第1話 六人目の予告
門界が地図から消えて、十年。
一国を一夜で止めた《灰色の悪魔》も、事件の後、戦場から姿を消した。
現在のグレイ・ハザードは、国家の命令ではなく、個人から依頼を受ける境界探偵として生きている。
なぜ停戦執行人を辞めたのか。
その理由を知る者は、ほとんどいない。
境界都市アークの旧市街には、再開発から取り残された建物がいくつか残っている。
グレイ境界探偵事務所は、その中でも特に古い雑居ビルの四階にあった。
エレベーターは故障中。
薄暗い階段を上りきったリゼット・モーンは、剥がれかけた表示板を見上げた。
『失踪・身元・異界事件』
事務所名より、扱う内容の方が大きく書かれている。
五界安全保障会議まで、あと八時間。
人界だけでなく、竜界、夜界、森界、機界の代表が集まる夜に頼る相手として、早くも選択を誤った気がした。
呼び鈴を押しても反応はない。
三度目で扉が数センチだけ開いた。
「依頼なら、今日は――」
低い声が途中で止まる。
扉の向こうに立っていたのは、古いシャツに曲がったネクタイを締めた大柄な男だった。
灰白色の髪は寝癖のまま。顎には無精ひげが残り、左頬から顎へ古い傷が走っている。
五十一歳。
事前資料で見た年齢より疲れて見えた。
「ホテル・アーク危機管理室のリゼット・モーンです。予約は入れました」
男はしばらく考えたあと、背後の机を見た。
旧式の端末には、未確認の予約通知が表示されていた。
「確認した」
「たった今でしょう」
「確認は確認だ」
同じではない。
リゼットが黙って見返すと、男は諦めたように扉を開けた。
室内には紙の資料、未開封の郵便、空のコーヒーカップが積み上がっていた。
壁際には古いコート。窓辺には分解途中の電子錠。
応接用らしい椅子の上には、未処理の請求書が置かれている。
男は請求書をまとめて床へ移した。
「グレイ・ハザードだ」
「存じています」
「それは助かる。名刺が切れている」
この人物が、危機管理室の非公開名簿で最上位に置かれている理由が分からない。
ただし、机越しに向き合った瞬間、最初の印象がわずかに変わった。
深い灰色の目だけは、眠気も散漫さもなかった。
リゼットが持つ透明な証拠袋へ、一度だけ視線を落とす。
「触ったのは?」
「発見者の私だけです。手袋を使用しました。受領後は封緘し、保管庫へ入れています。廊下と室内の映像も複製済みです」
「誰に報告した」
「危機管理室長と、人界側の会議警備責任者です。正式な捜査機関には上げていません」
「正しい」
即答だった。
「外交上の隠蔽ではありません。現時点で事件性を確定できないからです」
「それも正しい」
褒められた気はしなかった。
事実を事実として置いただけの声だった。
リゼットは証拠袋を机へ置いた。
中には、白いカードが一枚入っている。
中央に短い文だけが印刷されていた。
午前零時、六人目の代表が殺される。
「見つけた時刻は」
「今朝六時四十二分。危機管理室の私の机です。入室記録に異常はなく、窓も施錠されていました」
「清掃は」
「午前五時五十分に終了。担当者二名は確認済みです。二人ともカードを見ていません」
「なら、六時前にはなかった」
「断定はしていません。書類の下へ差し込まれていた可能性があります」
グレイが初めて、わずかに口元を緩めた。
「話が早い」
「推測を事実として扱わないだけです」
「それができない人間は多い」
グレイは袋越しにカードを眺めた。
「会議の代表は?」
「五人です。人界、竜界、夜界、森界、機界。主席代表は各界一人ずつ」
「代理、随行、議決権の保留者は」
「いません。出席者名簿も確認済みです」
「六人目に心当たりは?」
「ないから来ました」
グレイはカードを裏返すように指で袋を滑らせた。
封緘部分にも触れず、紙の角度だけを変える。
「三つ折りだ」
「カードを?」
「封筒に入れる前に、一度折られている。戻してから印刷した」
リゼットも確認した。
照明へ透かすと、確かに二本の薄い折り目がある。
「印刷後では?」
「インクが割れていない」
カードの紙質は、ホテルで一般使用するものではない。
繊維が粗く、わずかに灰色を帯びていた。
「古い紙です。購入経路を調べています」
「調べるのは紙じゃない」
グレイは証拠袋から目を離した。
「折り方だ」
「差出人の癖だと?」
「癖か、作法か、合図か」
そこまで言って、彼は椅子から立った。
背を伸ばすと、想像以上に大きい。
