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12月14日の雪空(3)

菜穂子のマンション前に着いたのは、午後八時を過ぎた辺りだった

既に夜は冷え込み、雪の形も大きさを増している。今夜は一段と寒くなりそうと思う


「へぇ…綺麗なマンションだな」


「これでも築十五年くらいなんですよ。最近業者がペンキを塗り直したから新しく見えるんだと思います」


一緒に電車に乗った後、少し寂れた住宅街を見渡しながら俺は言った

目の前にはそれほど大きくは無いが、八階建ての綺麗なマンションが目の前に聳え立っている

周囲には日よけのためか広葉樹が植えてあり、春の花粉シーズンのときは大変だろうなとどうでもいい事を考えている

途中で数人のカップルと擦れ違った。俺たちはそんな関係じゃないけど、周りから見れば同じようなものかもしれない


「さぁ、行きましょう!」


「あ…ああ、そうだな」


ウサギのように元気で迷わず進む菜穂子の後を気後れしながら着いていく。こんな自体は初めての出来事だった

何せ、異性の家に上がりこむ…それも一人暮らし!! なんて出来事はこれまでの人生の中でもついぞありえなかったからだ

俺は昔っから漫画好きだったが、昔は節操無く喧嘩に首を突っ込んでいたために女子達の間では嫌われていた

勉強やスポーツはからっきしだったために、周囲からは暴力好きな頭の悪い男…事実としてそうだが、と見られていた

そんな俺が高校三年生の冬にこんな事態に直面するものだから人生というものはわからない


猫背の俺はやや低頭ぎみの体勢をとりつつ、菜穂子の造った雪の足跡を踏みしめるようにして歩いていく






「へぇ…片付いてるんだな」


「…余り掃除してないほうなんですけど」


少し困ったような視線を菜穂子は俺に向けてきた。柔らかめな口調だったが遠まわしに詰られているような気がして、目を背けてしまう

先ほどの言葉は世辞ではなく嘘偽りの無い言葉だった。だが、ゲームソフトや菓子袋、コミックで散らばっている俺の部屋と比較してだ

しかし、さすがにそれと比べちゃいけなかったのかもしれない。引き篭もっている間にすっかり感性が世間のそれから離れていた


「そう…なのか?」


「樫富君が来るってわかってたら、片付けたのに…

ごめんなさい。ちょっとお茶持ってくるから玄関で待っていてくれませんか? 少し綺麗にしますから」


「別に、俺はかまわないけど?」


「もう! ちょっと見られたら困るのがあるんですからっ」


菜穂子は少しカリカリしているようだった。俺の発言が余りにも無用心かつデリカシーに欠けるものだったのかもしれない

迂闊と言えば、迂闊に過ぎた。異性の家に…しかも一人暮らしの同年代の部屋に入るという経験が、気持ちを変に浮つかせていたのだろう

あまり部屋を片付けない俺は判らないのだけれども、女の子っていうのは散らかった部屋を異性に見られるのが嫌なのだろうか?


「ゴメン、じゃあしばらく外に出とくから…」


俺はそう言い残し、ドアを開け、一旦退室したのだった

いつにも無く頬に熱が篭っていると判る故に、顔が紅くなっているのであろうことはわかる

原因は分からない。寒さ以上の原因があるとすれば菜穂子の事しか考えられなかった

それ以上そこにいるとそれが菜穂子にわかってしまうのもあってか、俺は外で体を冷ます事にしたのだ









(やっぱり寒いよなぁ…この前まで暑かったのに)


十月の中旬辺りまで続いた残暑の勢いを押し返そうと言わんばかりに、今年の冬は冷え込んでいる

夜空の闇に舞う雪粒は美しく幻想的だが、実際に目の当たりにしていると寒さもあってかこの世のものでないように見えなくも無い

雪女の話は大抵の人間が知っている。雪山で遭難していると世にも美しい美人がやってきて命を奪うのだと言う

暗く済んだ夜色の風景に散る雪を擬人化しろといわれたら、雪女を連想するのは仕方ないが最初に思いついた人間は凄いと感心する


(菜穂子は…雪女ってタイプじゃないよなぁ)


