第4話 灰色の男のアリバイ
午前一時十二分。
グレイの拘束は、二十分で解かれた。
晩餐会場の記録には、午後十一時五十八分のグレイが三方向から映っていた。
夜界主席代表セレネ・ヴォスとの会話を終え、給仕から水を受け取っている。
床面センサーにも、彼の体重と移動経路が残っていた。
同じ時刻。
最上階の廊下には、灰色のコートを着た別の男が映っている。
両方に存在することはできない。
「晩餐会場の映像をずらした可能性は?」
人界警備隊長が尋ねた。
危機管理室の大型画面には、二つの映像が並べて表示されている。
リゼットは記録情報を開いた。
「映像だけではありません。給仕記録、扉の通過履歴、床面センサーが同じ時刻を示しています」
機界主席代表クオン=09も白い義手を上げた。
「会場では二十七名が対象を視認している。グレイ・ハザードが晩餐会場にいた事実は確定してよい」
拘束具を外されたグレイは、預けていたコートを受け取った。
手首に薄い赤い痕が残っている。
怒った様子はなかった。
「最上階の映像を止めろ」
「時刻は?」
「十一時五十八分十三秒」
リゼットが映像を停止させた。
灰色の男が、アルバートの客室前を横切る瞬間だった。
顔は伏せられている。
体格も、肩幅も、グレイと近い。
「足元を拡大してくれ」
画質が粗くなる。
それでも男が左肩を落とし、右手をコートの内側へ寄せているのは確認できた。
「何が違うんですか」
リゼットが尋ねた。
「こいつは、見せるために歩いている」
「何をですか」
「武器へ手を伸ばす動きを」
グレイは画面を指した。
「廊下の中央を通り、監視機の真下で歩幅を変えている。肩を落とすタイミングも遅い」
「訓練された動きには見えます」
「訓練を知っている人間が、資料を見て真似た動きだ」
グレイは自分の左袖を一度引いた。
「本当に使う者は、監視機の前で型を見せない」
「あなたも同じ訓練を?」
人界警備隊長が問う。
「似たようなものを昔にな」
壁際に立つ夜界護衛責任者ヴェラ・クロードが、グレイの足元を見た。
「資料だけで、歩き方まで再現できるかしら」
「詳しい資料ならな」
「そんな資料が残っていれば、でしょう?」
ヴェラの視線は鋭かった。
グレイは答えない。
「映像の人物は、あなたを装ったのですか」
リゼットが尋ねた。
「俺じゃない」
「それは分かっています」
「俺自身ではなく、誰かが知っている『灰色の男』を装った」
画面の男は、顔を隠している。
それなのに、体格もコートも、古い工作員めいた動きまで誇張していた。
犯人はグレイを陥れたいだけではない。
グレイについて、何かを思い出させようとしている。
リゼットはそう感じた。
アルバートの客室へ戻ると、壁内金庫の開封準備が進められていた。
本人の死亡が確認された場合、ホテル危機管理規定に基づき、会議の安全に関係する資料だけを調査できる。
だが五界会議議長の金庫である。
人界だけで開けば、証拠隠滅を疑われる。
「ホテル側からモーン担当官」
ヴァルツが言った。
「機界からクオン代表に記録確認をお願いしたい。ほかの代表には、開封結果を同時配信します」
「異議なし」
クオンが答えた。
リゼットはアルバートの鍵と管理者権限を使い、金庫を開けた。
中に入っていたのは、黒い革張りのファイル一冊だけだった。
表紙には題名がない。
開くと、最初に五界共通の機密指定が表示された。
閲覧資格、最高外交機密。
複製禁止。
開示記録を保存する。
「アルバート代表が、なぜこれをホテルへ」
リゼットが言った。
「今夜公表するつもりだったのでしょう」
ヴァルツは画面から目を離さなかった。
最初の資料は、十年前の門界消失に関する公式死亡認定記録だった。
