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境界探偵アイディアルハザード ―異界ホテルの六人目―  作者: スドタケ


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第5話 死者名簿

午前二時三分。


設備階へ続く階段は、非常灯まで消えていた。


リゼットは壁面端末を開き、内部電源を確認した。


「停電ではありません。設備階の照明回路だけ切り離されています」


「ノアの権限でできるか」


前に立つグレイが尋ねた。


「通常権限では不可能です。ただし、点検用の管理端末があればできます」


「持ち出された端末は?」


「一台。ノアへ貸与されていました」


リゼットは遮断器へ手を伸ばした。


「照明を戻します」


「正面だけだ」


グレイが暗闇の先を見た。


「左右の保守区画は暗いままにしろ」


「逃げ道を限定するのですか」


「逃げるとは限らない」


リゼットは正面通路だけ復旧させた。


白い光が一本、奥まで伸びる。


左右には空調管、境界設備、保守扉が並んでいる。


通路の先で、点検扉がゆっくり閉じた。


「ノア!」


リゼットが呼びかける。


返事はない。


職員証の反応も切れている。


「出口は三つです。正面階段、貨物用昇降機、地下保守通路」


「貨物用だけ止めろ。地下は開けておけ」


「完全に封鎖しないのですか」


「塞げば、追い詰められたと思う」


リゼットは貨物用昇降機を停止し、地下通路を監視状態に切り替えた。


グレイが左袖を一度引く。


「君はここで設備を動かせ」


「一人で行くつもりですか」


「二人で同じ場所を見る必要はない」


「配置は私の方が把握しています」


「だから後ろにいてくれ」


グレイは壁面の配線図を指した。


「照明と扉を動かせる人間が後ろにいれば、俺は前だけを見られる」


危険だから残れ、とは言わない。


必要な役割として任せている。


リゼットは予備通信機を差し出した。


「三十秒ごとに状況を報告してください」


「端末は苦手だ」


「通話ボタンを押すだけです」


グレイは少し嫌そうに受け取った。


その時、背後の階段からヴェラ・クロードが現れた。


「夜界の追跡術を使うわ」


「均衡領域内です」


リゼットが言った。


「本来の力は出せなくても、逃げた人間の痕跡くらいは拾える」


ヴェラが床へ指先を触れた。


薄い影が水のように広がり、通路の奥へ伸びていく。


影は点検扉の前で二つに分かれた。


一つは右の保守区画。


もう一つは地下通路。


「二人いるのですか」


「違う。痕跡を二方向へ流してある」


ヴェラの目が細くなった。


「追跡術を知っている者の細工ね」


「ノアは設備技師です。夜界の術式までは――」


リゼットが言いかけた時、影が不自然に揺れた。


グレイが、その上を横切ったのだ。


だが追跡の影は彼へ絡まない。


足を避けたのではない。


最初から、そこに人間が存在しないように通り抜けた。


ヴェラの表情が変わった。


「今のは……」


「あとにしろ」


グレイは点検扉を開いた。


「追跡は地下を示しているわ」


「だから右へ行く」


「根拠は?」


「逃げる者は痕跡を隠す。待ち伏せる者は痕跡を残す」


グレイが右の保守区画へ入る。


リゼットは監視画面を切り替えた。


半数の監視機は停止していた。


映るのは、配管の間を進むグレイの背中だけだ。


速くはない。


右膝をかばい、重心を左へ逃がしている。


それでも音を立てず、曲がり角の手前で通信機を二度叩いた。


合図だ。


リゼットは手前の照明を落とし、奥を点灯した。


闇と光が入れ替わる。


配管の陰から人影が飛び出した。


ノア・セルン。


作業服の袖は裂け、右手に保守用の刃物を握っている。


狙いはグレイだった。


「灰色の悪魔!」


刃が振り下ろされる。


グレイは半歩引いた。


刃先が上着の胸元をかすめる。


二撃目が脇腹へ走る。


グレイは手首ではなく、ノアの肘の内側を押した。