あいつはどちらかと言うと雪の中宿る可憐な妖精と言った感じだ。身長160センチちょっとでチビといわれる俺よりも

更に十センチくらい小さいのだから、同年代の女でも俺より大きい奴はごろごろいるが

菜穂子より小さい奴はあまり居ないほうだろう。もしかしたらこのまま一生伸びないままかもしれない

あいつの身長について考え始めた頃に俺はようやくあの人の事を思い出す

何故、今まで忘れていたのか? それとも思い出さないように勤めていたのかは判らない

だが、あの人の事を今は思い出したくない出来事なのもまた事実なのだ

その懸念が、まるでただ降ってくる粉雪のように罪悪感となり口から零れ落ちていく


「文也さん、大丈夫かな…」


あの人は一応今も生きている。だが俺が帰ったら良くない知らせが待っているかもしれない

お袋は今も叔父さんの無事を待っているのだ。ならば、俺もそばに居て支えてやるべきなのだろう

親父は出張からまだ帰ってきていないかもしれない。だが、知っていればすぐにでも駆けつけてくるはずだ

その中に俺は入っていく自信が無かった。俺なんかがいる資格が無いと思い込んでしまうのだ

それ以上に文也さんがあんな無茶な事をしてしまったのも本質的には俺のせいなのだ

だからこそ怖かったのだ。俺のせいで…俺が酷いことを言ってしまったからあの人があんな行動に出たことを――――


「樫富君。ある程度片付いたから部屋に入ってもいいですよ」


三十分近くそうしていただろうか? 菜穂子の声が耳に入ってくるまで、俺は呆然と降りしきる雪を眺めているだけだった






(なんだ? この臭いは…もしかして料理なのか?)


俺が部屋の中に再びお邪魔すると、何かの料理のにおいが鼻をくすぐった

料理の香りを脳が感知すると、空腹であることを訴えるために胃を収縮させ、音を出すのだと聞いた

つまり、格好悪い言い方になってしまうが…俺は今腹の虫が鳴っていたのだ


「あり合せのホワイトシチューです。お腹が減ってると思って…お肉は入ってませんけど」


「これ、お前が作ったのか?」


まさか三十分ちょっとで料理したのか…? 俺のお袋でもそんな超速調理の芸当は不可能だ

菜穂子…恐るべし。それにクリーム色のスープに人参やジャガイモ、ブロッコリーなどで彩られた野菜シチューは

俺が好きな肉が入っていない事を除いても、とても美味いしそうで食欲を十分にそそるモノだった事は否定しない


「もしかして。私がさっき作ったとか思ってませんか?」


「え…違うの?」


「まさか、昨日作っておいたのを温めただけですよ。あ…おかわりは二杯まで大丈夫ですから」


クスッと彼女が笑った。口元に軽く拳を当てるその仕草がひどく大人っぽく見えて

そして俺がものすごい勘違いをしていたことに気付き、俺は再び赤面する顔を見られないように俯いた

男として情けない醜態をさらす俺を促すように彼女が言った


「ほら、早く食べたほうがいいですよ。せっかく温めたのが冷めちゃいます」


「あ…あの、ありがとうな」


皿を受け取り、スプーンで一口シチューを啜るとなんともいえない味が口の中に広がった

それはお袋の味を連想させたのだ。正確に言えば味そのものは微妙に違うと言い切れる

シチューのレシピなんて同じルーを用意して、同じ食材を混ぜれば自然と似通ってくるのかもしれない

しかし、これを一口だけ口にした瞬間に湧き上がってくる情感は何なのだろう?


「どういたしまして。あれ、樫富君…どうかしたんですか?」


「お…俺は……大丈夫…だよ…」


頬を伝わる涙が俺の顔を濡らしているのがわかる。それが出てきた理由すらも理解できた

それが単なる涙でないことは俺が一番理解していた。川畑にいくら殴られても決してこぼさなかった涙

そう、これこそ俺の感情だったのかもしれない。汚泥と怠惰の日々で、中燻ってって底にたまっていた衝動的な何か

上手く口で説明することは出来ないのだけれども、菜穂子の優しさに触れたことで溢れたのだ

あいつは泣きながらシチューを食べる俺を見守っていた。菜穂子のそんなさりげない優しさが、今の俺にはありがたくて…救いに見えた


(お袋のハンバーグも美味しかったけど、このシチューも十分旨いよな)