三百十二人。
氏名。
年齢。
所属。
家族構成。
死亡認定日。
同じ姓が二つ、三つと続いている。
一人ずつではない。
家族単位で死亡したことになっている名簿だった。
「遺体の確認記録がありません」
リゼットがページを送った。
「根門崩壊に伴い回収不能、とだけ記載されています」
「公式には、全員死亡と認定された」
ヴァルツが答えた。
「推定を、確定記録にしたのですか」
「十年前の五界共同判断です。私は記録の内容を説明しているだけです」
次のページは封鎖されていた。
個体認証と、二名の立会承認を要求している。
ヴァルツ、リゼット、クオンが順に認証すると、黒く塗り潰されていた文字が浮かび上がった。
作戦名、門界国家機能停止。
実行個体、氏名封鎖。
所属記録、抹消。
内部コード――《アイディアルハザード》。
危険区分、最高位。
リゼットは聞き慣れない言葉を見つめた。
「アイディアルハザード?」
「当時の内部コードです」
ヴァルツが答えた。
「個人名ではありません。国家機能を単独で停止させ得る工作個体へ与えられた、最高危険指定です」
「公表された資料では、実行者の名前は伏せられています」
クオンが補足した。
「兵士や生存者の証言から、《灰色の悪魔》という通称だけが広まった」
リゼットもその名は知っていた。
一夜で門界を消した怪物。
竜王の炎を歩き、魔法にも結界にも姿を捉えられなかった男。
名前も顔も残されていない。
半分は戦場の作り話だと思われている。
だが《アイディアルハザード》という内部コードは、初めて聞いた。
「この名称は、どこまで知られていますか」
「当時の作戦承認者と、ごく一部の情報担当者だけです」
ヴァルツは閲覧記録を閉じた。
「今夜ここで知った内容も、現時点では外部開示禁止とします」
リゼットは壁際のグレイを見た。
彼は名簿を見ていた。
内部コードが表示されても、驚いた様子はない。
かといって、興味を示しているようにも見えなかった。
左手で古い袖口を引いただけだ。
「ハザード氏」
ヴァルツが呼んだ。
「この記録に何か心当たりがありますか」
「十年前の機密資料だ」
「それだけですか」
「今の俺が見て分かるのは、それだけだ」
嘘をついているようには聞こえない。
だが、すべてを話しているようにも聞こえなかった。
その時、廊下から怒号が響いた。
客室を出ると、人界警備官と竜界護衛が向かい合っていた。
竜界側の若い護衛が、腰の湾曲刀を抜いている。
館内では高熱機能を封じられているが、刃そのものは残る。
人界警備官も伸縮式の警棒を構えていた。
「武器を下ろしてください!」
リゼットが二者の間へ入った。
「我々の代表だけを待機室へ閉じ込めると言った!」
竜界護衛が叫んだ。
「隔離ではありません。代表団同士の接触を避ける措置です。人界側も同じ制限を受けています」
「人界はホテル内を自由に動いている!」
「人界主席代表は亡くなっています。こちらが最も有利だと考える根拠を示してください」
リゼットは危機管理規定を端末に表示した。
「武器を収めなければ、竜界代表団の行動制限を一段階引き上げます」
若い護衛は従わない。
鱗の隙間から熱が漏れ、廊下の空気が揺らいだ。
均衡領域がなければ、壁紙が発火している。
人界警備官も警棒を握り直した。
「下ろせ」
グレイが言った。
声は大きくなかった。
それでも、双方が一瞬だけ彼を見た。
「人界の探偵が、竜界へ命令するな!」
若い護衛が踏み込んだ。
湾曲刀がグレイの首へ向かう。
グレイは後退しなかった。
半歩、前へ出た。
刃が届く直前、左手で護衛の手首を押し上げる。
右手は肘へ添えただけだった。
