第3話 内側から鍵のかかった部屋
午前零時七分。
アルバート・ヴェイルの客室は、ホテル警備によって封鎖された。
リゼットは入口に立ち、入室者を一人ずつ記録した。
人界の警備官が三名。
森界の治療師が二名。
危機管理室からは、リゼットと設備技師が一名。
そして、外部調査員のグレイ・ハザード。
それ以外は、廊下の規制線より内側へ入れていない。
「触れたものを報告してください」
リゼットが告げると、最初にアルバートの脈を確認した森界の治療師が右手を上げた。
「首筋と手首。それから胸部です。蘇生術は使用していません」
「理由は?」
「生命反応が完全に途絶えていたことと、死因が不明だったためです。術によって体内の異物を活性化させる危険がありました」
「適切です」
リゼットは端末へ記録した。
床に倒れたアルバートは、窓際の小卓へ右手を伸ばすような姿勢で横たわっている。
争った形跡はない。
家具の転倒も、衣服の乱れもなかった。
左手の近くには、割れたグラス。
右手側には、小さな薬瓶が転がっている。
窓は内側から施錠され、外壁には足場も張り出しもない。
正面扉は二重施錠。
一つは電子錠。
もう一つは室内側からしか操作できない物理式の補助錠だった。
警備員が突入した際、補助錠は確かに掛かっていた。
「ほかに出入口は?」
グレイが尋ねた。
「浴室と収納を含め、すべて確認済みです」
リゼットは客室図面を表示した。
「通気口は二十二センチ四方。ただし三か所に検知網があります。人や機械が通れば記録が残ります」
「魔法なら?」
「この客室は均衡領域の内側です。夜界の影移動も、森界の植物転移も使用できません」
「使用できない、か」
グレイは扉の補助錠を見た。
「何か問題がありますか」
「言葉の確認だ。使えないのと、使った記録がないのは違う」
リゼットは一瞬だけ黙った。
「現在、均衡領域に停止記録はありません」
「なら、今はそう記録しておけ」
グレイは室内へ入った。
アルバートの遺体より先に、天井の換気口、壁の操作盤、カーテンの裾へ視線を走らせる。
足取りは遅い。
それでも、何を見落とさないために速度を落としているのか、リゼットには分からなかった。
「死亡推定は?」
森界主席代表エイリン・グランが、廊下から尋ねた。
規制線の外に立ち、室内へ入ろうとはしていない。
治療師からの報告を待つ姿勢を崩さず、ほかの代表たちの視線も背負っていた。
「午前零時前後です」
治療師が答えた。
「ただし人界の低魔力環境では、森界人の感覚だけで正確な時刻を出すことはできません。検査が必要です」
エイリンは静かにうなずいた。
「薬瓶を確認させてください」
リゼットは手袋を替え、透明な採取袋へ薬瓶を入れた。
ラベルには森界文字と人界共通語が併記されている。
胃痛と消化不良に使われる薬だった。
アルバートの医療申告にも、同じ薬の常用記録がある。
「毒ではありません」
エイリンが言った。
「少なくとも、この状態では」
竜界代表ラド・ドラグナが低く鼻を鳴らした。
「この状態では、か」
「薬草は環境によって性質を変えます」
「都合のいい説明だ」
「竜の血も、温度によって毒性を持つことがあります。だからといって竜界人全員を毒と呼びますか?」
廊下の空気が張りつめた。
竜界護衛の鱗が熱を帯びる。
森界側の随員も、一歩だけ前へ出た。
「下がってください」
リゼットは両者の間へ立った。
「現在、死因は未確定です。特定の界を示す発言は控えてください」
ラドが見下ろす。
均衡領域の内側でも、彼の体格と圧力は消えない。
「人界の職員が、竜界代表へ命令するのか」
「ホテル・アークの危機管理規定を執行しています。今夜は、五界すべてが従うと署名されています」
