8月15日のクソガキ・後編
聖亞に絵を描いて渡した直後に菜穂子は彼も描きたいといっていたので、以ってきた鉛筆とノートの切れ端を渡して自習室で彼の傍に寄り添っていた
彼は樫富に対しては敵愾心をむき出しにしていたのだが、不思議と菜穂子自身には懐いてくるのだ
それは彼女にとって複雑な心境を抱かせたが、自分が小さかった時は異性に対しては恐れのようなものを抱いていたからだ
無知に対する恐れは他社に対する恐怖を増大させる。それがかつての彼女を人見知りにして虐めの原因にもなった
樫富がいなかったらどうなっていた事か解らない。それに聖亞の活発さは今の彼女からしても羨ましかった
そして樫富にも思うのだ、今の彼も聖亞程の行動力があれば登校拒否なんかせずにすんだと思っていたのに
(私じゃ役不足なのかな?)
仮にそうだとしても、女である菜穂子自身にはわからない。彼をちゃんと立ち直らせると言うのも自信が無いのだ
男の子というものは年を取ると思った以上にナイーブになってしまうのだろうか?
更に樫富と聖亞はどこと無く似ている様な気がしたのだ。容姿でも外見でもなく本質的な所…雰囲気とでも言うのだろう
それを順序立てて口頭で説明する事は流石に無理ではあった。こんな所から自分の弱気は隠していても
本質は全く変わっていないのだなと自嘲してしまう。所詮は彼や新木の前で仮面を被っているだけに過ぎない
「聖亞君、何描いているの?」
「……ママ」
菜穂子は聖亞が描いたものを見て驚愕した。幼い彼が一生懸命に鉛筆を動かし苦労して書いたノートの切れ端には
彼のママと思しき棒切れのような手足を生やしたような女(?)が角が生え、背骨の曲がった
更には胸に数字らしき三桁の刺青みたいな数字を刻んだ怪物に、追いかけられている様子だった
「これって…」
「こいつは、ママやパパをボクから引きはなすかいぶつなんだ」
小さな彼の瞳は幼く、純粋であるが故にはっきりとした色の憎悪を瞳の中に湛えていた
そして、聖亞の絵を見た菜穂子はあまりの衝撃に言葉さえ忘れてしまう
それはある意味で今の彼女が一人暮らしをしている原因となる、親との確執より深く、根深いものなのだろうか?
俺は菜穂子に告げて、トイレで鏡で自分の顔を確認した。右の頬には赤い線を引いたような痕が残っている
流石に自分の顔をわざわざ確認してウットリするほど美形でもナルシストではないが
そんなおしゃれに比較的無頓着の俺でも、流石にこの傷跡は気になってしまうものなのだ
畜生、あのガキには本当に手を焼かされる。早くあのケバい『ママ』が迎えに来て欲しいと願うしかない
流石に腹を立てざるを得なかった。靴底にガムを仕込んだ聖亞の野郎をとっ捕まえたのはいいんだが
あいつは俺に捕まると伸びた爪で右頬を引っかいたのだ、それが意外と痛かった。今でも顔に赤い三本の爪痕が残っている程度には
ガキの癖にすばしっこく悪知恵が効く…まるで昔近所に住んでしょっちゅうゴミ袋を破いていた野良猫だ
同年代の奴なら即座に怒りの鉄拳制裁を食らわしてやるものである。が…親がアレなので下手に何をすると親子共々粘着される恐れがある
あの手のヤンママは自分の過ちを絶対に認めようとしないだろうな…あの子にしてあの親ありというやつだろう
恐らく、将来似たような女と結婚して似たようなガキを生ませるんだろう。在る意味有望株だといえる
ネットの低年齢化による低俗化と同じで日本の未来的には全く明るくないだろうが…
(クソガキの事なんか考えてもしかたねぇや、一旦菜穂子の元に行くか)
気を取り直して、二人がいる自習室に戻る
あんな奴なんて親が帰ってくるまで放置でも構わないのだが、菜穂子の前でそれを口にするのは躊躇われた
それに、こう自分で言うのも何なのだが…あいつは何かあるような気がしたのだ
もしかすると俺が文也さんを見て感じていたものに近いのかもしれない
家族と上手くいっていないような。自分がのけ者にされていると解っている様な感じ
さて、そろそろ戻るとするか。何時までも便所に居る訳にも行くまい
自習室に戻ると、菜穂子がクソガキを椅子に座らせて何かしていた
あいつの事なので、どうせ聖亞の奴に絵でも教えているのだろうと思ったら案の定だった
そしてマッチ棒のような女(?)と数字が書かれた角の生えた怪物みたいなのが描かれている
なんだありゃ? あいつの好きなテレビアニメキャラクターのなり損ないか? 最近のアニメは全く見てないが
「石田、ガキの為に絵を描き終わったか?」
「…うん」
何故か菜穂子は浮かない顔をしていた。気になったが、原因がわからない
もしや、あのガキに何かされたのだろうか? だとしたら…只じゃおかねぇぞ
「お前、何かされなかったか?」
「何かって…何がですか?」
「その…スカートめくりされたりとか、何処か触られたとか…」
菜穂子は顔をそのままに俺から二歩ほど離れてしまう。おい…何かあいつの気に触ることでも言ってしまったのか?
