10月3日の慟哭
「悪い樫富、お前から借りたノート返せなくなっちまった」
河畑はニヤニヤ笑いながら俺に謝罪を告げた…いや、誠意が全く感じられないそれは『謝っている』と
奴のそれはどう好意的に解釈しても出来ないだろう。ましてや俺は自他共に認めているほどに短気なのだ
そして俺を見下ろす河畑の長身にもめげず、すぐに突っかかってしまった
「何言ってやがる…お前が今もっているだろう? 馬鹿な事言わねぇでさっさと寄越せよ!」
「おい、このチビを押さえつけろ! そして、今から面白いものをお前に見せてやる」
そう言ってあいつはニヤリと意地の悪い笑みを深めた。他人を貶めるのに罪悪感すら抱かない真のクズの顔
俺は寒気を覚え、ほくそ笑む奴からノートをもぎ取ろうとしたが一足遅かった
「クソッ! 何をするつもりだ河畑…離せッ!」
制服を着た奴の取り巻きが両脇から俺を押さえつけ、身動きが取れないようにした
窓側に立ち、意地の悪い笑みを浮かべている河畑。逆光で奴の姿が殆ど影になり、目だけがぎらぎらと嗜虐の光を放っているようだ
俺は懇願した、あいつが何をするか瞬間的に悟ったからだ、それが無駄であると知っていたが
「ちょいと派手に行くぜぇ、こいつは俺の高校デビューってやつだ!」
「や、止めろッ! う…うあああああああああッ!!」
そして、あいつは俺の夢が書かれたノートを目の前でバラバラに引き裂いたのだ
クラスメイト達は誰も助けようとはしなかった。巻き込まれたくないが為に遠巻きにそれを眺めているだけだ
中にはこの公開処刑の様子を楽しんでいる輩も少なからず存在するほどだ
それからだろうか、俺が人間不信に陥りあまり大きなグループに入らなくなり
一部の人間を除いて人間関係を断ち切って、ゲームに傾倒するようになったのは…
大人になる。そう口で言うのは苦労なんて必要なくめちゃめちゃ簡単だ
かといってゲームも知らず律儀に勉強し成績表と毎日睨めっこした挙句の果てに、社会の奴隷になるエリート様になるなんてゴメンだし
金髪やアクセサリーで表面だけちゃらちゃら着飾って他人に暴力や悪口で他人の心を傷つけて、糞をする生きた産業廃棄物にも憧れたものじゃない
化粧臭いばかりで教養も自尊心もなく、マスコミに甘やかされた挙句の果てに腹黒ババアに成り下がっている女連中も俺は嫌いだ
そして親に迷惑をかけて炊事も洗濯もやらず、一日中ゲームや携帯ばかり弄り回しているような俺みたいなのも嫌いだった
最近は生きているのが辛い。こうして大人になって腐っていく運命なのだろうか? 中身は子供のままの癖に…
「ん…」
俺は目を覚ました。テレビとゲーム機以外の電源は全て消えている暗い部屋の中
携帯を開けると時間は午前一時だった。おじさんが帰ったのが十時くらいだったのだから、三時間近く眠っていた事になる
「また…あの夢か…?」
夢の中でまたあの野郎が出てきやがった。俺はあいつの顔なんて見たくもないって言うのに
奴は俺の日常やささやかな幸せも何もかもぶち壊して行ってしまった。だから俺はやつが許せなかったのだ
それこそ殺してしまいたいと願うほどに…そしてこの前俺はやつをぶちのめしてやった。それで全て終わりかと考えていた
しかし、現実はそう甘くなかった。石田菜穂子に現場を見られたのだ、あいつは図書館で会ったは俺の為に気にしてない振りをして
それでいて怯えていたようだった。俺は結局のところ河畑と同じように直接でないにしろ、暴力という形で菜穂子を傷つけていた
「もう一度寝るか…」
もう、考えるのも嫌だった。遊園地で見せたあいつの笑顔と、微かに怯えた顔がだぶついてしまう
自分みたいな奴は彼女みたいな真っ直ぐで純粋な人間に関わっちゃいけないのだ
俺はどうしようもないガキだ。精神的に大人になれないただの引き篭もり、こうして朽ち果てていくのがいいかもしれない
暗い気持ちになりながら俺はテレビもゲームの電源も消し目を閉じた。このまま永久の眠りに付けば奴以外の誰にも迷惑がかからないのに…
だが、そうしていても中々寝付くことが出来ない。目が覚めてしまっている
仕方なく羊を数え始める…が、百十一匹を過ぎた所で飽きた。今度は蛙の数を数えることにする…
そんなこんなで結局布団の中で意識が薄らいで寝息を立て始めるようになったのは、午前三時を過ぎたあたりだった
「ふあぁぁぁ……おはよう、叔父さん」
起きたのは十三時半。つまり、午後一時であり母はパートに出ている時間だった
下の会に降りると、文也叔父さんがテレビを点けながら部屋の掃除をしている
テレビではたった今終わったのか、昼のメロドラマのスポンサーのテロップが表示され読み上げられていた
それはまもなく昼のニュースの時間である事を告げる、時報の役割も兼ねているといってもいい
ぶっちゃけるとこの時間帯に俺が下の階に降りたのは、お袋と顔を合わせずに済むという小賢しい計算からである
「やぁ、ずいぶん遅かったね早岳君。僕も母さんの所にいた頃はそんな感じだったから人の事言えないけど
お昼ご飯は僕が作ったんだ。ラップをかけてあるから暖めて食べなよ、特性エビチャーハンだ」
下の階に降りると、エプロンをつけた文也叔父さんが忙しそうにしながらはたきを振っていた
今やこの人はお袋のいない間の家事を半分ほどこなしている我が家に欠かせない存在である
俺もたまに手伝ったりするのだが、大変そうだとは思う。さしずめ主夫といった所か?
