表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界探偵アイディアルハザード ―異界ホテルの六人目―  作者: スドタケ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/12

第2話 五人しかいない会議

午後十時二十分。


ホテル・アークの職員用更衣室で、リゼットはグレイを見て眉間を押さえた。


「その格好で晩餐会へ出るつもりですか」


「調査に服装は関係ない」


古いコートの下には、事務所で見たものと同じシャツと曲がったネクタイ。


灰白色の髪には、まだ寝癖が残っている。


「今夜の出席者は、五界の主席代表です。あなたは私が招いた外部調査員として入ります」


「もう入っている」


「会場にです」


リゼットは隣の椅子に置いていた衣装袋を開いた。


ホテルが外部要員用に用意する黒いスーツだった。


「着替えてください」


「必要ない」


「必要です。目立たずに調査したいのでしょう」


グレイは自分のコートを見下ろした。


肘には擦れた跡があり、袖口もわずかにほつれている。


「これなら誰も近寄らない」


「五界会議の会場では、不審者として警備が近寄ります」


数秒の沈黙のあと、グレイは衣装袋を受け取った。


「君はいつも、依頼人に着替えを命じるのか」


「指示に従わない調査員は初めてです」


「経験になったな」


更衣室から出てきた男を見て、リゼットは返事を忘れた。


髪を後ろへ流し、無精ひげを最低限整えただけだ。


左頬から顎へ走る古傷も、目尻の皺も消えてはいない。


それでも、先ほどまでの冴えない男とは別人に見えた。


広い肩に黒い上着が収まり、深い灰色の目が照明を静かに返している。


若く見えるわけではない。


五十一年という時間が、顔の線と傷の一つ一つを完成させている。


「何だ」


「ネクタイが曲がっています」


リゼットはグレイの前へ立った。


結び目へ手を伸ばすと、グレイがわずかに顎を引く。


「自分でできる」


「できていません」


指先で結び目を緩め、中央へ戻す。


距離が近づくと、彼の左頬の傷は思っていたより深かった。


刃物で一度切られただけではない。


古い傷の上を、さらに別の傷が横切っている。


「見すぎだ」


「確認しています」


「何を」


「ホテルの信用を損なわないかどうかです」


グレイは何も言わなかった。


ただ、視線を少し横へ逸らした。


その反応が意外で、リゼットは結び目を整える指にわずかに力を込めた。


「終わりました」


「助かる」


声は平静だったが、グレイはすぐに一歩離れた。


戦場を渡ってきたという噂の男が、女性にネクタイを直される程度で距離を取る。


リゼットは口元に出かけた笑みを抑えた。


彼女自身も、会議用の黒いドレスへ着替えていた。


肩から背中の一部が開いているが、ホテルの晩餐会では正式な制服に近い。


グレイは一度だけ彼女を見たあと、視線を扉へ向けた。


「行くぞ」


「今、目を逸らしました?」


「会議の時間を確認した」


壁の時計は、彼の背後にあった。


リゼットは追及せず、端末を手にした。


午後十時四十分。


五界会議の晩餐会が始まった。


会場はホテル十八階の大宴会場。


正面には五本の旗が並んでいる。


人界の白。


竜界の赤。


夜界の黒。


森界の緑。


機界の銀。


その端には、旗のない台座が一本だけ置かれていた。


予備の備品だと、リゼットは何度も説明を受けている。


だが、今朝届いたカードを知ったあとでは、何もない一本が妙に目についた。


午前零時、六人目の代表が殺される。


会場にいる主席代表は五人だけだ。


人界のアルバート・ヴェイル。


竜界のラド・ドラグナ。


夜界のセレネ・ヴォス。


森界のエイリン・グラン。


機界のクオン=09。


リゼットは会場内の境界値を確認した。


竜界代表団の周囲では熱量が基準値をわずかに上回っている。


夜界側の影密度は正常。


森界側が持ち込んだ薬品は、事前登録された治療薬のみ。