「樫富君…そんな事を考えてたんですか?」
やや失望の溜息と共に菜穂子が少し残念な人を見るような視線を俺に向けた
俺は慌てて弁解する。違う、違うんだ石田…俺はそんな事を考えちゃあいない!
「ち、違うんだ…俺はお前の事が心配だっただけで」
「……。」
猫のように大きめの瞳を細めて、横目でで菜穂子が俺の方を見ている。まずい…これは誤解されてしまったかも知れない
男として恥ずかしい事だが弁解させてもらう。流石にこのまま不名誉を被ったまま黙っているわけにはいかないからな
何でこんなに必死になるのかは…俺にもわからないのだが
「俺はだな、本当に石田のことが心配で…」
「なんだよ!もう来たのかおまえ。せっかくお姉ちゃんと二人きりだったのに…」
会話に割り込み、残念そうに俺を見上げる聖亞のガキが俺に敵意を篭った視線を向けた
それはいつもの事だ。いうなれば弱い野良犬が人間様に吼えかけてくる癖に決して飛び掛ってこないような強がり
いわば、相手に隙を見せたくないが貯めの単なるポーズ。見慣れてしまえば可愛いものだ
しかし、今の聖亞の目つきはなんだか俺を警戒しているように見えなくも無い
変だな? さっきから俺を舐められっ放しだったこいつが
「おい、お前…ちょっと来い!」
「な、なんだ?…このガキ」
聖亞の奴は何故か俺のジーンズをズレてトランクスが露出しそうなほど強い力で引っ張り、部屋の外へ引っ張り出していった
俺は振り払おうとしたが、背の低い聖亞を無理に引き剥がそうとするとこいつを傷つけかねない
それに、こいつの母親はあの口うるさそうで俺に聖亞がぶつかっても謝るどころか逆に睨みつけてきた水商売女なのだ
下手に聖亞を傷つけてしまったら、あのヤンママがモンスターペアレントさながらに騒ぎ立てて――――
【〇〇高三年生、引き篭もりの十七歳少年・小学生低学年男児を突き飛ばし怪我させる。動機はむしゃくしゃしてやったとの供述】
なんて地方新聞紙の見出しにされ、有る事無い事マスコミにでっち上げられ社会的に抹殺されかねない
それはマズイ、非常にマズイ。俺だけならともかく両親や文也さんにまで迷惑がかかってしまうのはなんとしてでも避けたかった
しかし、聖亞の奴に表立って抵抗する事も出来ずに俺は引っ張られていく
いっその事あの河畑と同じくらいこいつが大きかったら楽だったのに、全く…情けない話だな
「お前、菜穂子お姉ちゃんとどういう関係なんだよ?」
「人様にジュース奢らせといて、言う台詞が感謝の言葉じゃなくそれかよ…」
人通りの少ない自販機近くにまで連れ込まれて、ガキらしく喉が渇いたとかほざいたので
せっかくオレンジジュースを奢ってやったのにありがとうの一つも言わないとか…まったく持ってこいつの将来が心配になる
まぁ、あの親が親なので仕方ないのかもしれない。此処まで来るとまともに相手する気も失せて来る
いや…むしろ純粋な敵意を包み隠さず向けてくる様はいっそ清々しいのかもしれない
少なくとも笑顔で叛意を隠し、手のひらに画鋲を仕込んで握手を求めてくるよりは
面と向かって「お前の事が大嫌いだから自殺しろ」と罵られた方が、対処もしやすくなって楽になるというものだ
それにあいつとどういう関係だって…なんでそんな事こいつに教えなきゃあならんのだ?
