第7話 存在しない六番目
午前三時三十四分。
危機管理室の空気は、凍ったように動かなかった。
「予告の標的は、君だ」
グレイの言葉だけが残っている。
リゼットは空の六番目の旗立てを思い出した。
アルバートの席に用意されていた余分なグラス。
そして、彼が残した言葉。
――夜明けには、君が決める。
「私が六人目だという証拠はありません」
リゼットは言った。
声は震えていない。
「アルバート代表が、私を何かに巻き込もうとしていた可能性はあります。ですが、それだけです」
「だから証拠を探す」
グレイは証拠保管台へ目を向けた。
アルバートの所持品が、透明な袋へ分けられている。
端末。
身分証。
客室の鍵。
古い金属製の鍵。
リゼットは最後の一つを取り上げた。
一般的な鍵より長く、持ち手には六本の線が刻まれている。アルバートの客室にも、会議室にも合わなかったため、用途不明として保管していたものだ。
「ホテル内に、この形の鍵穴はありません」
「本当にないのか」
「設備図面にはありません」
「図面にない場所なら?」
グレイは従業員用エレベーターのある方向を見た。
ホテルには、異界へつながる四基のエレベーターがある。
だが従業員用は、地下設備階と各客室階を結ぶだけだ。
少なくとも、リゼットが管理している図面では。
ヴァルツが証拠台へ近づいた。
「地下区画を確認するのですか」
「この鍵が使える場所を探す」
グレイが答えた。
「アルバート代表の遺品です。勝手な持ち出しは認められません」
リゼットが言うと、ヴァルツはすぐにうなずいた。
「正式な調査として許可します。使用場所と時刻を記録してください」
「同行されますか」
「本来ならそうすべきですが、各界本国との通信を止められません」
ヴァルツは壁面に並ぶ警告表示を見た。
国境門では、部隊同士が向かい合っている。
「モーン担当官の位置は常にこちらで確認します。何かあれば、すぐ警備を送ります」
有能な判断だった。
標的とされたリゼットを一人にせず、捜査も止めない。
グレイは何も言わず、古い鍵を受け取った。
午前三時四十一分。
二人は従業員用エレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉まると、リゼットは職員証を操作盤へ触れさせた。
地上階から地下二階までの表示が点灯する。
「見慣れない鍵穴はありません」
「表にはな」
グレイは操作盤の下へしゃがんだ。
右膝を曲げる動きが硬い。
それでも手元は迷わず、床近くの細い板を押した。
小さなふたが開く。
中に、古い鍵穴が隠されていた。
「なぜ分かったのですか」
「新しい設備の下だけ、ねじが古い」
グレイは鍵を差し込んだ。
回す。
何も起きない。
「違ったようですね」
リゼットが言った直後、操作盤の表示がすべて消えた。
暗い板の中央へ、六本の線が浮かび上がる。
続いて、文字が表示された。
――利用者を確認します。
「生体認証です」
リゼットは眉を寄せた。
「ですが、ホテルの現行形式ではありません」
「読めるか」
「古い門界式に近い構造です」
見たことがないはずなのに、操作の順番が分かった。
リゼットはためらいながら、右手を表示へ重ねた。
淡い光が指先から手首へ広がる。
数秒後、表示が変わった。
――適合確認。
――接続先を開きます。
エレベーターが動き出した。
下へ。
地下二階を過ぎても止まらない。
階数表示には、数字の代わりに六本線の印が出ている。
「こんな階はありません」
「図面にはな」
機械音が遠ざかる。
通常の地下設備階より、さらに深い。
リゼットは危機管理室へ通信を試した。
雑音だけが返ってきた。
「地下二階より下は、ホテルの通信範囲外です」
「ヴァルツには位置が見えているはずだ」
「この場所を知っていれば」
グレイが彼女を見る。
「出口が開くまで、俺から離れるな」
その言い方に、リゼットは十年前の記憶を重ねかけた。
低い声。
暗い場所。
腕に抱えられた感覚。
だが、扉が開く音が記憶を遮った。
冷たい空気が流れ込む。
エレベーターの先には、古い地下通路が続いていた。
壁も床も、現在のホテルとは造りが違う。
白い石材に細い金属線が通り、照明は天井ではなく壁の内部から淡く光っている。
「門界の建築です」
リゼットは壁へ触れた。
頭で考えるより先に、そう分かった。
通路の奥には、重い扉があった。
グレイが鍵を差し込む。
今度は、リゼットが扉の中央へ手を当てた。
二人の操作がそろうと、扉が静かに左右へ開いた。
中は、広い避難区画だった。
古い寝台。
折り畳まれた毛布。
医療箱。
長机。
壁際には、小さな靴や子供用の食器まで残されている。
長い年月が過ぎているのに、誰かが定期的に手入れしていたらしく、厚い埃は積もっていなかった。
正面の壁には、六本の旗が並んでいる。
人界。
竜界。
