう
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