8月15日のクソガキ・前編
「取り合えず、何かしますか?」
「俺に聞かれてもわからねぇよ…」
菜穂子が聞いてくる。子犬のように純真できらきらした瞳が俺の姿を捉える
俺は彼女と目を合わせ無かった。あの事がまだ心からこびりついて離れなかったのだ
河畑の上に馬乗りになって奴の体を殴り続ける姿をこいつは見てしまったのだから
「取り合えず、二人で夏休みの宿題やりましょう。私も色々忙しかったので…」
「…いやいや、持ってきてねぇし。そもそも俺と石田じゃ高校が違うから夏休みの宿題でもぜんぜん違うだろうが」
「あ、そうでした」
キョトンと、虚を付かれた表情で菜穂子が呆けるのを見てやっぱりこいつのこういう所は変わらないなと俺は安心した
しかし、心が完全に晴れたわけではない。どうやって言い訳を作りこの場から離れようか思案を巡らせている
だが、そういった事は菜穂子に対する裏切りになるのではないかと今は思うのだ
新木が居なければ俺は変わらなかったかもしれない。菜穂子に会う事も無く、ずっと腐った気持ちの中で
もっと早い段階で引きこもっていたかもしれない。だが…もう遅いのだ
「今更なんだけど、俺さ…」
「で、今書いてるんですか? 漫画の絵を!」
「え…」
「もう…惚けないでくださいよ。あの時約束したばかりじゃないですか?」
純真な表情から一転。小悪魔のような笑みを浮かべる菜穂子を見て俺は思う
あれ?こいつこんなにアクティブな奴だったっけと、首を傾げそうになる
それにしても俺は絵を描かなくなったというのに、何故そんなに期待する目で俺を見るのだ?
「あ…あの、それはさ」
我慢できずに、俺は真実を告げようとする。今の自分は登校拒否の引きこもりでそんな余裕など無いことなど
文也叔父さんもいて、しかもあんな事があったばかりなので精神的に落ち着けないのだと言おうとした。だが…
「……」
「いったい、どうしたんですか?」
だが、言えない。あまりにもこいつの表情が純粋無垢で穢れの知らない乙女だったから
彼女の夢を汚す事は考えられなかった。ずっと、ずっと期待していたはずでようやく答えようとしたばかりなのに
どうして今更、期待を裏切る事ができるだろうか? 俺はそこまで厚顔無恥を強いる事が出来ないでいた
要は不器用だったのだ。口先の上手さで乗り切る、誤魔化す発想は思い浮かばなかった
それこそ、文也さんが揶揄し俺自身が嫌うような「ズルく、賢く」乗り切る事に成りかねないのだから
「俺は…」
俺は卑怯者だ。そう言おうとした、菜穂子に弁解して詫びようとしている
当然ながら彼女は許すかもしれない。あいつは以前に五年や十年でも待つといった
あの時は冗談で言ったのかもしれないと思ったが、万が一こいつなら本気でやりかねないのだ
それほどまでにこいつの目に宿る意思の光は強かった。並みの奴ならば数ヶ月と持たないかもしれない
「樫富君。何か、気分でも悪いんでしょうか?」
「俺は…」
俺は正直な所、菜穂子に期待など抱いて欲しくなかった
それが互いを苦しめる鎖となって、縛り付けている楔になっているような気がしてならない
だからこそ誠意を持って俺に漫画を描くということを諦めて貰いたかったのだ
それでも俺は告げようとした。俺はもう、こいつと本格的に関わる頃の自分では無いのだと
そうする事が一番のけじめであり決別の儀式である。手前勝手な主張を押し付ける事になろうとも
―――しかし、そうならなかった。またも得体の知れない何者かが手を差し伸べたように邪魔が入ったのだ
「イテッ!」
小さな子供が…あの糞生意気なガキが自習室に飛び込んできて入り口に背を向けて立っていた俺にぶつかったのは
「…おい、大丈夫か?」
俺は半ば呆れつつも、デジャビュと共に先程と全く同じ台詞を吐きつつ無駄に元気なチビ野郎…
たしか聖亞とか言うガキに手を差し伸べてやったのだが…
「うるせぇ、オッサン!」
そいつは悔しい事だが愛らしい顔に敵意を向けた眼差しを向けて俺を睨みつけてくる
流石に我慢できなかった俺は言い返してしまう。大人気無いと言われても構わなかった
大変マナーがなっていない。まぁ、あの親ならば躾という文字自体読めないような気がするのだが
「お前なぁ…せめて目上のお兄ちゃんに大して口の利き片ってのがなって無いんじゃないか?」
「ジイさんのくせになに言ってんだよ! お前なんかママがいれば怖くないんだぞ」
