12月14日の雪空(1)
俺は何をしていいのかわからなくなってしまった
叔父さんに謝りに行こうとしたらあの人が部屋で倒れていて、そこには得体の知れない小瓶が転がっていて
下の階にいるお袋を呼んで連れてきて、面倒くさそうだった母の顔が変わり果てた弟の姿を見るに青ざめている間に
震える手で救急車に連絡していた。サイレンを伴った車のエンジン音が家に来るまでの間が、永遠に近い時間に感じてしまう
冬の夜の冷たさは体だけではなく、心までも凍らせてしまう絶対零度の冷気
「俺は…」
ぐったりした文也叔父さんの体が救急隊員に運ばれ、赤いサイレンが闇の向こうに消えていくのを
お袋と見守るしかなかった。俺は全身が震えているのが押さえるのがやっとだった
その理由は寒さだけではなく俺自身が一番よく知っている
そうだ、文也叔父さんに言い放った言葉が彼を追い詰めてしまったのだろう
隣のお袋は血の気の無い顔で心配そうに、救急車が消え去った方角に目を向けている
俺はそんなお袋の姿を見るに耐えなかった。罪悪感が胸を押し潰してしまうそうなほどに
「母さん、叔父さんは…」
「大丈夫…文也はきっと無事だから…」
ぎこちなく強張りながらも、俺を安心させようと必死に微笑むお袋の姿を見て強いと思う
この人は一見疎ましそうに扱っていた弟の身を本気で案じているのだ。疎遠のように見えて姉弟の絆は繋がれていた
俺は全くお袋に顔向けできないままでいた。叔父さんがあのような行動に出た責任は少なくとも俺に有る
少し前に死んだ聖亞の生意気な顔が脳裏を過ぎる。祖母に文也さん…自分と関わった人間が死ぬのはもう御免だった
後で聞いた情報だが、叔父さんはどこから手に入れたのか睡眠薬を飲んで中毒にかかったらしいのだ
あの人が眠れなかったのか、それともいざという時に俺達に迷惑をかけないよう覚悟を持って忍ばせていたのかはわからない
ただ、依存症に近い中毒症状があったのは確かだという。少なくともあの人は祖母の死因が自分にあると考えていたみたとの事
そして、文也さんはそれについて愚痴ることは殆ど無かった。全て己の胸の内に仕舞い込んでいたのだ
俺はあの人が悩みを自分に打ち明けてくれたら…と望んでいた。少しでも話し相手くらいになっていればこの悲劇を防止出来たかもしれないと
今更ながらに考えてしまう。自分のことばかり考えていた俺に何が出来たかはわからない
幸いだが…一命は取り留めたらしい。発見が早かったのと病院にたまたま応急処置できる人が残っていたのが幸いした偶然の一致
だが、それだけだ。一晩経った今でもあの人は生死の境を彷徨い続けている
もしかしたら状況が一気に悪化する可能性も否めないのだ。そしてもし…最悪の事態になってしまった時は
叔父さんの姉であるお袋にどういった顔をすればいいのだろう? 恨まれるのは当然だし、親子の縁を切られるかもしれない
そして俺は自分のたった一つの居場所であった家にも居られなくなった
お袋が自分に向ける優しげな視線に耐えられなかったのだ。だから、手持ちの金を持って家を出た
俗に言う家出である。そしてしばらく帰る気も起きない、もし最悪な事態になればそれこそ俺は立ち上がれなくなる
辛い現実に向きなうのが…間接的に俺が文也さんを殺したという事実に耐えられそうに無かったからだ
(……終わったか)
人工的に作り出された暗闇の中、俺はスタッフロールの字幕が流れる大画面の前で目を覚ましていた
ここは映画館だった。カードを持って来た為、学生割引と併用して一つ五百円で見ることが出来る
内容は実にありきたりな、命の大切さを訴えるものだった。今の俺にとって空しく響くものでしかない
テーマがあまりにも偽善に溢れている為か、平日とはいえ俺を除いた客は少なかった
映画の内容を評価すると、最近のアイドルやジャニーズのプロモーションにしては俳優の努力が光って演技はなかなかだったが
それでもあからさまな低予算臭とありきたりなストーリーが浮き彫りになっていて、つまらない事に変わりなかった
エンドロールが終わり、館内に明かりが照らされてから俺はようやく立ち上がる
暇潰しにしてはまぁまぁだった。何度か眠くなりそうだったが致命的につまらない訳ではない
新しい暇潰しを探すために、俺は元々人が少なかった映画館内から出て行った
「あと、二千円しかないのか…」
財布の残高を見てため息を漏らしてしまう。学生は暇だが金は無い
そう思うとさっき映画を見に行ったのは軽率なのかもしれない。五百円を甘く見すぎていた
マックでさえも割りとたらふく食えるて釣りがくる金額だ。無論安くても早死にはしたくないので行く気は無いのだが
そしてここは夏ごろに菜穂子と来た駅から少し離れた場所にある街なのだ
今日は休日で、もしあいつに鉢合わせしてしまったらどうしようか? もっと離れた場所に来るんだったと今更ながらに後悔する
(俺なんかが長く生きていてどうするんだ?)