機界代表の外部通信も遮断されている。


均衡領域に異常はない。


「設備ばかり見ているな」


隣に立つグレイが言った。


「私の担当です」


「人間も見た方がいい」


「見ています」


「なら、竜界代表は何を警戒している」


リゼットは円卓へ目を向けた。


ラド・ドラグナは大柄な竜人だった。


赤銅色の鱗が首筋から頬にかけて広がり、座っていても周囲の外交官より頭一つ高い。


視線は頻繁に出入口へ向けられている。


「襲撃でしょうか」


「違う」


グレイはワイングラスを取らず、円卓を見ていた。


「退路だ」


「同じでは?」


「襲撃を恐れる者は、相手を見る。逃げ道を気にする者は、味方を信用していない」


ラドの後方には三人の竜界護衛がいる。


そのうち二人は、代表ではなく互いの動きを見ていた。


「内部対立……」


「可能性の一つだ」


断言しない。


リゼットが事務所で証拠について話した時と同じだった。


グレイは結論を先に置かず、見えるものだけを積み上げている。


「森界代表は?」


「右手をかばっています」


エイリン・グランは六十一歳。


銀色の髪をまとめた穏やかな女性だが、右手で杯を持とうとしない。


「負傷ではない」


グレイが言った。


「指先に薬の色が残っている。ここへ来る直前まで、誰かを治療していた」


「持ち込み薬品の記録を再確認します」


「今はしなくていい」


「なぜですか」


「治療した相手を知られたくない顔をしている。記録を動かせば警戒する」


グレイは若い給仕へ一言告げ、空になった水差しを交換させた。


給仕がエイリンの近くへ寄った時、グレイは彼女の袖口を見た。


それ以上は追わない。


「何が見えました?」


「あとで話す」


「またそれですか」


「今話せば、君もそちらを見る」


リゼットは反論しかけてやめた。


自分の視線で相手へ気づかせる可能性がある。


説明を惜しんでいるのではなく、観察の邪魔を避けたのだ。


グレイは会場内をゆっくり歩いた。


急がず、立ち止まりすぎない。


それでも女性職員や外交官の視線が、彼の通過に合わせて動いている。


整えれば端正な男だとは思ったが、理由はそれだけではない。


誰かと話す時、グレイは相手の言葉を途中で切らなかった。


視線を逸らさず、近づきすぎず、結論を急がない。


問い詰められていると感じさせないまま、相手に次の言葉を選ばせている。


夜界主席代表セレネ・ヴォスも、その一人だった。


濃紺の礼装に身を包んだ三十九歳の女性で、長い黒髪と紫色の瞳を持つ。


彼女はグレイを上から下まで眺めた。


「人界は、ずいぶん魅力的な調査員を隠していたのね」


「隠されていた覚えはない」


「自覚のない男は、隠れているのと同じよ」


セレネは杯を傾けた。


「境界探偵だと聞いたわ。何を調べているの?」


「ホテルの料理が安全かどうか」


「それなら毒見役を頼むべきね」


「毒なら森界を疑う?」


近くを通った森界外交官が一瞬だけ足を止めた。


セレネは笑みを崩さない。


「安い誘導ね」


「答えたくない質問には、そう言えばいい」


「あなた、女性を口説く時もそんな調子?」


「口説いているように見えたか」


「見えないから困るのよ」


セレネはグレイの傷へ一度だけ視線を向けた。


その目から、軽い興味が消える。


「アルバートが古い議事録を公表しようとしている」


声が低くなった。


「どの議事録だ」


「十年前のもの。門界が消えた前後の記録よ」


リゼットは少し離れた位置で端末を操作しながら、その言葉を聞いた。


公表予定の資料について、危機管理室は知らされていない。


「なぜ、あなたがそれを?」


グレイが尋ねた。


「夜界は、知らないふりをするために情報を集めるの」


「公表を止めたい?」


「内容によるわ」


「内容を知らない?」


「あなたも質問が意地悪ね」


セレネは薄く笑い、グレイの胸元へ指先を伸ばした。


ネクタイには触れず、結び目の手前で止める。


「それより、その結び方。あなたがしたのではないでしょう」


