第6話 九秒の殺人
午前三時七分。
危機管理室の中央に、透明な筒が置かれていた。
中には、人の血液に近い試験液と、アルバートが飲んだものと同じ森界の胃薬が入っている。
筒につながっているのは、客室に備え付けられたものと同型の均衡装置だった。
リゼットは操作卓の前に立った。
「客室の状態を再現します」
隣では、機界主席代表クオン=09が装置の記録を取っている。
エイリンは薬の成分を確認し、短くうなずいた。
「間違いありません。アルバート代表が常用していた胃薬です」
「普通に飲んだ場合は?」
「胃を守るだけです。毒ではありません」
ラドが腕を組む。
「では、なぜ死んだ」
「それを今から確かめます」
リゼットは装置を動かした。
まずは、ホテル内で保たれている通常の環境を再現する。
三十秒待っても、筒の中には何も起きなかった。
薬は溶けたまま、試験液の中を薄く漂っている。
クオンが表示を確認した。
「変化なし。血管を傷つける反応もない」
「次に、均衡装置を止めます」
リゼットは停止準備に入った。
この装置は、客室内の空気や温度だけでなく、魔力の濃さも一定に保っている。
止まれば、その均衡が崩れる。
「警報は、どの時点で鳴る?」
グレイが壁際から尋ねた。
正体が《灰色の悪魔》だと明かされてから、危機管理室の人間は彼との距離を無意識に広げている。
グレイ自身だけが変わらない。
「異常が十秒続いた時点です」
クオンが答える。
「十秒未満なら、客室内の記録には残っても、危機管理室へは通知されない」
「九秒だけなら外部警報は鳴らない」
ヴァルツが言った。
リゼットの指が止まった。
まだ、装置が何秒止められていたのかは分かっていない。
ただ、アルバートの部屋の時計は九秒遅れていた。
ヴァルツはすぐに続けた。
「時計のずれと同じだ。関係がある可能性を考えただけです」
説明としては自然だった。
それでもグレイは、ヴァルツを一度だけ見た。
「九秒で試します」
リゼットは設定を入れた。
「停止」
装置の音が消えた。
一秒。
筒の中の薬が、ゆっくり集まり始める。
三秒。
細い糸のような形になる。
五秒。
糸が硬くなり、光を帯びる。
七秒。
無数の針へ変わった。
九秒。
リゼットが装置を戻した。
同時に、検証用の時計が動き始める。
危機管理室の基準時計と比べると、ちょうど九秒遅れていた。
「アルバート代表の部屋と同じです」
リゼットは二つの時計を並べて表示した。
均衡装置が止まっていた間、それにつながる客室時計も止まっていたのだ。
危機管理室には警報が来ていない。
十秒に届かなかったためだ。
だが、一度できた針は消えない。
髪の毛より細い結晶が、試験液の中に浮かんでいる。
その先端が、血管を再現した薄い膜へ次々に刺さった。
膜に赤い筋が広がる。
エイリンの顔が強張った。
「これが体内で起きたのなら、心臓や脳の細い血管が破れます」
「助けられますか」
リゼットが尋ねる。
「発症してからでは、ほぼ不可能です」
クオンがアルバートの検査結果と照合した。
「血中から見つかった結晶と一致する」
室内の誰も、しばらく話さなかった。
毒を入れたわけではない。
夕食時に、いつもの胃薬を飲ませた。
そのあと午前零時に、客室の均衡装置だけを九秒間止めた。
薬は体内で針に変わり、アルバートを内側から殺した。
「だから、外傷がなかった」
リゼットが言った。
「犯人は、午前零時に部屋へ入る必要もありません」
グレイが透明な筒を見た。
「密室は、最初から犯人を閉じ込めていない」
「どういう意味ですか」
「殺したのは人間の手じゃない。前もって入れられた命令だ」
リゼットは客室装置の記録を開いた。
装置には、決めた時刻に自動で動く予約機能がある。
目覚まし時計と同じだった。
会議の前に午前零時の停止命令を入れておけば、犯人はその時間に別の場所にいてもいい。
「死亡時刻のアリバイは、意味がなくなります」
「予約を入れられた者は?」
ラドが問う。
リゼットは権限一覧を表示した。
通常の客室担当者にできるのは、温度や空気の調整までだ。
均衡装置そのものを止めるには、点検用の権限がいる。
「会議前に、主席代表用の五室は特別点検を受けています」
「誰が行った」
「ホテル技師と境界管理庁です」
ノアも補助技師として入っていた。
だが点検全体を指揮した責任者の名は、一つだった。
エドガー・ヴァルツ。
視線が集まる。
ヴァルツは表示された自分の名前を見ても、表情を変えなかった。
「私が指揮しました」
「アルバート代表の部屋にも?」
リゼットが尋ねる。
「入りました。警報と封印の最終確認をしています」
「装置へ触れたのは」