「おい、早く言えよ」
「ったくうっせーな。お前あいつの事が好きになったのか?」
適当に放った言葉だが、聖亞の奴は顔を真っ赤に染めて俯いてしまう
色素が薄く茶色ががかった髪が俺の目に触れる。ああ、なるほどそういう事だったのか
気付いた瞬間、口元が意地悪く歪んでいくのを自覚する。なんだ…こいつ結構ませてるが、年相応に可愛い所あるじゃねぇか
「わ、悪いかよ…だって昔のママに結構似てるし」
「そうか、マザコン野朗」
「マザコンってなんなんだよ?」
「マザーコンプレックス。まぁ、詳しい事は知らねぇがお前はお前のママみたいなタイプがすごく好きだってことだ」
「それって、どんな事なんだ?」
意外と純真な目で俺を見つめてくる聖亞。こいつ…結構顔立ちは整ってるよな
将来思春期を迎えたら結構なジゴロになるかも知れない。まぁ、それ以前に社会の道を踏み外さない事を祈るが
あの親が親ではまともな道徳心が育つ事も無いだろう。残念だが俺にはどうすることも出来ない
まぁ、俺の知るところじゃないがこいつも河畑みたいに陰険な人間になるのだろうか?
聖亞の野朗は奇跡的に今は少し…いや、結構捻じ曲がっているだけに見えるが
成長して他人を貶める事の悦びを知った時、あいつみたいに…人を傷つけたり裏切ったりして笑うのだろうか?
それはそれで悲しい気持ちになってしまう。出来れば全ての人間が他人を思いやる事が出来ればいい
その点で俺は失格だった。幾ら頭が沸騰していたとは言え暴力であいつに報復してしまったのだ
そんな俺が菜穂子の傍にいてやれる資格なんて、本当にあるのだろうか…?
「おい、あいつに好かれる方法を教えてやる」
「本当か? 早くおしえろ!」
聖亞の奴は本当に食いついてきやがった。全く、純真すぎるほどに純真な奴だ
まるですごく勘の鈍い奴を騙して喜んでいるような気分になるが、思わず笑っちまう
ホイホイ釣れるとは思わなかったぜ。こいつ、菜穂子に惚れてやがる
「人に優しくしろ、ちゃんとモノを言える様になれ、そして礼くらいはちゃんと返せ。そんな奴が石田は好きなんだ」
俺自身が言うのも何なんだが、こんな説教じみた事俺が言える義理が無い
学校に行かずにゲーム三昧を過ごしている人間がこんな綺麗事を言う資格はあるのか疑問だった
今時のガキですら、正義が欺瞞だってことを知っている。政治家は公約を守らずにいい加減な政策を行う事も知っている
そんな偽善と嘘が看破され、疑い深い人間が増えているこの世情に、正義や人情なんて言葉はむなしく響くんじゃないか?
ま、こいつがちょいとでも守れれば御の字ってやつだな! 少しは社会貢献したんじゃないか? 俺も
「そうか…それだけでいいんだな」
しかし聖亞の奴は違うようだった。ガキながらに真剣な顔つきで俺の言葉の意味を解釈しているようだった
その真っ直ぐさが俺には羨ましかった。たった一回の失敗で挫け、家に引きこもっている自分は
前を向いて進む事も出来ずに新木や菜穂子、文也さんや親も困らせてしまっている
斜め上から世間を眺めすぎて俺自身が何か正しい事、やらなければいけない事を見失ってしまっているんじゃないか?
本当に努力は評価されないものなのか? 俺の光の面に目を向けている人間を見ない振りをしていないか?
薄っぺらい自己憐憫に浸って世間を矮小化していないか? 誰かに悪を押し付ける事で無理やりに己を正当化していないか?
「ボク、取り合えずがんばってみるよ」
「…ああ」
聖亞の真っ直ぐな視線は少なくともさっきまでの捻くれたガキの物ではなく
少しだけだが一歩大人の道に踏み出した少年の決意そのものに見え、少しだけ応援してやってもいいと思えるほどには
俺はなおさら自分が惨めに思えて成らなかった。クソガキに敗北感を覚えさせられるとは思わなかったのだ
「あの…二人ともどうしたんですか?」
自習室に戻ってくると菜穂子が心配そうに俺達を見た。背後の壁にかけられている時計は既に十六時近くになっている
俺が家を出てからもう四時間近くの時間が経ってしまったということなのだ
今日は一ヶ月分くらいの出来事が一気に襲ってきたような気がする。いつもならこの時間は冷えたコーラでも飲みながら
ゲームをしている筈の時間帯だ。ましてや、外に出た事なんて久しぶりなのだ
「まぁ、ちょっと男同士の話って奴だ…変な意味じゃなくてな」
菜穂子がまた訝しげな表情をしたので俺は慌てて付け加えた。違う…断じてそんな趣味は無い。絶対に無い!
