第二章 父と二人の兄
昼近くになると、部屋の外が少し騒がしくなった。
廊下を歩く足音が近づいてくる。
「アリアは目を覚ましたのか?」
低く、落ち着いた男性の声だった。
「はい、旦那様。先ほどお目覚めになりました」
ミーナの返事が聞こえる。
扉が開いた。
入ってきたのは、背の高い男性だった。
灰褐色の髪には、ところどころ銀色が混じっている。鋼色を帯びた青い瞳は鋭く、頬から顎にかけての輪郭はしっかりとしていた。
年齢は四十歳を少し過ぎた頃だろう。
その顔には、長い年月を国境の守りに費やしてきた男の厳しさがあった。
けれど、寝台の上にいる娘を見た途端、その表情が和らいだ。
「アリア」
「お父様」
エドガー・フォン・ヴァルデン。
ヴァルデン辺境伯家の当主であり、アリアの父だった。
父は寝台の脇に腰を下ろし、娘の額に手を当てた。
「熱は下がったようだな」
「はい。もう大丈夫です」
「そうか。よかった」
父は短く答えた。
しかし、その手はしばらくアリアの額に置かれたままだった。
「三日も目を覚まさなかった。医師は心配ないと言っていたが、私には長く感じられたぞ」
「ご心配をおかけしました」
「謝ることではない。元気になれば、それでよい」
父は、娘の髪をそっと撫でた。
その手には、剣を握り、馬の手綱を引いてきた者特有の硬さがあった。
アリアは、その手を見つめた。
この人が、自分の父親なのだ。
前世では、別の父親がいた。
その記憶も消えてはいない。
けれど、目の前の男性にも、確かな親しみを感じていた。
「お父様」
「何だ?」
「お兄様たちは?」
「アルベルトもレオンも、お前が目を覚ましたと聞けば、すぐに来るだろう」
父がそう言ったところで、廊下から慌ただしい足音が響いた。
「父上! アリアが目を覚ましたと聞きました!」
扉が勢いよく開く。
先に入ってきたのは、濃い栗色の髪に琥珀色の瞳を持つ少年だった。
年齢は十五歳。
背は高く、姿勢がよい。
父によく似た整った顔立ちで、まだ少年らしさを残しながらも、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。
長兄のアルベルトだ。
その後ろから、赤みのある栗色の髪と深緑の瞳を持つ少年が顔を出した。
十三歳の次兄、レオンである。
こちらは兄とは対照的に、表情が豊かで、明るい雰囲気を持っていた。
「アリア!」
レオンは寝台に近づき、妹の顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫なのか? まだ頭は痛くないか? お腹は空いていないか?」
「レオン、少し落ち着け。質問を一度にしすぎだ」
アルベルトが苦笑する。
「だって、三日も寝ていたんだぞ」
「分かっている。私だって心配していた」
アルベルトは妹の手を取った。
「よく目を覚ましたな。無理をするなよ」
「ありがとう、お兄様」
アリアは二人の顔を見比べた。
長兄のアルベルトは、すでに父の仕事を手伝い始めている。
領内の村々の報告書を読んだり、兵士たちの訓練を見たり、家臣たちの会議に同席したりしている。
十五歳という年齢を考えれば、かなり忙しい日々を送っているはずだった。
次兄のレオンは、騎乗と剣術が好きで、領内の森や牧場を訪れることも多い。
こちらも十三歳にしては活動的で、じっとしていることが苦手だった。
二人とも、アリアには優しい。
ただし、優しいからといって、何でも言うことを聞いてくれるわけではない。
それも、アリアの記憶に残っていた。
「お兄様たち、お仕事は大丈夫なの?」
アリアが尋ねると、アルベルトは少し驚いたようだった。
「私たちの仕事を心配してくれるのか?」
「うん」
「今はお前の方が大切だ。仕事は逃げない」
レオンも大きく頷いた。
「そうそう。仕事なんて後でいいんだ。元気になったら、また一緒に庭へ行こう」
「レオン、病み上がりの妹を連れ回すな」
「分かってるよ。少し歩くだけだ」
二人のやり取りに、父が小さく笑った。
その様子を見ながら、アリアは胸の奥が温かくなるのを感じていた。
この家には、確かに苦労がある。
父も兄たちも忙しい。
それでも、家族の間には確かな情があった。
「ところで、アリア」
父が静かに尋ねた。
「何か食べられそうか?」
その言葉を聞いた途端、アリアのお腹が小さく鳴った。
ぐう。
部屋にいた全員が、一瞬だけ黙った。
そして、レオンが笑い出した。
「ははっ! お腹が返事をしたぞ!」
「レオン!」
アルベルトがたしなめる。
けれど、父も口元を緩めていた。
アリアは頬を赤くした。
「……お腹が空いたの」
「よし。では、食べられそうなものを持ってこさせよう」
父が立ち上がる。
「ミーナ、医師に確認して、胃に負担の少ないものを用意してくれ」
「かしこまりました」
ミーナが一礼した。
「アリア、食べられるだけでよい。無理に食べる必要はないぞ」
「はい、お父様」
父と兄たちは、しばらく妹のそばにいた。
やがて仕事へ戻る時間になると、アルベルトはアリアの髪を優しく撫でた。
「また来る」
レオンは、寝台の脇に置かれていた小さな木彫りの鳥を手に取った。
「これ、アリアにやるよ。僕が作ったんだ」
翼の形は少し不揃いだった。
けれど、木の表面は丁寧に磨かれている。
「ありがとう。かわいい鳥ね」
「だろう? 今度はもっと上手に作るよ」
レオンは嬉しそうに笑った。
二人の兄が部屋を出ていき、父も最後に一度だけ振り返った。
「ゆっくり休め。アリア」
「はい」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、アリアは木彫りの鳥を両手で包み込んだ。
その小さな鳥は、前世の世界にはないものだった。
けれど、誰かが自分のために作ってくれたものだった。
アリアは、そっと微笑んだ。
異世界に来てしまった。
それは間違いない。
しかし、ここにも自分を大切にしてくれる人たちがいる。
この人たちと一緒に生きていきたい。
そんな思いが、少女の胸に芽生え始めていた。