「私だけではありません。ホテル技師も、人界警備官も立ち会っています」
ヴァルツは自分の認証端末を卓上へ置いた。
「必要なら、私の記録をすべて調べてください。点検責任者である以上、疑いを受けるのは当然です」
逃げる態度ではなかった。
むしろ、自分から調査を進めようとしている。
「ただし、私一人に絞るのは早い」
ヴァルツは続けた。
「機界の偽コードを作れる者、森界の薬を知る者、客室装置へ触れた者。候補はまだ複数います」
「その通りだ」
グレイが答えた。
「犯人を決めるには足りない」
ラドが眉を寄せる。
「点検責任者で、九秒のことも知っていた。それでも足りないのか」
「知っていたとは限らない。時計を見て考えただけかもしれない」
グレイは感情を交えずに言った。
「疑うことと、証明することは別だ」
ヴァルツも静かにうなずいた。
「公平な判断です」
リゼットは、集まった証拠を並べた。
森界の薬。
機界の管理コード。
夜界代表を名乗る偽のメッセージ。
廊下に落ちていた竜界武器の金属片。
そして《灰色の悪魔》を思わせる偽の映像。
「四界すべてを疑わせるために置かれた証拠です」
その時、壁面表示に国境門の映像が割り込んだ。
竜界の兵が門前へ並び、反対側では夜界の偵察隊が影の中で待機している。
まだ攻撃は始まっていない。
だが、ホテルから一つでも誤った発表が出れば、すぐに動ける距離だった。
「推測をそのまま外へ出すことはできません」
リゼットは各界代表を見回した。
「今ここで森界、機界、夜界、竜界のいずれかを犯人と決めれば、朝六時を待たずに衝突が始まります」
ラドが不快そうに口元を歪めた。
「では、何も発表するなと?」
「確定したことだけを出します。薬そのものは無害。機界のコードは偽造。夜界の通信も本人のものではない。竜界の金属片だけでは持ち主を特定できない」
クオンが短くうなずいた。
「現時点で、いずれの界の関与も証明されていない」
「人界だけが抜けていた」
セレネが言った。
その視線がヴァルツへ向く。
「点検記録が、人界を示す最後の一つというわけね」
危機管理室の空気が再び張りつめた。
グレイは首を横に振った。
「犯人は、そう考えさせたい」
「では、どれが本物なの?」
「今は分からない」
「灰色の悪魔にも?」
セレネが薄く笑う。
「昔の呼び名で答えが増えるなら、何度でも呼べ」
グレイは証拠台へ歩いた。
右膝の動きがわずかに硬い。
それでも背筋は崩れず、灰白色の髪と左頬の傷が、疲労まで含めて落ち着いた威圧感を作っていた。
彼が見たのは、凶器でも装置でもなかった。
三つ折りの予告カードだった。
「アルバートの手紙は残っているか」
「ホテル宛てのものならあります」
リゼットは保管記録から、一か月前の礼状を取り寄せた。
グレイは予告カードと礼状を並べる。
どちらも三つに折られている。
ただ折っただけではない。
左側を先に折り、最後の端を少しだけずらしている。
二枚を重ねると、折り目の位置までほぼ同じだった。
「同じ人が折ったように見えます」
リゼットが言った。
「予告カードの送り主は、アルバート代表だったと?」
「可能性はある」
「自分が殺されると書いたのですか」
「違う」
グレイはカードの文を指した。
――午前零時、六人目の代表が殺される。
「アルバートは人界代表だ」
「はい」
「会議にいる五人のうちの一人だ。六人目ではない」
リゼットは空の旗立てを思い出した。
誰の旗も立っていなかった、六本目。
アルバートの席に用意されていた、余分なグラス。
そして、彼がグレイへ告げた言葉。
午前零時を越えたら、六つ目の席を守れ。
「では、カードは殺害予告ではなく……」
「警告だ」
グレイが言った。
「アルバートは監視されていた。正面から俺を呼べなかった。だから君にカードを渡し、外部の人間を呼ばせた」
「なぜ私に」
「君なら、放っておかないと知っていた」
リゼットは答えを探した。
アルバートは、朝六時までホテルを離れるなと言った。
職務としてではない。
自分自身で選べ、と。
すべてが彼女へ向いている。
だが、その理由だけが分からない。
グレイは危機管理室の出入口を見回した。
誰が聞いているかではない。
誰がリゼットを見ているかを確かめている。
それから彼女の正面へ立った。
「リゼット」
「はい」
「今から一人で動くな」
「理由を説明してください」
グレイは短く息を吐いた。
「アルバートが死んでも、予告は終わっていない」
空の六番目の席。
六つ目のグラス。
彼女へ送られたカード。
「六人目は、まだ生きている」
リゼットは彼を見返した。
グレイの声が、低く落ちた。
「予告の標的は、君だ」