「お姉ちゃん。ボク、がんばる…りっぱな大人になるから」
「へ!?」
いきなり聖亞が俺の前に出て菜穂子の顔を見上げていった。その顔は真剣そのもので
先程までのクソガキそのままの表情とは一変を画している。理由は動であれそれを見て俺は自分が情けなくなってきた
こんなに小さい子供でも自分の気持ちを人に伝える事が出来るのだ
俺もかつてはがそれが出来たかもしれない。しかし今の自分は、過去に囚われ自分の恥部を菜穂子に見せてしまった事によって
心の殻に閉じこもっている。今こそこうしているが本当は逃げ帰りたいほどに臆病だったのだ
「樫富君にジュース買ってもらったんですか?」
「あ…」
聖亞は俺が少ない小遣いから買ってやったジュースの缶をまだ持っていた
もしかしたら俺に対するイタズラに使うつもりだったのかもしれない。まったく…懲りないガキだ
それをまるで今初めて持っていた事に気付いたと言わんばかりに聖亞は穴が空くように大きな瞳で見つめた
「ちゃんとお礼は言ったんですか?」
「ボクは…」
「お礼を言わない人はちゃんとした大人になれないんですよ?」
俺と缶を交互に見る聖亞は数秒間迷っているようだった
別にそんな事は気にしていない。俺はこいつに何も期待していないので
気まぐれに買ってやったのはこいつが騒いだからだ。非常にその声が五月蝿く、他の利用者も抗議の視線を送るほどには
まぁ、カツアゲされるでもなし買ってやったら黙るだろうと思って百円を犠牲に差し出したのである
幾らこのクソガキが俺につっかかって来ようと、特に気にするものではない
そもそも人間は決意しただけで変われるものじゃない。簡単に変われるのなら世界はもっと単純だ
「その…あり、がとう……」
しかし、精一杯のプライドを曲げ敵意の炎を懸命に押さえ込みながらも聖亞は俺に礼を告げた
「よく出来ました」
菜穂子が微笑みながら目線を聖亞に合わせて色素の薄い髪を撫でてやる
聖亞も子犬のように目を細めてされるがままになっている様は、出来の悪い弟を持った本当の姉弟のように見えて仕方なかった
ふと考えてしまう。もしかしたら俺もこうすれば余り苦労せずに人と付き合えるんじゃないかって
下らないプライドを捨てて自分をさらけ出せるのなら、大概の人は受け入れてくれるんじゃないかって思ってしまうのだ
家に帰った俺は家の呼び鈴を鳴らした。既に時刻は五時半を過ぎ、夏の外も夕焼けの紅い気配が忍び寄っている
そして玄関で出迎えてくれたのは母さんではなく文也さんで、あの人の顔を見た瞬間に胸が痛む
「やぁ、お帰り早岳君。君を心配してたんだよ」
あんな事を言ってしまったのに文也さんは俺を迎え入れてくれた
嫌な顔一つせず、家族の一員の事を丸で本当の兄弟のように気遣っているのが解る
とても自分が恥ずかしくなった。どうして俺は身近に要る大切な人に辛く当たったりしたのだろう?
「ただいま、文也叔父さん。それと…」
俺は言葉を口にした。気持ちは舌に乗せるとスムーズに飛び出してくる
思いは人に伝えられる。言葉の発達は人類に多大な恩恵をもたらした事は事実だし
そうやって人に悪意を伝えて破滅に追いやる事も出来る。無論、その逆も可能だ
自分の非を認める事はあの聖亞の奴だって出来たのだ
だから誰にだって出来ない道理が無い、そして何よりも俺はあいつより年上なのだから
「そろそろご飯が出来るよ。みんな君の事を心配してたんだ…」
心からの言葉を受け入れた文也さんは疲労を滲ませるような
しかし、人のよさそうな笑顔を浮かべて、俺を家の中に招き入れたのだった
俺は何故かこの人が危ういと感じた。余裕が無い様に思えたのは気のせいなのだろうか?
だが、それは俺も同じなのだ。まだ学校に行く勇気すら全く湧いてこないのだから…