グレイの視線が、少し離れたリゼットへ向いた。


「有能な担当者がいる」


「そう」


セレネもリゼットを見た。


「大切にした方がいいわ。あなたのような男は、自分のことを後回しにするから」


グレイは答えなかった。


セレネはそれ以上何も言わず、夜界代表団へ戻っていった。


「聞き出しましたね」


リゼットが近づくと、グレイは円卓へ視線を戻した。


「向こうが話した」


「外見で警戒を緩めさせたのでは?」


「整えたのは君だ」


「私の責任にしないでください」


「責任ではない。成果だ」


さらりと言われ、リゼットは次の言葉を失った。


グレイはすでに別の場所を見ている。


夜界護衛責任者のヴェラ・クロードだった。


四十三歳。


身体の線に沿った黒い礼装の上へ、短い外套を羽織っている。


護衛の中では最も武装が少ない。


だが、立つ位置には一切の隙がなかった。


グレイが歩き出す。


その時、左足がわずかに外へ流れた。


すぐに重心を戻し、右手で左袖を引く。


ヴェラの目が細くなった。


「知り合いですか」


リゼットが尋ねた。


「顔を見るのは初めてだ」


グレイはそう答えた。


ヴェラは視線を外さない。


顔ではなく、足元と袖を見ている。


何かを思い出そうとしているようだった。


午後十一時五十二分。


晩餐会は終盤に入っていた。


アルバートは予定より早く席を立ち、自室へ戻る準備をしていた。


リゼットは卓上の片づけを確認している途中で、彼の席に違和感を覚えた。


五人の主席代表。


五つの名札。


だが、アルバートの左側には、誰も使っていないグラスがもう一つ置かれている。


「これは?」


担当給仕が首をかしげた。


「最初から置かれていました。ヴェイル代表の指示だったと聞いています」


アルバートはすでに会場出口にいた。


リゼットが呼び止めようとすると、グレイがその手を軽く制した。


「今はいい」


「六つ目のグラスです」


「見れば分かる」


「では、なぜ止めるんですか」


「ここで聞けば、答えを聞きたい人間が全員集まる」


リゼットは周囲を見た。


各界の随員や警備員が、まだ会場内に残っている。


誰が予告カードを送ったのかも分からない。


「あと八分です」


「分かっている」


グレイは空のグラスを見つめた。


その表情から、考えていることは読めない。


午後十一時五十九分。


リゼットは危機管理室と会場をつなぐ端末を開いた。


全客室の均衡値。


非常扉。


電子錠。


監視映像。


いずれにも異常はない。


時計の秒表示が進む。


五十七。


五十八。


五十九。


午前零時。


短い生体異常警報が鳴った。


最上階、主席代表用客室。


アルバート・ヴェイルの部屋だった。


リゼットはドレスの裾を押さえ、会場を飛び出した。


グレイが後ろに続く。


警備員が先行し、客室前で非常解錠を試みている。


「反応しません。内側からの二重施錠です!」


リゼットは管理端末を接続した。


室内の生命反応は一つ。


急速に低下している。


「強制開放します。均衡領域は維持したまま、扉だけ切り離して」


警備員へ指示し、自ら解除コードを入力する。


重い音とともに扉が開いた。


アルバートは窓際の床へ倒れていた。


外傷は見えない。


そばには割れたグラスと、転がった薬瓶。


窓は閉じられている。


室内には、ほかの人間はいない。


リゼットは脈を確認した。


何も返ってこなかった。


午前零時。


六人目の代表が殺される。


「予告どおり……」


声が漏れた。


だがグレイは、遺体を見ていなかった。


壁の時計。


客室の空調表示。


床に落ちた薬瓶。


その三つへ順に視線を移す。


「まだだ」


「何がですか」


グレイは閉ざされた部屋を見回した。


「死んだのは、人界の代表だ」


深い灰色の目が、リゼットへ戻る。


「六人目は、まだ殺されていない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