俺は心の中で二人に感謝していた。涙の混じったシチューは少ししょっぱく感じた

心の中で用意してくれた菜穂子に礼を言いながら、俺はスプーンでシチューを口に運び続けたのである








「樫富君に、ちょっと見せたいものがあるんです」


食事の後、そういってあいつは自分の机を俺に見せた

俺はそれを見て驚いた。…というより、驚愕するしかなかったのだ

底には俺が菜穂子にくれた漫画雑誌や、沢山の単行本だけじゃなく十何冊のスケッチブック

そして、あいつが見せた机の引き出しの中にはいくつかのペンセットや色鉛筆が納まっている

それらは値段からしてそこまで高いものでもない。むしろ文也さんのほうが物持ちはかなりいい

だが、それ以上に菜穂子が漫画に欠ける情熱と言うものを俺は垣間見たような気がした


「これ…見てください」


「おい、これって…」


一年ほど前になる。俺は菜穂子と再会したときに見せてもらった漫画の事を思い出していた

菜穂子が差し出したスケッチブックの絵は前に見せてもらったときのものよりはるかに上達しているのだ

俺は何かの衝動に取り付かれたかのようにページを捲っていた


「すごい…ここまで上手くなれるものなんだろうか?」


「はい。樫富君に言われた所は頑張って直しましたから」


「俺の言われたとおり…?」


「影のつけ方やパースを工夫して立体感を出したり、線画が崩れないように練習をしたんです」


「………俺は」


なんとも言えない気分になる。俺はあの時絵も描いてなかったくせに偉そうに菜穂子に説教なんてしていたのだ

状況に甘えて努力を馬鹿にし、ゲームやお菓子にまみれた堕落の日々に逃げ込んだ俺

俺が怠けている間に彼女は格段に上達していた。自分のようなゴミの様な人間があろう事か

人を傷つけることだけに終始し、家族に迷惑をかけ…ついには文也さんまで危険に晒してしまった

俺は…俺は……ここにいても惨めになるばかりだ。なので、今すぐでて行こうと思った


「石田…俺、帰るわ」


「え…もう九時ですよ。それに外は寒いし」


「いや…」


「…何かあるんですか?」


「気にしないでくれ、俺の事なんだ。これ以上お前に迷惑をかけたくないだ」


「かけたくないって…」


俺は菜穂子の顔を直視することが出来なかった。惨めな自分は

心はすっかり後ろ向きの感情に支配されている。ここを出たら何処になりと行くつもりでいた

家には帰る気がない、そのまま歩きつかれて投資するのも悪くないと思う。俺には帰る場所なんて無いのだから

そんなことだからだったのか、彼女の声音が変化したように思えたのは


「そうなんだ。だから構わないでくれ、これは俺一人の問題なんだ」


「そうやって…新木君と同じように私ものけ者にするんですか?」


いつの間には菜穂子の声は固まっていた。感情の色をあいつの声は震えている

ジン、とまるで俺の冷め切った心に突き刺さる声音を帯びていた。しまったと後悔するが、もう遅い


「そういう訳じゃないんだ。ここにいると菜穂子やみんなに迷惑がかかる…俺みたいな人間が―――」


「私、わたしは…樫富君にそんな気持ちになってもらうためにあの絵を見せたんじゃない!!」


パシン、と頬に乾いた痛みが響いた。一番驚いたのは俺より彼女自身だった

俺の左頬に感じるのは、確かに暴力を伴った痛みと熱さだった。しかし俺や川畑が振るう相手を攻撃する類のものとは違う

それは温かみを伴った想いだった。菜穂子は直感的に思ったのかもしれない

そうでもしないと俺の冷え切った心の中に、自分の感情が伝えられないことに気付いたのかもしれない

菜穂子の震えた声が続いた、今まで抑圧してきた彼女の本音が爆発するようにまくし立ててくる


「どうして、樫富君はそうやって逃げようとするの…学校や、新木君や私のところから……」


「俺は…逃げてなんか」


「嘘! そうやって辛い現実からも世の中からもずっとずっと逃げて…ひとりだけ楽になろうと思ってるんでしょ?

外が怖いから? 自分を傷つける人間がいるから? 大切な人を木津つけてしまったことを後悔しているから?