夜界。
森界。
機界。
そして、見たことのない白銀の旗。
六本の線が、一つの輪につながっている。
「門界」
リゼットの口から、自然に名前が出た。
胸の奥が強く痛んだ。
知らないはずの旗だった。
それなのに、懐かしい。
グレイは彼女を見たが、何も言わなかった。
部屋の奥には、古い記録端末があった。
リゼットが近づくと、眠っていた画面が点灯する。
――接続適合者を確認。
――保護記録を開きます。
一覧が表示された。
記録数、三百十二。
リゼットは息を止めた。
アルバートの金庫にあった死亡者名簿と、同じ数だった。
各記録には欄が三つある。
旧氏名。
移送記録。
身分処理。
だが詳細は暗号化され、現在の状況までは確認できない。
「十年前に作られた記録だ」
グレイが画面の日付を見た。
門界が消えたと発表された、その翌日。
リゼットが記録へ触れると、暗号化されていた項目の一部が開いた。
――移送時年齢、十六歳。
――新規氏名、リゼット・モーン。
――人界身分記録、発行完了。
リゼットの指が止まった。
「……なぜ、私の名前がここにあるんですか」
グレイは答えなかった。
「これは本物ですか」
「記録上はな」
「そんな答えではなくて」
リゼットは端末を操作し、記録の情報を調べた。
作成された日時。
記録を残した設備。
その後に書き換えられた形跡がないか。
どれも、十年前のものだった。
自分を六人目に仕立てるため、今夜になって作られた記録ではない。
それでも、すぐには信じられなかった。
「誰かが、前から私を利用するために用意していた可能性もあります」
「ある」
グレイは否定しなかった。
「だから、俺の言葉も含めて疑え」
リゼットは次の記録を開いた。
――対象、十六歳前後の少女。
――左肩および右脚を負傷。
――門界から移送。
その下に、現在のリゼットの生体情報との照合結果が表示された。
一致率、九十九・九八パーセント。
「違う」
リゼットは画面から一歩下がった。
「私は、人界で生まれたはずです」
「誰から聞いた」
リゼットは答えようとして、言葉を失った。
身分証には、そう書かれていた。
学校でも、ホテルでも、人界出身として扱われてきた。
だが、自分が生まれた時のことを語る家族はいない。
幼い頃の記憶も、十六歳より前だけがひどく曖昧だった。
「これは罠かもしれません」
「そう思うなら、まだ信じなくていい」
グレイの声は静かだった。
「記録を最後まで見ろ」
画面の下部に、身分発行の詳しい内容が表示された。
十年前、門界から移された十六歳の少女へ、人界で暮らすための新しい名前と身分が与えられている。
新規氏名、リゼット・モーン。
生年は、当時十六歳になるように設定されていた。
誕生日の月日には、この身分が発行された日が使われている。
画面の隅には、同じ日付の記録があった。
――ホテル・アーク地下保護区画、運用開始。
リゼットは、二つの記録を見比べた。
「この地下区画が使われ始めた日に……」
声が続かなかった。
「十六歳の少女に、リゼット・モーンという名前と、人界で生きるための身分が与えられた」
グレイは何も言わない。
「その少女が、私だというんですか」
画面には、自分の名前がある。
生体情報も一致している。
だが、二十六年間信じてきた自分が、急に別人になったようだった。
夢かもしれない。
誰かに、巧妙にはめられているのかもしれない。
そう考えなければ、立っていられなかった。
記憶の奥で、低い声が響いた。
――三つ数えたら、目を閉じろ。
灰色の手袋。
自分を抱き上げた腕。
左手から落ちていた血。
リゼットはグレイの左手を見た。
「あなたは、私が誰なのか知っているんですね」
グレイは答えなかった。
「見せてください」
「何をだ」
「左手です」
数秒後、彼は黙って袖を上げた。
手の甲から手首へ、古い傷が走っている。
記憶の中の傷と、同じ位置だった。
「あなたが、あの夜の……」
「そうだ」
短い返事だった。
「いつから気づいていたのですか」
「ホテルで君の声を聞いた時だ」
「最初からではないんですね」
「顔も名前も変わっていた」
「それでも、声だけで?」
グレイは袖を戻した。
「忘れていなかった」
リゼットは何を返せばよいのか分からなかった。
十年前の少女を、彼は覚えていた。
一方で、自分は救った男の顔も知らず、《灰色の悪魔》という呼び名だけを恐れていた。
「なぜ言わなかったのですか」
「確証がなかった」
「今はあります」
「今でも、決めるのは君だ」
「何をですか」
「十年前の少女として生きるか、今の名前で生きるか。両方を自分のものにするか」
グレイの声は静かだった。
「他人が決めれば、それはまた別の国籍を押しつけるだけだ」
リゼットは白銀の旗を見た。
「私は門界人ですか」
「記録はそう示している」
「あなたは知っているのでしょう。私が誰だったのか」
