第二十章 黒い瞳に宿る光 ― 眠れる力の兆し
一 春の朝に訪れた変化
春の風が、ヴァルデン家の古い屋敷を包んでいた。
庭では若葉が陽光を受け、枝先に小さな花が咲き始めている。冬のあいだ閉ざされていた窓も少しずつ開かれ、屋敷の中には暖かな空気が流れ込んでいた。
森で発見された古い石碑の調査は、慎重に続けられていた。
石碑に刻まれた文字は、現在のアルセリア王国で使われているものとは異なり、すぐに読み解くことはできない。ローレンツ・ヴァイスフェルトとフリードリヒ・クリスタルヴェルクは、模写された文字や図形を比較しながら、少しずつ手掛かりを探していた。
一方、アリアはいつもどおり、朝の学習を終えようとしていた。
「アリア様。今日はここまでにいたしましょう」
家庭教師のローレンツが、教本を閉じた。
「ありがとうございました、先生」
「ずいぶん文字を覚えられましたね。以前よりも、文章の意味を考えながら読めるようになっています」
「まだ分からない言葉もあります」
「それでよいのです。分からない言葉に出会ったとき、すぐに答えを求めるのではなく、前後の文章から意味を考えてみる。それも学問の一つです」
アリアは頷いた。
この世界の文字は、前世で使っていた日本語とは違う。
しかし、言葉の仕組みや文章の読み方には、共通する部分もある。前世の知識が助けになることもあれば、かえって思い込みの原因になることもあった。
「先生。魔法についても、同じなのでしょうか?」
「魔法ですか?」
「分からないことを調べて、少しずつ覚えていくのですか?」
「基本は同じでしょう。ただし、魔法は知識だけで扱えるものではありません。適性や訓練、そして何より安全への理解が必要です」
ローレンツは穏やかに説明した。
「魔法を使える者は少数です。適性があっても、すべての魔法を扱えるわけではありません。得意な力も、人によって異なります」
「私にも、何かできるのでしょうか?」
ローレンツはすぐには答えなかった。
「それは、まだ分かりません。魔法の適性は、成長とともに明らかになる場合もあります。今の段階で決めつける必要はありませんよ」
「はい」
アリアは微笑んだ。
そのときだった。
胸の奥に、かすかな温もりが広がった。
以前から時折感じていたものに似ている。
けれど、今日は少し違った。
温もりが胸から肩へ、そして指先へと流れていくような、不思議な感覚だった。
アリアは思わず右手を見つめた。
「どうしました、アリア様?」
「いえ……少し、手が温かくなった気がしたのです」
ローレンツは少女の様子を見つめた。
「痛みはありますか?」
「ありません。少し温かいだけです」
「そうですか。無理をせず、しばらく様子を見ましょう」
ローレンツは、それ以上追及しなかった。
まだ、それが魔法に関係する現象なのかどうか、判断できる材料はなかったからである。
二 黒い瞳を見つめる魔石職人
その日の午後、エドガーの許可を得て、フリードリヒ・クリスタルヴェルクが屋敷を訪れた。
彼は森の石碑についてローレンツと意見を交わすために来ていたが、同時に、以前から調査している青白い魔石の経過も報告する予定だった。
執務室には、エドガー、アルベルト、ローレンツ、フリードリヒが集まっていた。
机の上には、石碑の模写と魔石の記録帳が並べられている。
「石碑の文字については、まだ解読できていません。ただ、三つの円と一つの円を示す図形には、何らかの意味があるように思われます」
ローレンツが説明した。
「現在の大陸の形と関係があるのでしょうか?」
アルベルトが尋ねる。
「その可能性はあります。しかし、地図なのか、象徴なのか、それとも別の意味なのか、今のところ判断できません」
フリードリヒは記録帳を開いた。
「魔石のほうにも、少し変化がありました」
「青白い石か?」
エドガーが尋ねる。
「はい。光の強さには変化がありますが、以前と同じように、一定の時間を置くと淡い光が戻る現象が見られます。ただし、原因は分かりません」
「アリアが近づいたときに光が強まった件は?」