軌道が逸れ、刃が配管へ当たる。


甲高い音が響いた。


「お前が両親を殺した!」


ノアが左拳を振るう。


グレイは受けずに肩へ手を添えた。


一歩、位置をずらす。


ノアは自分の勢いを失い、床へ膝をついた。


グレイは刃物を蹴り飛ばした。


腕をねじ上げない。


首も締めない。


背中へ片手を置き、立ち上がれない位置へ体重を預けている。


「殺せよ!」


ノアが叫んだ。


「十年前みたいに!」


グレイの手が一瞬だけ止まった。


「エルド・セルン。ミナ・セルン」


二つの名前を告げる。


ノアの抵抗が弱まった。


「……どうして知っている」


「名簿で見た」


「お前が殺した人間の名簿だろ!」


グレイは答えなかった。


リゼットが駆け寄り、床の刃物を回収した。


「ノア・セルン。アルバート代表殺害の容疑で事情を聴きます」


「殺してない」


「不正アクセスは?」


ノアは黙った。


「否定することと、認めることを分けてください。黙っていれば、誰かが都合よく一つにまとめます」


ノアは唇を噛んだ。


「資料は盗んだ」


「何をですか」


「十年前の死亡記録と、均衡装置の設計資料」


「アルバート代表への脅迫も?」


「真実を公表しろとは送った」


「午前零時、六人目の代表が殺される、と?」


ノアが顔を上げた。


「知らない」


即答だった。


「客室装置へアクセスした記録は、あなたの端末から出ています」


「端末は昨日なくなった」


「報告しなかったのですか」


「報告しようとした。そうしたら机の中に、これが入ってた」


ノアは作業服の内側から、折り畳まれた紙を出した。


リゼットが手袋を替えて受け取る。


記されていたのは、設備階の空き部屋番号。


その下に、二つの文章があった。


――両親が死んだ夜を知りたければ、一人で来い。


――今夜ホテルへ入った境界探偵グレイ・ハザードこそ、門界を消した《灰色の悪魔》だ。


リゼットはグレイを見た。


彼の表情は変わらない。


「これは事実ですか」


返事はなかった。


否定しない。


だが、匿名の紙一枚を事実として認めることもできない。


「これを信じて、グレイを襲ったのですか」


「両親の名前を知っていた」


「先ほど死亡者名簿を見ています」


リゼットは紙を証拠袋へ入れた。


「それだけでは証明になりません」


「じゃあ、なぜ否定しない」


ノアがグレイを睨んだ。


グレイは彼を押さえていた手を離した。


「今ここで否定しても、君は信じない」


「逃げるのか」


「君を利用した人間を見つけてから話す」


ノアは立ち上がった。


再び殴りかかることはしなかった。


紙に示された空き宿直室を調べると、証拠が次々に見つかった。


主席代表用客室の均衡装置設計図。


森界の薬草。


アルバートへ送った脅迫文。


三百十二人の死亡者名簿の写し。


ノアの端末が不正アクセスに使用された記録まで残されている。


犯人と判断するには、十分すぎるほどだった。


「これは俺が盗んだ」


ノアが設計図と名簿を見た。


「アルバートを脅したのも認める。だが薬草は知らない。殺してもいない」


リゼットは一つずつ撮影し、回収番号を付けた。


名簿の余白には書き込みがある。


現在の居住記録。


似た姓名。


一致する年齢。


生存可能性。


ノアは死者を確認していたのではない。


生きている人間を探していた。


グレイは名簿へ触れず、机の上から見下ろした。


「こいつは殺していない」


「根拠は?」


リゼットが尋ねる。


「殺す者は名簿を写さない」


「証拠として保存した可能性があります」


「なら現在の住所を調べない」


グレイは余白を指した。


「殺す者ではない。探す者が写した名簿だ」


ノアが俯いた。


「両親が生きてるかもしれないと言われた」


「誰にですか」


「匿名の情報だ。三百十二人全員が死んだわけじゃないって」


「送信元は?」


「消えてた。調べようとしたら、端末ごと盗まれた」


誰かがノアの怒りと過去を知っていた。


