第二十一章 王都からの書状 ― 古き誓約が動き出す
一 雪解けの報せ
春の風が、ヴァルデン家の古い城館を包んでいた。
冬の名残をとどめていた北の山々にも、少しずつ雪解けの季節が訪れている。谷間を流れるヴァルダ川は水量を増し、森では冬を越した鳥たちが枝から枝へと飛び移っていた。
城館の中庭にも、春の光が差し込んでいる。
アリアは窓辺に置かれた椅子に座り、手元の本を閉じた。
最近は、ローレンツ・ヴァイスフェルト先生から教わる歴史や地理の勉強が、以前にも増して面白くなっていた。
この世界の国々は、どのように生まれ、どのように人々の暮らしを支えているのか。王都にはどんな人々が暮らし、辺境の領主たちはどんな役目を担っているのか。
知れば知るほど、まだ知らないことが増えていく。
「アリア様、お茶をお持ちしました」
ミーナ・ベルが、焼き菓子を添えた小さな盆を運んできた。
「ありがとう、ミーナ」
「今日はお勉強がお進みになりましたか?」
「うん。でも、国の歴史は難しいですね。昔のことを知るには、残っている本や石碑を調べないといけないんだもの」
「それは、そうですね。長い年月の間に失われてしまったものも多いのでしょう」
アリアは、先日森で見つかった石碑を思い出した。
土の中から現れた古い石板。そこには、三つの円と、それらを結ぶ線が刻まれていた。
文字は誰にも読めず、何を意味するのかも分かっていない。
それでも、二千年前の大きな出来事と何か関係があるのではないか。
そう考えると、胸の奥に小さな好奇心が湧いてくる。
「いつか、あの石碑に書かれていることが分かるといいわね」
「ええ。ですが、焦らずに調べていくことが大切でございます」
ミーナの言葉に、アリアは素直に頷いた。
そのときだった。
城館の玄関ホールから、普段よりも慌ただしい足音が聞こえてきた。
続いて、執事セバスチャン・ヴァルケンの落ち着いた声が響く。
「旦那様。ただいま、王都からの使者が到着いたしました」
アリアとミーナは顔を見合わせた。
王都からの使者。
辺境の城館に、王家から直接人が訪れることは珍しい。
しかも、ただの商務や行政上の連絡であれば、通常は書状が届けられるだけである。
「王都から?」
アリアが小さく呟いた。
ミーナは、少しだけ表情を引き締めた。
「何か大切なお知らせかもしれませんね」
その頃、執務室ではエドガー・ヴァルデンが使者を迎えていた。
二 王家の封蝋
執務室の扉が閉じられる。
使者は旅装の外套を脱ぎ、胸元から細長い書状箱を取り出した。
「アルセリア王国王家の名において、ヴァルデン辺境伯家当主、エドガー・ヴァルデン殿に書状をお届けいたします」
使者は深く一礼した。
書状箱には、王家の紋章が刻まれた金色の封蝋が施されていた。
王冠を戴く獅子と、その周囲を囲む八つの星。
それは、建国王アウレリア家の紋章であると同時に、八つの辺境伯家との建国時の誓約を象徴するものでもあった。
エドガーは書状箱を受け取ると、封蝋を確かめた。
「確かに、王家の印章だ」
「はい。王都より、陛下の正式な命を受けて参りました」
「遠路ご苦労だった。まずは休息を取られるとよい。詳しい話は、その後に聞こう」
「お気遣い、感謝いたします」
使者が控えの間へ案内されると、エドガーは書状箱を机の上に置いた。
やがて、アルベルト・ヴァルデンが呼ばれた。
「父上、お呼びでしょうか」
「ああ。王都から書状が届いた」
アルベルトの目が、封蝋に向けられる。
「王家からですか」
「そうだ。お前にも内容を確認してもらう。これから先、領主としてだけでなく、王家や他の辺境伯家と文書を交わす機会も増えるだろう」
「承知しました」
エドガーは封を切り、書状を広げた。
そこには、王家の正式な文書として整えられた、丁寧な文字が並んでいた。
