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空を翔ける辺境令嬢 ― 漆黒の瞳に映る、新しい世界 ―  作者: さざ波和音


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第一部 辺境伯家の小さな令嬢 第一章 目覚めの朝

 朝の光が、厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。


 窓の外では、小鳥がさえずっている。


 遠くから、馬のいななきと、荷車が石畳を通る音が聞こえた。


 その音に、少女はゆっくりと目を開いた。


「……う……」


 頭が重い。


 身体もだるい。


 喉が渇いていた。


 天井には、太い木の梁が渡されている。梁の表面には、長い年月を経た木目が浮かび、ところどころに小さな彫刻が施されていた。


 ここは自分の部屋だ。


 そう思った。


 けれど、次の瞬間、その考えを打ち消すように、別の記憶が頭の中に広がった。


 白い天井。


 電気の明かり。


 窓の外を走る自動車。


 日本の街並み。


 自分が暮らしていた、もう一つの世界。


 少女は目を閉じた。


 夢ではない。


 確かに、別の人生を生きた記憶がある。


 そして今、自分が横たわっているのは、その世界とはまったく異なる場所だった。


「お嬢様……?」


 寝台の脇から、女性の声がした。


 淡い栗色の髪を後ろでまとめた、三十代半ばほどの女性が座っていた。


 柔らかな緑の瞳には、驚きと安堵が浮かんでいる。


「アリアお嬢様。お目覚めになったのですね」


 女性は、少女の手をそっと握った。


「まあ……よかった。本当に、よかったです」


 その声を聞いた瞬間、少女の中に記憶がよみがえった。


 ミーナ。


 ミーナ・ベル。


 自分が幼い頃から身の回りの世話をしてくれている女性だ。


 朝、髪を整えてくれること。


 着替えを手伝ってくれること。


 時には、お行儀が悪いと小言を言うこと。


 熱を出したときには、夜遅くまで寝台の脇にいてくれること。


 どれも、アリアの七年間の暮らしの中にあった記憶だった。


「ミーナ……」


「はい。ここにおりますよ、お嬢様」


「私、どのくらい眠っていたの?」


「三日でございます。高い熱が続きまして、旦那様もお兄様方も大変心配なさっておいででした」


 三日。


 アリアは、ぼんやりと天井を見つめた。


 そうだった。


 数日前、春先の冷たい雨に降られた。


 庭で遊んでいるうちに、思った以上に身体が冷えてしまったのだ。


 その夜から熱が出て、寝込んでしまった。


 そして、目を覚ました今、もう一つの人生の記憶が、はっきりと意識の中に存在していた。


 自分はアリア・フォン・ヴァルデン。


 アルセリア王国北部に領地を持つ、ヴァルデン辺境伯家の娘。


 父はエドガー。


 兄は二人。


 長兄アルベルトと、次兄レオン。


 アリアは三人きょうだいの末子であり、唯一の娘だった。


 母エレノアの面影も、記憶の中にある。


 そして、もう一つの人生。


 日本で暮らしていた大人の自分。


 二つの記憶が重なり、少女は静かに息を吐いた。


「……私、変な夢を見ていたみたい」


「夢でございますか?」


「うん。とても遠いところにいる夢」


 ミーナは少し心配そうに眉を寄せた。


「お熱のせいかもしれませんね。まだ無理をなさらないでください」


「そうする」


 アリアは頷いた。


 今は、すべてを考えようとしても仕方がない。


 まず、自分の身体を休ませなければならない。


 それにしても。


 目の前のミーナの姿も、部屋の様子も、記憶の中にある。


 自分は本当に、この世界で七年間を過ごしてきたのだ。


 そのことに、不思議な感覚を覚えた。


 前世の記憶があるからといって、今までの暮らしが消えたわけではない。


 父の厳しい声も、兄たちの笑い声も、ミーナの優しい手も、すべて自分の記憶だった。


「ミーナ、お水が欲しいわ」


「はい。すぐにお持ちいたします」


 ミーナは寝台の脇に置かれた水差しから、陶器の杯に水を注いだ。


 アリアの背中に枕を添え、ゆっくりと身体を起こす。


「少しずつお飲みくださいませ」


 杯を受け取る。


 水は冷たく、喉を通る感覚が心地よかった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 ミーナは微笑んだ。


「お嬢様のお声を聞けて、安心いたしました」


 その言葉に、アリアは小さく笑った。


 鏡が見たいと思った。


 ミーナに頼んで、寝台脇の小さな手鏡を持ってきてもらう。


 鏡面は、磨かれた金属だった。


 現代の鏡のように鮮明ではないが、自分の姿を見るには十分だった。


 そこに映っていたのは、丸い頬をした少女だった。


 黒い髪。


 黒い瞳。


 顔立ちは、日本人だった前世の自分にどこか似ている。


 鼻筋は控えめで、顔の凹凸も少ない。


 貴族の少女らしい華やかさはない。


 けれど、素朴で、親しみやすい顔立ちだった。


「……これが、今の私」


 アリアは鏡を少し傾けた。


 光を受けた黒髪が、わずかに青い光沢を帯びる。


 瞳は深く、ほとんど光を通さないほどの黒だった。


 この世界では、髪と瞳の色が魔力の素質と関係している。


 色が濃いほど、魔力が強い傾向にある。


 そして、漆黒はその頂点とされる色だった。


 だが、アリアはまだ、自分の色がどのような意味を持つのか、十分には理解していなかった。


 そもそも、魔法を使える人間は非常に少ない。


 色が濃いからといって、誰もが魔法を使えるわけではないのだ。


「お嬢様、少しお疲れになったのではありませんか?」


「うん。少し」


「では、横になりましょう。お食事も、もうすぐお持ちいたします」


 アリアは鏡を返し、枕に頭を預けた。


 そのとき、ふと考えた。


 この世界で、これからどう生きていこう。


 前世の知識がある。


 けれど、それだけで何でもできるわけではない。


 日本で当たり前だった道具も、ここにはない。


 食べ物も、生活習慣も、社会の仕組みも違う。


 そして、自分は七歳の少女だ。


 いくら頭の中に大人の記憶があっても、身体はまだ小さい。


 できることには限りがある。


「……まずは、元気にならなくちゃ」


「はい。お身体を大切になさってくださいね」


 ミーナは、優しく毛布を掛け直した。


 アリアは目を閉じた。


 窓の外では、春の風が木々を揺らしている。


 この日、少女は初めて、自分が生まれた世界をもう一つの人生の記憶とともに見つめた。


 それは、まだ誰にも知られていない、小さな始まりだった。


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