顔を膨らませてガキが言う。意外と素直に挑発に乗りやがる!…以外に可愛いところもあるじゃねぇか
頬が吊り上ってくるのを自覚してしまう。ほほう…ママか、少し遊んでやるとするか
「おいガキ。お前さ、おしめも取れない年の癖にママに頼るのかよ? 情け無いぜ」
「うるさいっ! だまれッ!」
「痛ッ!」
!!!!!!!!…この野郎、逆切れしやがって俺の脛を思いっきり蹴りやがった
流石に座り込みはしなかったが、飛び上がってしまいそうな痛みが全身を襲い、痛い
呻き声がひたすら口から洩れ、それ以外のことは何も考えられなくなってしまう程に痛い
目の前のガキがひたすら嘲笑するのを見て、悔しい気持ちと情け無い気持ちがミックスされて何とも言えなくなる
ちくしょう、河畑には負けなかったのにこいつみたいなチビに俺はやられるのか…情け無いぜ
「コラッ!」
鋭い叱責が飛ぶ、その声があまりにも凛としていて耳に響いて俺とガキどころか…自習室に居た人間すらもこちらを見て固まってしまった
菜穂子が普段のやわらかい雰囲気とは別の厳しい表情で聖亞を見ていた。俺もガキもまじまじとあいつの顔に釘付けになる
「!?…う…うううっ……」
ガキが一瞬黙り込み、しゃくり始めて泣きそうな顔になる。こういうところを見るとやっぱりこいつも子供なんだなと思った
俺もこいつくらいの年頃はもっと荒れていたような気がする。なんというか人事に見えないのだ
生意気で幼稚な全能感を振りかざしていた昔の俺自身を見ているような気がして
「あ、よしよし…ごめんなさい…急に大声を出して」
菜穂子がしゃがみこみ、目線を合わせて聖亞の頭を優しく撫でると、こいつは泣くのを止めてしまう
真っ赤に充血した目で菜穂子にすがりついてくる。まるで敏の離れた姉弟みたいだなと感想を抱いた
「君、名前は?」
「金山聖亞」
「そう、よろしくね。聖亞くん」
優しく微笑みかける菜穂子はまるで幼稚園の保母みたいに女性らしい柔らかみがある様に見える
俺は信じられなかった。目の前にいるこの女が俺の知っている菜穂子とは思えなかったからだ
それに比べて俺の凋落振りは半端ない様に思えた。いや、むしろ鍍金がはがれたと言うべきだろうか?
こいつをなにが変えたのか解らない。昔は苛められっ子で泣き虫だった女の子と同一人物とは思えない程に
「あなたのお母さんは?」
「知らない。ママもパパもボクをここにおいていつも行ってるパチ屋ってとこに居ると思う」
「そう、それは…」
菜穂子は言葉に詰まったようだった。それは俺も同等だった
そんなに子供を放って遊びに行きたい親がいることが衝撃だったのである
あの水商売紛いの格好をした聖亞の親は、よく街で見るアレな親の雰囲気を醸し出していたが
残念な事に俺の予想は当たってしまったようだ。こいつの両親はとんでもない屑のようだ
母さんもパチンコ屋に昔よく行っていた様だが、俺が生まれると直に辞めたのだそうだ
それを親父から愚痴交じりに話された事はある。当の俺はその時まで知る由がなかったが
「お前の母ちゃん…禄でもない奴なんだな」
少し同情して言ってやった言葉に聖亞は反応してキリッと俺の顔を睨み付けた
「うるさい! おまえなんかがボクのママをバカにするな!!」
「いてぇッ!」
再び俺の左脛を蹴り上げる聖亞。同じところをピンポイントで突かれた為、痛みも倍加である
左足を掲げて飛び跳ねる俺を横目に、聖亞のガキは無邪気に勝ち誇ったような笑いを浮かべている
くそう…この野郎、ガキだからって粋がりやがって。俺の堪忍袋もマジで破裂寸前だぜ
こいつを掴みあげて怒鳴ってやろうか? 図書館をつまみ出されるかもしれないが構いやしねぇ、そんな事を考えた直後だ
パチン、と小さな音と共に菜穂子が聖亞の頬を叩いたのは
「貴方のお母さんは知らない人に暴力を振るいなさいって教えたんですか?」
菜穂子はいつもの浮ついた雰囲気を捨てて厳しい表情で聖亞の奴に視線を合わせる
そして聖亞の奴も叩かれた頬を押さえ少しづつ涙目になり、姉妹にはぼろぼろと涙を流してしゃっくりあげた
そいつもこうしてみると、生意気だが年相応の子供に見えて俺は聖亞に抱いていた怒りを忘れてしまう
こいつは丸っこい童顔だったが、このときばかりは凛とした表情で五歳くらい年上に見えた
なんというか、雰囲気が昔の俺の母親に似ていた…というより女はみんなこんなものなのだろうか?