グレイがホテルへ来ることも知っていた。


そのうえで、犯人役として必要な証拠をノアの周囲へ置いた。


「ノアを保護室へ移します」


リゼットは警備へ連絡した。


「ホテル職員と五界側監視員を一名ずつ。拘束は必要最小限にしてください」


「容疑者を保護するの?」


入口に立っていたヴェラが尋ねた。


「犯人でなければ、次に消される可能性があります」


「判断が早いわね」


「証拠が不自然です」


「その男に教わった?」


ヴェラの視線がグレイへ向く。


グレイはノアへ立つよう促した。


手を貸さない。


ノアが自力で立ち上がるまで待っている。


「歩けるか」


「子供扱いするな」


「なら歩け」


ノアが通路へ出る。


グレイはその後ろについた。


歩き始めた直後、左足だけが半拍遅れて前へ出た。


重心を戻すと同時に、右手で左袖を一度引く。


ヴェラの目が細くなった。


彼女は十年前にも見ていた。


戦闘を終えた仮面の男が、周囲の敵をすべて無力化したあと、まったく同じ順番で身体の位置を整えるところを。


「もう一度、歩いて」


グレイが足を止める。


「命令か」


「確認よ」


「何をだ」


「十年間、忘れられなかったものを」


設備階へ人界警備官と各界の随員が集まってくる。


竜界の護衛。


森界の治療師。


機界の記録官。


ヴェラは彼らを見たあと、グレイへ向き直った。


「顔を見るのは初めてよ」


「初対面のはずだ」


「ええ。仮面の下は知らない」


彼女の声から、わずかな余裕が消えた。


「あの夜、夜界の追跡術は誰一人逃さなかった」


足元から影が広がる。


「一人を除いて」


影がグレイへ迫った。


だが彼の足元へ届く直前、何もない場所を避けるように二つへ割れた。


ヴェラは目を閉じ、短く息を吐いた。


確信した顔だった。


「やはり、あなただったのね」


グレイは何も答えない。


ヴェラはグレイを指した。


「十年前、門界を一夜で消した停戦執行人」


声が設備階へ響く。


「《灰色の悪魔》よ」


竜界の年長兵の顔から血の気が引いた。


「まさか……」


若い人界警備官が、反射的に腰の警棒へ手を伸ばした。


竜界の若い護衛も剣の柄を握る。


だが古参兵たちは動かなかった。


むしろ、武器から静かに手を離している。


「抜かないで」


ヴェラが若い護衛たちへ告げた。


「あなたたちが束になっても、抜いたことを後悔するだけよ」


噂だけの怪物。


顔も名前も記録から消された、国を殺す男。


その存在が、目の前の五十一歳の探偵へ結びつく。


リゼットの脳裏に、黒い機密ファイルの文字が浮かんだ。


内部コード――《アイディアルハザード》。


あの名称を知る者は、ここでもわずかしかいない。


リゼットは口にしなかった。


一瞬で、設備階の空気が変わる。


恐怖。


憎悪。


尊敬。


疑い。


それまで冴えない境界探偵へ向けられていた視線が、別のものを見る目へ変わっていく。


グレイだけが変わらなかった。


「昔の話だ」


「国を一つ消した男が、昔で済ませるの?」


ヴェラが問い返す。


グレイは答えず、ノアの前へ立った。


集まった者たちの視線から、若い設備技師を隠すように。


正体を知られたことよりも、ノアが《灰色の悪魔》を襲った者として扱われることを警戒している。


リゼットには、そう見えた。


ヴェラも、その背中を見つめていた。


「変わったのね」


「知らないな」


「十年前のあなたは、誰かを庇うために前へ出る男には見えなかった」


グレイは右手で、左の袖口を一度引いた。


「見せる必要がなかっただけだ」


「今は違うの?」


グレイは振り返らなかった。


「今は探偵だ」


低い声が、設備階に落ちる。


「依頼人の前に立つ。それだけでいい」


国を殺したと恐れられる男が、いまは一人の若者を庇って立っている。


その背中を見つめながら、リゼットは思った。


自分はまだ、この男が十年前に何をしたのか、何も知らない。

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