プロローグ 国を殺した夜
かつて、世界は六つあった。
人の暮らす人界。
竜と竜人が覇を競う竜界。
影と契約を操る夜界。
森と生命を育てる森界。
機械で肉体さえ作り替える機界。
そして、世界と世界を結ぶ門を管理する、門界。
六界の中で、人界は最も弱かった。
竜の膂力も、影を渡る術も、傷を閉じる力もない。
それでも人界が滅ぼされずに済んだのは、この世界へ入った異界の力が弱まるからだった。
竜も術者も機械兵も、人界では本来の力を出せない。
そのため人界は、戦争を止めるための会議場所として使われてきた。
だが十年前、五界の政府は門界レムナを脅威と認定した。
レムナは、どの世界でも種族の力を均一に抑える《均衡領域》を完成させようとしていた。
さらにレムナは、すべての世界間門を一元管理する中枢《根門》を建造していた。
まだ完成には至っていなかったが、一部の門を閉じ、接続先を変更する実験には成功している。
完成すれば、軍も交易もレムナの意思一つで止められる。敵対する界を孤立させ、従う界にだけ道を開くことも可能になる。
五界政府は、レムナがその力を独占し、六界を支配しようとしていると発表した。
全面戦争を防ぐには、根門が完成する前に国家機能を止めるしかない。
その任務を与えられた男がいた。
グレイ・ハザード。
灰色の仮面をつけ、どの世界にも所属を持たず、魔法にも結界にも存在を捉えられない停戦執行人。
後に《灰色の悪魔》と呼ばれる男だった。
午前零時十二分。
レムナ北部通信塔、沈黙。
警備兵が異常を察知した時には、外界へつながる回線は一本残らず切断されていた。
塔の最上階に残っていたのは、切られた通信線と、机の上へ整然と並べられた十二丁の銃だけだった。
午前一時四分。
軍事転移門、全基停止。
門前に配置されていた二百人の守備隊は、誰一人グレイの姿を確認できなかった。
魔力探知にも、血統結界にも反応はない。
ただ、制御盤の前に立っていたはずの技師たちが消え、軍事門は内側から封鎖されていた。
午前二時三十一分。
王都西区の兵器庫、使用不能。
爆破はなかった。
鍵も扉も残っていた。
ただし、命令を出せる者と、起動できる者だけが消えていた。
駆けつけた兵が見たのは、一本の廊下を歩き去る灰色の外套だった。
三十人が追った。
角を曲がった先に、男はいなかった。
床には、三十人分の武器だけが残されていた。
午前三時十九分。
国家評議会、機能停止。
警報が鳴った時、議場の通信は切れ、護衛の武器は床へ並べられ、二十九ある席のうち半数以上が空になっていた。
誰が死に、誰が連れ去られ、誰が逃げたのか。
その夜の記録は、後に大部分が封鎖された。
午前四時過ぎ。
グレイは、根門の地下制御室にいた。
灰色の外套には埃が積もり、仮面の端には細い傷が走っている。
左の手袋には、乾ききらない黒い染みがあった。
その手に、一冊の名簿がある。
三百十二人の名前が記されていた。
グレイは名前を一つ確認するたび、その横へ線を引いた。
一本。
また一本。
名前の横に線が増えるたび、遠くで扉が閉まり、足音が途絶えた。
制御室の隅には、十代半ばくらいに見える少女がうずくまっていた。
片脚を血で濡らしながら、グレイの手元を見つめ、かすれた声で尋ねた。
「その人たちを、全員殺すの?」
ペン先が止まった。
グレイは少女を見なかった。
「三つ数えたら、目を閉じろ」
「答えて」
遠くで、巨大な門が軋んだ。
一。
地下全体が揺れる。
二。
赤い警報灯が消えた。
三。
闇の中で、グレイの声だけが落ちた。
「夜明けまでに、この国を殺す」
午前五時五十分。
門界レムナは、すべての世界地図から消えた。
その後、五界へ配布された共同報告書には、簡潔な記録だけが残された。
門界消失。
根門、完全停止。
推定死者、三百十二名。
実行者、グレイ・ハザード。
単独で侵入し、最小の手数によって、一国家の通信、軍事、政治、門機能を一夜で停止。
国家を崩壊させる危険因子として、理想形に近い。
危険分類を最高位へ更新。
コードネーム――《アイディアルハザード》。
通称、《灰色の悪魔》。