リゼットは端末に協定条項を表示した。
「異議がある場合は、協定更新後に正式な手続きをお願いします」
数秒、ラドは彼女を見つめた。
やがて片手を上げ、護衛を下がらせる。
「よかろう。だが朝までに答えを出せ」
「そのために調べています」
ラドたちが離れると、リゼットは小さく息を吐いた。
「声が震えなかったな」
隣でグレイが言った。
「震える理由がありません」
「そうか」
彼はそれ以上言わず、アルバートの傍らへしゃがんだ。
膝を曲げる動きが、わずかに硬い。
右膝をかばうように重心をずらしている。
それでも手元は揺れなかった。
グレイは遺体へ触れず、割れたグラスの破片を見た。
「飲み物は?」
「人界産の水です。開栓から給仕まで映像があります」
「誰が運んだ」
「専属給仕です。現在、別室で待機させています」
「薬を飲んだのは?」
「晩餐会の途中です。私も見ています」
「瓶から直接?」
「一錠を取り出し、水で飲みました」
グレイは小卓の下へ視線を落とした。
カーペットの上に、細い植物片が落ちている。
指で拾わず、携帯用の薄い採取板を差し込んだ。
乾いている。
薬瓶の中身とは色が違っていた。
「森界の薬草ですか」
「俺に聞くな。専門家に回せ」
グレイは採取板ごとリゼットへ渡した。
「ただし、薬瓶とは別に保管しろ」
リゼットは二重封緘した。
室内奥で、機界代表クオン=09が電子錠へ細い接続端子を伸ばしている。
白い義手の指先が、錠前へ触れる寸前で止まった。
「許可を」
「読み取りのみ。書き込みは禁止します」
リゼットが答えると、クオンは接続した。
数秒後、空中へログが展開される。
午後十一時四十七分。
アルバート入室。
午後十一時四十八分。
電子錠施錠。
午後十一時五十六分。
室内側補助錠作動。
午前零時五分。
緊急解錠要求。
不成立。
午前零時七分。
管理者権限による強制切断。
「不正な開閉はない」
クオンが告げた。
「ただし、午前零時ちょうどに管理領域への照会が一件あります」
「照会元は?」
空中の表示が拡大される。
機界の管理コードだった。
機界随員たちがざわめく。
クオンの表情は変わらない。
「我々の正規形式に一致する。しかし、私の代表団が使用した記録はない」
「偽造は可能ですか」
「可能。ただし、形式を知る者に限る」
夜界主席代表セレネ・ヴォスが廊下から声を挟んだ。
「では、機界人が自分たちの署名を残して殺したことになるのかしら」
「非合理的だ」
「犯人が合理的とは限らないわ」
「犯人が機界人とも限らない」
クオンの返答に、セレネは薄く笑った。
「それだけは同意する」
リゼットの端末へ、別室から解析結果が届いた。
アルバートの端末に、死亡直前の受信記録がある。
送信者表示は、セレネ・ヴォス。
内容は短い。
――零時に、古い議事録について話したい。
「私は送っていない」
セレネは表示を見るなり言った。
「送信端末の署名は?」
「あなたのものです」
リゼットは答えた。
「署名ごと盗まれたのでしょうね」
「その証明は?」
「あなたが探すのではなくて?」
セレネは余裕を崩さない。
だが、後方の夜界護衛たちは既に周囲の動きを探っている。
竜界。
夜界。
森界。
機界。
一つの部屋に、四界すべてを指す証拠が集まり始めていた。
グレイはそのどれにも反応せず、壁の時計を見上げた。
「リゼット」
「はい」
「危機管理室の基準時刻を出せ」
リゼットは端末にホテルの統一時刻を表示した。
午前零時十八分三十六秒。
壁の時計は、午前零時十八分二十七秒。
「九秒遅れています」
「この時計は何と同期している」
「客室の個別均衡装置です」
リゼットは操作盤を確認した。
空気、温度、重力、魔力濃度。
すべて正常値。