「ううっ…だって、オジサンが僕をいじめるんんだもん……」
聖亞はあくまでも涙目になりながらも、俺の事を非難し謝ろうともしない
だが、菜穂子は今度は怒らずに、弟に優しく諭すような幹事で語り掛けてくる
「聖亞君だって悪口ばかり言い続けて、十年経てばこのお兄さんより毛深いオジサンになっちゃいます
さらに五年も経ったら鬚も生えて体も大きくなってゴリラさんみたいになります。男の人はみんなそうなんですから」
「おい、ちょっと待て。それは誤解だ」
菜穂子の言葉に俺はあくまでも突っ込みを入れる。それではまるで類人猿じゃないか
「ボクも、このオジサンみたいになるの…?」
「はい。だから良い子にしてないと、聖亞くんもお兄さんみたいに立派な大人になれませんよ」
「……」
なんか、釈然としない。とても突っ込みどころ満載で納得できそうに無い話の流れだったが
いつの間にか聖亞の野郎が泣き止んでいたので、これはこれで良しという事にしよう
全く…ガキというのは無駄に元気があって生意気で疲れるものだぜ
俺は将来に誰かと結婚したとしてもガキだけは作らないようにしようと心がけた。俺は自分の事で精一杯なのだ
「うわ、ダッせえ。おまえイマドキこんなの見るのかよ、ガキみたいだな!」
「黙れ、ガキにガキって言われたくないんだよ」
「まぁまぁ…二人とも落ち着いてください」
俺達は視聴覚室の一室に入って。昔のロボットアニメを聖亞の奴と菜穂子と一緒に見ていた
それは昔俺が幼稚園に入る前くらいにやっていたシリーズだったが内容は殆ど覚えていない
見るものとしては洋画のほうが良かったのだが、菜穂子が子供が喜ぶとか言ってそれを選択したのだ
嘘をつけ…本当はあいつが見たいから選んだのを俺は知っている。それでも後ろめたさと選択に口を挟むのは野暮だと思ったので
何も言わなかったが、この聖亞とか言うガキが五月蝿く俺に突っかかってくるのだ
おまけにポケットの中からガムを取り出して菜穂子に渡し、自分もクチャクチャと音を立てて噛む音が五月蝿い
当然、俺には何も無しだ。まぁ、こんなガキから貰ったものなんて願い下げだったが
「こんなロボが現実で動くかよ! 今はカードゲームの方が売れてるんだぜ」
「うるせぇ。お前の親はちゃんと躾なかったのか?」
「おまえは口答えすんなよな。チビのくせによ!」
「お前よかチビじゃねぇ」
「へんだ。おまえなんかボクが大きくなったらかんたんに追いこしてやるよ! ね、お姉ちゃん」
おいおい…わざわざ家から飛び出してこのクソガキの御守をするなんて聞いてねーぞ
こいつの親は図書館返還前まで迎えに来ないらしい。全く…だったらガキなんて作るなと言ってやりたい
そして生まれた愛の結晶とやらがこの小うるさい小悪魔…という訳だ
俺ですら親の手を焼かせた記憶があるが此処までウザったくは無かったぞ!おい
「聖亞君…お願いだから、少し静かにしてくれない?それと樫富君にあまり酷いこといわないの
お姉ちゃんが後で好きなキャラクターの絵を描いてあげるから」
「やったぁ! ありがとうお姉ちゃん。おい!だまってやるからおまえはボクにかんしゃしろよな!」
「…はいはい、石田さん。あまりこいつを甘やかさねー方が良いぞ、碌な大人にならねーから」
耐性がついてきたのか、もう俺は突っ込む気力さえ失せて来た
そんな俺に剥き出しの敵意の視線が突き刺さる。あまりにも純粋な感情
河畑のようなねっとりしたものでも、こいつのママらしき女が俺に送ったものとは違う敵を見るような目
俺が聖亞の方に顔を向けるといきなり、あいつは敵意を引っ込めて愛想笑いを浮かべた
「…ごめんなさい、お兄ちゃん」
よしよし、ようやく上下関係というものがわかってきたようじゃないか
こいつも純真な表情を浮かべると可愛いもんだな、久しぶりにクソ生意気な従兄弟の顔を見るのもいいかもしれない
だが、俺がそう考えていて安心したのが甘すぎた。こいつは思った以上に性格が捻じ曲がっていたのを
会ったばかりだったから悟れなかったのは、若さと言うべきか
「お兄ちゃん…靴にゴミが付いてる。ボクが取ってあげるね」
「お、気が利くじゃないか」
小さな体をしゃがませて聖亞は俺の靴の底に何かを押し付けた。そして一目散に駆け出して勝ち誇った笑みを浮かべる
怪しいと思って靴の裏を見るとガムがべったりと張り付いていた。お値段一万円近くした靴に
これは中々剥がれないだろう。全く…こいつは俺の苦労や迷惑も考えないで!
「おい! 待てやこのクソガキ!!」
「ははっ! 引っかかるおまえが悪いんだよー!」
げらげら笑いながら聖亞が一目散に逃げていくのを我慢の臨海を突破した俺が追っていく
やっぱりあいつは小悪魔だ。それも途轍もなく性質が悪い類の…信じた俺がバカだったということだろう