「知っていることと、俺が決めていいことは違う」
逃げているようには聞こえなかった。
むしろ、答えを与えることで彼女の選択を奪わないようにしている。
記録端末が新たな音を鳴らした。
――遺言記録を確認。
画面にアルバートの姿が映った。
撮影されたのは、会議の三日前だった。
『この記録を見ているということは、私が直接説明できない状況になったのでしょう』
いつもの穏やかな声だった。
『リゼット。まず、謝らなければなりません。私はあなたの出生を知りながら、長い間、黙っていました』
リゼットは画面を見つめた。
『あなたは門界で生まれました。十年前、ここへ移された者の一人です』
アルバートの背後には、六本の旗があった。
『私は、失われた六番目の議席を戻す準備をしていました』
『私自身も、門界で生まれた人間です』
リゼットの呼吸が止まった。
『しかし、この十年を人界の身分で生き、現在は人界の代表として会議に出席しています』
『私が六番目の代表を兼ねれば、レムナの議席は人界が用意した傀儡だと見られるでしょう』
『また、私の過去を公にすれば、十年前に封印された保護記録まで調査されます』
『そこには、いま公にできない身元情報が含まれています』
『私一人の判断で、それを危険にさらすことはできません』
『だから私は、議席を戻すための証拠と手続きだけを準備しました』
『そして、門界の出生記録と代表資格を持つ者として、あなたを候補に選びました』
『ただし、代表になる義務はありません』
『私があなたに渡せるのは、席ではなく、選ぶ権利だけです』
アルバートは、画面の向こうで一度息をついた。
『門界を戻すかどうかも、生き残った者たちの意思を聞かず、私一人で決めてよいことではない』
『それでも、誰かが六つ目の席を守らなければ、記録は再び消されます』
映像が一瞬乱れた。
『予告カードを送ったのは私です』
『カードは、前夜に危機管理室へ回した会議資料の束へ挟みました』
リゼットはグレイを見る。
彼は画面から目を離さない。
『私の通信と行動は監視されていました。グレイ・ハザードへ直接連絡すれば、相手に意図を知られます』
『だから、あなたの机へ届くようにしました』
『あなたなら放置せず、外部の調査員を呼ぶと考えたからです』
予告は脅迫ではなかった。
アルバートが、自分の死を覚悟して出した警告だった。
『もし私が殺されたとしても、それで予告が終わったと思わないでください』
アルバートの表情が厳しくなる。
『狙われているのは、六番目の議席です』
『そして、その席へ座る資格を持つ人間です』
映像が途切れた。
最後に残ったのは、暗号化された出生記録だった。
リゼットが開こうとすると、画面に封鎖表示が出た。
――核心記録は保護されています。
――第六議席の正式承認、または規定された複数の管理認証が必要です。
「開けません」
「今は、それでいい」
グレイが言った。
「ですが、私の過去が入っています」
「君だけの記録じゃない。三百十二人分だ」
その言葉に、リゼットは手を止めた。
自分の過去を知るためだけに、残る三百十一人の身元情報まで開くことはできない。
そこに誰の名前があり、その者たちが今どうなっているのかさえ、まだ分かっていなかった。
グレイは白銀の旗へ目を向けた。
「順番を決めるのも、君だ」
突然、地下区画の照明が赤へ変わった。
警告音が響く。
エレベーターの方向で、重い扉が閉まる音がした。
リゼットは端末を操作する。
「出入口が封鎖されました」
危機管理室から通信が入った。
雑音の向こうに、ヴァルツの声が聞こえる。
『モーン担当官。地下区画から不明な起動信号を確認しました』
「こちらに異常はありません。扉を開けてください」
『全館の均衡値が下がっています。安全確認が終わるまで、地下を封鎖します』
「待ってください。この区画には――」
通信が切れた。
壁面表示の数値が、急速に落ち始める。
ホテル全体を覆う均衡領域の出力だった。
九十八。
九十一。
八十三。
「地下だけではありません」
リゼットは立ち上がった。
「ホテル全館の均衡装置が止められようとしています」
上では、竜界の熱も、夜界の影も、森界の植物も、機界の外部接続も抑えられている。
均衡が消えれば、すべてが一度に戻る。
五界の代表と護衛が、互いを疑っているホテルの中で。
グレイは閉ざされた扉へ向かった。
「三つ数えたら、記録を全部保存しろ」
「あなたは?」
「出口を作る」
リゼットは記録端末へ両手を置いた。
均衡値が、さらに落ちる。
七十二。
六十一。
五十。
グレイが赤い照明の中で、閉ざされた扉を見据えた。
「一」
ホテルの上階から、遠い破裂音が響いた。
「二」
壁の向こうで、何か巨大なものが目を覚ますように振動した。
グレイが低く告げる。
「三」
均衡領域が、停止した。




