9月5日の残照
「お前、漫画が好きなのか?」
ぼんやりとした光が教室のを照らす中、あいつが俺に声をかける
長身なそいつは見下ろすように机に座っていた俺を…そして俺のノートを見ていた
口元に笑みを浮かべたそのクラスメイトに対する第一印象は、正直に言うと決して良い印象を与えないモノだ
それに不自然だった、大体こいつみたいな人間が仲間とつるまずに俺に声をかけるのだということ自体が
「ちょっと見せてくれよ」
いきなり言うなり、断りもせず強引にそいつは俺が絵を描いているノートを取り上げていた
弾みでシャープペンシルの線が不自然に余白のページを横切ってしまい、いびつな一本線を描く
たったそれだけで俺の頭は一気に沸騰するが。即座に手を出さなかったのはそいつがそれなりの空気を纏っていたからだ
こいつは暴力を好んで奮い、他人を貶める事に特に罪悪感を持たない連中の一人であると解った
「へぇ…なかなかだな、こいつはよ」
「おい、返せよ」
そいつが人様の許可無く勝手にノートを捲り始めるのを見て、俺は抗議の声を上げるが奴は意に返そうとしない
取り返そうとしても、俺の手を軽々と交わし軽くいなしてしまう。身長差は絶対である
ここまでされてしまっては流石にイライラが募ってくる。武力行使を脳内で検討した時だった
「俺のダチがさ、漫画描きたいちゅうんだよ。だから貸してくれよ、参考にするからな」
奴はあたかも今考えたかのように言い訳を口にした。それが殆ど嘘であると俺は知っている
しかし、本当だとしたらどうするのか? もしこいつが性格悪くても友人とやらが本当に夢を目指していたとしたら…?
塾で一緒だった少女の笑顔が蘇る。あいつはわざわざ捨てる予定だった週間漫画雑誌を届けてきてくれた上に
俺に謝ってきたのだった。そして俺は従兄弟のお兄さんに教わった絵の描き方を教えたのだ
「…まぁ、一日くらいなら」
「あっ、そう。じゃあ借りとくぜ」
渋々と許可は出したが、俺はそいつの言う友達とやらが本気でその道を目指しているのなら協力しても良かった
だから嫌だった気持ちを押し殺してあいつにノートを貸したのだ。そしてあいつは春休みから書き貯めていた俺の努力の結晶を
礼すら言わずに持ち去っていった。それでも俺は良かった、ダチとやらの為になるのなら応援したかった
かつて、石田菜穂子とか言う変わってはいるが優しい女の子に夢を与える事が出来たように
奴の友人とやらの手助けをしたかった。しかし…それはとても甘かったのだ
翌日、あいつ――――河畑は自分の仲間の内で俺のノートを回し読みして散々皆の目の前でコケにした後
取り巻きに命じて暴れる俺を押さえつけて、目の前でノートを破り紙くずとなったページを窓からばら撒いたのだ
俺を助けるクラスメイトは誰もいなかった。居たとしても己が巻き添えを食らうのは誰だって御免だし
それに退屈な学校生活の鬱憤を晴らすには、この忌まわしき「虐め」は体育祭や文化祭と同じく単なるイベントの一つに過ぎないのだから
そして、それが一度目に登校拒否になる高校一年生の出来事だったのだ―――――
「―――――ッ!!」
俺は跳ね起きた。暫くは縁がなかったあの夢を見てしまったから
あの忌まわしい出来事を俺は夢の中で再び、疑似体験してしまったのだ
二度と見たくない、忌まわしき高校生活の一歩となったそのときの悪夢を…
「今日は…9月5日。時間は午前八時半か」
跳ね起きて時計を確認すると、始業時間は既に始まっていた。俺は一息つくとタオルケットを被りなおして再び横になる
既に二学期は始まっている。それでも今こうして俺が寝ていたのは、未だに不登校児であるからだ
学校に行こうとは何回も思う。色々な人間に迷惑をかけているのは解っている
一歩踏み出す気が起きないのだ。俺が弱虫である事はわかっていた…それ以上にこのままではいけないことも
しかし、怖いのだ。何が怖いかというとまた人を信じてから、俺が裏切られてしまうのが
