第8話 ホテルが戦場になる夜
均衡領域が停止した瞬間、地下区画の空気が変わった。
壁の奥から低い音が響く。
押さえ込まれていたものが、一斉に息を吹き返したようだった。
「全館の魔力濃度が上昇しています」
リゼットは記録端末を閉じ、ホテルの設備画面へ切り替えた。
竜界客室区画では温度が急上昇。
夜界区画では照明が次々に消失。
森界区画では装飾用の植物が異常成長を始めている。
機界区画からは、遮断されていた外部通信が流れ込んでいた。
「上に戻ります」
リゼットはエレベーターを呼び出した。
反応はない。
地下区画の扉も、外側から封鎖されている。
グレイは扉の横にある古い非常板を外した。
内部には、現在のホテル設備とは異なる金属製の解錠機構が収められている。
「壊せますか」
「壊す必要はない」
グレイは二本の留め具を抜いた。
一本を支点にし、もう一本を奥へ差し込む。
両腕へ力を込めた瞬間、厚い金属棒が鈍い音を立てて曲がった。
リゼットは目を疑った。
竜人のような膂力ではない。
力をかける場所と向きを、正確に選んでいる。
それでも、五十一歳の人間が出せる力には見えなかった。
封鎖機構が外れ、扉が数センチ開く。
グレイは隙間へ肩を入れた。
古傷のある右膝を踏み込み、重い扉を押し広げる。
「先に行け」
「あなたの膝は」
「まだ歩ける」
リゼットは反論せず、開いた隙間を抜けた。
グレイも続く。
扉が背後で閉じた直後、上階から激しい振動が落ちてきた。
午前四時十二分。
地下二階へ着いた時には、ホテル内の通信が怒号で埋め尽くされていた。
竜界護衛が攻撃を受けた。
夜界の影が人界職員を拘束した。
森界区画から毒性植物が漏れた。
機界の警備装置が各階で起動した。
どれも、誰が最初に手を出したのか分からない。
「全館放送を開きます」
リゼットが端末を操作した。
その前に、別の声が館内へ流れた。
『全職員および各界代表団へ告げる』
ヴァルツだった。
『ホテル・アークの均衡領域は、門界の関係者によって停止させられた』
リゼットの手が止まる。
『容疑者は設備技師ノア・セルン、および危機管理室担当官リゼット・モーン』
廊下の警報灯が赤く点滅した。
『両名は十年前の門界消失事件に関わる記録を盗み、ホテル地下の設備へ不正侵入した』
「違います」
リゼットは放送へ割り込もうとした。
管理権限を拒否される。
『境界探偵グレイ・ハザードも両名に協力している可能性がある。発見した場合は拘束せよ』
放送が切れた。
グレイは天井の放送機を見上げた。
「退路を消したか」
「ヴァルツ長官が、なぜ」
問いは途中で途切れた。
地下通路の先で、防火扉が破裂するように開いた。
熱風が押し寄せる。
竜界の若い護衛が三人、炎をまとって飛び込んできた。
反対側の壁からは夜界兵の影が浮かび上がる。
天井の整備口を破って、機界の警備端末が降下した。
床下からは太い蔦が伸びてくる。
全員が、別の界から攻撃されたと思っていた。
「待ってください!」
リゼットが叫ぶ。
「均衡領域の停止による暴走です。互いの攻撃とは限りません!」
だが、誰も耳を貸さなかった。
竜界護衛が夜界兵へ突進する。
影の刃が森界の蔦を切り裂く。
機界端末の照準が、廊下にいる全員へ向いた。
グレイが、その中央へ踏み出した。
「止まれ」
声は大きくなかった。
当然、誰も従わない。
「人界の初老が、何を偉そうに」
竜界の若い護衛が鼻で笑った。
周囲からも失笑が漏れる。
会議に参加していなかった者たちは、目の前の男が何者なのか知らない。
古傷を抱えた、五十一歳の人界人。
そうとしか見えていなかった。
「どけ!」
炎をまとった竜界兵が飛びかかった。
次の瞬間、その巨体が床に転がっていた。
誰も、グレイが何をしたのか見えなかった。
夜界兵が影から襲う。
森界兵が毒針を放つ。
機界兵が義腕を振り上げる。
グレイの姿が、一度だけ人波の中へ沈んだ。
乾いた音が、立て続けに響く。
武器が落ちる。
影が消える。
義腕が止まる。
蔦が床へ崩れる。
十数秒後。
飛びかかった者たちは、一人残らず床に倒れていた。
二十人を超えている。
誰も死んでいない。
大きな怪我もない。
ただ武器を失い、立つ力と戦う意思だけを奪われていた。
グレイは、最初に立っていた場所からほとんど動いていない。
乱れた白髪を片手で払う。
呼吸も変わっていなかった。
「まだ来るか」
低い声が落ちる。
誰も動かなかった。
先ほどまで笑っていた若い護衛たちが、床からグレイを見上げている。
そこにあったのは怒りではない。
理解できないものを見た恐怖だった。
壁際にいた竜界の年長兵が、青ざめた顔で呟く。
「今の足運び……」
夜界の古参護衛も、グレイが左袖を直す仕草を見て息を呑んだ。
「まさか」
別の兵が、かすれた声でその名を口にした。
「《灰色の悪魔》……」
空気が凍りついた。