胸の中に疑問が生まれる。自分が生き続ける、存在することに何の意義があるのだろう?
少し考えているが頭の中は曇天の下、微かに降り始めた雪のように真っ白で思考が走る余地も無い
今は家に帰りたくは無かった。帰るのは怖い、叔父さんの最悪の事態を耳にする可能性があるからだ
俺は逃げるために家を出た。しばらく帰るつもりは無い…どのくらいこうしているのかも分からない
「…寒いな」
街を歩く連中と比べてみると、やや薄着で家を出たことを思い出す。もう少し厚着しておけばよかっただろうか
しかし、俺にそんな余裕が無かったのもまた事実だった。何しろ衝動のままに飛び出してきたのだから
それに碌に服を物色する暇も無かった。自分の短慮すぎる行動に反省するしかない
だが、今更実家に戻るわけには行かなかった。帰るわけには行かないからだ…少なくとも今は
俺は駐輪場に止めてあった自転車を駆り、冬の街の人ごみを縫うように進んでいく
最終的な到着点なんて決めて無かったが、次の行き先の目星は着いていた。街のゲームセンターである
前に叔父さんと行こうかと思っていた大き目のゲームセンターである
休日ゆえに込むだろうがそこには最新型の筐体ゲームどころか、僅かだが十年以上前の機種も置いてある穴場なのだ
他にはビリヤードや簡単な卓球場まで備えており、遊技場としては申し分の無い場所である
暫くは暇をつぶせるだろう。いつまで財布の金が持つか分からないが、集中できるものが有ればよかったのだ
俺は逃避したかったのだ。重たく辛いだけの現実という雨から遠ざかりたかったのだから
それが弱いというのなら、仕方の無いことかもしれない。誰にだって自分のせいで人が死ぬなんてことは受け入れたくないに決まってる
だから、携帯は持って来なかった。今にしてみればあんなものは必要無かった
他者との繋がりなんて苦痛しか生み出さない。誰だってそうなのだろうと思う、この世界に人間は多すぎる
生きることに問題が無いくらい多すぎるから、自分以外の誰かを傷つけてまで己の自尊心を守ろうとする
そうやって世界の現実に目を向けずに幸せになろうとする奴は俺を含めてもなお多い
(もう、着いたか)
気が付くと、ゲームセンターのフロアがあるビルは目の前に見えていた
最近は無駄に増えているパチンコ屋の駐輪場にチャリを止め、鍵をかけると目的地に向かって歩き出す
ふと、空を見上げるといつの間にか雪は大粒のものに入れ替わっていた。空は銀世界そのものとなり綺麗だった
世界は白に覆われていた。人間が持つどす黒い邪悪さと反した純白の穢れ無き一面
文也叔父さんはあそこのように綺麗な世界に旅立つのだろうか? 果たして、そこは天国に一番近い場所なのだろうか?