「今日も…遅いよな」
いつもながらの言い訳。それが最早日常茶飯事と化している事は明白だった
本当に学校に行きたいのならば、徹夜でゲームなんかしなければいいだけの話なのである
だが、俺はその選択をしなかった。ゲームや漫画を読んでいる間は思う存分現実逃避できるから
そんな弱い自分が嫌いだった。そして自分の都合が悪くなればすぐに暴力を振るう最低の男こそが俺なのだ
だからこそ、あいつと一緒に居るわけにはいかなかった。菜穂子はまるで太陽そのもの
全ての人間に平等に暖かな光を見せる博愛の象徴。それが俺と関わる事によって穢れるのが耐え難かった
最低最悪な屑である俺に出来る事は何も無い。新木とは相変わらず顔を合わせたくなくなった
「もう一度、飯の時間まで寝るかな…」
俺はすっかり自分の汗のにおいが染み付いたシーツを被った。洗濯に出すのが面倒なのだ
家事の合間にたまに部屋を訪れる文也叔父さんは、就職活動をしているらしい
あの人の作る料理はとても美味しくて、お袋と同じくらいだ。それに最近の叔父さんは就職活動をしているらしい
だが、なかなか条件のいいところどころか普通の会社でも就職が決まらないらしいのだ
叔父さんは日に日にやつれていく様で、そんなあの人の姿を見るのが辛かった
もしかしたら俺のせいもあるかもしれない。しかし、俺はあの人のように現実と戦う勇気が持てない
あの謝罪の中でも俺はあの人に対する複雑な気持ちが渦を巻いていた。それが何であるのかは明確に説明することが難しいのだけれども
この日はやけに目が覚めていて、中々寝付くことが出来ないだろう
だから俺はクーラーを入れた。電気代の無駄になる事は分かっているがそれなしで寝付くのは酷な相談である
すっかり眠りの底に意識が落ちていったのは、それから三十分も後の事だった
「早岳君…ちょっといいかな?」
「ん…どうしたの、叔父さん」
文也叔父さんが困ったような顔で俺の部屋に入ってきたのは夕方五時を過ぎたあたりである
あの後俺は十二時に起きてそのまま飯を食った後に寝てしまい、寝すぎたせいか偏頭痛になってしまったのだ
薬を飲んだ後はとりあえず収まったが、寝るとぶり返しそうなのでゲーム機の電源を入れて再びプレイを再開したのが午後の二時
久しぶりやったゲームの二週目だが、データーはリセットしている。始めた頃の雰囲気をまた味わいたかったのかもしれない
「へぇ…炎の紋章伝説か。僕は中学のときにやりこんだものさ、本当に懐かしいな」
「まぁ、ゲーム機ともども叔父さんから譲ってもらった奴だからね。難しくて裏技使ってクリアしたからちゃんとやりたいんだ」
「ああ、経験値が三倍になるバグの事だよね? この頃のゲームは良かったなぁ。3Dが悪いとは言わないがやっぱりドットが最高だね
今のゲームも悪いとは言わないけど買う作品はかなり減ったし、このゲームの最新作も…いや、よそう」
叔父さんはそういって暗い顔をした。例の最新作は俺もプレイしたが酷いとしかコメントのしようが無い
女キャラはは水着のような服を着て、眼球が無駄に大きいハンコ絵の萌えキャラばかりで、かといって男も安いホストみたいな少女マンガに出てくる気持ち悪いのしかいない
その上に味のあるおっさんキャラは存在すらせず、テキストはどこぞのテキストサイトで殴り書きされたようなゴミ、某国民的アイドル(?)並の雑誌のごり押しがウザい。中身の無いDLCの金額が高すぎると三重苦も四、五重苦にも問題を抱えた産廃ソフトだった
しかし売り上げはハーフミリオンを超えたのだから今後もこの路線確定だ。もうメーカーに金を貢ぐのも嫌になる。多分、シリーズともお別れのときなのだろう
「まぁ、少し昔の方が面白いのは事実だよ。流石にインベーダーゲームは簡便だけど
あれはあれで飽きなかったりとか利点はあるけど、ゲーマーとしてシナリオは楽しみたいからね」