三 王都が知った異変
書状には、まず王都からの挨拶と、北方の冬を越えたヴァルデン領への労いが記されていた。
続いて、本題に入る。
それは、近頃、王都の学術院と王家の記録局が進めている調査についてだった。
王都には、魔石や魔道具、古代遺物を研究する者たちがいる。
彼らは王国各地から寄せられる報告を整理し、魔石の品質や性質、古代遺物の発見、魔力に関する珍しい現象を記録していた。
その調査の中で、いくつかの地域から、通常とは異なる魔石の反応が報告されていたという。
魔石の光が弱まった後、時間を置いて再び明るくなる現象。
周囲の環境や温度だけでは説明しにくい、わずかな反応の変化。
また、古い遺跡から発見された石板や刻印の中に、現代の記録には残されていない古い図形が見つかる事例もあった。
王都は、それらを単なる偶然として片づけず、各地の報告を照らし合わせているらしい。
そして、ヴァルデン領からも報告が届いていた。
北東の鉱山で発見された、青白い光を放つ魔石。
光が弱まった後、再び少しずつ明るさを取り戻す性質。
さらに、森で見つかった古代の石碑。
三つの円と、それを結ぶ線が刻まれた、出自の分からない石板。
王都は、これらの情報を重要な調査資料として受け止めていた。
アルベルトが書状を読み進める。
「父上。王都は、ヴァルデン領だけでなく、ほかの地域でも似た現象が起きているかどうかを調べているようですね」
「そうだな。各地の報告を集めているのだろう」
「それなら、我が領で見つかった魔石も、特別なものと決めつけることはできませんね」
「そのとおりだ。珍しい現象であることと、その原因が分かったことは別だ」
エドガーは、書状の続きを指で押さえた。
そこには、もう一つの報告について触れられていた。
魔力適性に関するものだった。
ヴァルデン家で行われた簡易測定において、アリアに弱いながらも魔力反応らしきものが認められたこと。
ただし、測定器の反応は不安定であり、魔法の種類や魔力量を特定できるものではないこと。
王都は、その報告を慎重に扱うよう求めていた。
「アリアのことまで、王都に伝わっていたのですね」
アルベルトが、声を落とした。
「ああ。魔力の測定結果を記録した者がいる以上、いずれ報告が上がる可能性はあった」
「王都は、妹を呼び寄せようとするのでしょうか」
エドガーは、すぐには答えなかった。
「書状の後半を読んでみなさい」
四 古き誓約
書状の後半には、王家と八つの辺境伯家が建国時に交わした誓約について記されていた。
アルセリア王国が成立したのは、今からおよそ七百八十年前。
その建国にあたって、王家アウレリア家と、八つの辺境伯家の祖先たちは、一つの誓約を結んだ。
それは、単なる忠誠の誓いではなかった。
王家が国の中央を治め、八つの辺境伯家がそれぞれの境界を守る。
互いの役割を尊重し、どちらか一方が他方を支配することなく、国の存続を共に担う。
その誓約は、魔法によって結ばれたものだった。
王家と八つの家が、互いに守るべき義務を果たす限り、国はその秩序を保つ。
しかし、誓約を破れば、王家と王都の貴族たちの血脈に災いが及び、国そのものにも大きな災厄が訪れると伝えられている。
そのため、王家は八つの辺境伯家を単なる臣下として扱うことはできない。
八つの家もまた、王家の命令に無条件で従う立場ではない。
互いが、建国の誓約を守る責任を負っているのだ。
アルベルトは、書状を読み終えると、しばらく黙っていた。
「父上。王家が、この誓約について改めて触れているのは、何か理由があるのでしょうか」
「あるのだろう。魔石の異変や古代遺物の発見が、二千年前の出来事と関係している可能性を考えているのかもしれない」
「二千年前……三つの大陸が一つになったという、あの災厄ですか」