停止記録も異常警報もない。
それでも時計だけが九秒遅れている。
「故障でしょうか」
「決めるのは早い」
グレイは操作盤の下へ指を滑らせた。
塵の薄い層に、一部だけ新しい拭き跡がある。
「会議前の安全点検で触れています」
リゼットが記録を開いた。
「点検責任者は境界管理庁。ホテル技師も立ち会っています」
「全客室を?」
「主席代表用の五室は、ヴァルツ長官自身が最終確認しています」
名前を口にした直後、廊下から落ち着いた声がした。
「私を疑う必要があれば、遠慮なく調べてください」
エドガー・ヴァルツが規制線の前に立っていた。
制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を肘まで上げている。
現場指揮を続けていたらしく、額には薄く汗がにじんでいた。
「ホテル側だけに責任を負わせるつもりはありません」
ヴァルツは各界代表を見回した。
「朝六時までに、五界が承認できる一次調査結果が必要です。成立しなければ、境界均衡協定の不可侵条項は失効します」
リゼットの端末へ、新たな警戒情報が届く。
竜界と夜界の国境門で、軍の移動を確認。
まだ越境はしていない。
だが、待機命令ではなく出動準備だった。
「封鎖を継続します」
リゼットは言った。
「代表者を各階の待機室へ移動。護衛同士を接触させないでください。通信は会議用回線だけに制限します」
「承認します」
ヴァルツは即答した。
「外部調査員にも、必要な範囲で閲覧権限を与えましょう」
「彼を信用するのですか」
人界警備官の一人が尋ねた。
「信用ではありません」
ヴァルツはグレイを見る。
「五界のどこにも属さない視点が必要です」
グレイは答えず、窓際へ歩いた。
その足元で、何かが光った。
リゼットが照明を向ける。
カーペットに、赤銅色の小さな金属片が落ちていた。
竜界護衛の武器に使われる合金だった。
「出来すぎている」
グレイが呟いた。
「何がですか」
「全部だ」
その時、廊下の端末が警告音を発した。
監視室からの緊急連絡だった。
「最上階の映像に、不審人物が映っています」
壁面モニターへ、死亡前の廊下映像が送られる。
午後十一時五十八分。
アルバートの客室前を、一人の男が歩いている。
灰色のコート。
大柄な体格。
顔は俯き、映像の陰に隠れていた。
歩幅も、肩の高さも、グレイとほぼ一致している。
廊下にいた全員の視線が、映像から彼へ移った。
人界警備官たちが武器へ手を伸ばす。
「その時刻、どこにいました」
警備隊長が問う。
「晩餐会場だ」
グレイは落ち着いて答えた。
「証人は?」
「数十人いる」
「映像の人物については?」
「知らない」
警備官が一歩近づく。
グレイは動かなかった。
ヴァルツが二人の間へ入った。
「ハザード氏。正式な逮捕ではありません」
「形式上の拘束か」
「五界すべてへ公平な捜査だと示すためです」
ヴァルツの声には、敵意も勝ち誇った響きもない。
むしろ、本気でこの場を収めようとしているように見えた。
「身元確認と映像解析が終わるまで、武器と通信端末を預からせてください」
「武器は持っていない」
グレイが両手を見せる。
「端末も事務所に忘れた」
リゼットは額を押さえたくなった。
警備官が彼の左右を囲む。
その瞬間、グレイの視線がリゼットへ向いた。
「薬瓶と植物片を分けておけ」
「分かっています」
「時計も外すな。九秒を故障で処理するな」
警備官が腕を取ろうとする。
グレイは抵抗しなかった。
ただ、映像の灰色の男を見上げる。
「それから」
低い声が続いた。
「廊下の男は、俺じゃない」
「根拠は?」
リゼットが尋ねた。
グレイは画面の足元を見た。
「俺なら、そんな歩き方はしない」