「人によるんじゃないかな? 僕も大体は早岳君と同意見だけれどもね、世代というのも有るけど」
「昔のゲーセンってどんな感じだったの? きっと凄かったんだろうなぁ…」
「格ゲーの全盛期は人が多かったな。けどまだ禁煙の場所が少なくて、カツアゲも多かった時代だから
僕は集まりが少ない穴場のような場所に行ってたな。殆ど個人経営だったけど映画館の近くのやつよりは治安は良かったし
学生時代は良く通ってたよ。ちょっとマニアなゲームや雑誌なんかも多かったしね…今は畳んでしまったのが残念だけど」
昔を懐かしむような口調で文也叔父さんは話す。それはもう、楽しそうに
当時を知らない俺にとってはよく分からなかったけれども、この人にとっては最高の時代だったのだろう
青春時代は誰にでもあるものだと思う。しかしそれが過ぎ去ってしまったり、無駄に過ごしてしまった場合はどうなるのか想像が付かない
俺は今、人生で最悪の時間を送っているのかもしれない。しかし、こうした毎日を送っていると実感が湧かないのだ
お袋はたまに文句を言ってきたり、俺の顔を見ると「またか」と言いたげに疲れたような表情になってしまうが
家事はやってくれるし飯は作ってくれる。そして話し相手は文也叔父さんがいて退屈しない
要するに想像が付かないのだ。社会人という地位そのものに全く興味が湧かない
順当に行けば俺は留年なのだろう。来年は新木も菜穂子も、そして…河畑の野郎までが社会に出て行くことになるだろう
「なぁ…叔父さん」
「どうしたんだい?」
俺は意を決して聞いてみる事にした。人生の経験者であるこの人ならば疑問に明確な答えを出してくれると思ったからだ
「社会に出て行くって、どんな感じなのかな?」
「…さぁ、僕も就職したけれど一年でに引きこもっちゃったからよく分からないな」
「そうなんだ」
叔父さんはあまり良い顔をしなかった。俺から顔を外しいったん窓の外に視線を向けた
すこしぱっちゃり気味のあの人の顔は忌まわしい過去の記憶にを苦々しく思っている…俺と同じように
しかし、それと向き合おうとしなかった自分自身を恨んでいるかのように厳しい表情を作った
「…あえて言えば面倒くさいとしか思えなかったな、人付き合いは苦手で程度…って言うのかな?
あまり教養的は人がいなかったな。パチンコや賭け、そして風俗…そればっかりでね、どうにも僕には合わなかったし
上司はよく無茶な要求をしてきたものさ。要領と愛想ばかりでサボってばかりの同僚達は何故かちやほやされたな…
飲み会にも半分強制的なものだったから、酒が好きじゃない僕からすれば過ごし難かったかも知れない
僕より先に辞めて行った人もいたよ。会社の人間関係は出世に響いてくるからね」
「ふーん」
俺は曖昧な返事しか出せなかった。こうして経験者の口から語られた言葉を耳にしても
言うなれば俺は経験していないので他人事でしく、実感が湧かないのだ。金を稼ぐためとはいえそんなに辛い思いをするのに
わざわざ会社に勤めるなんて理解できない。俺の親父も今は出張に出ているが
家から会社に出向くときは必ずしも楽しくない表情をしていた。大人というものは辛いものなのだろうか?
俺の好きな漫画家も良く休載しているのをみると、少年雑誌で名を売っても幸せにはなれないのかもしれない
漫画家を目指している石田菜穂子はどう考えているのか? 何も知らないのかもしれない
「よく分からないけど、社会って大変なんだね。何で大人は働くんだろう?」
「それは、自分に答える資格はないよ…僕は逃げ出した人間だから」
文也叔父さんは最後にそう言って、無理やり会話を終わらせた
湿っぽい話題をこれ以上続けるのも酷だと思ったし、何よりも叔父さんが辛そうに見えたのだ
そして最後におじさんが言って言葉が小さくてよく聞き取れなかった。後で聞いてみたがあの人は何も答えなかった
今にして思えば、それを俺がちゃんと聞いていたら後の悲劇は避けられたかもしれない