「ああ。建国よりもはるか昔の出来事だ。今の我々が知っていることは、残された伝承や断片的な記録にすぎない」
エドガーは窓の外へ目を向けた。
「だが、もし王都が古い誓約に関わる何かを察知しているのなら、我々も軽く考えるわけにはいかない」
アルベルトは静かに頷いた。
ヴァルデン家の紋章は、銀の狼が深緑の山を駆け上がる姿である。
狼は、一頭だけで生きる獣ではない。
仲間を守り、互いに支え合い、群れとして生きる。
それは、建国の誓約にも通じるものだった。
五 王都からの招請
エドガーは書状の最後の部分を読み上げた。
王家は、ヴァルデン辺境伯家に対し、今回の魔石の異変と古代遺物について、これまでの調査記録を整理し、王都の研究者と情報を共有することを求めていた。
また、魔力適性の報告については、本人の意思と家族の判断を尊重したうえで、将来の学習や測定に関する相談を行いたいとしていた。
そして、最後にこう記されていた。
王都において、各地の報告を持ち寄る協議の場を設ける予定である。
ヴァルデン辺境伯家当主、エドガー・ヴァルデンに出席を要請する。
可能であれば、後継者アルベルト・ヴァルデンも同行すること。
なお、アリアについては、本人と家族の意思を尊重し、現時点で王都への出席を強制するものではない。
アルベルトは、書状を机に置いた。
「父上。王都へ行くことになるのでしょうか」
「まだ決めてはいない。北境の守りも、領地の仕事もある。こちらの事情を考えずに出発するわけにはいかない」
「しかし、王家からの正式な招請です」
「だからこそ、慎重に判断する必要がある。王家と我々は、建国の誓約によって結ばれている。単なる命令として受け取ることも、反対に、理由もなく拒むこともできない」
エドガーは、書状を丁寧に畳んだ。
「まずは返書を準備する。協議の目的、参加する者、日程、王都での調査内容を確認しなければならない」
「私も返書の作成を手伝わせてください」
「もちろんだ。これからは、お前も領主としての文書の扱いを学ばなければならない」
アルベルトの表情が引き締まった。
王都とのやり取りは、単に文字を整えればよいものではない。
一つの言葉が、家の立場を示し、相手との関係を左右する。
彼は父の隣に座り、書状の内容をもう一度読み返した。
六 小さな令嬢に伝えられたこと
その日の夕刻、アリアも父の執務室へ呼ばれた。
部屋にはエドガーとアルベルトがいた。
机の上には、王家の封蝋が付いた書状が置かれている。
「お父様。王都からのお手紙が届いたと聞きました」
「ああ。アリアにも関係することが書かれていたので、話しておこうと思った」
エドガーは、娘を隣の椅子へ座らせた。
「王都では、最近、各地で見つかっている珍しい魔石や古い遺跡について調べているそうだ。ヴァルデン領で見つかった青白い魔石と、森の石碑についても報告が届いている」
「王都の人たちも、あの石碑を知っているの?」
「そうだ。だが、まだ何が書かれているのかは分かっていない。魔石についても、なぜ光が戻るのかは分からないままだ」
「そうなのですね……」
「それから、お前の魔力測定についても報告が伝わっている」
アリアは、少しだけ背筋を伸ばした。
「私のことも?」
「ああ。ただし、測定器に弱い反応があったというだけだ。魔法が使えると決まったわけではない」
「はい」
「だから、今までどおり学び、遊び、健やかに過ごせばよい。王都が関心を持っているからといって、お前が何かを急いで覚える必要はない」
アリアは父の顔を見つめた。
「王都へ行くのですか?」
「私とアルベルトは、協議に出席するかどうかを検討している。お前を連れていくかどうかは、まだ決めていない」
「分かりました」
アリアは、少し考えてから尋ねた。
「お父様。王家とヴァルデン家は、昔から仲間なの?」