「記録には残しております。しかし、まだ一度の調査で確認できた現象です。再現性があると断定するには、条件を揃えた観察が必要です」
そのとき、扉の外から声がした。
「失礼いたします。アリア様がお見えです」
ミーナ・ベルだった。
「入りなさい」
エドガーの許可を受け、アリアが部屋に入ってきた。
「お父様、お話し中でしたか?」
「構わないよ。こちらは魔石と石碑の話をしていたところだ」
アリアは机の上に目を向けた。
「また、青白い魔石を調べているのですね」
「ええ、アリア様。先日の変化について、もう少し詳しく確認したいと考えています」
フリードリヒは、彼女の目を見た。
黒い瞳。
光を受けると、深い夜のような色合いの中に、わずかな輝きが浮かぶ。
この国では、髪や瞳の色が魔力の適性と関係すると言われていた。
色が濃く、深いほど強い魔力を持つ傾向がある。
漆黒は、その中でも特に高い適性を示す色とされている。
だが、それはあくまで傾向である。
黒い髪や瞳を持つ者が、必ず強い魔法を使えるわけではない。魔力の量だけでなく、性質や制御する力も人によって違う。
「アリア様。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「最近、身体に何か変わったことはありませんか。手が温かくなる、胸のあたりに不思議な感覚がある、あるいは周囲のものがいつもと違って見えるなど」
アリアは少し考えた。
「胸の奥が温かくなることはあります。今日も、指先まで温かくなる感じがしました」
フリードリヒはローレンツと視線を交わした。
「いつ頃からですか?」
「冬の頃から、時々です。最近は少し増えたような気がします」
「それ以外に、何か変わったことは?」
「いいえ。特別なことはありません」
フリードリヒは記録帳に短く書き留めた。
「ありがとうございます。今のお話だけでは、魔法の兆候だとは言えません。ただ、今後も同じことがあれば、無理のない範囲で記録しておくとよいでしょう」
アリアは頷いた。
「分かりました」
三 魔力を確かめる道具
数日後、フリードリヒはエドガーに一つの提案をした。
「アリア様の適性について、簡単な確認を行ってみてはいかがでしょうか」
「魔法の適性検査か?」
「はい。ただし、強い魔法を使わせるものではありません。魔石を使った測定器で、魔力の反応があるかどうかを確認する程度です」
エドガーは慎重な表情を崩さなかった。
「危険はないのか?」
「通常の測定であれば、危険はほとんどありません。ただし、測定器の反応だけで、魔法の種類や能力まで分かるわけではありません」
「どのような道具なのですか?」
アルベルトが尋ねた。
フリードリヒは小さな木箱を机に置いた。
中には、透明に近い淡い灰色の魔石が収められていた。
その石を囲むように、細い金属の輪が取り付けられている。
「これは、魔力の反応を光の変化として示す道具です。魔力がある程度強ければ、石の色や明るさに変化が現れます」
「誰でも使えるのですか?」
「測定そのものは、魔法を使えない者でも行えます。ただし、反応を読み取るには経験が必要です」
フリードリヒは説明を続けた。
「現在の測定器は、まだ完全なものではありません。魔力の量を正確に数値化することもできませんし、魔力の性質をすべて判別できるわけでもありません。弱い反応を見逃すこともあります」
「つまり、これで何も反応がなくても、魔法の適性がないとは限らないのだな」
エドガーが確認した。
「そのとおりです」
「反対に、強い反応が出ても、すぐに魔法が使えるわけではない?」
「はい。魔力を持っていることと、それを制御して魔法として扱えることは別です」
エドガーはしばらく考えた。
アリアはまだ七歳である。
本人が興味を持っているからといって、無理に能力を調べる必要はない。
だが、何か異変があるのなら、知らないままにしておくことも心配だった。
「アリア本人の意思を確かめよう。嫌がるなら行わない。検査も一度に長く行わず、体調に変化があればすぐに中止する」
「承知しました」