禄でもない事を俺は考えていた。しかし、そう連想させるほどにこの世界は美しかった
「くく…お前、樫富じゃあねぇか?」
聞き覚えのある声が背後で聞こえた。胸に悪寒を覚えながらも背後を振り向くと
俺の退路を塞ぐ様に制服姿の河畑とその取り巻き二人が立っていた。もしかするとこいつらの遊び場だったのかもしれない
三人が三人とも嗜虐心に満ちた表情をしており、それがとても醜く歪んで見える
もしかしたら俺自身も河畑の野郎を馬乗りになって殴りつけていた時にそんな顔をしていたのかもしれない
「よう、社会のゴミ。引き篭もりニート君には、この前の借りを返させてもらうぜ?」
「…勝手にしろ」
俺は吐き捨てるように言った。暴力で相手を屈服させるのもさせられるのもうんざりだったが
このまま河畑の奴に殴られるのも因果だと感じたのだ。それにもう、どうでもよかったのだから
パチンコ屋の裏通りにある人が通らない通路で俺は三人から暴行を受けていた
殴る蹴るの下らない暴力の応酬。こいつらのやっている事は下らないただのストレス発散だ
しかし俺もそれに足る事をやってきた。だからこいつは因果応報という奴なのかもしれない
「おい、何故やり返さねぇんだ?」
「お前…楽しいか? こんなことばかり続けていて…」
俺は一言だけ返した。だが、三人が三人とも訳が分からないという風に互いの顔を見合わせた
ある意味では予想通りだった。だが、俺は無性に言いようの無い空しさを覚えると共に
人類そのものに対する深い悲しみの救いようの無さを感じていた。俺を含め、あまりにも心が弱い人間が多すぎた
「コイツ…何言っているんだ?」
「まぁいい、この前の借りは思う存分に返してやるぜぇ!」
復讐に燃え、容赦ない河畑の拳が俺の左頬を再度抉り込む様にねじ込まれる
それで俺の唇が切れ、路上に微かに積もった雪に血の混じった唾が飛び散る
純白の雪の上に転々と落とされた血だまりは、紅白の紋様を残し印象的に映った
痛いということ、血が流れるということはそれ自身が生きている証なのだ。死者には出来ない生者の特権
今の俺は死に憧れていた。死ぬことであらゆる苦痛から逃れられるのなら
「オラッ、まだ借りは返せてねぇぜ! くく…」
倒れた腹を蹴り上げるように、河畑と奴の取り巻きが俺の体を踏みつけてくる
連中の行為に容赦という文字は無かった。他人の命の価値を見つめようともせず
感情のままに、そして無邪気に暴力を振るい鬱憤を晴らすのだろう
いや、ある意味では俺もこいつらと同じだった。河畑を痛めつけ、文也叔父さんを追い詰めた報いなのだろうか?
「おい河畑、これ以上は流石にやばいんじゃねぇのか?」
「くく、俺がこいつにマウントされてボコられた痛みはこんなもんじゃねぇんだよ
それに、どうせ死んだって誰も気にしねぇよなぁ。社会のゴミ…ニートの害虫駆除って奴だ!」
取り巻きの一人が少し不安そうに言うが、それだけで奴の暴力が止まるはずがない
(俺は…死ぬのか?)
胸の中で問いかける疑問。今の俺には生きようとする意志が見当たらなかった
そうだ、こんなにも救われない悪意あふれる世界で苦しみ続けるのならばいっその事――――
だが、頭を蹴られ、痛みと冷たさで朦朧とした俺の耳に微かに聞こえた声が意識を呼び起こす
「樫富君!」
俺は一瞬安堵感を覚えた。何故ならばそれは俺が好意を抱いていたあの―――――石田菜穂子の声だったのだ
(馬鹿…来るな!)
「んだよ…テメェはよ!」
「オレらになんか用があるの? ん、もしかして逆ナンって奴?」
「おい、もしかしてお前…?」
河畑達は俺への暴力をいったん止め、マフラーと一緒に冬服を着た菜穂子の前にゆっくりと歩み寄る
野獣のようにぎらついた三人の視線にあいつは微かに怯んだが、眼光は毅然としたまま連中を見据えている
俺は逃げろと菜穂子に言いたかった。自分のせいであいつらが河畑達から危害を受けるのが怖かったのだ
しかし、暴力を受けた疲労と凍えてしまった唇は小さいうめき声のような声しか出せなかった
「その人から離れてください!」
「ン、あ…こいつか」
河畑が倒れた俺の即頭部を軽く蹴った。しかし、痛みは殆ど感じない
空気の寒さと積もってゆく雪によって体温を奪われたことが俺から痛覚を奪っていたのだ
「へぇ…キミ結構かわいいジャン。これから俺達とカラオケ行かない?」
「私はあなた達みたいな人間と遊びに行く気はありません!」
菜穂子は一歩も引くことなく毅然と河畑達に物申していた
俺はあいつがとても大きく強く見えた。昔の菜穂子から想像出来ないくらいに覇気に満ちていた
「おい、おめぇら知ってるか? くく、この女は樫富のガールフレンドなんだぜ」
「え…こんな可愛い子が、コイツなんかに?」
「マジかよ…この前買い物に付き合ってやったクラスメイトのブスなんかよりよっぽど可愛いジャン!」
河畑以外の取り巻き二人が不満と嫉妬のこもった視線で俺の方に視線を向ける
だが、それ以上に気になったのは薄笑いを浮かべている河畑の事だった
悪い予感がした。あいつのその笑みを俺は昔見たことがあるからだ
「キミさ、樫富の奴を助けたいんだろ?」
「当たり前です!」
「ならさ、脱げよ」
「……え?」
「樫富はオレに屈辱を味わせたことは君も見たことがあるだろう?