エドガーは、穏やかに頷いた。
「仲間という言葉が近いかもしれない。王家は王都と中央の国を治め、我々は北の境界を守る。役目は違うが、どちらが上というものではない」
「王様の言うことでも、何でも聞くわけじゃないの?」
「そうだ。王家にも守るべき責任がある。辺境伯家にも守るべき責任がある。建国の誓約は、その両方を定めたものなのだ」
「どうして、そんな約束をしたの?」
「一つの家だけでは、国を守れなかったからだろう。中央には中央の役割があり、辺境には辺境の役割がある。互いを必要とするからこそ、誓約を結んだのだ」
アリアは、机の上の書状を見つめた。
王冠と八つの星。
それは、遠い昔に交わされた約束の印だった。
「昔の約束が、今も続いているんだね」
「そうだ。人が代わり、時代が変わっても、守らなければならないものがある」
エドガーの言葉を聞き、アリアは静かに頷いた。
七 銀の狼が見つめる未来
夜、城館の執務室には、まだ明かりが残っていた。
エドガーとアルベルトは、王都への返書について話し合っていた。
「父上、王都での協議には、ほかの辺境伯家も招かれるのでしょうか」
「おそらくな。今回の調査が複数の地域に関わるのであれば、八家の間でも情報を共有する必要がある」
「グラーフェンハルト家にも知らせるべきでしょうか」
「王家からの正式な連絡が届いているか、確認しておこう。ヴォルフラム殿なら、北方の異変についても独自の情報を持っているはずだ」
アルベルトは、返書の下書きに目を落とした。
「王都に出向くとなれば、領地の仕事を誰に任せるかも考えなければなりません」
「そうだ。私が不在の間、領地を守る者が必要になる。北境の守備を弱めることもできない」
「セバスチャンやマティアスにも相談します」
「頼む。財政の余裕は大きくない。長い旅になるなら、費用も人員も慎重に見積もらなければならない」
華やかな王都への旅であっても、辺境伯家にとっては簡単なことではない。
馬と護衛、宿泊費、道中の食料、領地を留守にする間の行政。
一つ一つを考え、準備しなければならなかった。
その頃、アリアは自室の窓辺に立っていた。
夜空には、星が静かに瞬いている。
王都。
まだ見たことのない大きな街。
そこには王家があり、貴族たちが集まり、魔石や魔道具を研究する人々もいる。
そして、二千年前の歴史を調べる者たちもいるのだろう。
アリアは、遠くの山並みに目を向けた。
その向こうには、広い森が続いている。
森の中で見つかった石碑。
鉱山の青白い魔石。
自分の手を測定器に近づけたときに見えた、かすかな光。
それぞれは、まだ別々の出来事にすぎない。
けれど、どこかでつながっているのかもしれない。
「いつか、分かる日が来るのかな」
小さく呟いた声は、夜の静けさに溶けていった。
窓辺から離れようとしたとき、胸の奥にほんのわずかな温かさを覚えた。
アリアは手を当ててみたが、それ以上の変化はない。
不思議に思いながらも、今はそれを確かめる方法がなかった。
彼女は、そっとカーテンを閉じた。
その頃、執務室では、エドガーが王家の書状を再び手に取っていた。
七百八十年前、建国王アウレリアと八つの辺境伯家の祖先が交わした誓約。
それは、長い年月の間、国の根幹として守られてきた。
しかし、二千年前の災厄について新たな手掛かりが見つかり始めた今、その誓約が何を守るために結ばれたのか、改めて考える時が来ているのかもしれない。
エドガーは、王家の封蝋を見つめた。
「古い約束が、再び動き出すということか……」
窓の外では、春の風が城館の旗を揺らしていた。
銀の狼の旗は、暗い夜空の下でも、静かにその姿を保っていた。
それは、まだ見ぬ未来へ向けて、古き誓約を受け継ぐ者たちを見守っているかのようだった。