眠たげな中年男に見えていた輪郭が、一瞬だけ別のものへ変わった。
「行こう」
「依頼を受けるという意味ですか」
「そのつもりで来たんだろう」
「報酬と契約条件がまだです」
グレイは古いコートを取り、内ポケットを確認した。
「あとでいい」
「あとにすると忘れませんか」
「よく分かったな」
忘れるのだ。
非公開名簿の備考欄にあった『事務処理に難あり』は、控えめな表現だったらしい。
境界都市の中心部へ近づくにつれ、車窓の景色が変わっていった。
古い石造建築の向こうに高層ビルが並び、その間を各界語の案内表示が流れている。
遠方には、都市の名の由来となった巨大な門環が見えた。
世界間門を囲むように築かれた共同管理都市。
どの国にも完全には属さず、五界すべての利害が交差する場所だ。
ホテル・アークは、その門環に最も近い高層建築だった。
正面玄関には人界の警備官が並び、武器と端末の持ち込み検査を行っている。
館内へ入れば、竜の膂力も、夜界の影術も、森界の生命操作も、機界の外部接続も抑えられる。
人界側の銃器や爆発物も同じだ。
ホテルの中では、誰もが一人の宿泊客になる。
少なくとも、規則上は。
リゼットが職員証をかざすと、グレイはその声を確かめるように、数秒だけ彼女の顔を見た。
「何ですか」
「いや」
短い返事だった。
正面ロビーでは、四基の異界接続エレベーターが順に開いていた。
竜界側からは、熱を帯びた赤銅色の鱗を持つ護衛たち。
夜界側からは、黒い礼装の外交官と、影のように静かな随員。
森界側からは、生きた蔓を刺繍した衣服の治療師たち。
機界側からは、陶器に似た白い義肢を持つ警備個体が降りてくる。
それぞれの代表団が、自界の誇りと警戒をまとっていた。
グレイは足を止めず、視線だけを動かした。
護衛の配置。
荷物の数。
通訳の立ち位置。
誰が誰より半歩先を歩き、誰が周囲を見ずに端末だけを見ているか。
「知っている人でも?」
「知らない方が少ない」
「外交関係者に顔が広いようには見えません」
「向こうも俺の顔は知らない」
意味を聞く前に、前方から声がした。
「リゼット」
人界主席代表アルバート・ヴェイルが、随員を離れて近づいてきた。
六十三歳。五界安全保障会議の議長を務める外交官だ。
疲労は見えるが、歩調は崩れていない。
「準備は」
「最終確認中です。均衡領域、四基の接続、会議場の封鎖手順まで問題ありません」
「そうか」
アルバートは安堵したようにうなずいた。
それから、リゼットの肩越しにグレイを見た。
一瞬だけ、二人の間から音が消えたように感じた。
「こちらは外部協力の境界探偵です」
「グレイ・ハザードです」
アルバートは差し出しかけた手を止めた。
すぐに表情を整えたが、リゼットは見逃さなかった。
驚いたのではない。
確かめた。
そんな反応だった。
「リゼット」
アルバートは、周囲の代表団を一度見回した。
「今夜、何が起きても、朝六時まではホテルを離れないでくれ」
「危機管理室の担当です。もともと、その予定ですが」
「職務としてではない」
アルバートの声が低くなった。
「君自身に、選んでもらいたいことがある」
「何をですか」
「今は言えない。だが、誰かに決められる前に、君が決めるべきことだ」
「それでは対応のしようがありません」
「分かっている。すまない」
アルバートは彼女を見つめたあと、グレイの横へ一歩寄った。
声を落とす。
「午前零時を越えたら、六つ目の席を守れ」
グレイの目が細くなった。
「誰からだ」
答えが返る前に、硬い靴音が近づいた。
「ヴェイル代表。竜界側の到着確認をお願いします」
人界境界管理庁長官、エドガー・ヴァルツ。
五十八歳。今夜の会議警備を統括する男だった。
整った制服に乱れはなく、声にも焦りがない。
アルバートはグレイから離れた。
「すぐ行く」
ヴァルツはリゼットへうなずき、それからグレイを見た。
値踏みする様子も、警戒する様子もない。
「外部の調査員ですね。協力に感謝します」
「歓迎されるような仕事じゃない」
グレイが答えた。
「だからこそ、必要になる前に呼ぶのでしょう」
ヴァルツは穏やかに言い、アルバートを伴って歩き去った。
リゼットは二人の背を見送った。
「六つ目の席とは、何ですか」
グレイは会議場の方向を見ていた。
扉の脇には、五界の旗が並んでいる。
その端に、何も掲げられていない旗立てが一本だけ残されていた。
「それを調べる」
グレイはそう言って歩き出した。
「午前零時までに」