大柄な竜人の身体が、自分の勢いで横へ流れる。
グレイは近くの清掃カートを踵で押した。
車輪が護衛の膝裏へ入り、体勢が崩れる。
人界警備官が警棒を振り上げた。
グレイはカートからシーツを引き抜いた。
白い布が警備官の視界を覆う。
警棒が空を切る。
次の瞬間、警備官は壁へ押しつけられていた。
グレイは首も腕も極めていない。
肘と肩の角度だけを固定し、動けなくしている。
二人目の竜界護衛が息を吸った。
炎を吐く前兆だった。
グレイは壁の消火器を外し、顔の前へ噴射した。
護衛が咳き込み、膝をつく。
三人目が背後へ回ろうとする。
グレイは非常扉のボタンを押した。
閉まり始めた防火扉が、双方の間へ滑り込む。
十数秒。
床には、刀と警棒だけが残った。
負傷者はいない。
グレイは湾曲刀を拾い、竜界護衛の足元へ置いた。
刃先を相手から外し、若い護衛を見下ろす。
「抜いた以上、次は止まらない。代表を守りたいなら、先に頭を冷やせ」
叱責ではなかった。
事実を教える声だった。
グレイは右膝を一度だけ伸ばした。
動きに痛みが混じっている。
五十一歳の身体は、無傷でも不変でもない。
それでも、若い兵たちを傷つけず、戦う理由だけを奪った。
「全員、待機室へ戻ってください」
リゼットが続けた。
「負傷確認後、個別に事情を聴取します。今回の武器使用は記録しますが、代表資格の即時停止までは求めません」
若い護衛が顔を上げた。
処罰だけで終わらせれば、竜界側の反発が強まる。
リゼットは退路を残した。
グレイは何も言わず、彼女へ場を渡した。
午前一時五十二分。
危機管理室へ戻ると、設備監視担当が青ざめた顔で待っていた。
「モーン担当官。不正アクセスの発信元が判明しました」
画面へ職員端末の識別情報が表示される。
ホテル設備技師。
ノア・セルン、二十四歳。
セルン。
リゼットは先ほどの死亡認定記録を思い出した。
同じ姓が、二名分並んでいた。
エルド・セルン。
ミナ・セルン。
二人とも、門界消失事件で死亡認定を受けている。
「ノアの所在は?」
「呼び出しに応答しません。職員証の最終記録は設備階です」
主席代表用客室の安全点検にも、補助技師として参加していた。
アルバートの部屋。
九秒遅れた時計。
個別均衡装置。
すべてへ触れられる立場だった。
「設備階を封鎖します」
リゼットが警備網を切り替える。
だが、ノアの職員証はすでに無効化されていた。
本人か、誰かが端末から切断したのだ。
「従業員通路を使う」
グレイが言った。
「設備階は複雑です。ホテル職員を待つべきです」
「君がいる」
グレイはリゼットを見た。
「道を知っているだろう」
リゼットは端末を閉じた。
「私が先導します。設備へ勝手に触れないでください」
「善処する」
「守る気のない返事ですね」
二人は従業員用エレベーターへ向かった。
途中の扉が閉鎖され、狭い保守通路へ回る。
照明が落ちていた。
先は暗い。
「非常灯まで十メートルです」
リゼットが言った。
グレイは足元の配線を確認した。
「俺が先に行く」
「設備は私の担当です」
「分かっている。だから、三つ数えたら右の遮断器を上げろ」
その言葉に、リゼットの足が止まった。
三つ数えたら。
暗い地下。
灰色の手袋。
左手の古傷。
意味を結ばない記憶が、胸の奥をかすめた。
「リゼット?」
グレイが振り返る。
「……何でもありません」
リゼットは遮断器へ手を掛けた。
「一」
通路の奥で何かが動いた。
「二」
金属が床を擦る。
「三」
遮断器を上げる。
照明が戻った。
だが通路の先にノアはいなかった。
開いた点検扉と、その向こうへ続く暗い階段だけが残されていた。