フリードリヒは頭を下げた。
四 小さな手に宿る反応
検査は、屋敷の中でも人の出入りが少ない小部屋で行われることになった。
立ち会うのは、エドガー、アルベルト、ミーナ、フリードリヒ、そしてローレンツだった。
測定器は机の中央に置かれている。
アリアは椅子に座り、少し緊張した様子でそれを眺めていた。
「怖くはないかい?」
エドガーが尋ねる。
「少しだけ。でも、痛くないのなら大丈夫です」
「嫌になったら、いつでもやめていいからね」
「はい、お父様」
フリードリヒは、測定器の仕組みをもう一度説明した。
「この石に手を近づけてください。触れる必要はありません。力を込めたり、何かを念じたりする必要もありません。ただ、いつもどおりにしていれば大丈夫です」
「分かりました」
アリアは右手をゆっくりと差し出した。
指先が魔石から少し離れたところで止まる。
最初は何も起こらなかった。
魔石は淡い灰色のままで、光も色も変わらない。
フリードリヒは測定器の位置を確かめた。
「そのまま、少し待ってください」
数十秒が過ぎた。
すると、魔石の中央に小さな光が浮かんだ。
淡い灰色の中に、薄い青色が混じる。
「反応が出ています」
フリードリヒの声がわずかに変わった。
アルベルトが身を乗り出す。
「これは、魔力なのですか?」
「その可能性が高いでしょう。ただし、まだ弱い反応です」
フリードリヒは測定器を確認した。
光は一定ではなかった。
ゆっくり明るくなり、少し弱まり、また明るくなる。
「安定していないのか?」
エドガーが尋ねる。
「いいえ。測定器の構造上、反応が一定でない場合もあります。魔力の揺らぎなのか、器具の感度によるものなのか、今は判断できません」
アリアは不思議そうに石を見つめた。
「私の手から、何か出ているのでしょうか?」
「そう感じる必要はありません。今のところ、魔石が何らかの反応を示したということだけです」
フリードリヒは、測定器の記録を取りながら答えた。
そのとき、魔石の中心に黒に近い小さな光が一瞬だけ浮かんだ。
それはすぐに消え、再び淡い青色に戻った。
フリードリヒは息を止めた。
「今の色は……」
「どうした?」
エドガーが尋ねる。
「一瞬だけ、非常に暗い色が見えました。測定器の影かもしれません。光の反射や、石の内部にある小さな傷が原因の可能性もあります」
彼は器具の角度を変え、同じ現象が起こるか確かめた。
しかし、黒い光は再び現れなかった。
「今日はここまでにしましょう」
フリードリヒは測定器からアリアの手を離させた。
「長く続けても、今は得られる情報が限られています」
アリアは少し残念そうだったが、素直に頷いた。
「ありがとうございました」
五 漆黒という色
検査のあと、フリードリヒは測定結果を整理した。
「弱いながらも、魔力に反応した可能性があります。ただ、測定器の状態も含めて、もう一度確認する必要があります」
「アリアには魔力があるということか?」
エドガーが尋ねた。
「現段階では、その可能性があるというところです。確定するには、別の日に同じ条件で測定し、同様の反応が見られるか確かめる必要があります」
「色についてはどうだ?」
アルベルトが尋ねた。
「髪や瞳の色と魔力の関係については、古くから知られています。濃い色ほど魔力が強い傾向があり、漆黒は最も高い適性を示す色とされています」
「アリア様は、髪も瞳も黒いですね」
ミーナが静かに言った。
「ええ。しかし、色だけで魔力の量や能力を決めることはできません。黒い髪や瞳を持っていても、魔法を扱えない人はいます。反対に、淡い色でも優れた魔法を使う人もいます」
フリードリヒは、測定器の記録を見つめた。
「それに、魔力の強さと魔法の種類は別の問題です。火を扱う者、水を扱う者、風を操る者、物に働きかける者。得意な力はそれぞれ違います。伝承には、極めて珍しいものもあるようです」
エドガーは娘のほうを見た。
アリアは、話を聞きながら自分の黒い髪を指先で触っていた。
「私の髪が黒いのは、魔法が使えるからなのでしょうか?」