その埋め合わせとして、キミがこいつの代わりに罰を受けるんなら考えてやってもいいんだぜ…くく」
「私は………」
「な、成程。それは…いいアイディアだ」
「おい、早くしろよ!」
欲望にまみれた瞳で菜穂子の体を舐め回すように見る河畑の取り巻き
あいつはたぶん逃げないだろう、と俺は予測していた。いや、この場合どんな選択を選ぼうが同じだ
菜穂子は逃げられないだろう。そして河畑は約束を守るような人間じゃないことは身をもって覚えている
あいつは人の嫌がることを進んで実行するタイプなのだ。どういう家庭環境で育ったのか不明だが奴はそういう人間だ
俺は最悪の事態を想定した。菜穂子が河畑の要求を仮に飲んだとしても、あいつは…
(逃げろ! 頼む、逃げるんだ菜穂子!)
俺は心の中であいつに呼びかけた。声を出すことが出来ない精一杯の抵抗
そして、なぜか菜穂子は俺のほうを見て覚悟を決めたような表情で微笑んだ
その瞬間に俺は悟ってしまった。あいつは俺を見捨てずに逃げないと確信してしまったから
体が熱くなった、あいつは俺の為に屈辱を受けるつもりなのだ。この俺の為に…
俺は立ち上がった、自然と体の痺れは消えている。体中に力が漲ってくる様だった
あいつらは俺に背を向け、菜穂子に欲望にまみれた視線を送ったまま気づく様子は無かった
指先の感覚が無いために両手を組み、振りかぶってから俺は河畑に突進する。あいつはすんでの所で気付いたようだがもう遅い
「うおおおおおおおおおおっ!」
固めた両の拳を振り回しがら空きになった河畑のわき腹に叩き込む。あいつは受身も取れずに盛大に吹っ飛んで仰向けに倒れた
改心の一撃。守る物を得た俺の拳はようやく大儀を得て、正しい形であいつを救う事が出来る
「テメェ…樫富ッ!」
怒りで真っ赤に染まった顔で河畑が立ち上がる。思ったより早く起き上がったのは寒さと痛みのせいだろう
俺は菜穂子を背に庇いつつもじりじりと後退した。何とか退路は確保できた、俺が囮になれば菜穂子一人くらいなら逃がせるだろう
形勢は一時的に逆転したが、河畑はダメージが残っているもののまだ健在。取り巻きたちにいたっては無傷だ
「逃げろ…菜穂子」
「…嫌です!」
あいつは即答した。そのことが嬉しく感じ、そして俺も覚悟を決めた
じりじりと河畑達三人が俺達に詰め寄ってくる。俺は感覚がまだ戻っていない拳を握り締めた後に
突進しようとしたその時だった。野太い怒鳴り声がいきなり聞こえてきたのは
「ゴラアアアアアアアアアアッ!! お前達は何をやっているんだ!!!」
まるでヤクザのようにドスの利いた怒声に河畑達は動揺する
こいつらは少し力が強くて群れて粋がっているだけのチンピラ。「本物」を相手にする度胸は無い
「くっ、誰か来やがった。ヤバイ…おい、ズラかるぞ!」
(これは…まさか?)
背を見せて一目散に退散していく河畑達。その逃げっぷりは感嘆したくなるほど鮮やかで、連中の姿はすぐに見えなくなった
そして裏路地に飛んだ大声の持ち主の事だが、俺はその声に聞き覚えがあった。その声の持ち主は少なくとも俺の敵ではない
そしてその野太い叫びは『あいつ』が本当にぶち切れた時、一回聞いたことのあるものであって――――
「お! 久しぶりだな樫富。大丈夫か…それに石田さんまでどうしたんだ?」
背後を振り向くと、先ほど大声を張り上げたであろう新木の野郎が心配そうな表情のまま駆け寄ってきた