その呼び名は、囁きとなって廊下の奥まで広がっていく。
《灰色の悪魔》。
《灰色の悪魔》がいる。
門界を一夜で止めた男。
五界の精鋭を単独で無力化した、顔のない怪物。
若い者たちの表情から、血の気が引いていく。
古参兵は武器から手を離した。
中には、反射的に姿勢を正す者までいた。
恐怖。
畏怖。
憎悪。
そして、伝説を目の前で見た興奮と憧れ。
それまで「人界の初老」と嘲っていた者たちが、今度はグレイの視線を受けることさえ避けている。
倒れた若者を助け起こそうとする者も、彼の前を横切らないよう遠回りした。
数秒前まで殺気に満ちていた廊下が、嘘のように静まっていた。
グレイは彼らの反応に興味を示さない。
血のにじんだ袖を一度押さえ、全員を見回した。
「俺を信じろとは言わない」
誰一人、口を挟まなかった。
「六分だけ従え」
今度は、各界の護衛が一斉に彼の言葉を待った。
「竜界は東側へ行け。炎を使うなら廊下ではなく、防火区画の中だけだ」
ラドが通信越しに応じる。
『理由は』
「スプリンクラーを動かす。熱を一か所へ集めれば、蒸気で影を消せる」
『竜界を消火装置として使う気か』
「民を焼きたいなら好きにしろ」
短い沈黙のあと、ラドが命令を出した。
『東側へ移動する。若い者をまとめろ』
「夜界は照明の落ちた西側を閉じろ。影移動の出口を会議階へ向けるな」
ヴェラが笑う。
『十年前の敵へ命令するの?』
「嫌なら逆らえ」
『六分だけでしょう。付き合うわ』
「森界は蔦を切るな。壁に沿わせて避難路を作れ。毒性植物だけ根元を縛れ」
エイリンが応じる。
『治療師を各階へ送ります』
「機界は警備端末の外部通信を切断。全部止めるな。避難誘導だけ残せ」
クオンの声が返る。
『実行する』
グレイは最後にリゼットを見た。
「中央制御室へ行け」
「一人でですか」
「クオンの補助端末をつける。均衡領域を戻せるのは君だ」
「あなたは」
「残った連中を止める」
「腕を負傷しています」
「六分なら持つ」
グレイは壁の非常灯を外し、リゼットへ渡した。
「制御室に着いたら連絡しろ」
「そのあとは?」
グレイは戦場になった廊下へ向き直った。
「三つ数えたら、中央回線を開けろ」
十年前と同じ言い方だった。
だが今回は、目を閉じろとは言わない。
彼女に進む先を任せている。
「分かりました」
リゼットは走った。
ホテル全館で、防火扉が順に閉じていく。
東側では竜界の熱へスプリンクラーが降り注ぎ、白い蒸気が広がった。
夜界の影は光と蒸気に進路を奪われ、西側へ押し戻される。
森界の蔦は壁沿いに組み替えられ、逃げ遅れた職員を運ぶ道になった。
機界の警備端末は武器を下ろし、避難方向だけを示す。
互いの力が、攻撃ではなくホテルを守るために使われ始める。
中央制御室へ着いたリゼットは、クオンの補助端末を接続した。
均衡装置の主回路は生きている。
だが、再起動には地下側の認証が必要だった。
「地下根門との接続が切られています」
『手動でつなぎ直す必要がある』
クオンが答える。
「場所は?」
背後の扉が開いた。
ヴァルツが立っていた。
制服は乱れ、額には汗が浮かんでいる。
それでも声は落ち着いていた。
「私が案内します」
リゼットは操作卓から離れなかった。
「なぜ、私たちを犯人として放送したのですか」
「私ではありません」
ヴァルツは自分の端末を示した。
「管理権限を奪われました。音声も記録から作られたものです」
今夜、偽の映像と偽の通信を見ている。
あり得ない説明ではない。
「グレイへ連絡します」
「回線は切断されています。急がなければ、各界の環境がホテル内部へ固定される」
ヴァルツは地下へ続く非常扉を開いた。
「あなたの認証なら、根門の接続を戻せる」
なぜ、彼がそれを知っている。
リゼットが問いかけるより先に、背後の制御卓が火花を散らした。
機界端末が爆発し、室内の照明が落ちる。
ヴァルツがリゼットの腕をつかんだ。
「離してください!」
リゼットは非常灯を振り上げた。
ヴァルツは避け、手首を取る。
動きに迷いがない。
危機管理の役人ではない。
相手を傷つけず、声を出させず、短時間で自由を奪う訓練を受けている。
リゼットは彼の足を踏み、身体をひねった。
一度は腕が外れた。
だが、首筋へ冷たいものが触れる。
小型の注射器だった。
「あなたは殺さない」
ヴァルツが耳元で言った。
「まだ、鍵として必要だ」
薬液が入る。
視界が傾いた。
倒れる直前、リゼットは端末の非常送信を押した。
送れたのは、わずかな位置情報だけだった。
午前四時三十八分。
中央制御室へ戻ったグレイは、床に落ちた非常灯を拾った。
血の付いた指で、割れた端末を操作する。
画面に、一度だけ送信された信号が残っていた。
接続先。
ホテル最深部。
建造途中の《根門》。
グレイの顔から、すべての温度が消えた。
「ヴァルツ」
低い声が、暗い制御室へ落ちた。