フリードリヒは微笑んだ。
「それはまだ分かりません。色は一つの手掛かりにすぎないのです。大切なのは、これから何が分かるかでしょう」
アリアは頷いた。
「分かりました。急がずに調べていけばいいのですね」
「そのとおりです」
六 父が守ろうとするもの
その夜、エドガーはアルベルトと二人で執務室に残っていた。
机には、アリアの測定記録が置かれている。
「父上。アリアには、本当に魔法の適性があるのでしょうか」
「まだ分からない。フリードリヒも慎重に判断している」
「ですが、魔石が反応したのは事実です」
「そうだな」
エドガーは窓の外を見つめた。
「もし、アリアに強い魔力があるのなら、王都の学者や貴族院が関心を持つかもしれない。王立貴族学園へ進学するかどうかにも影響するだろう」
「アリアが望むなら、学園で学ぶ機会を与えたいです」
「もちろんだ。だが、まだ七歳だ。今から将来を決める必要はない」
アルベルトは頷いた。
「本人の意思を尊重するべきですね」
「そうだ。魔法は、人を助けることもできる。しかし、扱いを誤れば人を傷つけることもある。力を持つことだけが大切なのではない。どう使うかを学ばなければならない」
エドガーは測定記録を閉じた。
「それに、ヴァルデン家は国境を守る家だ。アリアにどのような力があったとしても、まずは一人の娘として、安心して暮らせる場所を守ってやりたい」
「私もそう思います」
「この件は、当面、私たちとフリードリヒ、ローレンツ、ミーナだけで扱おう。確かなことが分かるまでは、領内にも広めない」
「承知しました」
アルベルトは、兄として妹を守りたいと思っていた。
だが、彼女の力を自分の考えで決めつけることはしたくなかった。
アリアにはアリア自身の人生がある。
それを忘れてはならないと、彼は思った。
七 黒い瞳に宿る光
翌朝。
アリアは、いつもどおり庭を歩いていた。
昨夜の話を思い返しながら、花壇に咲き始めた小さな花を眺める。
魔法。
魔力。
漆黒。
その言葉は、どこか遠い世界のもののようにも感じられた。
「アリア様」
ミーナが後ろから声をかけた。
「お身体の具合はいかがですか?」
「大丈夫です。昨日も、少し疲れただけでした」
「それならよかったです。今日は勉強の前に、少しお庭で過ごしましょう」
「はい」
アリアは花壇のそばにしゃがんだ。
朝露を受けた花びらが、陽の光を反射している。
そのとき、また胸の奥に温もりが生まれた。
昨日よりも、はっきりとした感覚だった。
アリアは右手を胸に当てた。
温もりがゆっくりと広がり、指先へと伝わっていく。
そして、ほんの一瞬。
彼女の黒い瞳の奥に、小さな光が宿った。
それは、魔石のような青白い光ではなかった。
夜空の奥に浮かぶ星のように、深い黒の中で静かに瞬いた光だった。
「アリア様?」
ミーナが気づき、そばへ寄った。
「どうかなさいましたか?」
「ミーナ。今、何か光りませんでしたか?」
「光、ですか?」
「私の目の前に、何かが見えたような気がしたのです」
ミーナは周囲を見渡した。
庭には朝の陽射しが差し込んでいる。
特別なものは何も見当たらない。
「眩しかったのでしょうか?」
「そうかもしれません」
アリアは目を伏せた。
けれど、胸の温もりはまだ残っていた。
その感覚は、恐ろしいものではなかった。
むしろ、ずっと昔から自分の中に眠っていたものが、静かに目を覚まそうとしているようだった。
しかし、アリアにはまだ、それが何なのか分からない。
ただ、魔力の存在を示すかもしれない小さな反応が、測定器に現れただけだった。
七歳の少女の中で、何かが少しずつ動き始めている。
それは、どのような力なのか。
どこまで成長するのか。
そして、二千年前の大災厄や、森に眠る石碑と何らかの関わりがあるのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
春風が庭を吹き抜け、アリアの黒髪を優しく揺らした。
その瞳の奥に宿った小さな光は、朝の陽射しの中で、誰にも気づかれないほど静かに消えていった。