「へぇ…俺の大好物だ。ありがとう叔父さん」
「どういたしまして、頑張るんだぞ」
文也さんはふくよかな顔に人当たりの良い笑みを浮かべたが、俺は叔父さんの顔を見て違和感を覚えた
部屋にいるときは気付かなかったが、あの人が少し痩せている様な気がしたのだ。それに顔色も少し悪い
俺は気になって聞いてみる。文也叔父さんは気兼ね無く話せる大人しい兄貴のような存在だったからだ
「最近大丈夫? 疲れてるんじゃない」
「心配しなくていいよ。まぁ…これが今の僕の仕事のようなものだからね。さぁさ、早く召し上がれ」
好意に甘えて俺はエビチャーハンをレンジで温めると、スプーンを奥の食器棚から持ってきて食べ始めた
少し温くて一旦暖めなおすと、今度は熱くなり過ぎたのでフーフーしながら口に運ぶ
味は…お袋の作っていたものと違って少し濃いが、充分なくらい美味しかった
作りたてのものならば尚更美味だっただろう。もう少し早く起きていればと俺は密かに後悔した
「叔父さんのチャーハン、うまいね」
「ああ、褒めてくれてありがとう」
俺の賞賛に文也さんは微かに笑った。何故かその顔にはいつものような明朗さが見えない
それでも気のせいだと思うようにした。別に俺の気にする事ではない、多分ダイエットしているだけだろうと
そして俺は自分の事で精一杯だった。起きる度に繰り返される自己嫌悪と悪夢の予兆が自我を苛んでいたのだ
『次は河で溺れた遭難事故の様子をお伝えします』
何故か俺は嫌な感じがして、テレビに目を向けた。何故か予感がしたのだ
五感を超えた第六感―――後で考えると、それは虫の声というものに近かったのかもしれない
人間は予定しないときに唐突な自体がやってくる。それはお婆ちゃんのときも同じだった
『今朝、○×側で市内の小学校三年生の金山聖亞君が溺死体で発見されました
両親は付近のパチンコ店に居た模様で、聖亞君を付近の川にて保護者も同行させずに一人で遊ばせていた模様であり――――』
金山聖亞。俺はその名前を覚えている、そして会った事もある
アナウンサーが淡々と告げる言葉の後半は殆ど耳に入ることは無かった
俺は画面を凝視して目が離せなかった。テレビの画面が刑事ドラマなんかで見る黄色いテープで封鎖された河川を映し出し
あいつの小生意気そうな顔写真を映しやがった。間違いない、あれはどう見てもクソ生意気で可愛げの無い聖亞の野郎だった
簡単な操作の状況と、あいつの親の証言を手短に説明するとスポーツの話題に切り替わっていく
世界から音が消失し、色彩が消え白黒のモノトーンになったかのようだった。実感が湧いて来ない、スプーンを持つ手が止まる
俺だって信じられなかった。つい二ヶ月前にあった奴が死んだなんてニュースで告げられても現実味が沸かないのだから
「おい…なんだよこれ……?」
アナウンサーが無感情に告げる突然の死。無論あいつと俺は仲が良かった訳ではない
あの時、菜穂子の仲介によって俺達は最後に和解したものの互いに他敵同士だったはずなのだ
むしろ、互いが互いを疎んじていた状況に近い。あいつはどういうわけか生意気で、逆の意味で将来有望で、悪戯好きで…
それでいて本当に大人ぶっているガキっぽくて、意外と純情で、ガムやカードゲームが大好きな普通の子供であり…
そんな普通の子供が何で死ななきゃいけないのか、過保護気味に見えたあいつの親はなんだったのか?
常識的に考えれば、そもそも図書館に一人子供を放置して遊びにいくような金髪染めのヤンママが
子供にまともな教育や、保護者としての義務を負っているはずも無く――――
「…畜生ッ!」
「一体どうしたんだ? 早岳くん!」
ドン! と大きく音が鳴るほどに俺はテーブルを叩いていた。直ちに感情を発散させる行為が必要だった
そうしなければおかしくなってしまう気がした。狂った現実を受け入れてしまうとあいつが本当に死んでしまうように思えた
しかし、死人は決して蘇らない事を俺は知っているのだ。祖母が死んでいたときもそれを思い知らされているのだ
死は準備も、覚悟も無く突然やってくるのはわかっている。しかし…それにしても早すぎる
あいつにも未来があったはずなのだ。普通に一人の人間として生きていく権利すらも
真人間として育たなかったとしても、成長して人並みに誰かと付き合って、家庭を築いたかもしれない
「くそッ!……くそおおおぉぉッ!!」
俺は半分以上残ったえびチャーハンの皿も放置し、叔父さんの声にも耳を貸さないまま
ただ両腕を白くなるほどに握り締めて、ひたすら震えているしかない
こうした時は感情のままに泣けば良かったのかもしれない
しかし、俺はそれが惨めにも思えてしまいそうすることが出来なかった