全部、神様みたいに樫富君が背負い込んで、それで君の事を大事に思っている人達の心を切りつけてるって知らないくせに!!」


「菜穂子…」


今の彼女は怒り猛る太陽だった。普段の快活で明るい印象の菜穂子からは考えられないほどに

菜穂子は憤慨していた。俺に対しても、俺を傷つける原因に対しても、俺を追い込んだ環境に対しても――――

こいつは、その小さな体で自覚、無自覚を含め世の中全体の悪意に対して怒りを表していた

まるで、そうすることも出来ずに鬱屈としていた感情を歪んだ形で周りに押し付ける俺の代わりのように


「辛いことは誰にだってあるんだよ!……私だって逃げたかった! 死んで世界から居なくなってしまいたかった!

でも、そんな中で私を救ってくれたのは樫富君。君だったんだよ! あなたには人を救える力がある

それなのに勝手に背負い込んで―――」


「……ゴメン」


「辛いことがあるんなら…話してくれたっていいじゃないですかぁ………」


むせび泣く彼女の小さな肩を俺は壊れないように抱いた。そうすることで少しでもこいつを癒したかった

ようやくわかった。恐らく新木が画策し、菜穂子が俺をここに連れてきたであろう理由の事も

新木はこうなることを見越していたのだろうか? それとも、これは偶然に過ぎないのだろうか?


(やっぱりお前にはかなわねぇよ…新木)


俺は心の中で荒木に礼を言った。今度会った時には正式に告げようと思う







「ごめんなさい…私ってものすごくワガママな事を言ったのかもしれません」


「いや、べつにいいんだ。お前があそこでキレてなかったら、俺はもう潰れていたかもしれない」


俺は菜穂子に全てを話した。川畑の野郎や聖亞の事…そして、俺のせいで文也叔父さんが危険な状態にいることなどを

彼女は黙って聞いてくれた。余計な相槌も殆ど打たず、俺の感情に任せるまま

数回、言葉が止まった事がある。そんなときでも菜穂子は黙って聞いてくれた

彼女の気遣いが有り難かった。本当に話していいのかどうかは直前まで迷ったが、今は楽になりたかった

常に後ろ向きばかり考えていても、何も始まらないことは確かだ。例え最悪な事態が起きたとしても前に進む

それが人間であるのだと、菜穂子が教えてくれた。こいつの感情と涙が俺の心に溜まっていた汚泥を取り除いてくれたが

素直に喜ぶわけにはいかない。今の俺達は複雑な気持ちを共有していたからだ


「そうですか…私テレビあまり見ないから、聖亞君が亡くなってただなんて」


「正直に言うとあいつは元気なだけで、ムカつくクソガキだったよ

でもな…生きていい理由はいくらでもあったんだ。俺なんかみたいなやつとは違って未来があった」


「そんな事…言わないで下さい」


「ごめん…でもさ、考えちまうんだよ。『もしも』『あの時こうなっていれば』って奴があったらさ

神様がもっと捻くれてなければみんな幸せになれるんじゃないかって……」


「………」


菜穂子は答えなかった。それはそうなのだろう、俺だって分からなかったんだ

万能の神様じゃない俺達には、人の生き死にをどうこうする事なんて出来っこない

技術が進んで仮に人を生き返らせてしまっても、相対的に命の価値が無くなってしまうんじゃないかと思ってしまう

そうなったらもっと悲惨な事になるかもしれない。この世の中には他人の命どころか自分や家族の命ですら軽視する人間が多すぎる


「でもっ…私は変われたんです。樫富君が私を虐めから守ってくれた、勇気をくれたから……」


「別に、俺はそんな大したことはしてな…」


その時だった。菜穂子がいきなり俺の唇に自分のそれを押し当てたのは

体温が口を解して交わるような触れるだけの口付けに、菜穂子の大胆さを感じて思わず赤面し戸惑ってしまう

あいつが顔を話した後、俺は自分の唇を指でなぞる。菜穂子の暖かさが指先で感じられた


「自分の事、もっと大切に考えて下さい。樫富君の叔父さんやお母さん…新木君や私だって、大切に思っている人もいるんですから」


「本当に…ゴメン」


謝ってばかりだな、俺は内心呆れた。でも、そんな自分でいいと始めて思えてしまった

着飾った言葉や大仰な感情表現で大切な人を誤魔化すよりも、少し不器用なほうが気持ちが伝わる

それでいいんだと思う。お袋や文也叔父さん、そして目の前にいる俺の大切な人もそうなのだから―――――

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